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前編


「なぜあんたがっ!」

 黒地に朱色と黄金のアクセントが効いた壮麗な広間に、悲痛な叫びが響いた。

 男の目の前、数段高い位置にある玉座に腰を下ろすのは流れる滝の銀髪も艶めかしい年齢不詳の美貌の主である。

「勇者どの、仕方あるまい。我こそが魔王なれば」

 朗々とたゆみなくつむがれるのは、魅了の

 聖別された銀の剣を手にしたまま、勇者がその場に膝をついた。そのさまは戦う前から敗北を認めたかのようで、

「勇者さまっ」

 悲鳴じみた可憐な声が勇者の背後から響いた。

「魔王! 勇者さまに代わって、ミドガルズが聖騎士ジウリアがお相手つかまつる」

 金髪を首の後ろで切り落とした勇ましい出で立ちの少女が剣を手に勇者の前に出る。

「聖とつけば良いというものでもあるまい」

 退屈そうな声で、白い手を一振りすれば、ジウリアは悲鳴とともに壁に叩きつけられくずおれる。

「リア!」

 駆け寄るのは隆とたくましい剣士である。

「勇者どのなにをやっている」

 磨き込まれた木製の杖を手に、白髪の若者が詠唱を始めた。金と銀の光が杖を中心に渦巻き、少しずつ巨大な何かを形作ってゆく」

「そちらも聖とつく御仁かな?」

 指で空間をひと撫でにしただけで、杖が横状よこざまに断ち落とされる。

 今や魔王は玉座の肘掛に片肘をつき、労働とは無縁の柔らかいであろう掌に片頬を預けている状態である。

「邪魔よな」

 ため息一つこぼした後に、おもむろに立ち上がる。

 勇者以外が戦慄に目を見開いた。

 常は魔族が集いなにがしかのパーティーなどが開かれているであろう広間にいるのは、彼らだけである。

 魔王はただひとり。

 数を頼りのミドガルズ軍に、魔の軍勢は見ての通り魔王を残し出払っている。

 魔族は、もとより少数精鋭である。一人一人の能力が人間とは段違いなのだ。それでも、人間が数の原理で寄り集まればたやすく打ち倒せるはずである---とはミドガルズが王の言であった。万に一つも負けようはずがあるまいと、油断があったのだろうか。

 コツリコツリと魔王の靴音が広間に響き渡る。それが一同の緊張を高めゆくのに不足あるはずもなく。

 いつの間に呪縛を受けたのか、身じろぐことさえもならぬ一同の息を飲む音がかすかに互いの耳を打つ。

 勇者の前に立ちはだかった魔王は、

「勇者どの。いや、勇者。我はこの時を待ちわびたぞ」

 言いざま、上体を屈めいまだうつむき動こうともしない勇者の顎に手をかけ持ち上げた。

「なぜだっ」

 苦しげな呻きは、しかし、絶望よりも苦悩を孕んで響いた。

「オレを騙したのか」

「いかさま」

 そうして。




** 侵略 **




 ほんの少しだけ前のこと。

 人間の王さまは困っていました。

 人間の世界に魔界からマモノがやってきては、悪さをするようになったからです。

 マモノは人間を食べたり傷つけたり攫ったり作物を荒らしたり、したい放題に暴れまわるのです。

 王さまは魔界の王さまに陳情を届けました。

 しかし、魔王さまからの返信はありませんでした。

 人間の王さまは、苦悩をその少しお年を召された顔に湛えました。

 けれど、王さまのもとには毎日たくさんの悲鳴が届けられます。

 今日はどこの人間が食われた。

 あそこの娘さんがさらわれてマモノの子を宿した。

 どこそこの畑が軒並み荒らされた。

 どうか助けてください。

 マモノを滅ぼしてください。

 滅せないのなら、追い払ってください。

 しかたないどころではありません。

 ここには人間の暮らしもあるのです。

 どうにかしなければなりません。

「これはもう、魔王によるミドガルズに対する侵略に他なるまい」

 決を下した人間の王さまは普段あまり仲の良くない神官さまに頼りました。

「承知いたしました」

 神官さまが神殿中の人間を集めて祭壇に向かって三日三晩経ちました。その間、水は別として誰一人食物を口にしてはおりませんでした。

 やがて一筋の光が天窓から降り注ぎました。

 神官さまを指し示す光は、何事かを神官さまに語りかけているかのようでした。

 しばらく目を閉じていた神官さまでしたが、光が色あせ消え去ると同時に目を見開きます。

「神託が降下されました」

 神官さまが語る内容は、とてつもないものでした。

 ここ数百年、誰もが行ったことのない秘儀中の秘儀を行い異世界より勇者さまを呼び寄せるというものだったのですから。

 たちまち王さまたちも駆けつけ、その日のうちに秘儀は執り行われることになりました。

 文字なのかどうなのか素人目にはわからないものが床に描かれ、神官さまはじめ神殿のお歴々がその周囲を取り囲み不思議な響きの祈りを唱えて終わります。

 しわぶきひとつたたない厳粛な雰囲気のなか、しばらくは何事も起こらず落胆の色がその場を染めて行こうとしていました。

 しかし。

 ややあって、徐々に変化が起きはじめたのです。

 陽炎かげろうにも似たフレアが文字の上にほのめきだしたと思えば、ひときわ激しい光となり、神官さまはじめ部屋に揃った人々の目を射たのでした。

 人々が目を閉じ再び開いたとき、彼らは目を見張ることになりました。

 まるで太陽の光のような激しさを見せたフレアの輝きはすっかりと消え去り、代わってそこにはひとりの若者が現れていたからです。

 黒い髪をした若者は見た目は十代半ばからいって二十歳といったところでしょうか。体格は年頃よりも少し貧弱と見受けられました。

 象牙色の肌の中に収まり良く並ぶ濃い褐色の瞳が、不安そうに周囲を見回しておりました。

「おお! 勇者さまだ」

 最初に口にしたのは、誰だったでしょう。

 王さまを除いた人々がその場に膝間付きます。

「我らの救い主だ!」

 三々五々立ち上がったものたちが腰の引けている若い勇者さまを取り囲み、口々に叫びます。

 すっかり物怖じした態度の勇者さまは、何が起きたのか何が起きるのか、理解していないようでした。

 その彼を立ち上がらせ、神官さまが導きます。


 これから彼は何をすれば良いのか。


 そうして、残酷な事実ではありますが、彼はその使命を果たしたとしても、二度と元の世界へと戻ることが叶わないのだと。




 勇者さまがどのようにして真に勇者さまとなられたのかは、こちらで語るまでもなく様々な書物や劇などのほうがよほど詳しく語ってくださるでしょう。ですのでその辺りは割愛させていただきたいと思います。


*****


 賑やかな出陣式の後、彼らは目立たない服装に着替えて改めて出発しなおていました。なにしろ鎧甲冑などは派手な上に重くかさばります。旅はできる限り軽装がいいというのは常識でありましょう。そうして立派な鎧兜を脱いだ彼らは少々見てくれはいいものの普通の旅人とさして変わることはありませんでした。


 最初の出会いは、勇者さまが王都を出て十日あまり。

 王都周辺の森を抜けた先にあるささやかな村でのことでありました。



「あれは?」

 様々な葛藤を乗り越えた勇者さまが、ふと足を止められました。




** 出会い **




 森の中で何度マモノに襲われたことでしょう。最初の頃こそマモノとはいえ生き物の命を奪うことに抵抗があった勇者さまでしたが、ご自身が狙われてはそうも言っていられなくなりました。

 そう。十日も経てば、勇者さまもマモノの命を断つことに躊躇なくなっておりました。


「あれは?」

 勇者さまが指差す先を見て、一同の顔色が変わります。

「あれは、バルド村です」

 説明する聖魔術師でしたが、顔つきが険しくなって行きます。なぜなら、遠目にも立木が枯れ、その奥にある広場を中心に肩を寄せ集めるようにして建っているのはもはや家と呼べるような代物ではなくなっていたからです。

 駆け寄る一同の目の前には、廃墟と化した村があるばかりでした。

「ひどい………………」

 誰かがつぶやきます。

 思わず出た言葉だったでしょう。

 焼け焦げた家の床下であったろう場所には焦げた屍体が転がっています。

 なんとも無惨な有様に、彼らはその場に膝をつき黙祷を捧げたのです。


 その夜は、その村から少し離れた場所にで野宿することになりました。


 勇者さまはマモノに襲われた現場を見るのが初めてだったのでしょう。

 あまりにも無惨な有様が目を瞑っても瞼の裏側にちらつくため、眠ることができないでおりました。

 聖魔術師がマモノ除けと獣除けの呪いを切っているため、野宿とはいえ安全は約束されております。篝火を見つめていた勇者さまは静かに立ち上がると、その場を後にしたのでした。

 何か目的があったわけではありません。

 ただ、いてもたってもいられなかっただけなのでした。

 そんな勇者さまを、丸い月は冷たく照らします。

 夜の空は艶やかな天鵞絨のようでした。

 波打つドレープが星々を宿し、流れる星の川のようです。

 下界の無惨な現実とはまるで別世界の空に魅せられたかのように、勇者さまの足は歩みを止めませんでした。

 どれほど歩いたことでしょう。

 ふいに勇者さまは歩みを止めました。

 少し向こうに黒々とした人影を認めたからです。

 フードつきのマントを身につけているのでしょう。おそらくは人だと思えるものの、丈高いとわかるものの、男とも女ともわかりません。

 マモノには二足歩行を得意とするモノもおりますが上体を屈めたスタイルでが通常ですから、スラリと立つということはありません。

 こんな夜遅くに、こんなところでひとりぎり、いったい何をしているのでしょう。

 昨今の不穏な世界の状況を鑑みれば、マモノに襲われない保障などどこにもないのです。

 剣の柄に手を当てていつでも抜けるように心配りをしながら、勇者さまは人影に近づきました。

「ひとりなのか? マモノが出るかもしれないぞ」

 なるべく驚かせないように、静かに声をかけました。

 その時、何かが、人影が寄り添うようにしている木の梢から飛び立つような気配がありました。

 溜息をつくようなかすかな気配ののちに、人影は勇者さまのほうに顔を向けました。

 月光がその輝きをひときわ強めたかのような錯覚がありました。

 雲のない夜空から雷が下されてからだを射抜いた。そんな錯覚を勇者さまは覚えたのです。

 振り向いたその人の美しい白皙の容貌は、勇者さまがこれまで見たどんな人物よりも麗しく優美なものでありました。流れ落ちる白銀の髪は夜空の星々を写し取ったかのようなきらめきをまとい、きらめきを受けた双眸は夜目にも鮮やかな、見る者をことごとく魅惑せずにはおれない琥珀の呪いを宿していたのです。

「心配無用。マモノというならばそういうそちらこそ危険ではないかな」

 その声の蜜の滴るかのごとき甘やかなこと。

 しばれる霜柱のごとく冷ややかなこと。

 勇者さまを魅惑するような声は、しかし、低く、男性のものでした。

「オレは、大丈夫だ」

 掠れた声で、勇者さまはそう言いました。

「こんなところで夜遅くに、いったい何をしているんだ」

「逃げた愛玩動物を探しに」

 歌うような声に、

「時間を考えて行動したほうがいいと思う。特に、最近は物騒だから」

 勇者さまの目は大きくなりました。

 呆れればいいのか、驚けばいいのか、おそらくはわからなかったのでしょう。

「これからどうするんだ? ひとりで野宿しているのなら、オレたちの野営地に来るといい」

 手を差し伸べる勇者さまに、

「供がいるのでな。申し出には感謝しよう」

「そうか。なら、気をつけて」

 踵を返したその後ろ姿に、言わずもがなのことばをかけてしまう勇者さまだったのです。




** 重ねる **




 いつも、なぜなのか。

 まるで必然のように、勇者さまと彼とは、互いにひとりぎりの時に限って邂逅を繰り返すようになっておりました。

 それは、勇者さまにとっては魅惑の時でありました。

 次に会ったのは、海辺の村でした。

 その次は山の中の小さな集落。

 砂漠のオアシスのこともありました。

 平原のことも。

 いつかのように森の中のことも。

 湖の岸のことも。

 素晴らしく見事な滝の近くのことも、灼熱に揺れる火口の際のことだとてありましたし、逆に青白い氷の世界のこともありました。

 無惨なまでの現実を忘れることのできる、稀に訪れる、心踊る一時だったのです。

 なぜ心が踊るのか。

 彼と会うと顔が赤くなるのか。

 最初のうちこそご自分の心の動きを否定していた勇者さまでしたが、いつしかその思いを認めるようになっていたのです。

 自分は、彼を、恋い慕っているのだと。

 名前さえも知らないというのに。

 もっとも、それを、彼に伝えるつもりなど、寸毫ほどもありはしませんでした。

 互いに男です。

 同性愛など、認められる時代ではなかったのです。


 いったいどれくらい、出会っては別れてを繰り返したことでしょう。いつしか勇者さまの一行は千を数えるほどの人数になっておりました。そうなると動くことに不自由になります。食事も、宿泊する場所すら事欠くようになりました。五人を最小単位に分け、連絡手段を取り決め、それぞれの得意とする場所でマモノを退治しながら仲間を増やすようにしたのでした。



 その日もまた、勇者さまはたくさんのマモノを殺しました。

 次々とどこからともなく涌き出してくるマモノを相手に、勇者さまもその仲間たちも血を流す羽目になりました。

 狙われた村は壊滅を免れました。

 その夜の祝宴を抜け出して、勇者さまは川のほとりをそぞろ歩いておりました。

 冷ややかな微風が勇者さまの疲れを癒してくれるかのようでした。


 慣れたとはいえ、勇者さまだとてマモノが恐ろしいのです。

 ひとを守れないことも恐ろしいのです。

 本当は、こんなことをしたくはないのです。

 勇者さまは、この世界に来るまで、何かを傷つけたことはないのですから。

 勇者さまが使ったことがある武器といえば、模造のものばかりでした。学校という場所で剣術を学んだことがあったようですが、刃引きしたものでさえなく、木や竹などで作られた剣に防具まで使用していたということです。

 たとえひとを守るためとはいえ、何かの血を流すことは、勇者さまにとってとてつもない恐怖に違いなかったのでした。


「疲れた………帰りたい………………」

 元の世界に帰れないと伝えられた時、どれだけの絶望を覚えたことでしょう。

 膝までもある長靴(ブーツ)を引き抜き、足を川につけて空を仰ぎます。

 いつかのような天鵞絨の空がそこには広がっています。星座ひとつとっても元の世界とは違う輝きがそこにはあるのです。

 込み上げてくる熱は、望郷の念でした。

 懐かしいひとたちの面影が、勇者さまの脳裏をよぎっては消えてゆきます。

 まぶたに湛えられた涙が堪えきれずに頬を伝いました。

「どうしたのだ」

「っ!」

 背後からかけられた声に、勇者さまは慌てて涙を拭いました。

 頬が熱くなります。

 赤くなっているのが自分でもわかります。

 この声が誰のものなのか、ことばから泣いていたのを見られたのだと、知ったためです。

 弱っているところなど、好きな相手に見られたいわけありません。

 それなのに。

 いつの間にか隣に腰を下ろした彼が顔を覗き込んできたのです。

 琥珀の瞳が月光を受けて輝きます。

「べ、別にっ! それよりっ、まっまだっ、見つからないのかっ?」

 勇者さまは声が裏返っているというのに、しゃべるのを止められなかったのです。

 ますます顔が赤くなります。

 勇者さまは顔を両手で覆ってうつむいてしまいました。

「ああ。どこへ行ったのやら」

「………探すのを止めないのか」

 こもった声で勇者さまが訊ねます。

「一度愛したものがいなくなることは、なによりも耐えられないことよな。私は決して自ら手放すことはない」

 淡々と平坦に返されることばに含まれていた”愛したもの”ということばに勇者さまの心臓が大きく打ち震えました。

 探しているものが愛玩動物だと聞いた記憶はありましたが、それでも、好きな相手が愛したものを探しているということはこたえるものなのです。

 そう、とても。

「辛いな………」

 顔の手を外し、つぶやいていました。

「こうして撫でることさえもできないのだからな」

「えっ?」

 白く優美な手が勇者さまの肩を抱き寄せ、そのまま彼の腕を撫で下ろします。

「そのまま私の膝を枕にするがいい」

 撫でる手は止みません。

「で、でもっ」

 勇者さまの狼狽は、羞恥へと変わっていました。

「疲れているのだろう。すこしでも横になるがいい。男の硬い膝だがな」

 ほんのわずかばかり笑いの含まれた声でした。


 聞こえるのは、川のせせらぎと草木のそよ風に揺れる音。あとは生き物たちが立てるささやかな生活の音です。

 誰とも知らないもの同士の静かな、静かな時が流れて行きました。

 腕を撫でられる感触に対する羞恥は心地よさに取って代わられて、いつしか勇者さまは心地よい眠りへと引き込まれていったのでした。

 眠りに完全に落ちる少しばかり前に、額に頬にくちびるに何かが軽く触れてきたような気がしましたが、それは気のせいかと思えるほど軽いものでありました。


 勇者さまが目覚めた時、そこに彼の存在はありませんでした。

 それから勇者さまが彼と出会うことはありませんでした。


 魔王の城に入り込むまでは。




** 振り子 **




 艱難辛苦の末に魔王の城にたどり着いたとき、勇者さまのパーティは勇者さまを加えてわずか四人となっておりました。

 勇者さまと聖騎士さまお二人に、聖魔術師さまです。

 城の外で大勢のマモノや魔族たちを相手に戦っているのはこれまで勇者さまが集めたたくさんの兵たちです。彼らはできる限り城の中に魔族やマモノたちを入れないようにと獅子奮迅の戦いを繰り広げておりましたが、相手は魔族マモノです、そう簡単に行くはずもありません。

 誰も彼もが一所懸命に己の役割をこなしておりました。


 そうして勇者さまもまた。


 けれども。

 勇者さまは愕然と立ち尽くしておられました。

 玉座に座る魔王を見て、その褐色の目を疑わずにはおられなかったのです。

 なぜなら、その魔王の魔王たる人を惑わさずにおれない麗しい容姿をしたその存在こそ、勇者さまがいつしか心を奪われた相手だったからです。

 そう。

「なぜ?!」

とひとりごちずにはおれないほどにまで心惹かれていた相手だったのです。


*****


「オレを騙していたのか」

 心の底から絞り出すような苦渋に満ちたことばだった。

 琥珀の瞳が、勇者の目をのぞきこむ。

「いかさま」

 薄いくちびるが笑みを刻む。

 白皙に刻まれた赤の際立つ色彩に、勇者の背筋を中心に悪寒が広がる。

 まとう雰囲気もその容姿さえも同一だというのに。

 目の前の男と、勇者が焦がれた男とが重ならないのだ。

 重ならない。

 それなのに、怖いと戦慄する心の奥底に、やはり恋い焦がれる想いが沈殿している。

 魔王だと知ってしまった今だとて、勇者は彼に恋をしたままなのだ。

「そなただとて、名乗りはしなかったであろう。なぁ、勇者どの」

 持ち上げられた顎をひときわ鋭角にもたげられて、後ろ首が痛んだ。

 互いの呼気を感じるほどに顔を寄せて、魔王が嘯く。

「いや、ユウマだったかな」

「どうして?」

 なぜ知っているのだ。

 この世界の誰一人知ることのない自分の名前を。

 そう。

 自分だとて、魔王の名を知らないのだけれど。

 魔王は偽名すら名乗りはしなかった。

 互いに名を知らないままの、偶然の邂逅の数々が脳裏を過って消える。

「我は魔王なれば」

 その一言で説明は充分だと言わんばかりの断言だった。

 まるでくちづけを交わすかのような距離感で、互いの顔を眺めやる。

 しかし、いつまでもそんな時は続かない。

「さて。我は何をするべきかな」

 唐突に、魔王が口を開いた。

「ここにいる人間は、我に仇なすものばかり」

 勇者の顎を放し、背筋を伸ばして睥睨する。

「であれば」

 キンと冷ややかに空気が凝りつく錯覚があった。

「我としては、葬らねばなるまいよ」

 右手を空に差し伸べる。

 深い紫紺のローブの袖が艶めかしい動きを見せて、どこまでも麗しい肌が空気に現われた。

 魔王の手の触れる空間が奇妙な歪みを見せて輝く。

 切り取られた空間がまるで掻き分けられる帳のように左右に分かれ、そこから現れたのは黄金のくちばし、溶岩の目、細い銀の棘の生えた頭、金剛石の鱗に覆われた長い首だった。

「我の探し求めた愛玩動物よ」

 切り取られた次元の縁に細かな皹が刻まれてゆく。

 甲高いさえずりが、宮殿をすら震わせる。

 それぞれの場所で意識を失っていた聖騎士が、聖魔術師が、目を覚ました。

「バルドロイっ!」

 それは、聖魔術師の叫びだったろう。叫ぶとともに、彼は盾の魔法を勇者の眼前に展開した。

「耐えるか?」

 その翼の一薙で堅牢な城塞を破壊することができる凶悪なる怪鳥と伝えられる伝説のマモノがそこに現れたのだ。しかも、その黄金のくちばしは、今まさに勇者に襲いかからんばかりである。

「勇者どのっ」

「逃げてっ」

 聖騎士たちの悲鳴もこだます。

 しかし、勇者の耳に届いたものか。

 勇者は凝然としたまま動かない。

 いや、動けないのか?

 誰しもがそう思った。

 その時、

「違う!」

 立ち上がりざま、勇者が叫んだ。

「違う! 違う! 違う! なんで? どうして魔王を殺さなきゃならないんだ? だって、そうだろう? マモノが人を襲うから退治する。それはわかる。わかるんだ。けど、だから? 魔王を殺して、それで、マモノは人を襲わないようになるのか? 逆だろう? 魔王がいるから、今くらいで済んでるんじゃないのか?」

 血を吐くような叫びだった。

 けれど。

「勇者どの、ここまで来てなにをっ!」

 仲間のうち誰が叫んだのか。

「魔王を滅ぼさない限りマモノどもが人間を襲いつづけることに疑いはない!」

「ミドガルズがマモノの世界になってしまっては、人間はそれらの餌と成り果ててしまうのだぞ」

 首を振り続ける勇者に、

「もういい、よこせっ」

 体当たりをして、その腰の剣を奪い取るものがいた。

「聖騎士………」

「勇者さまが殺せないというなら、私が」

「よせっ」

「それは、勇者どのにしか扱えぬのだ」

 構えるジウリアを、いまひとりの聖騎士が押しとどめる。

「だって、だって、情けないだろう? あんなにたくさんの人が死んだ。仲間になった人だとてたくさん死んだ。それなのに、いまになって………………あんまりだっ」

「落ち着け。リア。勇者どのだとて苦しまれているのだ」

 さあ--と差し出した手にジウリアが剣を乗せる。

「勇者どの。無理やり元の世界から引き離されたあなたの苦悩は俺などにははかりしれない。しかし、あなたはこの世界の、我々の救世主なのだ。我々の祈りを、期待を………………どうか!」

 この世界の人間の叫びもまた、血を滲ませるものだった。

 勇者も目にしてきた数々の酸鼻極まるマモノの所業。

 惨殺され喰らわれた数多の骸。

 からだだけではなく心にも生涯残るだろう傷を負った被害者たち。

 その目にしてきた数々の。

 耳にしてきた、彼らの望み。

 涙。

 希望。

 苦悶。

 祈り。

 すがり付いてくる手、まなざし。

 その膨大な数々が、彼の脳裏を経巡った。

 それらは、この世界に拉致された時から心の奥底に圧し殺した勇者の感情に似たものだった。

 揺らぐ。

 勇者の心が、振り子のように揺れた。




** 道化師 **




 バルドロイが勇者に襲いかかる。

 しかし、聖魔術師の発動させた盾の魔術がそれを阻んでいた。

 くちばしだけという不利な攻撃ゆえであることは、誰の目にも明らかではあった。

「勇者さまっ」

「勇者どのっ」

「勇者どのっ」

 仲間の声が、遠く近く聞こえてくる。

 目の前には、愛する魔王の愛玩動物の巨大なくちばし。

 自分は何だ?

 どうしてここにいなければならない?

 どうして連れてこられたのだ?

 自分でなければならないことはない。

 この苦しみは、味わう必要のないものであったのに。

 それなのにっ!

「解除っ」

 苦渋の決断だった。

 叫ぶなり、勇者は抜刀しバルドロイに斬りかかる。

 青白い清冽な光が周囲を鋭く照らす。

 怪鳥けちょうの叫びが耳を聾するほどにこだました。人の背丈ほども高さのある頭が広間の床に落ちると同時に、血液が臭気とともに広間に広がってゆく。

 しかし、勇者の動きは止まらない。

「魔王っ」

 それは、悲鳴にも似た絶叫だった。

 振りかぶった剣が魔王の頭に振り下ろされる。

 鋭い軌跡が描き出され、誰もが魔王の死を予測したに違いない。

「甘い」

 放たれた声と同時に、硬い音が響く。

「っ」

 はじき飛ばされた勇者の手から剣が落ちる。

 床にしたたかに腰を打ちつけ、痛みが全身に噛みつき脳へと襲いかかる。

 灼熱の痛みに眩んだ視界に、魔王のシルエットが近づいてくる。

 聖騎士たちの攻撃も、聖魔術師の攻撃も、魔王の前では足止めになるほどのものでもなく。

 うずくまる勇者のその傍に、魔王が佇んだ。

 剥落してゆく。

 心を覆った鎧が。

 自分には、魔王を殺すことはできない。

 わかっていた。

 けれど、殺さなければならないのだ。

 自分は、それを望まれている。

 それを遂げるためにこの世界に取り込まれたのだ。

 それだけのために、総てを奪われた。

 なにもかも。

 そうして、血なまぐさい役目を押し付けてきたのだ。

 慕ってくれるのは、優しくしてくれるのは、自分が勇者だからなのだ。

 それ以外の自分には、価値がない。

 わかっている。

 マモノを殺す自分に。

 魔王を殺す自分だけに、価値がある。

 それ以外は、なにもない。

 それなのに。

 だというのに、自分は、魔王に恋をしてしまったのだ。

 こんな自分に、どんな価値があるだろう。

 価値など、ありはしない。

 そう。

 魔王ではない。

 そう。

「魔王………………」

 魔王のローブを掴み、上半身を起こした。

 くらくらと視界が揺らいだ。

 まるで自分の心のように。

 無言で見下ろしてくる魔王の琥珀の眼差しに浮かぶものを、勇者は見上げた。やがて、視界にぼやけるシルエットが徐々にしっかりとしたものへと戻ってゆく。

 ならば。

 視界とともに心が揺らぐ。

 死を、惑う。

 魔王のローブを伝うように、起き上がる。

 頭ひとつ分ほど高いところにある魔王の目を、自分を魅せた琥珀を、見つめた。

 感情の伺えない琥珀の瞳に、自分の顔が写っている。

 魔王は自分を見ているのだろうか。

 見ていてほしい。

 時と場合を考慮していない思考が頭を占拠する。

「魔王」

 手を伸ばせばその手に戻る聖別された剣を魔王の首筋に当てた。

 なぜ自分を殺そうとしないのか。

 感情の見えない琥珀の奥に、自分と同じ感情が隠されているのだろうか。

 そんな妄想じみた思考に、勇者の口角が引き攣れるように震える。

「魔王と呼ばれようと、我とて世界の歯車のひとつに過ぎぬ。ひとの王との違いといえば、自覚があるかないかくらいのものよな。そなたもまた哀れな歯車のひとつに過ぎぬ」

 ああ---と、勇者の心が震えた。

 魔王の隠された感情は、自分に対する同情なのだ。

「わかっている」

 そんなこと、疾うにわかっているのだ。

 おそらくは自分が魔王を殺せるかどうかで、世界が人間とマモノのどちらのものになるのかが決定する。

 そのためにこそ、異世界の人間であった自分が無作為に選ばれたのに過ぎない。

 哀れな?

 いいや、違う。

 滑稽な---だ。

 自分は、滑稽な道化師に過ぎないのだ。




** 魔王の死 **




 滑稽極まりない道化師。

 そうか。

 そうなのだ。

 魔王の目に、自分は道化師のように写っていたに過ぎない。

 それは、悲哀だった。

 羞恥だった。

 恋する相手に同情を受けている事実に、どうして平静でいられるだろう。

 しかも、この状況下で。

 首に刃を当てられてなお、自分に対する同情心を語りかけてくる魔王に、これ以上の無様なさまを晒すことができるわけがない。


 この場で死ぬのは、魔王でなければならない。


 この場で死ぬのは、勇者でなければならない。


 此の期に及んでどうしようもなく、思考が乱れる。

 それを見越したかのように、魔王が、その手で刃を退ける。刹那、静電気のような青い火花がその場を照らして消えた。


*****


 まるで抱き合うかのような魔王と勇者さまでありました。

 互いに愛し合う一組のように、魔王と勇者さまは視線を外さずに佇んでいます。

 床は一面バルドロイの血にまみれ、意識を失った聖騎士さまと聖魔術師さまが倒れています。

 その場にいるのは、ただふたりと云っても過言ではなかったでしょう。

 それは、どちらからだったのでしょう。

 ふたりのくちびるが触れ合い、次第に深いものへと変わっていったのは。

「な、ぜ………」

 長いくちづけの後で、荒い息のもと、勇者さまがつぶやきました。

「わからぬのか」

 魔王さまのことばに熱はありません。

「同情ならやめてくれ」

 苦しげな勇者さまのことばに、

「同情? 同情などでくちづけるような粋狂を我は持ち合わせておらん。我がバルドロイを探す日々、それはそなたに会うことのできる日々でもあったのだ。その日々のうちに、我はそなたを欲っするようになった。そなたもであろう?」

 違うとは言わせぬぞ。

 こんな絶望的な状況下にありながら、勇者さまの心は、小鳥の羽ばたきのように打ち震えました。

 涙が溢れ出てきます。

「泣くことはあるまい」

 勇者さまのながす涙を、魔王の過ぎた赤を宿したくちびるが吸い取ります。それは、勇者さまの頬を羞恥に染め上げるのに充分な行為でありました。

「怖がることはない。全てを我に任すがいい」

 甘いささやきをつぶやき、魔王はそのまま勇者さまをつよく抱きしめたのでした。


 その時です。


「勇者さまっ」

 倒れていた聖騎士ジウリアが手にした弓を引き絞ったのは。

 白銀の矢が、甘い空気を貫きました。

 それと同時に、

「ダメだっ」

 勇者さまが魔王を押しのけ、矢面に立ったのです。

 声にならない悲鳴が、広間の空気を千々に引き裂きました。


 聖騎士ジウリアの放った矢は、過つことなく勇者さまの心臓を貫いたのです。


「ユウマ」

 低い声でした。

 低い、絶望に彩られた声でした。

 それが魔王のものだと、咄嗟にわかる者などおりませんでした。

 ただひとり、勇者さまを除いては。

「魔王………………」

 勇者さまの手が、その場にくずおれるように腰を落とした魔王の頬に伸ばされました。

「魔王などと呼ぶな。我の名は………アルバロ。そなたには我の名を呼ぶことを許そう。ユウマ。死ぬな!」

 はは………と勇者さまが笑った途端、その口から、血が溢れ出しました。

「ユウマっ」

「アルバロ………泣かないでくれ。オレにはあんたを殺すことも、自分を殺すこともできなかった。こんな情けないオレなんかのために泣かないでくれ」

 そのことばを最後に、大きく一つ息を吐いた勇者さまは、その褐色の瞳を閉じたのでした。

「っ!」

 絶望の音色が、魔王の口からほとばしりました。瞬間、広く堅牢な広間に嵐のような風が吹き荒れはじめます。

 聖魔術師が渾身の盾の魔法を組み上げます。

 吹きすさぶ絶望の嵐は、広間を破壊し尽くしやがては宮殿をも破壊しつくさんとする勢いで荒れ狂いました。


 やがて嵐が収まった時、そこに魔王と勇者さまの骸は残されておりませんでした。



 仕方なく、聖魔術師と聖騎士たちはそこに転がっていた聖別された剣を拾い上げ、ミドガルズへと戻って行ったのです。



 ミドガルズの王さまは勇者さまのための立派な葬儀を執り行いました。

 骸がないとはいえ、聖魔術師と聖騎士から聞かされた出来事を信じるよりなかったのです。

 事実、少しずつではありましたが、マモノの被害が少なくなってきていたのです。

 勇者さまは亡くなられ、魔王は消滅したのです。


 人々は喜び、亡くなられた勇者さまを讃え惜しみ、勇者さまのために神殿を建てたのでした。



 そうして、マモノの恐ろしさも薄れはじめたころ、聖騎士さまの元に、信じられない知らせがもたらされたのでした。


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