托卵でいる
ちょっと変わった寝取られの話です。ミステリ好きの人などにも是非読んで頂ければと思います。
清山忠相が医師に余命3ヶ月と宣告されたのは、三日前のことだった。
前々から、嫌な予感はしていた。
ここのところ、めっきり食欲が衰え、咳には血が混じるようになり、慢性的な便通異常にも悩まされていたからである。
無論、それらは全て、癌の初期症状だった。
それを予測していた故か――。
末期癌だと宣告されても、清山の心は特に乱れることはなかった。
齢70になり、妻には先立たれ、3人の子供も既に自立している今、日常生活に何も不満はない。
むしろ、金と時間を持て余す日々に、退屈を感じていたほどである。
ならば、ここらで人生を締めくくるのも悪くはないのではないか。
一度そう思ってしまえば、死が怖くなくなっていき、気付けば明鏡止水の心境になっているのだから、人生というものは不思議である。
「しかし……どうしたものかのぅ」
現在――清山は、自宅の書斎にて一人物思いに耽っていた。
考えることは、当然自分の死後に関してである。
前述の通り、既に自分の人生における「死」には特に恐怖を感じない。
しかし、自分が死ぬことにより起こり得る様々な問題を考えると、清山は溜息を吐かずにはいられなかった。
その問題の最たるものは、親族に対する遺産の分配についてである。
清山は、若い頃会社を興し、一代でそれを大企業にまで成長させた実業家だった。
大手居酒屋チェーン、「洋民」を作ったのが今から50年前。
それからコツコツと努力して営業店舗を増やし、ついには全国で1000店舗を超える飲食業界の雄にまで会社を押し上げた後は、後進に道を譲り、隠居生活を送っていた。
とはいえ、創業者として半分近くの株式を保有している以上、未だに会社は清山の影響下にある。
そして、そこからくる利益のことごとくは当然自分の懐に収まり、その額は不動産や証券を抜きにしても、100億はくだらなかった。
これを如何に分配すべきか。
そして、株式会社洋民――我が社の行く末を、誰に託すべきか。
テレビやドラマなどで、よく遺産を巡って骨肉の争いを繰り広げる光景があるが、まさに今、清山の身にもそれが起ころうとしているのである。
是が非でも、それだけは避けなくてはならない。
その為にも、これをしくじる訳にはいかない。
なるべく禍根が残らない、かつ穏便に収まるような落としどころを――と先ほどから考えていたものの、中々上手くいかないのが現状だった。
「今までは 人のことだと 思ふたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん――……か」
清山は、またしても深い溜息を吐くと、自らの息子たちの顔を脳裏に思い浮かべた。
現在、清山には二人の息子と一人の娘がいた。
全て、今は亡き妻との間にできた子供である。
長男である清山望は、既に47歳に差し掛かろうとしている中年男性である。
既に結婚しており、清山にとっては孫である子も三人いて、夫婦仲も円満らしい。
洋民内の役職としては専務取締役についており、謹厳実直、真面目を絵に描いたような男で、その冷徹な性格は管理職としては有能だが、厳しすぎるという意見も多い。
現在、洋民は全店舗の過半数を直営店ではなく、フランチャイズ契約をして雇われオーナーに一任し、売上からロイヤリティを貰う形態をとっている。
しかし、このフランチャイズ契約を交わしたオーナーに対して、望は常に結果だけを見て判断するのだ。
売上がノルマに達しなければその店舗の責任者を厳しく叱責し、サービス残業や反省文を書かせることは日常茶飯事。時には解雇も辞さないその姿勢は、社内外からも畏怖の目で見られていた。
その愚直なまでに結果を重視する様は、企業の利益を確保するという観点からすれば美点であるものの、ブラック企業、血も涙もない冷酷な会社だと噂されてしまうという意見もあり、賛否両論の評価を得ている。
長女である、清山香織は、44歳で独身のオールドミス。洋民の常務取締役として、望を補佐する役割を担っているキャリアウーマンである。
望とは違って、香織は明朗快活で情に厚い性格で、社内全体から慕われている。
しかし、裏を返せばそれは評価が甘いということであり、ノルマに達しない店などもすぐに許してしまう寛容さを併せ持っていた。
彼女は「企業の利益よりも人を大切にする」という考えを持っており、例え無能だろうと、一度雇った者は終身雇用し続け、福利厚生も充実させて快適な職場環境を作ろうと腐心しているのだ。
その考え自体は立派だが、そちらに意識が傾きすぎて企業経営を疎かにすることも多い。
それ故か、事ある事に望と対立し、口論になる様は清山の頭を悩ます問題でもあった。
最後に、次男である清山宏平は、38にもなって定食につかず、プラプラしている遊び人である。
軽佻浮薄な性格で、今が楽しければそれでいいという享楽家でもあり、洋民とは特に目立って関わりはない。
一度は洋民の取締役として入社させたものの、会社勤めが煩わしくなったのか、すぐに辞めてしまったということもあった。
今では清山が築き上げた資産を使って、毎日遊び呆けてる放蕩三昧の生活を送っている。
後継者としては一番頼り辛い男だろう。
とはいえ――存外、宏平は兄弟としてはまともな精神を持っていることを清山は知っていた。
望のように完全に能力のみで人を見る冷徹な合理主義者でもなく、香織のように情に絆され、社員に甘いということもない。
双方がいいバランスで纏った、時には下の意見もきちんと聞き入れ、時には自らの意思で決断し、非常な判断もできる――いわば望と香織を足して2で割ったようなバランス型の男、それが宏平だった。
これでまともに会社勤めをしていれば後継者候補としては申し分ない息子だったのだが、いかんせんニートではそれもできない。
いくら精神がまともでも、現実でで不真面目な生活を行っていては人の信は得られないものだからだ。
とはいえ、他に候補らしい候補はいない為、この三人から洋民を継いでいく後継者を選び、かつ揉めないように遺産を分配しなくてはならない。
清山は眉間に深い皺を寄せながら、大きなため息を吐いた。
全員、それぞれ長所と短所を持っているとはいえ、血を分けた愛しい息子たちだ。
なるべくなら、全員が納得する結論を出したい。
遺産相続に関しては――特に問題はないだろう。
順当に兄妹三分割にしてやれば、不平不満は出ないはずだ。
むしろ問題なのは、誰を後継者に据えるか否かのほうだろう。
金よりも情を優先する香織と、何よりも結果を優先する望は犬猿の仲にある。
その内、一人が社長職にでも就こうものなら、全力を持って一方を排除しにかかるだろう。
下手をすれば、排除された方が逆恨みし、洋民で培ったノウハウを元に独立するなどして、会社が二分しかねない。
「ふぅ……やれやれ。歴史を紐解けば、いつの時代も後継者問題で争っていたというのは周知の事実だが……血縁を重視する風潮がある以上、どうしようもないものじゃな」
清山は、書斎にある本棚を見渡す。
そこには、古今東西の様々な歴史小説が揃っていた。
日本では司馬遼太郎、山田風太郎や山岡壮八、藤沢周平、山本周五郎など、錚々たる面子の著作がずらりと勢ぞろいしている。
清山は歴史小説を読むのが大好きであった為、時代を問わず、とにかく自分の好きな作家をこうして揃えさせていたのだった。
「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」と言ったのはビスマルクだったが、この格言通り、数多の歴史に関する出来事、並びにその時の為政者の判断、民衆の評判は、会社経営者として大いに参考になることも多かったからだ。
だが、過去の事象からも、こと後継者問題に関してだけは回答を得られそうもない。
秦の始皇帝の時代から、現代に至るまでの数多の王朝において――骨肉の争いを行わなかった事例は皆無に等しい。
やはりどれだけの合理主義、能力主義者の王でも、最終的には自らの権力を血縁のある者に継がせたがるものなのだろう。
無論、清山とてそうである。
自らが立ち上げて成長させた会社を、どれだけ有能だったとしても、どこの誰ともわからない他人に任せたくはない。
社員として活躍する分には構わないが、やはり代表取締役社長――社の代表には、自らの血を分けた人間を置きたい。
それが清山の偽らざる心境であった。
「まぁ、そう願うが故に、これだけ悩む羽目になってしまったのじゃがな……」
清山は自嘲するようにそう呟くと、大きな溜息を吐いた。
翌日、清山は着替えなどを詰め込んだ鞄を持つと、病院へ向かった。
今日から癌の定期検診をすることになり、1週間ほど入院する為だ。
まぁ、元々やることなどない身なのだし、逆に静かなベッドで寝転びながらなら後継者問題を考えれば、捗るかもしれないと思いそれを承諾したのだが、それは大きな間違いだった。
清山の体調を心配した会社関係者や親族など、様々な見舞客が来てその応対に時間をとられてしまい、とても考え事をできる状態ではなかったからである。
自身の入院について特に箝口令を敷いた訳ではなかったが、やはり人の口には戸は立てられないものらしい。
とはいえ、流石にその原因である癌を発症していることや、余命三ヶ月であることは知らないようだったから、それに関しては安心したが――。
それにしても、このくだらない茶番は何だろう。
清山は、呆れたように目を眇める。
清山の見舞いに訪れた者は総じて、どいつもこいつも心にもないお世辞を口にしては立ち去るという行為が繰り返していく。
まだ正直に、「貴方の体調は気になりませんが、貴方に死なれた後の会社の行く末が気になるので見舞いに来ました」とでも言ってくれた方がマシである。
降り注ぐ世辞と追従の嵐にそんなことを思い、ほとほと辟易していた清山は、気を紛らわす為に病院内を散策することにした。
流石に入院病棟といえど、皆が皆重病の人間ばかりという訳ではないらしく、表に出て日向ぼっこをする老人や、和気藹々と談笑する子供たちの姿なども散見される。
それらを尻目に、清山はナースステーションにいる看護師をじっと眺めた。
「45点」
「77点」
「81点」
「69点」
「97点」
清山は、ブツブツと小声で呟きながら、そこにいる看護師のルックスを自分勝手に評価していく。
英雄、色を好むという言葉があるが――。
そのご多聞に漏れず、清山も総じて女遊びは大好きだった。結婚してからはなるべく控えるようになったものの、妻と死別してからは、再び数多くの愛人を囲って侍らせている。
老境に達し、自らの性欲も中々落ち着いてきたと思っていたが、やはり美女がいるとついつい目で追ってしまうのはご愛嬌だ。
中でも小島羽衣という看護師は素晴らしかった。
むっちりとした胸、お尻。その割にくびれているウエスト。やや吊り上った目に、厚めの唇、尖った顎。それら全てが清山の琴線に触れ、性欲を刺激してくる。
清山は自分の妾にすらつけたことのない高得点をつけると、ニヤニヤと笑いながら彼女へ近づいて行った。
「キャッ!?」
「いいお尻をしとるもんじゃな、嬢ちゃん」
エロ親父さながらの口調で、清山は豊満な小島の尻を揉みしだいた。
「な、なにをするんですか、清山さん。もうっ!」
小島は可愛らしく笑うと、尻に伸ばした清山の手をむんずと掴む。
「いや何、病室にいても気が滅入ってのう。それなら若い子に癒してもらおうと、こうして外に出てきた訳じゃ」
「清山さんの癒しになれるのは光栄ですけど、それとセクハラをしていいかどうかは別の話です」
「いやいや、こうやって若いもんのきめ細かい肌を触ることで、儂ら年寄りは生きる希望が湧いてくるもんなんじゃよ」
「そんなエッチな希望が湧いてくる人なんて、清山さんだけだど思いますけど……そういうのは愛人にでもしてもらってください」
「愛人? はて、儂に愛人がいることを君に話したことはあったかのう?」
「いいえ、ないですよ。でも、清山さんならそれくらいいそうだと思って」
彼女は、あっけらかんとしてそんなことを言ってくる。
このサバサバとした性格も、魅力の一つだ。
そんなことを思いながら、清山は言葉を返す。
「うむ、たしかに沢山居る」
「だったら私にこんなことしなくてもいいじゃないですか?」
「そんなことはない。どんな美食の料理とて、食べ続ければ飽きるものじゃろう? それはそれ、これはこれ。こうして時たま別の女をつまみ食いしてこそ、健全な精神が保たれるというものなのじゃよ」
「だからと言って、私のお尻を触っていい理由にはなりませんから!」
小島は顔を真っ赤にして断言する。
「まったく、減るもんじゃないしちょっとくらい構わんじゃろうに」
「いいえ、ちょっとずつ女としての自尊心が減っていきます」
「自尊心? 全く……それはさておき、そのよく回る口は一向に減らんようじゃのう」
「清山さんにセクハラされることが減れば、私の口数も減ると思いますけど」
そうして、二人はしばらく睨みあう。
「あっはっはっは……!」
沈黙を破ったのは、別の人間だった。
「全く、相変わらずの好色だね……その辺にしときなよ、兄さん」
声がした方に視線を向けると――そこにいたのは、株式会社洋民、現代表取締役社長にして清山の実弟、清山忠利だった。
「む……」
「それじゃあ私は、仕事がありますので」
忠利が現れたのを好機と思ったのか、小島はそそくさとその場から離れていく。
「いつもいつも、絶妙なタイミングで現れるもんじゃな」
清山は軽く溜息を吐くと、目の前にいる弟を見据える。
「まぁ、あれ以上はあの看護師さんが可哀想だったしね」
「ふん。こんな病院に缶詰にされとる儂の方が可哀想というもんじゃ」
「まぁまぁ……入院したっていうけど、体調の方はどうなんだい? あんなセクハラまがいのことをしていたくらいだから、元気だとは思うけど」
忠利は爽やかに笑うと、近くにあったベンチに腰掛ける。
同じく老齢に達しようとしているのに、この物腰柔らかな話し方は、まるでそこらにいる優男のようである。
目尻には深い皺が刻まれており、髪には白いものも混じり始めて年齢を感じさせるだけに、どこかアンバランスな雰囲気だ。
清山はそんなことを思いながら、自分も横に座る。
「まぁ、お察しの通りじゃ。今回の入院はただの定期検診じゃしな。今のところすこぶる快調じゃよ」
「それはよかった。兄さんには、まだまだ元気でいてほしいからね」
忠利はにっこりと笑い、これまでの来訪者と同じことを言う。
だが、それはお世辞ではなかった。
弟は、そんなつまらないお世辞を言うような男ではないし、何より、今までの来訪者とは違い、その物言いに温かな感情が込められていたからである。
「まぁ、それはお互い様じゃな。しかし、それにしても……久しぶりじゃの、忠利。会社の方はどうじゃ?」
「まぁ、普通かな。目立って業績が上がっている訳じゃないけど、下がっている訳でもない。停滞期を迎えるといえばある意味マズイのかもしれないが、飲食業界は景気に左右されやすい業界なんだし、決して悲観的にはなっていないよ」
「そうか。まぁ、確かにその通りじゃな。栄枯盛衰、何事にも浮き沈みがあるのは世の常じゃ。とはいえ、問題はそこからまた盛り返せるかどうか。景気の波に左右されず、安定した経営を目指してこそ、大会社足りえるもんじゃし」
「そうだね。兄さんは、洋民を起業してから常にそう言って、有言実行してきたよね」
「まぁ、の……」
清山はどこか遠い目をして、窓の外にある景色を眺めた。
元々、株式会社洋民は、清山と、その弟である忠利の二人で作った会社だった。
個人で経営する居酒屋の店長を務め、その後、店舗を拡大させる為にチェーン店を作り、やがてここまで大会社になるまでの規模に成長させた。
清山が仕事をすぐに引退できたのも、弟に社長を任せていたからというのが大きかった。
全ては自身の手腕、そして、忠利のサポートがあったからこそできた、二人はいわば兄弟ながら、固い絆で結ばれた戦友とも言える存在であり、この世で清山が最も信頼している人間である。
今まで二人で走り続け、気付けばここまで来ていただけに、その感慨も大きいものだった。
こんなことを考えてしまうのも、自分が死ぬとわかっているからだろうか、とそんな益体もないことをつい考えてしまう。
「ところで兄さん、今回は定期健診で入院とのことだけど、一体なんの定期健診なんだい?」
「あー……それは……」
清山は、医師に癌を宣告されてから、今まで誰にもそのことを話していなかった。
いずれ体調が悪化すれば自ずとわかることだろうし、それまで自分から言う必要はないと思っていたが……。
目の前にいる、腹心の弟に対してだけは、予め言っておいた方がいいのかもしれない。
清山は、一瞬だけ逡巡した末に、居住まいを正して厳かな表情を作った。
「忠利、今から言うことを落ち着いて聞いてほしいんじゃが」
「なんだい? 急に改まって。兄さんらしくないよ」
「ふん。今から重大な告白をしようというのに、改まらないはずがなかろう。実はな、儂は癌なんじゃ」
「癌……!?」
忠利は大きく目を見開いた。
だが、清山の表情を見て、それが嘘でも冗談でもないことを一瞬にして悟る。
こう言う時、やはり長年付き合ってきた人間は便利だなと思う。
一を聞いて十を知るというか、表情や仕草などで、その人間の心情をすぐさま慮ることができるからだ。
「……ちなみに、進行度はどれくらいなんだい?」
しばらくして、忠利は腹から絞り出すような声でそれだけ呟いた。
「端的に言うなら、もうあちこちに転移して手の施しようのない状態じゃな。医師が言うには、余命三ヶ月だそうじゃ。まぁ、いろいろ無茶ばかりしてきたもんじゃし……仕方ないことだと諦めておる」
「……随分あっけらかんとしているね。そこまでショックという訳じゃないのかい?」
「まぁの。会社は既に儂の手を離れておるし、全幅の信頼を置ける片腕、お主もおる。妻にも先立たれ、三人の子供たちもそれぞれ好き勝手に自分の人生を歩んでいる。こんな状況である今、死に対する恐怖は、正直皆無と言っていい。ま、その後のことについては、いろいろと頭を抱えているんじゃがのう」
「その後のこと……というと、僕の後の洋民の代表取締役を誰にするか――つまり、後継者問題についてかい?」
「うむ。お主も知ってるじゃろう? ウチの娘と息子が犬猿の仲なことを。まぁ、宏平だけは我関せずを決め込んでいるが、あいつはあいつで遊ぶことしか考えてなさそうな奴じゃしな。お前もあと何年元気でいられるかわからないことを考えると、次代の社長はやはり、奴らの誰かからということになる。その際、なるべく諍いが起きないようにしたいものじゃが……」
「……そう、だね……」
珍しく、忠利にしては歯切れの悪い言葉が返ってきた。
見ると、何かを考え込むかのように、俯いている。
「……? まぁ、そういうわけだから、こうやって入院し、静かな病室でそのことに頭を悩ますつもりじゃった。とはいえ、見舞いの来客が溢れるくらい来て、どいつもこいつも心にもない言葉ばかり並べてくるのにイライラして、ついセクハラでもしてやらんとやってられなくなったわけじゃが」
「……ふふっ、兄さんは変わらないね。僕なんて、この年になってもう性欲なんて枯れ果ててきたものだよ」
「お主は元々若い頃から淡泊じゃったからな。とはいえ、老境に於いても性欲がある者は沢山おるぞ。忠利は戦国武将の毛利元就を知っているか? 奴の末子、秀包は、何と元就が70歳の時にできた子供じゃという。既に孫もいる年齢でも尚、種を残す者すらいるのじゃから、儂も見習いたいものじゃ。いや、むしろ死が迫っている今こそ、子孫を残そうとそのような行動が活発になっているのかもしれんのう、わっはっはっは!!」
「……そ、そうか。そうだね……」
忠利は何か言いたそうにモゴモゴと口を動かすが、やがて閉じた。
清山もそれを見て笑いを止め、真面目な表情に戻る。
「……まぁ、そういう訳じゃから、後継者を指名したところで、儂が事後処理を行うことはもうできん。故に、頼みがある。子供たちの内、誰が後継者になろうとも一人前になるまで支えてやってほしい。儂のたっての願いじゃ、どうか頼む」
清山は、ベンチから立ち上がると、忠利に頭を下げる。
「……ああ。僕だって、兄さんと二人で築いた思い出深いこの会社を、後継者問題なんかで傾かせたくはない。そのことに関しては、全力を尽くすよ……」
「……そのことに関しては?」
「……いや。何でもない。何でもないんだ。ごめん、兄さん。今日はこれで失礼するよ。ちょっと一人で考えたいことがあるんだ……」
忠利は立ち上がると、そのまま挨拶もそこそこに、そそくさと病室を後にした。
「……?」
一体、忠利はどうしたのだろう。
あそこまで狼狽する姿を見たことは、清山の長い付き合いの中でも数える程くらいしかなかった。
やはり、忠利も会社の行く末が心配なのだろうか?
それとも、なんだかんだいって、儂が余命三ヶ月ということを聞いてショックを受けたのだろうか?
今更、そんなタマではないと思っていたが……。
「まぁ、忠利ももう年ということかのう」
清山はそんなことを言って自らを納得させると、気を引き締めた。
ならば、やはりいよいよもって後継者を誰にするのか考えねばならない。
外部からコンサルタントを招き、社長業をサポートさせるということも考えたが、基本的に洋民は同族経営のファミリー企業であり、役員クラスは全て清山の親族で固めている。
それに、信頼できるコンサルタントを選ぶ手間暇を考えれば、やはり子供たちの中から誰かを選ぶほうが楽だと言わざるを得なかった。
「やれやれ……」
清山は、腕を組みながら難しい顔をして天を仰ぐと、どうしようかと悩み続けた。
◇
「……という訳で、儂はもうじき死ぬことになった。お主もこれからはお役御免という訳じゃ。今までありがとう。手切れ金として、一千万円を用意した。これからは自由に生きるといい」
清山は、本日何回目とも知れぬ台詞を吐いて、目の前に座る美女を見つめた。
「わかりました……でも、ショックです。まさか、そんなにお身体の方が悪かったなんて……」
「まぁ、自分の身体のことなんて意外とわからないもんじゃからの。それじゃ、達者でな」
そんなとりとめない会話をしつつ、清山と美女は別れる。
「ふぅ……」
ようやく終わったか。
清山は何とか上手くいったことに対する安堵の息を吐いた。
清山には、現在、7人の愛人がいた。
当然、全て籍は入れていない、完全な肉体関係だけの女性たちである。
ビジネスとして、月に一定額をやる代わりに身体を開かせるという、愛人契約を結んだ上での性欲の解消として彼女たちを利用していたのだ。
無論、彼女らに愛情を感じたことは一度もないが、自分が死ぬとなると話は変わってくる。
ないとは思うが、この件に関して裁判でも起こされれば洋民のスキャンダルになるだろうし、何より後継者問題で苦労しているというのにこれ以上の面倒事を起こされてはたまらななかった。
故に、清山はこうして一人ずつ愛人を呼び出しては、事情を告げ、手切れ金を渡して関係を解消して回っていたのである。
その最後の一人が、今出て行った彼女だったという訳だ。
彼女たちとはきちんと書面にして、今後一切自分とは関わらないとの約定を交わした為、これで愛人に今後の情勢を左右されることはない。
「ふぅ……しかしそれにしても、人生とはままならぬものじゃのう」
清山は、先ほど帰っていった一人の愛人のことを回想する。
彼女は、今年で28歳になる、六本木のキャバクラに勤める女だった。
清山が愛人に選んだだけあって、その美貌はモデルをやれるほどに美しい。
また、性格もお淑やかで、一緒にいるだけで安らぎを与えてくれる――まるで清山が愛した唯一の妻、朱莉の面影を色濃く残していた、清山としても一番のお気に入りの愛妾だった。
だが――清山としてはただ性欲の解消をするだけで満足だったのだが、向こうはそうは思わなかったらしい。
何故か、彼女は次第に自分に愛情を抱くようになったのである。
それが幾度となく抱いたせいなのか、愛人契約を結んで擬似的に夫婦のような関係になったからなのかはわからない。
しかし、結果としてとにかく彼女は自分に恋をしてしまい、是非とも結婚を望んでしまったのだと言った。
しかし、いくら清山にこの想いを打ち明けたところで、遺産目的ととられるに決まっている。
故に、今までひた隠しにして、ただ傍にいるだけの幸せを享受してきたのだと言う。
だが、清山の死により最早それは叶わないことになった。
ならばもう何も望みはなく、あなたとの思い出を胸に、新しい人生を歩んでいきます、と彼女は語った。
最初は疑いの目で見ていた清山だったが、あまりにあっけらかんとしたその態度と、何より、清山が死ぬと言った時の彼女の涙は、演技でできるものではなく、信じるに値すると判断した為、結局この件に関しては放置することにした。
何より、美女に好意を打ち明けられて嬉しくない男はいないだろう。
しかしまさか、この年になって、女に愛される日がくるとは……。
清山は思わず苦笑してしまう。
確かに彼女の言う通り――現在、清山は自分に言い寄ってくる女は全て地位や金目的としか思えなかった。
そうじゃなければ、誰がこんな老人など愛そうとするだろう?
金も名誉も手に入れてしまった今、下心のない、純粋な愛情など最早ありえない。
そんなものが芽生えるのは、何も持たざるものだった若い頃くらいのものだ。
そう、まだ自分が大学生の頃――清山が愛しき妻、朱莉と出会った頃のように。
神崎朱莉は、美しかった。
とはいえ、容姿はそれほどの美貌を誇っていた訳ではない。
贔屓目に見ても中の上から上の下、美人ではあるが、今の清山たちの愛人たちのような、抜群のプロポーションを誇るモデル級の人間と比べれば一段落ちるくらいの容姿である。
だが、彼女の美しさはその外見から来るものではなかった。
いわば、内面の美しさ――とでも言おうか。
大学時代から、彼女はどんな問いにも打てば響くような返事をしてくれる、当意即妙に優れた才媛だった。
機転が利き、常にお淑やかで、一挙手一投足に品というものを感じさせる、お嬢様然とした態度・教養を持ち合わせている。
彼女は、言うなれば日本の誇る大和撫子であったのだ。
そんな女に清山が惹かれたのは、半ば自然なことだったのかもしれない。
朱莉と知り合い、告白し、大学時代から卒業後まで数年付き合った後――会社を興した時にプロポーズして、それから40年仲睦まじい夫婦生活を送ってきた。
朱莉がいた頃は、清山はただ一緒にいるだけで心が満たされて頑張ろうという気にさせられたものだった。
「恋愛はただ性欲の詩的表現を受けたものである」と芥川龍之介は言ったが、清山はそうは思わない。
性欲とは別に――ただ一緒にいるだけで癒され、時には奮起し、安らぎが得られる。
これが愛というモノかと、一人得心が言って頷いていたことをよく覚えている。
だが――朱莉は十年前、交通事故に遭って命を失った。
あの時の悲しみは、今もありありと思い出される。
生涯を共にしていた伴侶を唐突に亡くし――まるで全てが抜け殻のように、空虚なモノに思えてきてしまった。
清山が、会社を引退することを決めたのも、この事件が少なからず影響している。
朱莉亡き今、最早何もする気が起こらず、静かに余生を過ごしたいという気になってしまったのだ。
だか、その生活にも退屈を感じるようになり――ついには余命三ヶ月だと宣告された。
「朱莉……どうやら、儂もそろそろそっちに行くことになりそうじゃよ」
清山は誰に言うでもなくそんなことを呟くと、ゆっくりとベッドに横たわり、目を閉じた。
◇
それから――どうやら少し眠ってしまったらしく、清山が起きたのは扉をノックする音を聞いた時だった。
身体を起こすと、窓からは既に夕日が落ちようとしている。
愛人たちとの別れ話を切り出したのは午前中のはずだから、お昼を丸々惰眠に費やしてしまったらしい。
「どうぞ」
清山は、大きく伸びをしながら返事する。
「兄さん……」
そこには、忠利が今にも泣きそうな顔で立っていた。
「む……? どうしたんじゃ? 忠利。そんなひどい顔をして」
清山は手招きしてこっちに来るように指示を出すと、笑う。
「まさか会社でトラブルがあったんじゃないじゃろうな? やめてくれよ、ただでさえ今は後継者問題で大変じゃというのに」
「いや……そういうトラブルってわけじゃないんだ」
「? じゃあ、どうしたっていうのじゃ?」
「実は、この前……兄さんに癌と宣告されてから、今までずっと悩み続けてきたことがあるんだ。どうしようかとひたすら悩んだけど、でも、結局、言うべきだと僕は判断した。だから告白させてもらうよ、兄さん」
忠利は、覚悟を決めたように表情を引き締めると、毅然として清山を見据える。
どうやら、冗談で流していいことではないらしい。
それを悟った清山も居住まいを正した。
「……わかった。じゃあ、その悩みとやらを聞かせてもらおうかの。儂の癌の発表を機に告白することになったということは、それに関連することか?」
「……ああ。まぁ、関連する、という言い方で正しいのかわからないけれど、このまま死んでいく兄さんを見て、最後に言わなければいけないことがあると決意したのは事実だ」
「ずいぶんと思わせぶりじゃな。一体、何があったんじゃ?」
「そのことを説明する前に――突然だけど、兄さんは托卵って言葉を知ってるかい?」
「托卵?」
清山は訝し気に眉を寄せる。
「ああ。カッコウなどの鳥類でよく見られる、卵の世話を他の個体に托する動物の習性のことさ」
「ほう……そんな言葉があったのか。いや、知らなかったのう。それがどうしたんじゃ?」
「まぁまぁ、まずはこの説明をさせてくれよ。托卵は、巣作りや抱卵、子育てなどを仮親に托す行為で、一種の寄生といってもいい。これは、同種のみならず、異種間でも起こり得る。今例に出したカッコウだと、自分より小さいオオヨシキリやモズなどの鳥類の巣へ、親が餌などを取りに行って巣を離れた時を見計らって、自分の卵を産み落とすんだ」
「えげつないやり方じゃな」
「まぁね。聞いたところによると、カッコウはその際、卵の数が増えたことを親が怪しまないように、元からある卵の一つを巣から追い出してから自らの卵を置くらしい。その際、カッコウの雛は比較的短期間で孵化し、巣の持ち主の雛より早く生まれることが多い。
なぜそんなに早く孵化するのかというと、孵化したカッコウの雛が、巣の持ち主の卵や雛たちを巣の外に押し出す為だ。雛が多ければ多い程、親から貰える餌は少なくなるからね。
例えばカッコウの雛がオオヨシキリの雛を全て駆逐すれば、その時点でカッコウの雛は仮親の唯一の雛となり、仮親の育雛本能に依存して餌をもらい続けることになる。
親は、子が少なくなっていることを疑問に思いつつも、その本能に逆らうことはできない。
そうして見事に成体となったカッコウは、巣とオサラバして旅立っていく。後には、自らの子は全て殺され、その加害者をまんまと育成してしまった哀れな親だけが残される……って訳さ」
「ふむ。しかし、いくら人とは違う下等生物とはいえ、親は自らの子を判別することはできないものなのか? 流石にカッコウとオオヨシキリでは、サイズからして違うじゃろう?」
「そこは鳥類の悲しい性ってやつだね。親は、基本的に自らの子を疑うことをしない。よく鶏の雛は生まれて初めて見た者を親として認識するって言うだろ? 基本的にはあれと同じで、オオヨシキリの親鳥は、仮にカッコウの雛が雛の段階で既に成体である自分より大きくなっていようとも、それを自らの子と信じて盲目的に餌を上げ続けるんだ」
「なんだか、やりきれない話じゃのう。で、なんだって今、その話をしてきたんじゃ?」
「兄さん。この『托卵』は、何も自然界だけに起こることじゃない。僕たち人間の間でも起こり得ることなんだ」
「……何が言いたい?」
「恥を忍んで告白するよ。僕は、この托卵を兄さんに対して行ってしまった。兄さんの奥さん――清山朱莉と僕は若い頃、兄さんが知らないところで逢引を行い、不倫していたんだ!」
「……!?」
清山は思わず目を見開いてしまう。
愛する今は亡き妻の姦通を、実の弟から告白されたのだ。
衝撃を受けない方がおかしいだろう。
「……忠利、お前は自分が何を言っているのかわかっているのか?」
「ああ。こんなこと、冗談では言えないよ。僕はいたって正常、大真面目だ。これは冗談や嘘なんかじゃない、真実の告白だと思ってくれ」
「なぜ……お前と朱莉が?」
「そのことを話すには、まず僕のことから話す必要がある」
忠利は、悲しそうな目でこちらを見ると、ふうっと大きく息を吐きだした。
「兄さん……今だから言わせてもらうけど、僕は幼い頃から、兄さんにずっと嫉妬していたんだ。兄さんは、いつも僕の一歩先を行っていたからね。成績も、運動も、挙動や性格も――姿形は変わらない兄弟なのに、なぜここまで差があるんだろうというくらい、常に兄さんは僕の前にいた。それに僕は、ずっと劣等感を感じ続けていた」
「それは……」
清山は過去のことを回想する。
確かに、忠利と自分のことを比較すれば、大抵のことは自分が勝っていたように思う。
だが、清山はそれを兄として当然のことだと思っていた。
兄は常に弟の先を行かなくてはならない。
そのような自負があったからこそ、そうであるように努めていたのだが……。
「忠利……お前は、ずっと儂に勝ちたいと思っていたのか?」
「そうさ。そうすることで、僕の存在価値を証明したかった。僕は兄さんに負けてなんていないんだぞと思いたかった。でも、それは違ってた。大学まで、あらゆることで僕は兄さんに負け続け――終いには、恋愛にまで負けた」
「お前……まさか、朱莉のことを……?」
「ああ、そうさ。僕はずっと朱莉のことが好きだった。これだけは言わせてもらうが、ことこの事に於いては、兄さんは僕の前を行かなかった。大学入学後――朱莉を見つけ、好きになったのは僕が先だ。僕が先だったんだ!」
「でも、朱莉は兄さんを選び、兄さんは朱莉を選んだ。僕がどれだけ悔しかったかわかるかい? 勉強、運動、あらゆることで兄さんに負け続け、そして恋まで実らないこの絶望……正直、死のうかとすら思ったよ」
「……じゃが、お前は儂と一緒に会社を興してくれたじゃないか」
「ああ。その後、僕も紆余曲折を経て、吹っ切れたんだよ。兄さんに勝てないのは、もう仕方ない。ならば、それを受け入れて前に進むべきだとね。そして皮肉なことに――僕は兄さんに先んじることはできなくても、兄さんをサポートすることに関しては抜群に長けていた。僕たちは異体同心として会社を大きくすることに躍起になり、また、会社も日の出の勢いで大きくなっていったよね」
「……ああ。今の『洋民』があるのは、信頼できる弟――お前が傍にいてくれたからと今でも儂は思っている。そのお前が、まさか……。いや、それ以上に、朱莉がそんなことをしたなど……」
清山は口元に手を当てて俯く。
常に清廉潔白で、自分に尽くしてくれた朱莉。
その朱莉が、自分以外の男と性交渉を持っていたなど……。
想像しただけで吐き気がしてくる。
忠利は、どこかバツが悪そうに顔を背けた。
「……兄さんは、仕事に熱中し過ぎたのさ」
「熱中……し過ぎた?」
「ああ。ある日のことだった。朱莉の誕生日、兄さんは久しぶりに夫婦水入らずで食事をするといって、会社を休んだよね。そうして、自宅で朱莉の手料理を食べようとしていた時――ちょうど会社から電話がかかってきた。どうしても兄さんの手が必要な案件が出てきたとかでね。兄さんも、トラブルが起きたから、自分がいかなくちゃって張り切って出ていった。無論、兄さんの考えは正しい。企業経営者としては、ね。ただ、一人の夫としては――ある意味、最低な行いだ。前から約束していた朱莉との約束を破り、詫びの言葉もそこそこに一人会社に向かったんだからね。しかも、一度や二度じゃない。兄さんは覚えてないかもしれないが――20代の内、そのほとんどの朱莉の誕生日を、同じような案件で蔑ろにしていたんだよ。その時、残された朱莉の気持ちを考えてみたかい?」
「……いや。考えたこともなかったの。確かに、言われてみれば、あの当時は企業したばかりで、会社経営を軌道に乗せようと、家庭を顧みることなく休みなしで働いていたものじゃ。今言ったような誕生日を無視する行いも、一度や二度じゃなく行ってきたことも自覚しておる」
「だろうね。その何回目かの朱莉の誕生日の日――偶然にも、僕もちょうど会社で休みをとっていた。そして、副社長である僕は必要なかったのか、その日も兄さんは会社に呼び出されたのにも関わらず、僕はのびのびと休日を満喫できた。あの日僕は、兄さんが夫婦水入らずで食事をすると聞いていたから、兄さん宅には近づかないつもりだったけれど、せめて一言、誕生日おめでとうと言うくらいはいいだろうと思い、朱莉に電話をしたんだ。今思えば、あそこが僕たちの人生における、分岐点だったのだと思う。電話口に出た朱莉は――泣いていたよ。涙声で、兄さんと過ごせない悲しみを押し殺しながら、それでも僕の祝福に対して礼を言っていた。惚れていた女のそんな声を聞いて、動揺しない男がいるはずがない。僕は一目散に兄さんの家に向かったよ。
そこで見た朱莉の表情は、今でも忘れられない。兄さんのことを想いながら、寂しさをなんとかこらえようと努力している姿……。目に涙を溜め、おそらく時間をかけて机一杯に広げられた料理に一口も口をつけず去っていった兄さんを想いながら、俯いている姿。元々、それが初めてではなかったんだ。朱莉はずっと、兄さんと結婚して以来、構ってもらえない寂しさを感じ続けていた。兄さんは家に帰っても食事や睡眠しかとらず、朱莉とコミュニケーションをとることなく家を出ていく。そんな生活が続いて、続いて、以前から約束し、ずっと楽しみにしていた自身の誕生日さえも蔑ろにされて――その切なさ、寂しさはどれほどのものだっただろう?」
「それは……」
「朱莉は聡明な女性だ。どれだけ悲しみを感じても、『仕事と私、どっちが大事なの?』なんて、よくある定番な台詞を吐いて、ヒステリックに怒ったりはしない。無論、兄さんが行っている会社運営という責任も、重みも知っているし、それを心から応援していただろう。それでも――愛情というモノは、与えるだけではいずれ枯渇してしまう。愛し愛され、互いに想いあってこそ円満な夫婦生活は築かれるものだ。いつしか朱莉の心のは、悲しみで満たされていったんだよ」
「……じゃから、浮気をしたと? それだけの理由で、お主と、あの朱莉が?」
「無論、それだけじゃないさ。朱莉の心を打ち砕く最後の攻撃となったのは――兄さんの好色さだ」
「儂の……好色さ?」
「兄さんはバレていないつもりだったのだろうけど……あの頃、兄さんはよく、性欲処理に風俗を利用していただろう? 流石と言うべきか、会社運営で忙しいながらも、そこだけはキッチリ処理していたよね。兄さんは『風俗は浮気じゃない。単に溜まった性欲を処理しているだけだ』と言っていたけれど……妻である朱莉はどう思っただろう? 自分の誕生日すら蔑ろにされ、セックスすら外で済ましてくる夫。浮気を疑って疑心暗鬼になっても仕方ないことじゃないか?」
「違う! 逆だ。儂は朱莉の身体を思い、遠ざけていたに過ぎない。愛のあるセックスではなく、自分の欲望の捌け口としてただ乱暴にぶつける相手は、風俗嬢しかいなかっただけのことじゃ。むしろ、朱莉を大切にしていたからこそ、儂は朱莉の身体を慮って、行為をしなかったのじゃ」
「口だけならなんとでも言えるさ。よしんば本当にそうだったとしても、朱莉にそれをきちんと説明しない限り、兄さんの考えが伝わる訳がないだろう? 話を戻すが――そうやってその日、朱莉は堰が切れたかのように、そのような悩みを僕に告白してきたよ。その切なげな表情を見て、僕はこらえきれなかった。僕は兄さんとは違う。仕事に邁進しつつも、家庭を蔑ろにするなんてことはない。僕なら朱莉をこんな表情にしない……。そう思うと、気付けば僕は朱莉を抱きしめていた。そして、過去の想いを告白していたんだ!!」
「……そのとき朱莉は、なんて言ったのじゃ?」
「無論、僕の気持ちは嬉しいけど、もう兄さんの妻になっている以上、貴方とは付き合えない、ときっぱり断られたよ。だが、恋愛と性的欲求また別だ。愛している人が別にあっても、人肌恋しくなる夜はある。そういう点でみれば、寂しさを埋める為に、僕たちはうってつけの人材だった。そして、兄さんも浮気――兄さんにとってはそうじゃなかったのかもしれないが――をしている以上、朱莉は自分がやっても責められる謂れはないという免罪符も得ていた」
「朱莉が……一時の性欲に身を任せて、お前と姦通していたと? あの、朱莉がか?」
確かに、仕事が忙しい時は朱莉に構ってやることができず、丸一ヶ月ろくに話さなかったこともあるし、1年近くセックスレスだったこともある。
しかし、それにしても。
あの聡明な朱莉が。
朗らかで、優しく、常に儂のことを想ってくれていた朱莉が。
一時の寂しさと性欲に流されて、浮気をしていたというのか……?
それは、清山にとってまさに青天の霹靂ともいえる事実だった。
しかも、忠利が言っていることが正しいなら、それを朱莉はおくびにも出さなかったということになる。
これでも数十年彼女と付き合ってきたのだ。
彼女のことなら、些細な感情の変化くらい、すぐに見通すことができる。
だが、いくら忙しかったとはいえ、それができなかったということは……。
朱莉が思った以上に巧妙だったのか、それとも自分が耄碌していたのか。
清山は、背筋に冷たいモノが流れるのを止めることができなかった。
「その後――僕と朱莉の関係は、1年続いたところで終わりを見せた。やはり、なんだかんだ言って朱莉は兄さん、君を愛していたんだろう。こんなことはもうしてはいけないと言われ、兄さんに対し罪悪感を抱えていた僕としても、潮時だと思い素直に従った。元々、叶うはずのなかった恋だ。それがこのような歪な形とはいえ成就したのだから、最早思い残すことはない。互いにこのことは墓までもっていこうと約束し、一時の過ちとして処理する――はずだった」
「はず?」
「それから数日後、朱莉の妊娠が発覚した。兄さんは何も疑わなかったみたいだけど、朱莉は僕の子供だと確信していた。なぜなら、妊娠するこの1年、朱莉とセックスをしたのは、僕だけだったみたいだからね」
「……避妊はしなかったのか?」
「した時もあるし、しなかった時もある。でも、それは最早重要な問題じゃない。セックスに妊娠というリスクはつきものだ。そして、そのリスクを負っていた相手が僕だけだった以上、それは僕と朱莉の子供に間違いはなかった」
「……それで、朱莉はその子を儂の子として産んだというのか?」
「ああ。妊娠が発覚した夜、真っ先に朱莉は僕を呼び出したよ。そうして僕たちは侃侃諤諤の議論を交わした。もう全てを兄さんに打ち明けるべきなのではないか。それともこの子を兄さんの子供として隠し続けるべきなのか。いや、子供の件だけは隠し、浮気したことは懺悔すべきなのでは……? 僕と朱莉は、いろんなことを長い長い間話し合ったよ。そして、紆余曲折を経て決意した」
「この子を、兄さんに隠したまま……兄さんの子として育てよう、ってね……」
「…………」
「無論、兄さんからすれば自分勝手極まりない意見だと思う。寂しさを一夜の過ちとして消化し、あまつさえそれを謝罪することなく、自分の子供として育てさせたんだからね。
だが、あの時の僕たちは、現状を壊したくなかった。せっかくの懐妊というめでたい出来事が起きたというのに、こんな重大な事実を暴露して、兄さんを惑わせたくなかった。せめて仮初でもいいから、現状維持のまま、幸せを甘受したかった。無論、これが現実逃避であることは知っている。本当に真摯に兄さんに謝るつもりなら、何もかもを懺悔して許しを乞うべきだったのだと思う。だが、それでも――。僕たちは、結局、兄さんに黙っているという選択を選んでしまった。一度その選択をしてしまったら、もう後戻りはできない。そして、それから先、僕と朱莉は、兄さんに隠し事をし続けながら、共に笑い、共に泣き、過ごしてきた。兄さんにそれを気取られなかったのは、兄さんが仕事で忙しかったからなのか、それとも僕たちの演技力が優れていたのかは定かではないが……ともかく、僕たちはその過ちを兄さんに隠したまま、ここまできた」
「……朱莉が、儂に隠し事を……」
朗らかで、いつも儂のことを想ってくれていた朱莉。
その朱莉が、実は過去に弟と浮気して、その子供を産んでいた。
思わず眩暈がしてしまう。
だが、清山は知っている。
弟、忠利がこのような嘘を吐く男ではないと。
それは、長年の付き合いでよくわかっている。
しかし、それは即ち、認めたくない現実を受け入れざるを得ないということになるのだった。
「一応、弁明をさせてもらうと……どちらかといえば、このことを兄さんに隠そうと言ったのは僕の方だ。朱莉は最後まで、兄さんに後ろめたい気持ちを持ち続け、ひたすら僕とのことを後悔しているようだった。また、誓って言うが、僕が朱莉と関係を持ったのは、その子を産むまでの期間のみだ。それ以前、それ以後は一切関係をとっていない。いや、それだけじゃない。おそらく、生きていれば朱莉はいずれ、兄さんに全てを告白したのではないかとすら思う。でも、あの不幸な事故により、その機会はついぞ失われてしまった……」
「朱莉の死……あの交通事故か」
確かにあのような突発的な死が訪れてしまえば、遺言書でも書いていない限り、隠し事を打ち明ける暇はないだろう。
しかし、それにしても……。
「忠利……。仮にお前の言っていることが全て事実じゃとして……お前は、何が狙いなんじゃ?」
「狙い?」
「儂が死ぬということに動揺して、お前がそういった懺悔をしたいと思った気持ちはわかった。だが、それに怒った儂がお前、並びにその子供と縁を切るなどの報復に出るとは思わなかったのか? お前は幼少の頃から劣等感を持ち続けていたと言ったの。ならば、儂へのささやかな復讐としてでも、この事実を明かさないままにした方がよかったんじゃないのか?」
清山の問いに、忠利は僅かに眉を歪め、苦悶の表情を浮かべた。
「……さすが兄さんだね。鋭い洞察だ。たしかに僕も、聖人君子って訳じゃない。兄さんがこのことを知れば怒髪天を衝くほど怒るだろうし、既に朱莉が死んでいる以上、僕にその全ての怒りが向くこともわかっている。客観的に見ても、僕にとって、このことは墓場まで持っていった方がいい秘密だった。それはわかってる。でも、こんなことをしておいて虫がいいと思うかもしれないけど……それでも、僕は兄さんが好きなんだ」
「……好き、じゃと?」
「ああ。子供の頃から、劣等感を抱き続けてきた偉大な兄。でも、それは裏返せば、僕はずっと兄さんに憧れてきたということなんだ。その憧れの兄と、会社を作り、やがてここまでの大会社に育てあげた……。洋民は、僕にとってももう我が子のような存在だし、兄さんは、僕にとっても唯一無二のパートナーだ。そんな大好きな兄さんを、嘘を吐いたまま逝かせたくなかった。そんな情から――告白を決意したんだ」
「嘘じゃな」
清山は、忠利の告白を一蹴した。
「……なぜそう思うんだい?」
「忠利、お主が儂を理解しているように、儂もお主を充分理解しているつもりだ。確かに今お前がいったことは、お前の本心の一部ではあるのじゃろう。だが、全部じゃない。お前は情だけに流されるような男じゃない。会社経営というものは、情だけでは大きくすることはできない。時には非情ともいえる決断を下す、清濁併せ持ってこその一流の経営者じゃ。そんなお前を理解しているからこそ、嘘だと思ったわけじゃ」
「……さすが兄さん。衝撃的な告白を聞いたからといって、頭の回転は鈍っていないようだね」
忠利はうっすらと笑みを浮かべながら降参とでもいうように両手を上げた。
「……儂を試したのか?」
「ああ。兄さんが臆病風に吹かれて耄碌したようだったなら、この話はこれでおしまいということにしようと思っていた。その場合、おそらく僕はお咎めなしで許されただろうしね。でも、兄さんが未だに冴えている――僕の憧れだった兄さんのままなら、一つ提案したいことがある」
忠利は一旦そこで言葉を切ると、にやりと笑った。
「兄さん、僕と一つゲームをしないかい?」
「ゲーム……?」
「ああ。兄さんが看過した通り、僕の本心の半分は、先ほどいった情によるものだ。だけど、それだけじゃない。兄さんへの劣等感は未だに僕の中に燻り続けているし、恥を忍んで告白すれば、結局僕は、朱莉の身体を好きにして子供まで孕ませておきながら、ついぞその心までは靡かせられなかったという負い目もある。そして――ここまで成長させた会社を、僕の子供に継がせてやりたいという、兄さんへの復讐心や親心も当然ある。だから、僕は兄さんとの関係にケリをつける為にも、一つのゲームを思いついたんだ」
「……ゲーム、か。それで儂らの関係全てにケリをつけようとでも言うのか?」
「ああ。僕と兄さんの、最後の勝負だ。とはいえ、公平にこれを行う為には、条件を同じ――即ち、兄さんに事情を打ち明ける必要がある。だからこそ、托卵したという事実を兄さんに打ち明けたんだ。これがもう半分の理由さ」
「……なるほどの。で、そのゲームというのは何なんじゃ?」
清山が続きを促すと、忠利は薄く笑みを浮かべて3本の指を立てた。
「今、兄さんには3人の子がいるだろう? この内訳は――今告白した通り、僕の子が一人、兄さんの子が二人となる。これは、厳然たる事実だ。そして、兄さんは今、死後の自分の後継者を選んでいるといるんだろう? これを丸ごとゲームにするのはどうかと思ってね。つまり、兄さんが僕の子供を後継者に選べば僕の勝ち、自分の子供を選べば兄さんの勝ち。今後の会社の行方を左右する後継者を当てる、僕の企んでいる――いや、托卵でいることを兄さんが看破できるか否か。いわば、托卵の卵を当てれるか否かという、フーダニットの推理ゲームということさ」
「……ふん。なるほどの。我が弟ながら、中々面白いことを考えるもんじゃ」
清山は呆れ半分、賞賛半分の言葉を返す。
「だろう? 先に言った通り、僕の中には、兄さんに対する尊敬の気持ちと劣等感とが同居している。この二律背反する思いが行き着いた先が、このゲームだったという訳さ。僕が勝てば、この会社は僕の子供のモノ――即ち、僕たち兄弟の勝負においても、僕の勝ちとなる。その時は、僕は今までの劣等感を全て払拭できるような清々しい気持ちになれることだろう。逆に兄さんの子供が継げば、兄さんの勝ちとなるという訳さ」
「……ふむ。ちなみに、ゲームの具体的なルールはどうなる?」
「特にルールなんてないよ。兄さんはこの後、どのような行動をとろうとも自由さ。僕の告白から、誰が自分の子供かを探るもよし、3人の子供と面談し、探りを入れるもよし。ただし、最終的には必ず3人の中から一人、後継者を選んでもらう。その後、兄さんは弁護士立ち合いの下、後継者を選んだ者にするという遺言書を作成してもらう。後になって、やっぱり違う人にすると言われてはたまらないからね。そして、遺言書作成の後――僕が答え合わせをする。その子供は僕の子供だった、もしくは僕の子供じゃなかった、とね。これがゲームの大まかな概要だ」
「……息子たちに面談していいのか?」
「ああ。僕は自分の子供にすら、托卵の事実は告げていないからね。つまり、彼らですら、現時点では自分が完全に兄さんの子供だと信じているということだ。故に、別に面談されても構わないよ」
「なるほどのう……。しかし、それを抜きにしてもいやに儂に優位なルールじゃな。ただでさえ、確率としては三分の二の確率で儂が有利なんじゃ。その上、何をしてもいいとなると、儂がズルをする可能性も出てくるぞ? なにせ現代の科学を使えば、誰が儂の子かなんてたちどころに……」
と、そこまで言ったところで、清山はハッとしたように目を見開いた。
「気付いたようだね、兄さん。そう、僕たち二人の間では、現代の科学なんて何の意味ももたない。なぜなら――僕たちは一卵性双生児の、双子なんだからね」
清山と瓜二つの顔を歪めて、忠利はニヤリと笑った。
「僕たちの間では、DNA鑑定も血液検査も全てが無意味だ。一卵性である以上、その全ては完全に一致し、子供にも受け継がれている。つまり、このゲームにズルはできない。いや、それどころか、どれが僕の子供でどれが兄さんの子供かを証明できるのは、もう僕しかいないんだ」
「……だからこそ、この条件でゲームを行うという訳か。しかし、その場合は逆にお主が有利になる気がするんじゃが」
「? どういうことだい?」
「仮に儂が一人の子を選び、その子を後継者に指名したとしよう。そして遺言書を作成した後、お前はその結果がどうであれ、『この子は自分の子だ』と言うことができる。科学的な証明ができない以上、儂としてはお前の言葉を盲信するしかない。つまり、儂への復讐として、どんな選択をしようとも、お前は儂を謀ることができるのじゃ」
「たしかに、そう言われればそうだね。でも、僕は嘘を吐く気は毛頭ないよ。きちんと兄さんの子供であった場合は、そう申告するつもりだ。そこら辺に関しては、兄さんに信じてもらうしかないけど……僕たちは双子、そして長い苦楽を共にしてきた異体同心ともいえる存在だろう? ならば、その僕が嘘を吐いているかどうかなんて、兄さんにはすぐ見通せるはずなんじゃないか?」
「まぁ先ほどまで、儂もそう思ってはいたがのう……こんな重大な托卵を見通せなかった今、ふと不安になってきてしまったのじゃ」
「そうかい? 気付かれなかった、とは言うが――実際のところ、どうなんだい? 僕が何か隠し事をしているということは、薄々兄さんもわかっていたんじゃないのか?」
「……まぁの。確かに、会社設立当時、お前が何かに悩んでいることは薄々感づいていた。だが40から50年前といえば、ちょうど税金逃れの為に、会社で裏帳簿をつけさせていた時期だったじゃろう? 今思えば、コンプライアンスも糞もない、最悪な脱法行為だったが……若気の至りというやつじゃな。それをお前にやらせたばかりに、あのような暗い顔をしているとばかり思っていた」
「やっぱり、何か悩んでいることには気づいていたんだね。確かに、あの犯罪行為はいい隠れ蓑になってくれた。いや、僕があの違法行為を引き受けたのも、兄さんへの負い目があったからだしね」
「ふん。確かに、人の妻を寝取った負い目があれば、良心がある限り、どんなことでもするじゃろうよ」
「寝取った、とは言うが、僕は朱莉と身体を合わせただけで、その心はついぞ手に入れられなかったよ。朱莉の心は、徹頭徹尾兄さんに向けられていた。それは、誇っていいことだと思う。まぁ、それは置いとくとしても、兄さん、どうか僕を信じてくれないか? 僕は、このゲームにおいて嘘をつくことは絶対にしない。そもそも、嘘をつく気があるのなら、端から托卵のことを黙っていればよかった訳だしね。僕はこのゲームで、兄さんとの関係をハッキリさせたいんだ。だから、つまらない嘘なんて絶対につかない」
「…………」
清山は沈黙しつつも、それを信じる気になっていた。
弟が真剣に考えて想いを打ち明けてきたのだ。
その内容は衝撃的なことだったが、そこまで考えた末に提案したのならば、確かに嘘を吐くような無粋な真似はしないだろう。
「……わかった、いいじゃろう。忠利、お前のその托卵でいるゲームとやらに、乗ってやろうじゃないか。流石に衝撃的な事実が多すぎて、まだ感情を上手く整理できていないが――人生の最期になってこのような刺激的な勝負を行える機会というのは中々ないからの。脳髄がヒリつくような、ハラハラドキドキを味わえる一世一代の大勝負。思えば、この一歩間違えれば奈落へ落ちるという勝負を幾度となく繰り返し、勝ってきたからこそ、今の儂や洋民の繁栄はあると言っていい。お主たっての願いであり、退屈している人生の最後にそんな勝負がまたできるとなれば、断る理由はないさ」
「ふふっ、さすが兄さん。そう言ってくれると思っていたよ」
忠利は、ホッとしたように笑う。
「これは、いわば僕にとっても禊となる行為だ。優秀で、偉大なる兄に、僕は勝てるのか否か? ずっと憧れと劣等感を抱いてきた兄との最後のタイマン勝負だ。果たして兄さんに僕の企み――托卵できることを暴けるかな?」
「暴いてやるさ。儂は今まで、全ての物事に勝ってきた。人生の勝者になり続けてきたからこその今の儂がある。今回のことも、必ず儂が勝ってやる」
「ふふ。それでこそ我が兄だ。期待してるよ」
忠利も大胆不敵に笑う。
俺たちは、互いに互いを牽制し合うように視線を交差させると、勝負の開始とでもいうように、どちらからでもなく固い握手を交わした。
その日の夜――。
既に面会時間も過ぎ、電気も消灯され、後は寝るだけとなっている病院内で、清山は一人腕を組み、物思いに耽っていた。
あの場では余裕があるように振る舞っていたが、正直に言って、未だ感情の整理はできていない。
その原因は、弟から提案された特異なゲームが原因ではなく――。
やはり、愛する朱莉が、自分をずっと騙し続けていたという事実を知ってしまったからだった。
朱莉。
自らが生涯を通して唯一愛し、また、その愛に応えてくれた、才色兼備な妻。
彼女が一時の寂しさから、浮気をして、あまつさえ子供を産んだなど……。
「朱莉……お前は、儂に嘘を吐き続けながら生き続けていたのか……?」
忠利がいう具体的な時期はわからないが、浮気をして、そしてそのまま朱莉は素知らぬ顔で自分と共に生き続けたことは間違いことである。
いや――朱莉の中ではいろいろと葛藤があったのかもしれない。
それでも、その兆候に一向に気付かなかったとは、何たるザマだろう。
確かに忠利の言うように――自分は家庭を蔑ろにし過ぎたのかもしれない。
それに、身体のみの浮気なら、確かに清山も風俗で腐るほどしてきたのだ。
少なくても、朱莉を笑める権利は自分にはないだろう。
清山は、ほうっと息を吐き出すと、遠い目をして窓の外を眺めた。
「だがまぁ、忠利は朱莉の心はついぞ奪えなかったと言った。唯一の救いといえば、それくらいか……」
朱莉は弟の子を産みながらも、最後の一線、心まで忠利に許すことはしなかった。
それだけは確かに清山が愛されていたという証であり、誇っていいことだろう。
と同時に、ぶんぶんと頭を振って、朱莉のことを脳裏から追い出した。
すんだことをウジウジ悩んでも仕方ないことだ。
過去はどうあっても変えられないが、未来なら変えられる。
托卵ゲーム。
我が弟ながら、面白いことを提案してくれるじゃないか。
清山は笑みを浮かべると、窓の外の夜景を見つめる。
……確かに忠利の思いに関しても、わかるところはある。
一卵性双生児の双子ながら、常に儂に負け続けてきたのであれば、鬱屈とした気持ちになっても仕方ないだろう。
とはいえ、儂とて余裕綽々で勝ち続けていた訳ではない。
優秀な兄たろうと、学業もスポーツも何もかも、一心不乱に努力した結果がそれだったのだ。
故に、わざと負けてやるつもりも毛頭ない。
忠利、並びに朱莉の過ちをそのままにしたまま逝くことは、自分のプライドが許さないからだ。
誰が自分の子で、誰が自分の子じゃないのか――必ず当て、このゲームに勝利してやる。
ならばまず考えなくてはいけないことは、托卵の時期についてだろう。
忠利は朱莉が寂しさを感じた時に浮気をした、と言っていた。
とはいえ、会社を立ち上げてからというもの、常に忙しかったのは事実だ。
朱莉とセックスをしなかった期間も、かなりあることから参考材料にはならない。
また、誕生日に食事をしたという事実も、毎年のように朱莉と約束をしていたし、かつ、すっぽかすこともままあったことからあまり頼りにはならない。
第一、40年以上前のことなのだから、記憶はあてにしない方がいいだろう。
清山は、今までの経験から人の記憶がいかにあやふやなものかをしっていた。
「必ず覚えている」という自信があることでも、年月と共に風化・美化されて変わっていったものを盲信している場合もあるのだ。
である以上、自分の記憶は先入観と偏見の塊であり、それだけを下に客観的に判断する材料とすることは難しいだろう。
ならばやはり、対面してみるしかないか。
清山は自らの3人の子供の顔を脳裏に浮かべる。
忠利はこの秘密を本人にすら打ち明けていないと言っていたが、それでもやはり、自分の子ともなれば無意識の内にでも、他とは違う対応をしてしまうものではないだろうか?
だとすれば、そういった点に探りを入れてみる価値はある。
彼らの記憶と自分の記憶を照らし合わせれば信憑性も増すだろうし、自分の記憶だけを頼りにするよりははるかに合理的だ。
「……長男か、長女か、次男か……。いずれかが、儂の子じゃないという訳か」
長男である望が生まれたのは、今から47年前。清山が23の時であり、大学卒業後、企業して忙しい日々の中でできた子供だ。
あの時、朱莉とセックスレスだったか否かについては覚えていない。
しなかったようにも思うし、していたようにも思う。
尤も、こんな考えだからこそ、托卵をされたのかもしれないが……。
長女である香織が生まれたのは、清山が26の時。会社がようやく大きくなっていき、仕事に手ごたえを覚え始めていた頃だ。
あの頃も……朱莉と性交渉を持っていたかと言われると自信がない。
そして、次男である宏平は、清山が32の時に生まれた。会社が軌道に乗り始め、ようやく後進も育ち始め、一息吐けるようになった頃、とでも言おうか。
この頃の記憶もはっきりとはしない。
朱莉とやっていたようにも思うし、してなかったようにも思う。
セックス自体は頻繁にやっていた記憶はあるのだが、いかんせんその相手が、風俗嬢なのか愛人なのか朱莉なのかがはっきりしない。
清山は自分の好色っぷりに苦笑しつつ、やはり自分の記憶はヒントになりえないな、と判断した。
こうなった場合、誰しもが清山の子であり、忠利の子でもあり得る。
だとすれば、やはり直に面談してみて総合的に判断するしかないか……。
「しかし……改めて考えると、確かに朱莉には気の毒なことをさせてしまったのかもしれないのう」
以前、医者に聞いたことがあるが、男の性欲のピークは15歳、女の性欲のピークは20代後半から30代だと言う。
女性は男性と違い、身体が開発されて初めて、セックスに対して能動的になるのだ。
そのピークの頃に、自分は朱莉をほったらかして、仕事に邁進していた。
いや、セックスだけじゃない。
普段の何気ない会話すら交わさず、誕生日も疎かにして、ただひたすら会社のことだけを考え続ける人生を送ってきた。
なのに、そんな儂に朱莉は文句ひとつ言わずに、献身的に尽くしてくれた。
それを当たり前のことだと思い、できた妻だと朱莉を内心褒めて、愛していたが……。
今思い返さば、たしかに朱莉が寂しさを覚えるのも仕方ないことだったのだろう。
「かといって、朱莉に構い続けていれば……洋民はここまでの大会社になることもなかったじゃろうしなぁ……。あちらを立てればこちらが立たず、人生はままならないものじゃ……」
清山は、今は亡き妻へ改めて想いを馳せると、切なそうに俯いた。
◇
一週間後――。
定期健診も無事終わり、退院した清山は、さっそくその足で「洋民」本社へと向かった。
癌が進行し続けているとはいえ、モルヒネを飲んで激しい運動などをしなければ、基本的には一人で生きていける。
ならば、悩むよりは行動すべきだと思い、清山は会社に足を運んだのだ。
JR山手線池袋駅東口より、徒歩10分。
サンシャインシティ横にある、閑静な住宅街の入り口に、株式会社「洋民」本社ビルはあった。
清山が我が物顔で社内に入ると、受付嬢が驚いたように駆け寄って来る。
「しゃ、社長!?」
「こらこら、もう儂は社長じゃない。今の社長は忠利じゃろうが」
「そ、そうでした……すみません。でも、急に来訪されたので、驚いてしまって……」
「どれどれ」
清山は受付嬢の胸を触る。
むにゅんという心地よい感触を得て「確かに鼓動が早いようじゃな」と笑うと、受付嬢は顔を真っ赤にさせた。
……やはり、儂のこの好色さは治らないようじゃな。
可愛い女がいればつい手を出してしまう。
愛している女は朱莉だけだと思いつつも、気付けば本能が肉欲を求めてしまうのだ。
そんな自分に呆れたように苦笑すると、そのままエレベーターに乗った。
最上階に到着すると、専務の部屋まで歩いていくと、ドアを開ける。
そうして久しぶりに、自分の息子の一人である――清山望と対面した。
「久しぶりじゃな望。元気にしておったか?」
「……やっぱり親父か」
望は、ちょうど仕事をしていたようで、デスクの上に山のような書類を積み上げてまま、渋い顔を見せた。
その顔には中年だということを現すように深い皺が刻まれている。
だが、その眼光は鋭く、些細なミスも許さないというような怜悧な目をしていた。
「やっぱりとはどういうことじゃ? 儂が来ることを予期しておったのか?」
「いや。ただこの会社で、私の部屋に入って来るのにノックをしない人は親父くらいしかいないからな」
「なるほどの。それは確かに。してもよかったんじゃが、いきなり訪れた方が驚くかと思っての」
そう言って清山がにやりと笑うと、望はやれやれと溜息を吐いた。
相変わらず冗談が通じない、真面目を絵に描いたような男だ。
清山はそんな息子をつらまなそうに睥睨する。
「それで、急に訪れたってことは、何か用でもあるのか? 俺はこれから会議があるから、できれば5分以内に済ませてほしいんだが」
望はチラリと時計を見ると、早口でそう告げる。
「まぁ、用というほどのことでもないがな。元気でやっているかと思っただけじゃ」
「元気じゃないのは親父の方だろう。入院したと聞いたけど、大丈夫なのか?」
「ああ。問題ない」
「それはよかった。話は終わりか?」
少しもいいと思ってなさそうな、感情の籠ってない声で望は告げる。
「まぁまぁ、少し待て。そう邪険にせずともいいじゃろう」
「引退した親父と違って、こちとら山のような仕事上の案件を抱えているんだ。暇潰しの世間話に構っている暇はないんだよ」
望はイライラした口調で、トントンとテーブルを叩き始めた。
「ならば、仕事に関わる質問を一つしようかの。単刀直入に聞くが、望よ――お前は、この会社の後継者は誰じゃと思う?」
「後継……者?」
そこで初めて、望は書類から目を離して顔を上げた。
大分皺が寄ってきて、頭も薄くなってはきているが、間違いなく自分の血を継いでいると思える顔立ちをしている。
とはいえ、双子である忠利にも似ている以上、托卵の子であるかどうかの比較にはならないのだが。
「うむ。現在、洋民は忠利が社長を務めているが、儂も忠利ももう長くはない身じゃ。とすれば、お前たちの中から後継者を探さねばならない。そこで、お前が思う後継者は誰か聞いてみたくてのう」
「……本気で言っているのか? そんなもの、私以外にいないだろう」
望は一片の曇りもない目でそう断言する。
「なぜじゃ?」
「ウチは血縁企業だ。社長から取締役に至るまで、基本的に経営陣は親族で固めている。ならば、会社を継ぐのは必然的に親父の子供になるだろう」
「まぁ、そうじゃな」
「だが、知っての通り常務の香織は身内に甘い。その甘さが受けて社内では人気を得ているようだが、甘さだけではビジネスはやっていけない。その点、私は洋民の業績を上げることに粉骨砕身し、実際に結果も出している。それは親父も知っていることだろう? ならば、私しか洋民を継げる者はいないだろう」
「しかし、お前は厳しすぎるという意見も社内では出ているようじゃが?」
「そんなもの、敗者の戯言だ。私はきちんと結果を出したものは高く評価し、その分報酬を与え、しかるべき地位に抜擢してきたつもりだ。私が蔑み、厳しく罵倒するのは結果を出してない者にだけ。ビジネスとは究極、そういうものだろう? どれだけ残業して頑張り会社に尽くそうとも、赤字になれば意味がない。逆に、どれだけ遅刻しようとも、どれだけ会社の規定を守らずとも、会社に貢献し、利益を上げた者は正義だ。そういった人材を私は評価する。要は、使える人材か否か。つまるところ、人への評価はそれで決まる。それをモットーとして、私は行動しているだけだ」
「清々しいまでの合理主義じゃな」
「親父がそれを言うのか? 親父だって一代で会社をここまで大きくしたんだ。利益を追求する姿勢が間違っていないことはわかるだろう。それに、ただでさえ今は、増税に加えて不景気で、外食は斜陽産業と言われている。ライバル会社も数えきれないほどあるし、少ないパイを複数の企業で奪い合っているのが現状だ。そんな生き馬の目を抜く飲食業界において、結果を重視するのは当然のことだろう」
「ふむ。そして、そういう意味で会社を発展させられるのは、自分しかいないと?」
「そういうことだ。こう見えても私は親父と忠利叔父さんを尊敬しているつもりだよ。一代でここまで会社を大きくするなんて、まさにビジネスマンの鑑だ。であるからこそ、私は会社を更に発展させたい。親父の後を継ぎ、今まで以上に利益を上げ、洋民グループの更なる発展を目指す。それができるのは私だけだ」
「ふーむ……なるほどのぅ」
清山はガシガシと頭をかく。
視野狭窄というか、短絡的というか、相変わらず物事を全て一つで判断したがる奴だ。
だが、この息子が厄介なのは、その判断が必ずしも間違ってはいないということである。
企業として、利益を追求するのは当然のこと。
そう考えれば、過程は全て無視し、結果だけを重視するその姿勢は間違っているとはいえない。
そして、結果を出した社員は重宝し、結果を出さない社員には辛く当たるというのも、究極の能力主義であり、資本主義の権化ともいえる考え方だろう。
とはいえ、敵を作りやすいというのもまた事実である。
「……なるほどのう。お前の考えはよくわかった」
「それで? 私の意思を聞いてどうしようというんだ?」
「後継者選びの参考に、というところかの」
「参考? 参考も何も、今言った通り、候補は私くらいしかいないだろう。まさか、香織や宏平にでもこの会社を継がせるとでも言うのか?」
「……どうじゃろうな。考え中というところかの」
「相変わらず、読めない人だな……。まぁいい。話はそれで終わりか?」
「いやもう一つある。今度は会社と全く関係のないことなんじゃが……お前、忠利に優しくされたような覚えはあるか?」
「社長に……優しく?」
望は質問の意図がわからないというように首を傾げる。
「別に大したことじゃない。例えば、だが――。子供の頃からの記憶として、香織や宏平、他の親族に比べて、自分が優遇されると感じたことはないかの?」
「いきなりなんだ? そんなことを言われても、特には何も言うことはないぞ。社長とは子供の頃から、そこまで関わりがあった訳ではないし、今も、ほぼ業務上のこと以外は口にしないしな。……だが」
「だが?」
清山が問い返すと、珍しく望は思案するように首を捻った。
「……子供の頃から漠然と思っていたが、どうも社長は、宏平に甘い傾向があったように思う」
「ほう。それはまた何故?」
「何故、と言われても明確な根拠がある訳じゃない。ただの勘だ。幼い頃……社長が家に遊びにきていた時、漠然とだが、俺や香織よりも宏平に構っていた記憶がある。ただ、それだけさ」
「…………」
清山は、望の顔をじっと観察するが、とても嘘を言っているようには見えない。
忠利が、宏平にだけ優しくしていた?
本当なら、とても捨て置けない情報である。
望自身、明確な根拠がある訳ではないと言っているが、逆にそれが清山の中での信憑性を増していた。
幼い子供の勘というのは、時に真実を見極めるモノだ。
だとすれば、宏平が托卵された子なのか?
……いや、早計は禁物だ。
やはり、全員と会った後に改めて考えよう。
「なるほどのう。ありがとう、いろいろと参考になった。それじゃ邪魔したの」
「あっ、おい……」
それだけ言うと、清山は不審そうに眉を潜める望に構うことなく、その場を後にした。
「次は、香織だな」
清山は、早速次とばかりに望とは違うフロアにある、香織の部屋へ赴く。
「あら! お父さんじゃない! 元気にしてた?」
またもやノックもなしに来訪すると、そこでは、香織が朗らかな顔で迎えてくれた。
相変わらず、人を安心させる雰囲気を持つ娘だ。
だからこそ、社内でも好かれているのだろう。
清山もついその笑みに触れて破顔してしまう。
既に壮年に差し掛かろうとしている年齢だが、相変わらず美しい。
ますますもって朱莉に似てきている――が、香織が清山の子供だろうと忠利の子供だろうと、どちらにせよ朱莉の血が入っているのなら、似るのは当然のことだろう。
……やはり外見では判断できないな。
とそんなことを清山が考えていると、香織がきょとんとした顔で質問を投げかけてきた。
「でも、どうしたの? 急に。お父さんが会社に来るなんて珍しいわね」
「……なぁに、ただの暇つぶしじゃよ。引退すると、とたんに暇になるものでな。ボケ防止もかねて、こうして子供たちの仕事ぶりを眺めに来たという訳じゃ」
「あはは。さっすがお父さん。引退してもなお、会社のことを想ってくれてるのね」
香織はにっこりと笑うと、来客用にと、デスクにあるコーヒーメーカーで淹れた珈琲を差し出してくる。
望の対応とは雲泥の差だな、と清山はつい笑ってしまった。
「でも、せっかく来てもらったところ悪いんだけど、すぐにこれから私、出張に出ないといけないの。だから、あまり喋っている時間はないかも」
「出張?」
「そう。ウチも店舗、福岡にもあるでしょ? そこの博多店にて、この前、自殺者が出たみたいなの。どうやら、そこは赤字ばっかりだったせいか、兄さん子飼いのエリアマネージャーが社員につらく当たって、サービス残業を繰り返させてたみたいで……。それに心を痛めて自殺した社員がいたらしいの。被害者遺族は当然怒って裁判をするみたいだし、内情を把握する為にも、一度詳しく現場の話を聞いてみなくちゃと思って、私が出向くことにしたの」
「ずいぶん行動的じゃな。そんなもの、部下や弁護士に一任してもいいんじゃないか?」
「だめよ。結果として、洋民が一人の尊い社員の命を奪ってしまったのよ? これは、私を含めた上層部の責任となるわ。だから、誠意を見せる為にも、常務取締役である私が出向いて解決したいの」
「ふーむ……」
相変わらず、気優しく真面目な娘だ。
この性分もあってか、娘は社内からひたすら慕われている。
会社の利益よりも『人』を大切にし、社員の為に会社があると思い込んでいる。
その考えは、決して間違いではないし、ブラック企業が蔓延る現代においてはむしろ称賛されるべき考え方だ。
だが、会社の利益という点から考えると、中々難しいモノがある。
企業とは――即ち、利益を上げ、社会に貢献することに意義がある。
それはどんな業種でも変わらない。
その利益の追求の枠組みの中で、社員の幸せを考える分は構わないが、その枠を超えてまで社員を想うことは、結果として会社の衰退へと繋がる。
事実、香織は幾度となく赤字を出している社員や、無能と言われている社員もクビにすることはせず、熱意をもってひたすら付き合い続け、赤字は自らの役員報酬を減らすことで何とかしている。
そこまで社員のことを想う様は素晴らしいモノだが、やはり社長という企業全体のことを考える役職には向かないと言わざるを得ない。
「……全く、難しいものじゃな」
「え? 何か言った? お父さん」
「いや、何でもない。時に香織、変なことを聞くが――もし忠利が今後引退した場合、お前はこの会社の次代の社長は、誰がいいと思う?」
清山は早速、香織に望にした時と同じ質問を投げかけてみる。
香織は、うーんと首をひねった。
「次代の社長……か。お父さんや忠利叔父さんが今はいてくれるからいいけど、確かにいつまでもそうとは限らないものね。でも、正直、ウチって血縁企業でしょう? だとすれば、自ずと社長は私か兄さんってことになるんだろうけど……」
「まぁ、年功序列を当てはめるなら望になるのう」
「それだけは止めて!」
香織は今までが嘘のように声を荒げて清山の言を遮った。
「……やはり、望が嫌いなのか?」
「好きか嫌いかでいえば、そうね。私は、兄さんが社長になるのだけは阻止したいと思ってるわ」
「何故?」
「お父さんも知っているでしょう? あの人は、常に利益だけしか考えない。どんな人間でも会社に利益を持ってくるのなら登用し、重要なポストに就かせる。ある意味では究極の実力主義と言えなくもないけれど、私の意見とは相反するわ。兄さんは『人間』を全く見ていない。社員なんて、いつでも替えの利く駒くらいにしか思っていないのよ。そんな人が社長になったら、洋民は変わる。そりゃあ、利益だけは上げる企業になるでしょうけど、ギスギスした空気が蔓延した、今とは全く違う、兄さんの独裁企業が誕生するだけよ」
「それを止める為に、自分が立ち上がると?」
「そうよ。私はこの会社が好きだし、社員のことも全員、家族だと思っているわ。そんな家族を切り捨てるような真似をする兄さんが許せない。社長の座なんて興味はないけれど、兄さんがなるというのなら、私は断固それと戦う」
「……そうか」
またもや予想通りといえば予想通りの答えだ。
清山は内心で苦笑する。
よくもまぁ、こうまで正反対の意見を持つ兄妹が生まれてきたものだと思っていたが、一人が清山の種ではないのなら、ある意味当然なのかもしれない。
尤も、まだこの二人の内どちらかが、と確定した訳ではないが……。
「最後に、香織。お前、忠利のことをどう思う?」
「え? 急にどうしたの? 社長のことをどう、って……?」
「まぁ、いろいろあってな。ちょっとした社内調査のようなものじゃ。今に限ったことじゃなく――子供の頃から、忠利に対する香織の想いを聞いてみたくなってのう」
「あはは。何それ? なんかお父さん、警察の事情聴取みたいよ」
香織が茶目っ気のある視線を投げかけてくるが、流石に托卵している子を調べているという訳にはいけない清山は苦笑を返す。
「まぁ、似たようなものじゃ。故に、できれば真面目に考えて答えてもらえると助かるんじゃがな」
「うーん……。じゃあ、ぶっちゃけちゃおうかな。実は、私の初恋って社長なのよね」
「何っ!?」
「あはは。やっぱ驚く? いやー実は、子供の頃から忠利おじさん、家に来ては、私の勉強を見てくれたり、お菓子くれたりといろいろ優しくしてくれたからねー……。気付けば好きになっちゃって」
「そ、それで? まさか告白したのか?」
「お父さん、いくらなんでもがっつき過ぎよ。まだ物心ついてないくらいの小学生の頃に告白なんてできるはずないでしょ。淡い思い出として露に消えたわよ。それに……」
香織は当時を想い起こすかのように、遠い目をして窓の外の景色を眺めた。
「……お母さんに、怒られたのよね」
「朱莉に?」
「そう。一度、お母さんに相談したことがあるの。『忠利叔父ちゃんのこと、好きになっちゃった』ってね。そしたらお母さん、怒髪天を衝くんじゃないかってくらい怒って、『やめなさい! あの人のことを好きになるのは。そんなこと、二度と言わないで!』って言われたから……。まぁ、近親で近づくことをよしとしなかったんでしょうね。そのこともあって、なんだか怖くなって冷めていったの」
「……! それは本当か? 本当に朱莉が怒ったのか?」
「そうよ。お母さんって、いつもニコニコしてて、滅多なことがない限り怒らないでしょ? だから、私もよく覚えているの。なんであんなにお母さんは怒ったんだろ、って。まぁ、今となってはもう、わからないことだけれどね……」
香織は寂しそうにそう呟くと、時計を見てハッとしたように荷物を纏め出した。
「あっ! 父さん、ごめん、そろそろ時間! じゃあ、私行ってくるから!」
「あ、ああ。いってらっしゃい」
清山は何とかそれだけ答えると、香織を見送る。
香織は忠利に優しくされており、好きになっていただと?
そして、そのことを朱莉に言うと、朱莉は烈火の如く怒った……。
これは、何を意味するのか。
仮に香織が忠利の娘だとすると、朱莉は近親相姦を危惧して怒ったということだろうか?
いや、だが、ただ単に自分と浮気した男に娘が惚れることが許せなくて怒ったということも考えられる。
先入観を抱かない為にも、ヒントの一つくらいに捉えていたほうがいいだろう。
「まったく……確かに、推理小説に出てくる探偵になった気分じゃのう」
清山はそう呟いて溜息を吐くと、その場を後にした。
◇
「あははははっ! それで、最後に俺の下へ来たってワケだ」
清山の次男にして三人の息子の最後の一人――清山宏平は、先ほどまでの対談の詳細を聞くと、お腹を抱えて爆笑した。
清山はそれを見て、こいつだけは変わらないな、と思う。
3人の子供たちの中で、唯一の異端。
既に30半ばにもなっているのに定職に就かず、清山家の莫大な資産を使って遊び歩いているニート生活を送っている。
風俗やキャバクラなども大好きで、そこに通っては金を豪遊する為、いいカモだと思われていると専らの評判だった。
だが、ある意味では最も人間らしい、本能に忠実な生き方だ。
清山は、目の前に座る我が息子をまじまじ見つめる。
ストレスとは無縁の生き方をしているせいか、宏平は実に若々しい容姿をしていた。
小麦色に焼けた肌は健康そのものといった感じだし、たくましい二の腕は爽やかなスポーツマンを連想させる。
東京都麻布に豪勢な一軒家を構え、ただひたすらに遊び歩くその人生は、それはそれは楽しいものだろう。
「で、久しぶりに会ってみれば、その肌はどうしたんじゃ?」
「最近、サーフィンにハマっててね。とはいっても日本じゃあまりいい波が来ないから、ちょっくらハワイまでいって2ヵ月ほど過ごしてたら、こうなってたんだ」
宏平は陰りのない笑みを浮かべる。
「それでアロハシャツを着ているのか。まったく、お前だけは本当に変わらないのう」
清山は呆れ半分、皮肉半分の口調で笑う。
「まあね。好き放題やって生きてるからさ。親父にはほんと感謝してるよ。こんな放蕩息子を叱りもせず、養ってくれてるんだから」
「……まぁの」
清山は、末っ子ということもあってか、宏平に関しては何も手を打たず、甘やかせていた。
その理由の一端として、もっとも朱莉に愛されていたということがあるだろう。
朱莉は、子供たちの間に愛の差別をつけるような女ではなかったが――それでもやはり、長年付き合って来れば、誰に甘く、誰に厳しいのかなどは判別がつく。
その最たるものが宏平であり、宏平が職に就かずとも、毎日のように遊び歩こうとも、朱莉は何も叱らずに宏平を見守り続けていた。
それが清山にもうつったのだろう、清山も気付けば、傍若無人で思うがままに振る舞う宏平を面白い奴だと思い、放置していたのだ。
尤も、望や香織はそれが気に食わないようで、幾度となく小言を言われたものだが――。
そして、この事象は今となっては重要な意味を持つことにもなる。
朱莉は何故、宏平にここまで甘かったのか?
最初は末っ子故の現象だと思っていたが、俺の子ではなかったから、という理由も考えられるからだ。
清山は改めて居住まいを正すと、宏平と向き直った。
「で、親父は俺にも、誰が社長に向いているかを聞きに来たってことなのかい?」
「まぁ、そうなるのう」
「でもさ、いきなりそんなことを言うってことは、ひょっとして親父、もう長くはないの?」
「……どうしてそう思う?」
「会社の後継者なんて、死期が近づいてこない限り考えないんじゃないかと思ってさ。ただでさえ今は、親父はもう隠居して忠利さんが社長をやってる状況でしょ? そんな中、親父が出しゃばって来るとなれば、それぐらいしか理由が思い当たらないからね」
……いい勘をしている。
清山は苦笑すると、無言で頷いた。
「ああ。その通り。お前だから言うがの……実は儂は、つい最近、末期の癌だと医者に宣告されたんじゃ」
「えっ、マジ!?」
「ああ。それで、早急に後継者を決めなくてはならなくなり――さっきのような質問をしてまわっているという訳じゃ」
尤も、理由はそれだけじゃないんだがな――。
流石に実の息子に托卵の件を言うのは憚られて、清山は口をつぐむ。
「……そっか。親父、死ぬのか……」
宏平は、どこか寂しそうな、辛そうな表情をして俯いた。
「お前が今、ショックを受けているのは、儂が死ぬという事実に対してか? それとも、後ろ盾を失うショックからか? 儂が死ねば、もうお前は好き勝手できなくなる可能性があるからのう」
「……どっちも、かな」
「正直な奴め」
清山は呵々(かか)として笑う。
こういう、宏平の飾らない性格が清山は気に入っていた。
阿諛追従をせず、思うがままに振る舞う。
だからこそ敵を作りやすく、望や香織とは折り合いが悪いが、正直に物事を言ってくれるというのは、清山にとって非常にありがたいことでもあった。
この年になると、誰も彼もが清山を否定しなくなり、誰を信用していいかわからなくなることも多くなる。
イエスマンは自分が正しい時には便利だが、諌めてくれる存在としては頼りない。
そう考えれば、立場に囚われず本心のみを放す宏平は、正に清山にはうってつけの人間だった。
「……で、親父は俺たち三人の中から後継者を選ぶ為に面談して回ってるのか」
「まぁ、そういうことになるの。どうした? 意外そうな表情をして」
「いや、俺は見ての通り、ただ遊びまくっている馬鹿息子じゃん? てっきり親父の頭からは、後継者候補から除外されてるものと思ってたからさ」
「まぁ、最初は確かに外そうとも思ったがのう。だが頭ごなしに否定するものでもないと思い、こうして一度面会してみようと思ったわけじゃ」
「ふーん……とはいえ、まぁ、ちょうどいいタイミングではあったのかな」
「ちょうどいい?」
「こっちの話さ。まぁとりあえず、社長の件に関しては――はっきり言うけど、俺がなるしかないかと思っている」
「ほう。どうしてそう思う?」
「兄さんも姉さんも、社長としては考え方が不適格だからだ。親父もそう思ってるんじゃないのか?」
「…………」
思わず清山は沈黙してしまう。
だが、それは即ち宏平の言っていることを肯定しているも同様だった。
「兄さんは実力主義に固執するあまり、冷徹になり過ぎる。この場合、企業はある程度繁栄するだろうけれど、社員が犠牲になる諸刃の剣だ。それに、赤字となれば、兄さんは真っ先に人件費を削るだろうし、いずれマスコミ等からブラック企業だと叩かれて、洋民から人心が離れていくことになりかねない」
「次に姉さんだが、姉さんは逆に甘すぎる。そこが姉さんのいい所でもあるんだろうけど、経営者としては失格だ。姉さんが社長になれば、終身雇用、リストラは絶対にせず、福利厚生を手厚くするような方針をとるだろう。社員にとってはありがたい会社になるだろうけれど、おそらく利益は徐々になくなっていくことは免れない。無能な社員ばかりが集まれば、最悪会社が潰れかねないことになる」
「……ふむ。だからこそ、お前が継ぐと? しかしそれにしては、随分と自分を買っているのう。さっき遊んでばかりの放蕩息子と自身を称したのは他ならぬお前じゃろう?」
「まぁね。俺も正直、社長なんて面倒な役職はやりたくなかったし、これまでどうり遊び続けていたと思い続けていた。でも、それができない状況になったんだ。さっき、ちょうどよかったと言ったのは、このことさ」
「何かあったのか?」
清山が訝しむように眉を寄せると、宏平は照れたように顔を破顔させた。
「ああ。俺、結婚することにしたんだ」
「何!? 初耳だぞ」
「まだ誰にも言ってないからね。でも、もうこれは確定事項だ。彼女のお腹の中にはもう俺の子もいる」
「……授かり婚というやつか?」
「まぁ、今風の言い方をすればそういうことになるんだろうけどね。でも、俺たちは決して嫌々結婚する訳じゃない。お互いのことを想い、尊敬し、愛し合って一緒に暮らしていけると思っているから、結婚することにしたんだ。子供ができたのは、あくまで偶然に過ぎないさ」
「……そこまでいうとは、よほどのことのようじゃな」
「まあね。俺は、彼女を愛している。まるで母さんのように清らかで、美しく、聡明でお淑やかなアイツを」
「……!」
清山は思わず目を見開いてしまう。
宏平は、甘やかされていたせいもあってか、人一倍朱莉を好いていた。
それこそ、マザコンと言われるほどに。
その朱莉に似ていると言われれば、清山としても反応せざるを得なかった。
「……一体、そいつはどういう女性じゃ?」
「俺とは、六本木にあるキャバクラで知り合った。浴びる程酒を飲んで酔いつぶれた俺を、彼女は介抱してくれたんだ。そこから知り合い、仲を深めていくようになって、俺たちは互いのことを好きになった。……いや、親父の言いたいことはわかるよ」
清山が口を開くのを遮るようにして、宏平は手を出してそれを制す。
「俺がその女に騙されている、清山家の資産を狙った逆玉狙いの女じゃないかと思ってるんだろう? だが、違う。俺も最初はそう思い、一発演技をしてみたんだ。度重なる遊びがたたって、親から勘当された、一文無しになってしまい、もうどうしようもないってね。今までの女は、こう言えば大抵俺の下から離れていくものだった。だが、彼女は違った。俺に付き添って、支え続けてくれると宣言してくれたんだ」
「じゃから、その女と結婚しようと?」
「ああ。名前は、高坂愛理という。この子と一緒になり、幸せな家庭を築きたい。今までちゃらんぽらんに遊んできた俺だけど、改めてそう思った。だからこそ、堅気の仕事に就こうと、こうして親父に提案している訳さ」
「高坂、愛理……?」
そのまま宏平はポケットからスマートフォンを取り出すと、操作をして画面をこちらに見せてくる。
「!!」
そこには、可愛らしい顔をして微笑む――亡き朱莉に似た、清楚な美人が映っていた。
「……なるほどのう」
清山は、一瞬にして全ての事情を悟った。
宏平は、この女を慈しむが故に、今までの遊び人としての自分を捨て、真面目になろうとしたのだろう。
「まったく、なんの因果か……。とはいえ、いきなり社長とは言い過ぎではないか? 意見は一理あるものじゃったが、何の経験もないお前がいきなり社長になっても、社員はついていかないじゃろう」
「まぁ、たしかにね。でも、いきなりだからこそ見えることもある。まずは親父、これを見てくれないか」
宏平は立ち上がると、傍にある本棚から分厚いファイルのようなものを取り出した。
「……これは?」
「俺が考えた、洋民の現状の問題点、並びにこれからやってみたい企画・社内人事・構想を纏めたものだ。いきなり全部読むのは量的に難しいと思うから、ざっと読んでみてよ」
「……!!」
そこには、中々面白い社内改革案が書かれていた。
香織のように社員を大切にしつつも、望のように実力主義の様相も呈している。
社員の残業の廃止。居酒屋ごとのコンセプトの提案。セントラルキッチンではなく、手作りによる食品クオリティの向上。老若男女あらゆる層の顧客の取り込み宣伝。
素人ながら、ここまで宏平が物事を考えられることに清山は衝撃を受けた。
また、居酒屋に関する企画も、とにかくユニークなものが多い。
どの提案も一長一短はあるものの、確かによく業界を分析し、考慮に値するモノばかりではある。
「……これ、お前一人で考えたのか?」
「いや。そんなわけないさ。いろんな居酒屋や飲食経営者に話を聞きに行って、自分なりに今の市場を纏めた結果、こうやって纏めてみたんだ。何せ、俺はプータローで、時間とお金だけは大量にあったからね。俺のこの企画や人事構造は、自分で言うのもなんだが、結構よくできているとは思っている。だが、親父の言う通り、俺には経験が足りない。信頼するに足る根拠がないし、今まで遊んできたんだから何らかの実績もない。だから、当然失敗することもあるかもしれない。だが、会社をより大きくするためには、失敗を恐れてはいけない。例えばこれ、面白いと思わない? 居酒屋相席店。店のお会計は全て男が負担する代わりに、男と女は相席する――つまり、合コンのような形態をとる店のことだ。これ、絶対に若者に受けると思うんだよね。こういう、ユニークなことをどんどん試していきたい。そして、洋民を発展させる傍ら、愛理と共に幸せな家庭を築いて、人生を謳歌したい。それを望むからこそ、俺は洋民の社長に就きたい。決して私利私欲からの欲求じゃないさ」
「…………」
「親父は今の業界事情をどう見てる? 今のままじゃ、飲食業界、特に居酒屋は不景気のままだ。個人経営ならば料理に付加価値をつけることもできるけど、ウチみたいな大手チェーンだと、料理は誰が作っても同じ美味しさにできるものが求められるから、サービスや料理で他店と差別化を図ることはできない。だとすれば、やはりこのような革新的なことをやっていき、会社を発展させるしかない。俺はそう思っている」
「……いや、驚いたな。まさかお前がここまでまとも――というか、洋民のことを想うようになってくれるとは。草葉の陰で朱莉も喜んでいると思うぞ」
「はは。まぁ、今更って話だけどね。まぁ、こういう答えで満足かい?」
「ああ。全く、我が子3人はそれぞれ全員が、自分を社長にしたいと思っていることは痛いほど伝わってきた」
「まぁ、我が強いのは親父譲りとでも思ってくれよ。で、親父の結論はどうなんだい?」
「……お前の提案が一考の余地があることは認めよう。とはいえ、やはり後継者決めは一大事じゃから、おいそれとは決められん。まぁ――早ければ来週中にでも出すつもりじゃ」
「へぇ。じゃあ、今日の面談はこれからの洋民の未来を分けるものになるね」
「そういうことじゃな。しかし、よもやあの宏平がのう……。変わるもんじゃ」
「愛理がいなければ、今も俺はちゃらんぽらんなままだったかもしれないけどね。結婚した以上は、堅気の仕事に就きたいと思ってしまったからさ」
「ふん……それと、最後にもう一つ聞きたいことがあるんじゃが、いいかの?」
「なんだい?」
「お前は現社長である忠利のことをどう思っておる? これは何も今に限ったことじゃなく、幼少の頃から付き合ってきて、家族としてどう思うかを聞かせてほしいんじゃが」
「……? なんだか随分漠然とした問いかけだね。それも社長を決めるのに使うのかい?」
「まぁ、参考にはさせてもらうつもりじゃ」
清山がそう答える途端、宏平の目が光る。
「じゃあ、嘘はつけないな。正直に言えば――俺は、叔父さんのことをよく知らないんだよね」
「よく知らない?」
「だってあんまり家に来ることがなかったじゃん? あったとしても、そそくさとしてすぐ帰って行ってたし。なんだか、母さんと仲が悪いというか、ギクシャクしてそうだったよね」
「……そう思うか?」
「まあね。あの朗らかで誰にでも優しい母さんが、明らかに避けていたし。一回、あまりにおかしく思って『お母さんは忠利叔父ちゃんのことが嫌いなの?』って聞いたことがあったんだけど、母さんはそれに迷うことなく頷いたからね」
「……初耳じゃな」
「流石に親父の耳に入れる話じゃないと思ったからね。それに、当時の俺もガキだったし、大人には大人の事情があるってことで受け入れてた面はあるし。母さんも何の事情もなしに人を嫌う人じゃないし、なんか忠利さんとの間であったんじゃないの?」
「そう、かもな……」
清山は冷や汗をかきつつそう言うと、お開きとばかりに立ち上がった。
「いろいろありがとう。参考になった」
「いやいや、こっちこそ。まぁ、早いとこ結論を出せることを祈ってるよ。あ、あと親父、もし俺を後継者に指名せずとも、俺を洋民に入れる話は検討しといてくんない? やっぱ手に職は持っときたいからさ。平社員でもいいから、頼むよ」
宏平は両手を合わせてウィンクをして見せる。
「わかったわかった。まぁ、せっかくお前がやる気になっているところに水を差すつもりはないし、安心しておけ。万事儂に任せろ」
清山は笑いながらそう答えると、宏平の家を後にした。
◇
「ふぅ……」
三人との子供との面談を終えた後、清山は自宅にて一息吐いていた。
その脳裏には、先ほどした会話がありありと思い出されている。
それぞれ自分が社長に就きたいと言い、托卵の事実に関しては謎のまま。
とはいえ、宏平がやる気を出したことに関しては喜ぶべきことかもしれないが――。
さらに憂慮せねばならぬ問題まである。
「前途多難じゃな、やれやれ……」
誰を社長にするべきか。
そして、誰が托卵している相手なのか。
その二つの問題がこんがらがって清山の頭を埋め尽くしている。
「ここはいったん、分けて考えるべきじゃな」
二つの事柄を一遍に考えても解決はしない。
ならば、先入観を除き、一つずつ考える方が得策だろう。
まずは、誰が社長に向いているか否か。
これに関しては――面談した限りで言うと、宏平がやはり一番だろう。
望ほど実力主義に偏重している訳でもなく、香織ほど生易しい訳でもない。
どちらにもよらず、俯瞰で自分の立ち位置を決め、判断することができる――その点からすれば、奴ほど社長に向いている者はいないだろう。
更に言えば、結婚の影響もあり、真面目になろうと努力している姿も好感触だ。
ただし、ネックとなるのは経験のなさ――。
いくら息子とはいえ、30過ぎになるまで遊んでいた息子を社長に据える人事は社内外からも大きく叩かれるだろうし、株価にも影響するだろう。
望や香織の派閥からも批判があるだろうし、儂自身への批判は免れない。
それを緩和する為にも、また、宏平を支える意味でも、望と香織を副社長のポジションに置くことで融和を図ろうとしたはずだ。
次に、托卵の事実について――。
面談し、改めて考えると、やはり一番怪しいのも宏平だろう。
何故なら、やはりいくら考えても、朱莉がそこまで長い間自分を騙せていたとは思えないからだ。
仮に香織や望が忠利の子の場合、朱莉はそれを産んだ後、何食わぬ顔で清山との子も産んだことになる。
流石にそれはあり得ない――というか、清山が信じたくなかった。
感情論だということはわかっている。
だが、それでも、まだ最後の息子である宏平が浮気の末にできた子なら、納得ができようともいうものだった。
それに、香織は朱莉に忠利が好きと言えば怒られたといい、望は宏平が怪しいと言い、宏平自身も朱莉と忠利の不仲を噂していた。
これだけ見れば、やはり宏平が忠利の息子という結論が、一番納得いくように思える。
しかし――。
こんな簡単な答えを忠利が用意するだろうか?
こんなことは、少し息子たちと話し合えばたちまちの内に判明してしまう。
なのに、あいつは子供たちと話すことを禁じなかった。
だとすれば、俺がこう思うことも奴の計算の内、実は宏平は忠利の子じゃなく、奴が仕掛けた罠、ひっかけだということも考えられる。
「……堂々巡りじゃな。まぁしかし、どちらにしても……儂は奴の知らないある事象を知っておる。これも何かの運命なのかものう」
つい、清山はそう呟いてしまう。
順当に考えるのならば、望を後継者として選び、宏平を洋民に入社させ、毛利元就よろしく三人の子に仲良く会社を治めることを懇々と説き続ければいい。
それが身を結ぶかは賭けだが、少なくても現状、これが無難な選択肢であることは事実だ。
だが――。
それでも清山は、宏平を社長にしたいという想いが胸にあった。
「…………」
清山は、先ほど渡された、宏平が持ってきたレポートを見つめる。
飲食業界、ひいては洋民の今後の業績予想、並びに業界に対する不安やその打破の方法などを事細かく書いてあるコレは、清山をも唸らせるものだった。
全くの素人ながら、ここまでのモノを仕上げてきた宏平。
愛する女の為に変わろうともがいている次男。
博打となるが――奴を社長に据えた方が、洋民は繁栄するのではないか?
そのような考えが、頭から離れないのだ。
先ほど言った、望を頭に据えるという案は、いわば安全策だ。
リスクはそこまでない代わりに、大がかりな成果も見込めない。
望は会社を更に発展させると息巻いているが、大言壮語というものだろう。
おそらく現状維持に終始し、利益のみを追求するその姿勢から、いつか足元をすくわれるのがオチだ、と清山は見ていた。
無論、その為に香織と宏平を教育して傍に置いていれば、洋民は盤石なものになるという打開策も用意してある。
だが、それでも、不思議と――。
宏平が社長となり、かつての自分がそうだったようにワンマン経営で社を回したほうが、洋民は更なる発展を遂げるのではないかという気もするのだ。
ふと清山は、戦国時代の武将、織田信秀のことを思い出していた。
織田信秀は、戦国時代の三英傑と謳われて、今なお人気を誇る武将、織田信長の父親である。
幼少の頃、織田信長は「尾張の大うつけ」と言われる程に素行不良で知られていた。
市井の悪ガキ共とつるみ、享楽に耽る様は、いくら嫡男とはいえ当主には不適格だと判断したのだろう。
その為、信秀は優秀な弟、織田信行に家督を譲ろうとした。
だが、晩年になって、信長の素行、その大器を目の当たりにし、結局長男の信長に家督を譲ることを決意したのだという。
その際、織田家に、「信行は優秀であり、誰が見ても織田家を継ぐのに相応しい。だが、優秀であるが故に危険を冒さない。おそらく現状維持に終始し、織田家の更なる発展は望めないであろう。逆に信長の場合は、危なっかしく、ひたすらリスクを孕んだ生き方をする。奴を当主にすれば、織田家は大発展を遂げるか、没落するかの二択であろう。しかし、それこそが戦国の醍醐味ともいえる。俺は信長に織田家を賭けてみたい。その結果没落することになろうとも、リスクを避けては生き続けていられない」というようなことを言い、後継者を信長にすることに決めたのだという。
尤も、これは江戸期の資料なので、信憑性に欠け、本当に信秀がこのような発言をしたのかは疑わしい。
だが、それでも今の自分と通じるモノがある清山としては、他人事ではなかった。
つまるところ、そういうことなのだ。
気持ちとしては望がいいだとわかっていても、それは無難な道なのだ。
経営者は、どこかでリスクを冒さなくてはいけない。
リスクなくしてリターンなし。
リスクをとらない安全策こそ、逆に尤もリスクの高い生き方であるともいえるのだ。
そういう点から考えると、ここはあえて、面談した結果、一番会社を任せるに足る宏平に賭けてみるというのも手段ではある。
「じゃが……やはり付きまとうのは托卵の問題か」
仮に宏平が自分の息子じゃなかった場合――結果的にこの賭けに清山が勝ち、洋民が繁栄したとしても、忠利との勝負は清山の負けになる。
それは、清山としては許せることではなかった。
無論、托卵されたという事実も気に食わないが、それよりも忠利に負けたということの方が許せない。
せめてもの意趣返しとして、奴に勝たねば腹の虫が収まらない。
しかし、この判断は二律背反する。
既に清山は宏平を忠利の子だと睨んでいる。
ここで宏平に会社を継がせれば、自分の意にそぐうものにはなるが、忠利との勝負には負ける。
かといって、香織や望に会社を継がせることは、自分の意にそぐわないものとなる。
「……とはいえ……儂には切り札がある。とすれば、まずやることと言えばその切り札を切ることくらいか」
清山はふうっと息を噴き出すと、携帯電話を取り出して、ある人物を病室に呼び出した。
そして、そこでの会話により全ての事情を察し、一つの答えを出した。
誰を後継者に据えるのか。
そして、忠利とのゲームに対する、完璧なる勝利の方法。
この二つとも納得のいく、最良の選択となる答えを。
◇
それから一週間後――。
やるべき確認を全て終えた清山は、忠利、三人の子供たち、そして立会人として弁護士を含む5人を自らの家へ呼び出していた。
全員、それぞれ違う面持ちで互いを見つめ合っている。
望は、自分が選ばれると信じて疑わない傲岸不遜な顔を。
香織は望むが選ばれるのではないかという不安そうな顔を。
宏平は誰が選ばれようとも自分の考えは変わらないという気然とした顔を。
そして、忠利はゲームの勝ち負けがどうなるのかということに気をもんだような、焦りと不安がないまぜになった顔を。
その表情のまま、忠利が開口一番口を開いた。
「兄さん、ここに家族を集めたということは、もしや……」
「ああ、そうじゃ。儂は会社を継ぐべき後継者を決めた」
「!!」
それを聞いた途端。その場にいた全員は驚愕の表情を浮かべた。
「やはりそうか。まぁ、変な質問をしてきた時から薄々そうだとは感じていたがな。だが、このタイミングで後継者を決めるということは、何かあったのか?」
「そ、そうよ。お父さん、いくらなんでも早すぎるんじゃない? もっとゆっくり考えたって……」
事情を知らない望と香織が口早にそう告げる。
清山はそれを手で制すと、コホンと咳払いをした。
「お前らには知らせてなかったがのう……実は儂は癌なんじゃ。余命3ヶ月――いや、もう2ヵ月ほどしかない。故に、儂の死後に内乱が起きない為にも、今の内にはっきりと後継者を決めることにしたという訳じゃ」
「ええっ!? そんな……!? 嘘、お父さんが癌だなんて……」
香織は目に涙を浮かべて口元を覆う。
「……ふん。まぁ、そんなところだろうと思ったよ」
望は表情を変えないまま目を細めてやれやれと溜息を吐く。
「兄さん、お父さんが死ぬっていうのにその態度は何なの!?」
「お前こそ、わざとらしく涙を流して親父の同情でも乞おうとしているのか?」
「わざとなんかじゃない! なんで兄さんはそう、人の揚げ足をとることしかできないの? 人の気持ちがわからないから、あんな冷徹なことができるのよ!」
「冷徹? 私は極めて合理的に物事を判断しているだけだ。お前こそ使えない社員が一人自殺したくらいでピーチクバーチク騒ぎやがって、私が後始末にどれだけ苦労しているのかわかっているのか?」
「自殺したくらいですって? 兄さんは社員の命を何だと――」
「まーまー、二人ともストップ!」
一触即発の気配を感じたのか、宏平がタイミングよく二人の間に割り込んだ。
「兄さんも姉さんも言いたいことがいろいろあるだろうけど、まずは親父の話を聞こうぜ。喧嘩はその後からでも遅くないでしょ」
「……ふん」
「……まぁ、そうね」
二人もそれが尤もだと思ったのか、矛を収める。
宏平はこちらへウィンクをすると、続きを促した。
「それじゃ、続きを話そうかの。こうして弁護士を呼んだということは、正式に儂はそいつを後継者として、遺言書にも指定する気じゃ。この結論は、基本的にもう死ぬまで覆ることがないと思ってくれていい。その後、選ばれなかった者に関しての行動はお前らに委ねる。できれば子供たち三人で、残った二人が社長となった者を支えてほしいとは思うが、それが嫌なら会社を出奔しても構わない。無論、こちらとしては一切の援助をしないが、どう行動するかはお前たちの自由じゃ」
「……随分と放任主義だな」
望が訝し気な口調で言う。
「まぁ、儂も最初はお前たちに仲良くするように説こうとしたが――我が子ながら、お前たちも中々頑固じゃからな。今さら仲直りしろ、家族一丸となって協力しろと言ったところで無理なことじゃろう?」
「それはそうね。少なくても私は、兄さんが社長になるようだった迷わず会社を出るわ」
「こちらのセリフだ。お前の下に付くなど私のプライドが許さない」
二人は鋭い視線を交差させながら毒を吐く。
「……ふぅ。まぁ、そういうことじゃ。忠利も文句はないな?」
「……ああ。兄さんが決めたということなら、僕も従う。その場合、僕の立ち位置はどうなるんだい?」
「忠利は特別顧問の取締役として、社長が独り立ちできるまでサポートしていく役割をお願いしたい。まぁ、とは言ってもお前も俺と同じく高齢じゃ。無理だと思ったらすぐに後進に道を譲ってくれても構わないがの」
「いや……できる限りはやらせてもらうよ。僕としても、心血を注いだ会社が傾く姿は見たくないしね」
「そうか」
忠利はまだ何か言いたそうに口を開いたが、流石に皆の前で大っぴらに托卵のことは言えないと思ったのだろう、すぐに口を閉ざした。
「では、発表する。まずは遺産の件じゃが……儂の遺産はいろいろとあるが、それらを全て現金化して考えるものとする。これは、一割を親族たちに公平に分ける。三割を我が弟、忠利に。残る六割を、お前たち子供たちが均等に受け取るものとする」
「つまり、実質の取り分は二割か」
「そうなるな。とはいえ、儂の資産は自分でも把握しきれない程ある。二割でも50億円近くにはなるだろう。不服か?」
「いや――文句はない」
「香織は?」
「私もそれでいいわ。順当だと思う」
「俺も構わない。といか、プーの俺は貰えるだけありがたいしね」
「では、笹山くん。これを文字に起こしてくれ」
清山は傍に控える笹山明弁護士を呼ぶと、それを書面にして印鑑、並びに署名を行う。
「こちらでよろしいでしょうか?」
「うむ。では、次に後継者だが――」
清山がそう言った途端、場の全員が息を飲むのがわかった。
全員が緊張の面持ちで自分を見つめている。
中でも忠利は、ゲームの勝敗に関わることだからか、目に見えて身体を強張らせていた。
――悪いな、忠利。
清山は心の中でそれだけ呟くと、言葉を発する。
「宏平にする。儂の死後、『洋民』を継ぐのは宏平、お前じゃ」
「俺……?」
宏平は自分を指差しながら言葉を震わせる。
「馬鹿な……!?」
その場にいた誰もが驚愕の表情を浮かべた。
確かに、香織や望からすれば理解できない指名だろう。
普通に考えれば、会社経験もない、遊び人である息子を社長に据えるなど、愚の骨頂としか思えないからだ。
「ふざけるな! 親父、狂ったのか!?」
案の定、望がいきり立って拳を握りしめた。
「こんな、まともに働いたことのない青二才が社長だと? 本気で務まるとでも思ってるのか? このままでは、洋民は10年も経たない内に潰れるぞ!?」
「お父さん。兄さんに同意するのは癪だけど……正直、宏平に継がせるのは私もどうかと思う。社長業はおろか、宏平はまともに働いたことすらないでしょ? そんな人事、いくらお父さんが決めたとしても、社員の人生を預かる身としては納得したくない」
香織と望は口ぐちに考え直せという言葉を紡ぐ。
清山はそれを手で抑えると、宏平からもらったレポートを二人に渡した。
「儂も最初はそう思っていたがな、宏平は近々、結婚して身を固め、それを機に真面目に働こうと決意したらしいのじゃ。その手始めに、飲食業界の未来、並びに洋民の業務改革案や斬新な企画書などをこれだけ提出してきた」
「はっ。それに心動かされたと? 親父らしからぬ甘さだな。今まで何も成したことのない奴が一念発起したところでたかが知れている! あえなく社会の壁にぶち当たるのがオチだ。こんなレポートだって、時間さえあればいくらでも書ける! いや、そもそも自分で書いたかのすら疑わしい!」
「辛辣だな、兄さん。まぁ、今までの俺を見ていれば仕方ないけれど」
宏平は頭をかきながらこちらに目線をよこしてくる。
清山は、厳かな表情で頷いた。
「香織、望……。お前らの言いたいことは充分わかるし、儂自身、そのリスクは嫌というほどわかっている。だが、それでも儂は宏平に賭けようと思ったんじゃ。理屈じゃなく、勘で、とでも言うのかのう……儂の第六感が、洋民は宏平に継がせたいと訴えておる。それを、儂は信じてみることにした。これはもう、揺らぐことのない決定事項じゃ。その結果、洋民が傾き、潰れることになってもそれはそれで構わん。その時はその時だったと諦めるだけじゃ」
「そんな! お父さん、そんな軽々しく会社の後継者を決めていいと思ってるの? 残された社員たちはどうするの?」
「香織、お前は嚢中之錐という言葉を知っているか? 中国の故事で、優れた人材は凡人の中に混じっていても、自然とその才能が目立ってくるということを指す言葉じゃ。洋民においてもこれは然り。有能な人材ならば、宏平に経営センスがないと判断した場合、すぐに会社を見限って出ていくだろう。もしくは、会社を変えようと努力してくれるだろう。ならば、後は流れに身を任せればいいだけじゃ。その結果、宏平が社長を解任されるのならば、その結果は甘んじて受けよう。逆に、社員に認められる程宏平が成果を残せば、それもまた一興じゃ。それすらしない、ただ流されるままの社員ならば、儂は守る価値はないと思っている。会社が倒産して路頭に迷おうとも、自業自得じゃ」
「そんなっ……」
「それに、そうならない為に、香織、お前が宏平をサポートすればいいじゃろう?」
「それは……確かにそう、だけれど……」
「まぁ、そういうことじゃ。お前たちには悪いがもう儂はこの結論を変える気はない。後継者は宏平じゃ。この結果を受け入れず会社を去るもよし、残って儂の願い通り宏平をサポートするもよし。自由にしてくれ」
「……親父、本気なんだな?」
「ああ。不服か? 望」
「……当然だろう。だが、あんたの性格は充分知っている。そのあんたがそこまで言うということは、この先俺たちが何を言おうとも意見を翻すことはないだろう。ならば、説得するだけ無駄というものだ」
「さすが、儂の息子じゃ。よくわかっておる」
「だが、やはり俺はこの結果を受け入れられない」
「ほう。ならばどうする?」
「独立する。洋民を辞め、私の腹心の部下を連れて、新しい飲食会社を創業する。まさか、止めはしないだろうな?」
望は敵愾心をむき出しにして笑う。
清山も素直に頷いた。
「野心丸出しのお前なら、そういう選択をするだろうとも思っておった。止めはしない。好きにするがいい」
「ああ。好きにさせてもらう。こうなった以上残念だが――親父、あんたが作った洋民は、俺がこの手で潰し、引導を渡してやるよ」
「ふん、逆に宏平に叩き潰されなければよいがな」
「そんなことはありえないさ」
それだけいうと、望はその場にもう用がないとでもいうように去って行った。
「――相変わらず、即断即決な奴じゃ。さて、香織、お前はどうする?」
「……私は……」
香織はしばらく悩んだ末に顔を上げた。
「お父さんが宏平に賭けてみるというなら……私もその可能性に賭けてみようと思う。とはいえ、サポートはさせてもらうけれど、宏平が社長に不適格と判断したら、いつでも私も反旗を翻すわよ」
「ああ。それでいい」
清山はにやりと笑うと、宏平に向き直る。
「まぁ、そういう訳じゃ。宏平、この会社の行く末を頼んだぞ」
「……親父、自分で言っといてなんだけど、本当に俺でいいのか?」
「なんだ、自信がないのか? 前は儂にあれだけ自信満々に事業計画を話してみせたくせに」
「そんなことはないさ。今も、やる気で満ちているよ。だが、未だ信じられなくて……」
宏平は夢でも見ているかのように頬をつねる。
「まぁ、お前が今までのちゃらんぽらんな生活を送っているようだったなら、儂も後継者には指名しなかっただろうがの。変わろうとしているお前の意思に賭けた、とでも言おうか。それに、あのレポートの目の付け所は中々悪くなかったし……是非、奥さんと幸せにやるといい。そして、願わくば会社をもっと発展させてくれ。期待してるぞ、宏平よ」
「ああ!」
清山は手を差し出し、宏平と固い握手を交わす。
その後、弁護士立ち合いの下、宏平を後継者にするという文言を作り、宏平は後継者として正式に認められることになった。
「とりあえず、お前は明日からウチの社員として入社し、現場や社内を巡って今の洋民の実情を知っておくといい。その後、儂が死んだ後、正式に社長になる内示を出すことにする」
「わかった」
「香織も、頼んだぞ」
「はぁ……わかったわよ、もう。まぁ逆に考えれば、兄さんが社長になるよりはマシな結果になった訳だしね。宏平、私は身内だからって甘やかしたりしないわよ。ビシバシしごくから、覚悟しておきなさい」
「おー怖。了解了解、せいぜい努力しますよ」
そんなことを言いながら、二人は清山に一礼し、その場を離れる。
「それでは清山さん、私も失礼させてもらいます」
笹山弁護士が一礼し、書面を大事そうに鞄に直す。
「ああ。ありがとう。世話になったな」
「いえ、これが私の仕事ですので。それでは」
そそくさと笹山も病室を離れる。
「さて――」
こうして――場には、清山と忠利、一卵性双生児の二人のみが残された。
「兄さん……まさかこんなに早く決断を下すとは思わなかったよ」
忠利は、首を傾げながら重苦しく口を開いた。
「うだうだ悩んでも結論は変わらないと思ったんでのう。儂も望と同じ――即断即決な性質なことはお前も知っているだろう?」
「まぁ、確かにそうだけど。でも、それにしても……本当に宏平でよかったのかい?」
「それはどっちの意味での質問じゃ?」
清山はにやりと笑って忠利の顔を見据える。
「後継者としての不安か、それとも托卵の不安か……」
「……両方、さ。正直に言って、まさか兄さんがこうもすんなり宏平を選ぶとは想像してなかったからね。そんなにあのレポート――宏平が独自に纏めたという、飲食業界に対する意見や改革案に熱意を打たれたのかい?」
「まぁそれもある。が、やはり、一番の決め手は結婚してまともな職に就こうとする人間の想いに賭けてみたかった、というところかのう。それに、純粋な性格なら、儂は宏平が一番気に入っている。奴の前では肩肘を張る必要もなく話せるからな。望のような能力偏重主義でもなく、香織のような人情優先主義でもない。一番バランスのとれた性格も加味した結果じゃ」
「……なるほどね」
忠利はどこか切なげな表情をしながら、笑う。
「じゃあ、最後にもう一度だけ確認だ。兄さんは宏平を後継者として指名する。遺言書にも書いたから間違いないが……それでいいんだね?」
「ああ。男に二言はない」
「そうか……兄さん、ならばこのゲームは――僕の勝ちだ」
「……ほう。やはりお前の子は、宏平だったか」
清山が驚かなかったことを意外に思ったのか、忠利は眉を寄せる。
「やはりということは、薄々気づいていたのかい?」
「まぁの。あれからいろいろ考えた結果、朱莉がお前との不義をした後に儂の子を産むことは流石にないだろうと判断した。また、子供たちにもいろいろ聞いた結果、どいつもこいつも宏平のこととお前を結び付けたがる。それを見て、宏平が一番くさいとにらんだのじゃ」
「僕も、そう思っていたよ。僕としては、そこから兄さんがどう出るかが見ものだった。白状させてもらうと――僕の狙いは、あからさまに怪しい宏平をミスリードだと思い、あえて宏平を選んでくれることだったのさ。よく推理小説なんかでも、あまりに疑わしい人間は逆に犯人じゃないって言うだろう? 兄さんの性格を鑑みても、宏平を気に入っていることは一発でわかる。後は、宏平を疑わしいように仕向けていれば、逆に疑わしすぎて、これは僕の罠なんじゃないかと疑い、逆に宏平を指名してくれると思っていた」
「ほう。だが、それにしても随分と博打に出たな。儂の性格を読んでいたとしても、それ以外の要素で儂が宏平を選ぶとは限らないじゃろう?」
「無論、確かに宏平は兄さんと一番気が合うとはいえ、ただのニートだ。確かにそのままでは兄さんも選ぶのに二の足を踏むだろう。だが、その宏平が変わろうと努力していれば? 元々宏平を気に入っている兄さんは必ずそれを応援するに違いない。そして、それに賭けてみようという気になるだろう――そう思って、僕はその為に、今まで適当に過ごしていた宏平を更生させようと影から努力していたのさ」
「努力?」
「ああ。まずは意識改革だ。宏平を真面目な勤め人にさせる為にね。だが、頭ごなしに
働けと言ったところで、今まで散々遊んできた宏平には暖簾に腕押しだろう。人間の性質、意思を変えるには、劇的な変化が必要だ。知ってるかい? 兄さん。男というものは、皆総じて愛を知った時、守りに入る。今まで後先考えずに行動していたものが、初めて愛する者を得た時、それを失いたくないと思い、守勢を覚えてしまうものなんだ」
「……まぁ、確かにそれはある種の真実じゃな。ということは――」
「ああ。ここまで言えばもうわかるだろう? 僕は、宏平に恋をさせることにした。そして愛する者を作らせることにより、守りに入り、まともになろうと自分から努力することを促したんだ。つまり、今の宏平の結婚相手、高坂愛理は僕の手がかかっている人間さ。半年前――彼女とは、宏平好みの人間を探していた時、六本木のキャバクラで知り合った。僕の顔を見て、彼女は随分と驚いていたよ。兄さんソックリだったね。まぁ、僕は兄さんとは違い、副社長として今までずっと裏方にいたから、当然と言えば当然だけど。彼女とじっくりと話してみると、向こうも婚活という訳ではないが、いい人がいれば結婚したいと言う。そこでこれはチャンスだと、僕は宏平を紹介したのさ」
「ということは、宏平はお前が紹介した女をあてがわされたわけか?」
「いや、必ずしもそういう訳ではないよ。高坂愛理が計算一辺倒の人間で、宏平を玉の輿の相手としか見てないのなら、宏平も惚れなかったはずだ。兄さんも知ってるだろう? あいつはその辺りに敏感な奴だからね。だから、僕もあえて高坂に何かしろとは指示をしなかった。むしろ、失敗したならその時はその時で、別の女をあてがおうとさえ思っていた程さ。人の愛を計算で推し量るのは難しい。だから、僕は宏平に対しては出会いを斡旋するだけにとどめておいた。それは、高坂一人だけじゃない。あらゆる女を宏平の周りにおいておき、選ばせるのは宏平に任せる。その中で見事、宏平を射止めた女が高坂愛理だったという訳だ」
「……なるほどのう。用意周到かつ、いろんな状況にも対応できるいい策じゃ。しかし、いささか迂遠なやり方なのではないか?」
「もちろんその通りさ。だが、僕にとってはこれでよかった。兄さんには言っていなかったが……僕はこの作戦を、10年以上前から繰り返している。これは、何も兄さんとのゲームを見越してのことじゃない。ただ、真実を告げることができないとはいえ、実の親として、宏平の嫁の世話くらいはしてやろうと思っただけなのさ。先ほどいった意識改革も、決してこのことがあったからではなく、親として子供に立派になってほしい、真面目になってほしいという親心からきたものだ。そうしてその案は見事身を結び――宏平の結婚が決まって、奴も真面目になり、ホッとしていた時に兄さんの余命宣告はきた」
「お前からすれば、これ以上ないというほどのグッドタイミングだった訳か」
「まぁね。宏平は既に高坂と結婚し、真面目になろうと努力している。ここから先は賭けだった。兄さんが誰を選ぶか否か? 後継者は、順当にいけば望くんが妥当だろう。だが、僕は香織ちゃんと望くんの不仲や、それを兄さんが苦々しく思っていることも知っている。そして、兄さんが子供の中で宏平を一番甘やかしていることも、一番気が合うことも知っている。後は、托卵の事実を告げ、それが誰かを当てるゲームをしたいと兄さんに言えばいい。負けず嫌いな兄さんは必ず乗って来るだろう。そして、その際は兄さんを自由に泳がせてやればいい。そうすれば、兄さんは宏平が自ずと宏平が怪しいという事実にたどり着く。また、宏平が真面目に将来のことを考え、洋民の今後を憂いていることにも気付く。後は、兄さんがどうでるか否かだが――僕は信じてたよ。あからさまに怪しい宏平こそ、僕が仕掛けた罠だと勘繰って、兄さんは必ずやあえて宏平を後継者に選んでくれるってね。これが僕の考えた一世一代の企みだった。こうして――僕は兄さんにゲームを挑み、勝利したんだ」
「……見事、というべきなのかのう。儂はお前に完全に踊らされた訳じゃ。お前は儂にずっと長い間劣等感を抱き続けていたみたいだが……最後の最後に、完膚無きまでに儂に勝った訳だ。おめでとう」
清山は清々しい顔で拍手をする。
だが、忠利はそんな清山を不審そうに見つめた。
「……兄さん、いやに冷静だね。僕の企てを全て聞いて、悔しいと思わないのかい? 憎いとは思わないのかい? なんだか、兄さんらしくないよ」
「そりゃ、思うに決まっとるじゃろう」
「その割には、それを感情に出してないように思えるが……」
「そう見えるか? ならば、そうなのかもしれないのう……ふふ。時に忠利、これで儂とお前のゲームは完了した訳だが……儂たちは互いにゲームの約束を必ず履行するということで間違いないんじゃな?」
「……どういう意味だい?」
「儂は宏平を後継者にする。そして、今後お前はそれを全力でサポートする。これを必ず遵守し、今更負けたからといって掌を返すような真似はしない。そう誓えるか?」
「……兄さんの方はどうなんだい? 僕の企んでいることを全て聞いて、やっぱり望くんに後継者を変えるなんて言い出された日には、たまらないんだが」
「儂は誓えるさ」
「じゃあ、僕も誓うよ」
二人は互いに笑い合い、固い握手を交わす。
「そうか……ならばそれでいい。それと、忠利――。お主は宏平に托卵の事実を告げないのか? もうここまで来たんだ。言っても構わないとは思うがの」
「うーん……自分でも迷ったんだけどね。でも、朱莉は最後まで言わないことを望んでいたから、それを僕も守ろうと思う。第一、今更そんなことを暴露されたところで、宏平としても迷惑だろうしね。自分のアイデンティティが崩壊するかもしれないし、それを機にまた無気力なプータローになられても困る。だから、これはそっと僕の胸にだけ秘めて、墓までもっていく秘密にするつもりだよ」
「……そうか」
清山はそれだけ答えると――どこか、遠くを見るような目で窓の外に咲く桜を眺めた。
◇
それから――洋民はてんやわんやの騒ぎとなった。
いきなり社員として登場した宏平もそうだが、そのぽっと出の男が後の社長になると公表され、さらには専務取締役の望が会社を辞め、新しい会社を立ち上げたのだから、当然と言えば当然のことである。
マスコミやテレビはこぞって洋民創業者の内紛としてこのニュースを報じ、社長である忠利と騒動の渦中にいる宏平は否が応でも矢面に立たされた。
株価にも少なからず影響し、一部上場企業のお家騒動として世を騒がせたこのニュースだったが――宏平は、そこで挫けるような男ではなかった。
社長になるや否や、香織と忠利のサポートを受け、たちまちのうちに会社のあらゆることを刷新したのだ。
無論、時には失敗することもあったが、その悉くは成功を収め、後々、会社は今よりも発展することになる。
見事に清山の目論見は成功したのだ。
そして、2ヶ月後――。
清山の命は、今や風前の灯となっていた。
「はぁ、はぁ、はぁっ……」
荒い息を吐きながら、清山はベッドから身体を起こす。
既に医師から今夜が峠と聞かされたのか、場には清山の親族全員が集まっていた。
洋民から離反し、別の会社を立ち上げた望ですら、バツが悪そうにしながらも親の死に目に立ち会おうとリビングにあるソファーに腰掛けている。
全員、落ち着きがなさそうにしながらも、固唾を飲んで清山の動向を見守っていた。
「ふぅ……すまないが、皆、いったん席を外してくれないかのう。最後に忠利と二人きりで話したいことがあるんじゃ」
清山が落ち着いた声でそう言うと、全員、不審そうな顔をする。
「二人で?」
「一体何を……」
場がざわめくものの、死にゆく老人の望みを叶えてやろうと思ったのだろう、すぐに全員が言葉に従って部屋を出た。
「兄さん……話したいこととは、何だい?」
唯一残された忠利が、神妙な顔をして呟く。
あれから――忠利は、憑き物が落ちたかのように変わった。
同じ年ながら癌になった清山とは打って変わって矍鑠としており、その肌は若者のように瑞々しく張りがあるようになった。
定期的に身体を動かしてスポーツも嗜み、食欲も旺盛、まるで先代の社長が戻ってきたようだと社内では噂されていた程である。
その原因は――やはりあのゲームに勝利したことだろう。
それほど、忠利にとって清山に勝つということは優越感を与えてくれるものだったのだろう。
今まで何事も負け続け、劣等感を抱えていたものとれると、人はこうまで変わるのかという結果を清山はまじまじと見せつけられた。
そしてそれは、宏平も同じである。
毎日のように遊び歩いていた放蕩息子が、気付けば洋民を仕切り、真面目になるまでに成長してくれた。
ある意味、清山にとって待望の変化ともいえ出来事である。
尤も、自分は今からそれを壊そうとしている。
その結果、忠利がどう出るかはわからないが……。
それでも、忠利がそうだったように、清山もまた、これを言わずに死んでいくことは誠意に欠けると判断したのだった。
「忠利……2ヶ月前にしたゲームを覚えているか?」
「……ああ。今でもありありと思い出すことができるよ」
「そうか。儂もじゃ。あの結果、儂はお前の術中にはまり、まんまと托卵した子供である宏平を後継者に指名してしまった。そして、ゲームは儂の敗北で終わった――おそらくお前はそう思っているのだが、それはある意味、間違いじゃ」
「……間違い?」
忠利はピクリと眉を寄せる。
「ああ。真実を告白しよう。実を言うとのう……これも皮肉な巡り合わせかもしれんが、お前が宏平にあてがった女――高坂愛理は、3ヶ月前まで儂の愛人だった女なのじゃ!」
「……!?」
忠利は目を見開く。
「……どういうことだい?」
「お主は知っているじゃろうが……朱莉が死んで以来、儂は愛人を複数抱えていた。理由は言うまでもない。まぁ、そのような儂の女好きの気質に関しては嫌というほど知っておるじゃろう? だが無論、愛情は露ほどもない。ただ、有り余る性欲を処理する為だけの女として、住む場所を与え、お金を与えていただけじゃ。他は基本的に束縛をせず、何をしていても自由という寛大な条件を儂は愛人たちに与えた。儂意外の男と恋仲になろうと身体の関係になろうと構わない。ただ、儂が訪れた時のみ相手をすればそれでいいとな」
「……その女の一人が、高坂愛理だったとでも!」
「うむ。自分で言っても、おそらく気がふれているとしか思われないだろうが――高坂愛理は、実を言うと、儂に惚れていたのじゃ。まぁ聞け。女の強かさを、そして儂の企みの全貌を、今説明してやる」
清山はふぅっと一息つくと、また口を開いた。
「……高坂愛理は、儂に抱かれるようになって次第に惹かれていき、遂には儂に惚れた。これが何故かは儂にはわからない。儂を孤独な老人だと憐れんだ結果なのか、それとも性交渉での快楽が愛情に変わったのか……。それを知るには彼女の心中を覗かねばならんほど理解に難い事実じゃが、結論として彼女は儂に惚れ、愛しいと思ってしまったらしい。儂も最初この告白を受けた時は、嘘だと相手にしなかったものじゃ。儂の遺産がほしくてそのようなことを言う女は、今までいくらでもいたからのう。だが、彼女は儂に何も求めなかった。愛人契約としてのお金も返すようになり、その代わりに一緒にいる時間を増やしてほしいと望んできた。そして、一緒にデートしたり、何気ないお喋りをしているだけで癒されると、満面の笑みでもって言っていたものじゃ」
「……それを兄さんは信じたと?」
「いや。心より信じてはいなかったよ。こんな老いぼれに好きだと告白し、あまつさえお金を求めないというのはおかしいと思いつつも、それが最終的に儂の心を射止めて遺産を簒奪する演技ということも考えられるからのう。儂も海千山千の男じゃ。だから、いくら彼女が儂に尽くそうと、情愛をもって接しようと――儂の方から何かアクションを起こすこともなく、あくまで彼女をそのまま放置し続けた。そして、それから一年後――つまり、今から2ヶ月前、儂の癌が発覚した」
「……高坂愛理を含む、愛人たちにそのことは言ったのかい?」
「ああ。手切れ金を渡し、あと腐れや面倒がないよう、儂並びに洋民とは二度と関わらないことを書面に誓わせて別れた。他の愛人は皆、それで引っ込んでくれたもんじゃが――高坂愛理は――泣きながら儂に抱きついてきたよ。その涙でくしゃくしゃになった顔を見て、儂もとうとう悟った。この女は演技などではなく、言葉通り、心底儂を愛してくれていたのじゃとな。だが、儂が愛してるのは変わらず朱莉だけじゃ。そのことを言い、彼女に儂を諦めるように諭していると――彼女は、堰が切れたように、今まで内緒にしていた恐るべき告白をした。何と、彼女は――儂の子を身籠ってしまったというのだ!」
「なんだって!? 兄さん、避妊はしてなかったのかい?」
「無論、していたさ。だが、彼女はどうしても儂の子供が欲しいと言い、コンドームに穴を開けて子供を授かろうと画策したのじゃという。まさに恐るべき女の執念深さよ。とはいえ、そうなっては、事情は変わってくる。どうしたものかと儂が悩んでいると、彼女はこの子を認知してもらうつもりも、養育費をもらうつもりもないと言い切った。自分の我儘で儂に内緒で子供を孕んだのだから、何もしてもらうつもりはない。幸い、勤めているキャバクラの客で、今、自分にプロポーズをしてくれている人がいる。その人には悪いけれど、私はその人の子供としてこの子を育てていく。だから安心してください、忠相さんが何も気にすることはないです――と彼女は言ってくれた。少し怪しげな笑みを浮かべながらな。今思えば、そこで気付けなかったのが悔やまれるが――もうここまで言えば後はわかるだろう?」
「今、宏平が結婚した相手が身籠っている子供――それは、宏平の種ではなく、兄さんの種だというのか!」
「その通り。儂も驚いたよ……。宏平の下へ、托卵の事実の有無を探る為に会いに行けば、彼奴は結婚するという。それだけではない、お前の推測通り、宏平は愛する妻を手に入れ、守りに入り、真面目に会社務めをすることを決意していた。これはどうしたものかとその相手を聞くと、宏平が写真を見せてくる。そこに写っていたのは、朗らかな顔で笑う儂の愛人ではないか! あの時は、感情を表に出さないようにするのに苦労したもんじゃ。だが、何とか儂はポーカーフェイスを保ち、そのまま宏平と別れた。そして、高坂愛理に事情を聞くに至ったという訳じゃ」
「……高坂愛理は、何と?」
「無論、結婚相手が儂の息子であることも何もかも知っての行動じゃったと言う。きっかけは、儂の弟――つまり忠利、お前じゃな。お前がキャバクラに来店したことじゃというのも、洗いざらい白状してくれたよ。彼女は当初、儂だと思い、店に来てくれたのかと喜んだそうじゃが、話を聞けば双子の弟で、儂とは違う人間じゃった。一卵性双生児なのに彼女がお主になびかなかったところを見ると、どうやら高坂は儂を顔で好きになった訳じゃないみたいじゃのう。まぁそれは置いておいても、お主と話してみると、どうやら男を紹介してくれると言う。
興味はなかったが一度くらいは付き合ってみるかと会ってみると、そこにいたのは儂の息子である宏平じゃ。話してみると、存外悪くない男である。仕事はしていないが、顔も性格も至極まともで、どこか儂の面影があることもあって、宏平と付き合っていったのだと言う。その後――宏平の方も金目当てではない自分を気に入ったらしく、何と先日、プロポーズまでされてしまった。じゃが、彼女の心は常に儂の下にあった。どれだけ宏平がいい人でも、これだけは代えられない。それに、タイミングがいいのか悪いのか、儂の子を妊娠までしてしまってる。故に、断ろうと思い立っていると――」
「……兄さんが癌になったという訳か」
「そうじゃ。そこの顛末は既にお前に話した通り。愛する人の死は彼女にとって耐えがたい苦痛だったのじゃろう。じゃが、それでも儂に心配はかけたくない。そこで、苦肉の策として――ある意味、宏平の想いを蔑ろにする、最低な行為じゃが――全てを解決する、画期的な方法を思いついた。それが、宏平の子を身ごもったと嘘を吐き、儂との関係を全て隠したまま、宏平と結婚することじゃった」
「……馬鹿な……」
「無論、儂もこの告白を聞いた時は驚き、そして悩んだもんじゃ。と同時に、そこで儂はお前の奸計に関しても全て知った。宏平をまともにさせる意図は一つしかないからのう。じゃが、お前の罠にはまったフリをして、ここで宏平を後継者に選べば――お前に対する最高の意趣返しとなる。目には目を、歯には歯を、托卵には托卵を――。
名目上はゲームに負けても――宏平のそのまた更に次代の社長は、必ずやその子になるじゃろう。つまり結果的に、儂は宏平に托卵し、お前にやられたことをそのままお前の子にやりかえすことになる。洋民を継ぐ者も、お前ではなく儂の血縁も者となる! これ以上のない復讐があろうか? これがお前の托卵に対する、儂の托卵だ仕返しだったというわけじゃ!」
「兄さん……!!」
忠利はガックリ項垂れてた。
自分がゲームにおいて――試合に勝って勝負に負けたことを痛感したのか。
それとも自分の息子までもが托卵されていることにショックを受けたのか。
高坂愛理という女の本性を知らなかったことを後悔したのか。
だが、最早後の祭りで、全てはどうすることもできない。
「忠利、儂は確認したのう? このゲームの勝者も敗者も、必ず条件を履行し続けると。お前はこの先、宏平を、そして宏平の息子を必ずや死ぬまでサポートし続けなくてはならない。これを守ることなく、また、宏平に明かすこともなく――やってくれるな?」
清山は死の間際、これ以上のない優越感を感じながら忠利を見つめる。
忠利は、項垂れながらも静かに頷いた。
「ああ……わかった、よ……。兄さん、僕の負けだ……」
忠利が敗北を宣言した時――清山はようやく、溜飲が下がったような、静かな充足感を得た。
だが、それと同時に――晴れることのない心の靄も自覚する。
「……しかし、朱莉しかり、高坂愛理しかり……女というものは恐ろしいものじゃのう。こんなことをしても、儂の気は一向に晴れないままじゃ」
「……何故だい? 兄さんはいわば、試合に負けて勝負に勝ったような状態じゃないか。死の間際に自分の完全なる勝利を僕に告白して、絶望を味わわせたかったんだろう? むしろ――晴れ晴れしているんじゃないのかい?」
「ふん、馬鹿をいえ。確かにお前に自分の企みをバラし、憂さを晴らすことはできたもんじゃが……それでも朱莉が浮気をし、子供を産んだという事実は変わらん」
「…………」
「忠利、お前は托卵についていろいろと説明してくれたが――あれは動物ならではの合理的な考え方じゃと儂は思う。カッコウは生き残る為に最善の選択をしているに過ぎない。あの中には、『感情』が含まれていないんじゃ。動物たちはただ本能によって合理的に托卵を行い、本能によってそれらを育てるだけ。じゃが人間は違う。そこには感情がある。復讐なのか、雄としての優越感なのかはわからんが、托卵を行うものには、一定の快感が付きまとうものじゃろう。 そして、された方も快感を感じる者もあれば、怒髪天を衝くほど怒りに駆られる者もおろう。絶望する者も、諦念する者も、不倶戴天の敵を見つけたように嫌悪の情を抱く者もおろう。この感情の機微は、人間ならではのものじゃ。そして、何より大切なのは――人間の生涯はとてつもなく長いということじゃ。どれだけ絶望しようと、どれだけ怒りを覚えようと――自ら命を絶たない限り、人生は続いていく。喜びや悲しみは積もり積もって、絶望を過去のものとして追いやっていく。『人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇』とチャップリンは言ったが――これはこのことを指しているのではないかと儂は思う。人は喉元過ぎれば熱さを忘れる。感情によって不貞を行い、長い年月によってそれを誤魔化していく――全くもって合理的でない、滑稽な行いじゃ。托卵などという名称では生ぬるい。これを喜劇と言わず何と言おう?」
気付けば、清山の目には涙があふれていた。
次から次へと涙が溢れて頬を伝い落ちていく。
既に視界はぼやけ、脳が動くのを止めたがっているかのように麻痺してしまっていた。
「そして、儂はその滑稽を味わうことすらできなかった……正直に言うとな、忠利。儂はお前に托卵されたことよりも――朱莉が浮気し、それを四半世紀近く儂に黙っていたという事実の方が許せないんじゃよ」
「兄さん……」
「朱莉……今からそっちに行くぞ……。そして、その際はこの70年の喜劇の代償を、否が応でも払わせてやる……」
清山はうわ言のようにそれだけ言うと――地獄の亡者のように血走らせた目をカッと開き、虚空に手を伸ばしたままこと切れた……。