1、愛されない女
「いい加減にしてよ! いったい何の権利があっていちいち私が死ぬのを邪魔するの!?」
興奮して暴れる私を飛びながら横抱きにかかえ直し、カエインは美しい口元にニヤリ笑いを浮かべた。
「そう死に急ぐな。ちょうどいい時間帯なので……お前にいいものを見せてやろう」
「……いいもの……ですって?」
私は息がかかるほど近いカエインの顔を睨み上げる。
「ああ、そうだ」
カエインは頷くと羽ばたきの勢いを緩めて、下降する途中で漆黒の翼をマントに戻し、茂みの中へと降り立った。
それから私を地面に立たせると、前方へ向けて顎をしゃくってみせる。
「ほら、あそこだ」
「……えっ……?」
言われて顔を向けた木々の枝葉の間から、昨日デリアンとエルメティア姫が休憩していた今は無人のベンチが見えた。
目にしたとたん、デリアンに捨てられた辛い現実を思い出し、痛み出す胸を押さえた私を、カエインがバサッと両脇からマントで覆いこむ。
「……なっ……!?」
慌てて中から出ようとする胴体にカエインの腕が回り、低い声で制止される。
「いいからこのまま、二人が来るまで大人しくしていろ」
二人という言葉を耳にした瞬間、私の鼓動が、ドクッ、と大きく跳ね上がる。
「いいか、シア? デリアンもエティーも他人の気配にかなり鋭い。気づかれないようにくれぐれもこのマント内からは出ないように」
注意しながらカエインはマントの合わせ目を少し開き、内側にいる私からもベンチが見えるようにしてくれた。
そうして二人で身体を密着させた状態でしばらく待っていると――やがて笑いまじりの高い声とそれに応える低い声が聞こえてきて、歩いてくるデリアンとエルメティア姫の姿が見える。
昨日あんな出来事があったばかりなのに、二人は平気で同じベンチまでやってきて並んで腰を下ろす。
訓練で身体を動かしてきたのだろう、デリアンは汗ばみ乱れる金髪を左手で掻き上げると、自然な動作でエルメティアの腰に右手を回した。
相変わらず近い二人の距離感に、見ている私の胸が苦しくなる。
この場所に来て思い出したのか、エルメティア姫はデリアンの肩にもたれつつ、大きな嘆息をついた。
「しかし、昨日のシアの行動には驚いたわよね――思わずらしくもない、大声を上げてしまったわ。
まさか自分の守護剣さえ呼べない情けないあのシアに、自ら舌を噛み切る根性があるとはね!」
エルメティア姫が口にした「守護剣」とは、持ち主の魂と繋がっていて他者には扱えない「魔法剣」のこと。
材料であるアダマンタイトは稀少な鉱物で、製作技術を持つ魔法使いもごく少ないので、新規に造られることはほぼ無く、通常は一族などに受け継がれている既存の魔法剣を、誕生したばかりの子供の魂に紐づけて「守護剣」とする。
武勇を誇る名門の一族である我がバーン家にも代々伝わる幾つかの「魔法剣」があり、前当主の一人娘だったお母様とその従兄弟であるお父様、クリス兄様と私の家族四人全員が「守護剣持ち」である。
しかし誕生時に使い手の魂と紐づけられているとはいえ、使いこなすにはそれなりの鍛錬が必要になり、一人前の使い手となって初めて剣を自由に手元に呼び出せるようになるのだ。
当然のようにそれぞれ「守護剣持ち」であるデリアンは9歳で、エルメティア姫は11歳で自分の剣を呼べるようになっていた。
ところが私はエルメティア姫の言うように、この年になってもいまだに己の守護剣を呼び出すことができず、これまでずっと両親を、特に母を、失望させ続けてきた。
デリアンが精悍な顔を歪めて不愉快そうに吐き捨てる。
「感心するようなことではない。迷惑行為もいいところだ」
エルメティア姫はふふと笑い。
「まあ、いずれにしても、シアの入城の知らせを受けてから、もうだいぶ時間が経過したし、今頃、あなたや私のことをすっかり忘れている頃よ」
デリアンがやや疑わしそうな口調で問う。
「その『忘却の水』というのは本当に効くのか?」
「ええ、カエインに聞いた話によると効き過ぎるぐらいだそうよ。
飲んだ者は記憶がまっさらとなって赤子同然になってしまうから、最低限度の知識をシアに仕込むようにきちんとカエインに頼んで置いたわ。
それでも、傍目から見たら廃人同然の状態になるでしょうけどね――私なら、そんな惨めな姿を晒して生き延びるぐらいなら死んだほうがマシだわ」
エルメティア姫はさも愉快そうに喉を鳴らす。
「そうは言っても知識は時が経てば徐々に身につくだろう。
だがシアが死んでしまえば、俺達の婚約にケチがつき、バーン家との関係修復もほぼ不可能になる」
私はデリアンの口から出た具体的な「婚約」という二文字に衝撃を受けたあと、続いた言葉に耳を疑う。
つまりデリアンは個人的な感情ではなく、あくまでも自分の保身のためだけに私を生かそうとしているのだ。
「本当に、シアに死んで欲しくないと思う理由はそれだけ?
二年半前まではあなた達はとても仲が良かったのに」
今度はエルメティア姫が疑わしそうに問う番だった。
「止してくれ、エティー。以前は結婚相手として生涯連れ添わねばならないと諦め、良好な関係を築こうと極力気を使って努めていただけだ。
アレイシアは思いこみの激しい、いかにも面倒くさく重たい性格の、最も俺の嫌いな種類の女で、過去も現在も悩みの種でしかない存在。
バーン家との仲を考えなければ、いっそのこと死んでくれたほうがすっきりするほどだ」
デリアンのその残酷過ぎる言葉は、かつてないほどの破壊力を持って、私の中にあった最後の希望を粉々に打ち砕くものだった。
心臓が破裂するほどの痛手にあやうく叫びそうになったを口を、カエインの冷んやりした手に塞がれる。
「酷い言いようね」
「しかしそんな憂鬱な思いからもこれでようやく解放される――つくづくカエイン・ネイルには感謝しなければな」
さらに傷をえぐるようなデリアンの発言に、私は激情のあまり、唇の間に食い込むカエインの指を強く噛み締める。
すると悪魔にも血が流れているらしく、口中に鉄臭い味が広がった。
「おかしいほど私を好きなカエインは、その恋人であるあなたに感謝など求めてないと思うわ」
愉しそうに言うエルメティア姫の顔を見つめながら、デリアンが冷笑を浮かべる。
「君に夢中で、前王すら裏切ったほどだものな」
「世界一の魔法使いが私の言いなりなんて、このうえなく便利でしょう?」
当の本人達が会話を聞いていることを知らない二人は、恐ろしい存在の魔法使いさえも笑いの対象にした。
「だが俺と君の婚約を嫉妬して邪魔するのではないか?」
「その点については大丈夫よ。私の結婚相手が王家の血を引く者か、他国の王族でなければ認められないことはカエインも知っているはずだもの。
この国に今まで女王が立ったことがない以上、私の伴侶となる者が王となる。
あなたは我がバロア家と同じく前王朝の支流のソリス家の当主で、今や諸国にもその名を轟かす英雄にして広大なカスター公領を治める者。
何より私はもう二度とセドリックみたいな、自分より弱い男と婚約させられるのはごめんだと、くどいほどお父様に言ってあるもの」
前王の息子のセドリックは私の幼馴染で、元王太子にしてエルメティア姫の元婚約者でもあった。
「そうなると、残された二人の従兄弟のイヴァンは大公とはいえ軟弱な男だし、唯一見所のあるシュトラスのレスターには簡単に反故にできない他国の王族の婚約者がいる。他の近隣諸国を見回しても私より腕の立つ王族の男はいないという現状。
お父様含め、あなたしか私の結婚に相応しい相手がいないことは、周囲の誰もが理解して認めているはずよ。
――と言っても愚かなシアは、半年間も猶予期間を与えてあげたのに、はっきり言われるまで現実を見ようとはしなかったみたいだけど」
エルメティア姫はそう言うが、私はただ現実から目を反らしていたわけではない。
幼少時から剣術を極めることにしか興味がなかったデリアンが、何かの折に「王位などわずらわしい。頼まれても王になるのだけは絶対にごめんだ」と漏らしたことがあるのを覚えていたからだ。
なのに現在のデリアンはエルメティア姫への愛ゆえに、そのわずらわしい立場さえ受け入れようとしている。
「君がいきなり婚約解消するのは可愛そうだというから半年間待ったが、俺には期間を置いたところで無駄なのは分かっていた。
アレイシアは幼い頃からまるで何かの亡霊に取りつかれているようだったからな。
この前も言ったが、いつも俺を透かして幻想を見ているような、夢見る瞳が、俺は疎ましくてたまらなかった」
そんな風にずっと思っていたなら、なぜもっと早く言ってくれなかったの!!
いつだって表面上は優しく私に合わせてくれていたのに、心の中では不快に思っていたなんて。
悔しさと悲しみが溢れて涙となって両瞳から噴出し、今すぐ叫んで飛びだしてデリアンに詰め寄りたかった。
しかし私の感情を読んだように、カエインの口を押さえる手と胴体に回る手に力がこもる。
――強烈な喪失感に目眩をおぼえながら自覚する――私はこうして直接デリアンの口から本心を聞く、今の今まで、心の底では信じていたのだ。
現時点ではエルメティア姫に心を奪われているとはいえ、幼馴染として婚約者として、誰よりもデリアンの傍にいた私には、共に過ごしてきた多くの時間と思い出の積み重ねがある。
彼の心の中には今も、私を大切に思う気持ちが存在しているはずだと。
だからこそ自分が死ぬことが仕返しになると思っていた。
あてつけに目の前で死のうとしたのも、髪を切ったのも、根底にあったのは、私のより深い絶望と悲しみを伝えることで、その分デリアンが後悔や罪悪感をおぼえ、胸を痛ませてくれると信じていたからだ。
ところが今やその、私にデリアンが「愛情」を持っているという、そもそもの前提が覆された。
好かれていたどころか、私はずっとデリアンに疎ましく思われていた。
死んでも悲しむどころか、むしろデリアンは清々するのだ。
ジークフリードの心は完全に死に、最早、この男の中には私への「愛」など欠片もない!
たとえ無残な死に様を見せたり、髪を切った憐れな首を何十年飾って晒したところで、デリアンの心は微塵も痛みはしないのだ。
最後の希望――デリアンに「愛されている」という望みすら霧散し。
深い絶望のどん底まで落ち込んだ私の視界が、心が、真っ暗闇に染まり――口づけし合うデリアンやエルメティア姫を見た時よりも、もっと酷い、比べ物にならないほどの激しい地獄の苦しみが私を襲う。
――と、私が嵐のような感情に飲み込まれている間に、デリアンとエルメティア姫は休憩を終えてその場を去ったらしい。
ようやくカエインの手が剥がれ、口が開放されたとたん、私の喉から言葉にならない、獣の咆哮のような音が漏れる。
「あっ……ああああっ……!?」
常軌を逸した声をあげ続ける私の身体を両腕で抱え、バサッと羽を広げたカエインは再び空へと飛び立った――