4、エルナー山脈越え
ギディオン王が長い顎髭をしごきつつ同調する。
「うむ、それはわしも考えておった。カエイン殿がこちら側へついているなら嵐も起こるまいてな」
「正直申しますと私には山の知識が全くないので、あくまでもこれは一案ですが」私はいったん断りを入れてから、さらに地図を指でなぞって言葉を続ける。「エルナー山脈を越えてリューク王がデヴァン公だった頃から治めている所領へ直接抜ければ、他の諸侯の土地を通らずに最短で王都へ至れます」
20歳にして名将の誉れ高いレスター王子が、端正な口元に人差し指を当てて「うーん」と喉を鳴らす。
「幾ら近道であっても、山頂に万年雪を抱き、極めて道が険しいエルナー山脈を越えるのは、兵の、特に馬への負担が大きい。だいいち天候が不安定だし、雪崩もある。戦力が半減する危険を犯してまで、果たして山越えをする必要はあるのか?」
たしかにシュトラス側より、アスティリアの土地と人民の被害を最小限にする意味合いの強い案だった。
しかし、できるだけ無駄な過程を省いてデリアンに復讐したい私は、意見を通すべくカエインに水を向ける。
「そこでカエインに尋ねたいんだけど、あなたが天候を操れるという噂は本当なの?」
カエインは美しい唇の口角を上げて答える。
「神鳥の特殊能力に強い風を起こすというものがあってな」
「つまり、これまでの嵐はあなたの仕業なのね……」
「そういうことだ。それとおおよその天候は読めるし、局地的になら雲の動きも操れる。……雪崩に関しては、先に通り道にかかる積雪に衝撃を与えて流しておけばいいだろう」
「さすがカエイン殿は頼もしいのう」
感心したようにギディオンが唸り、レスター王子も納得したように頷く。
「兵と馬の負担が軽く済むのなら俺も山越えに異存はない。奇襲になるだけではなく、行軍距離と戦闘回数が段違いに減らせるからな」
ガートルード王女も歓迎するように言う。
「国庫を預かる私としても、短期で済むのは助かります。先の内戦に続いての援助なうえ、今回はイルス傭兵隊を雇い入れる予定なので、また決着がつくのに二年もかかった日には、シュトラスの財政が傾いてしまいます」
イルス傭兵隊とはその名の通りイルス人で構成される、東の大陸最強と呼ばれる歩兵部隊だ。
資源が乏しいイルス国は傭兵稼業を主要な産業に据えており、戦争が起こるたびに他国に雇われて参戦している。
「折よく参加していた戦争が終結したばかりでな。雇用していたマドラス王国を介して、現在イルスと交渉中ではあるが、金額さえ積めばまず断られることはないだろう」
ギディオン王が自信をこめるように言ったところで、ガートルード王太女が鋭く指示を飛ばす。
「ギモス、我が国が抑えている範囲の峠で、できるだけ距離に無駄がなく、かつ安全な行程の探索をお前に任せます」
「かしこまりました殿下。ただちに弟子と一緒に取りかかります」
速やかにギモスが応じ、ほぼエルナー山越えの流れが決したところで、レスター王子がおもむろに立ち上がる。
「そうと決まれば、もう夏も終わりだ。冬になる前に決着をつけたいし、急いで段取り終え、この左目のお礼をデリアンに返しに行かねばな」
「何を言ってるのレスター! お前は父親よりこの国の守りを預かっている筈ですよ?」
王太女の夫であるハノーヴァ公は、アスティリアで内戦が起こる前から遠征に出ているらしい。
母親にいさめられてもレスター王子は引かなかった。
「そう言うが母上、今やエルナー山脈を挟んだこちら側は、父が現在制圧中のバルティモ以外はすべてシュトラスの属国。山から攻め込むなら船は全部置いて行けるから、俺がいなくても大丈夫だろう」
「いいえ、なりません! 前回の内戦時は指揮官不足で仕方がありませんでしたが、今回はセドリックがいます。近くエリーゼ姫との婚姻も控えているし、お前はこの国に残りなさい!」
その時、親子の言い争いに割って入るように、ギディオン王がレスター王子の後押しをした。
「構わぬではないかガート。もしも他国が海から攻め入ってきたなら、この老体が自ら船首に立って迎え撃とうぞ」
「とんでもないことでございます。その場合は、私が指揮を取ります」
慌てたようにガートルード王太女が返し、どうやら話はまとまったようだった。
その後も戦争についての細かい話し合いが続き、終了したのは夕方近くだった――
部屋に戻るために廊下を歩いている途中、セドリックが隣に並んで弾んだ声で話しかけてくる。
「ありがとうシア、僕の意向を汲み取ってくれて……。君もアスティリアのことをきちんと考えてくれているんだね」
私はふっと鼻で笑う。
「冗談、そんなんじゃないわ。単に、一刻も早くデリアンに会いたかっただけよ」
「いいんだよ、分かっているから」
本音を言ってるのにセドリックは麗しい顔をほころばせ、愛情と信頼のこもった眼差しをまっすぐ向けてきた。
それから数日後、イルス傭兵隊を乗せた船が港に到着したとの知らせが城へ届く。
上陸後さっそくこちらに向かうとのことで、元々アスティリアに攻め込む用意をしていたシュトラスでは、合流しだいただちに出兵できるように詰めの戦準備が整えられた。
私も最高司令官に任命されたセドリックにつきあい、率先してシュトラス軍の訓練に参加して戦いに備える。
さらに十日ほど経った初秋を迎えたある日、いよいよ私達はシュトラス軍とイルス傭兵隊を率いてエルナー山脈へと入った。
私にとっては初めての登山だが、母による幼い頃からの過酷な訓練とデリアンへの恨みの力のおかげで、険しい道も全く苦にならない。
入山してから5日目の昼過ぎ。
少しでも馬の負担を減らすために、急勾配に入るのに合わせて下馬した私に、騎上からレスター王子が問う。
「アレイシア。女のお前はいつでも来た時のように、大鳥に乗ってアスティリアへ渡ってもいいのだぞ?」
私は断固として断る。
「いいえ、あくまでも兵士達と一緒に行動するわ」
指揮官が楽をしていたのでは配下の者はついてこないと、母から固く教えられていた。
だから食事も自ら希望して一兵卒と同じものを食し、寝る時も紅一点でありながら皆と一緒に雑魚寝していた。
とはいえ、傍らにはつねに世界最強の魔法使いがいるので、誰にも寝込みを襲われる心配などなかったが。
空を飛べるカエインは、私よりも山登りする必要がないのに、連日とても楽しそうだ。
山頂越えを翌日に控えたその晩も、テント内で私と同じ硬い黒パンを食べるカエインは終始笑顔だった。
「こうして毎日シアと寝食を共にし、一日中一緒にいられるのは幸せなものだ」
その酔ったような口調に内心イラつきつつ、無言で食事を終えた私は、身体にマントと毛布を重ねて巻き、布を敷いただけの地面にごろっと寝転がる。
山の上とはいえどももっと上等な寝床を用意することもできたのだが、デリアンに捨てられてからというもの、寝心地が悪いほうがかえって安眠できるのだ。
私に続いてカエインが、少し遅れてセドリックが両脇に横たわった。
一人だけ起きて寝酒を飲んでいるレスター王子が、男二人に挟まれて寝る私を皮肉る。
「なあ、アレイシア。考えてみると、自分に夢中な男二人を引き連れて昔の男に報復しに行くお前は、ずいぶんといいご身分だよな?」
すかさずセドリックが跳ね起きて抗議する。
「レスター、それ以上シアを侮辱したら許さないよ!」
「いいのよ、セドリック。レスター王子のおっしゃる通りだし、私は全く気にしていないわ」
本心からどうでも良かった私はあくびを噛み殺し、カエインとセドリック、どちらの方向も見ないで済むよう仰向けになる。
幸い疲れているので目を瞑ると同時に眠りにつくことができた。
翌朝は、軍を安全な場所に待機させた状態で、レスターとセドリックとともに巨鳥になったカエインに乗って飛び、先行して峠へと向かう。
「セドリック、レスター王子、いくわよ!」
巨大な背にまたがったまま上空で掛け声すると、全員でタイミングを合わせ、剣に溜めた力を一気に放出する。
すると、巻き起こった三本分の強力な剣圧が、勢い良く白い山肌へとぶつかっていく。
直後、ドコォオンと、派手な爆発音がしたあと、どうっと巨大な雪崩が発生した。
背後からレスター王子の感嘆の声が響く。
「凄いな、これが戦神の双剣が揃ったときの力か!
なあアレイシア、デリアンを殺し終わったらぜひシュトラスに来て、愛妾を兼ねた俺の片腕にならないか?」
本気とも冗談ともつかない言葉に、セドリックがムキになったように言い返す。
「シアは妾になどならない! なるとしたら僕が王位を取り返した後のアスティリア王妃だ!」
カエインも負けじと大きな嘴を開いて主張する。
「悪いがセド、結婚に関しては俺のほうが先約だ。なにせすでに婚礼衣装まで一式揃えてあるからな」
私は三人の無駄な期待を粉砕すべく、高く守護剣を掲げ、
「何度でも言うけど、今やこの剣は戦女神の剣ではなく、その娘たる処女神にして黒い劫火を抱く、復讐の女神の剣に生まれ変わったの! 私はこの剣の持ち手に相応しく、生涯純潔を貫くつもりよ!」
叫びしな思い切り振り下ろし、逆巻く黒炎を積雪へと放りこんだ――
そうして念入りに通り道付近の雪を流しきったあと、ついに峠の頂きに降り立った私は、はるか眼前に広がるアスティリア王国の大地を眺め、いよいよ近く迫った決戦の刻を思う。
今のところ被害なしで合わせて一万数千の、強国シュトラスの騎兵と長弓兵、長槍を持ったイルスの歩兵部隊を従えている。
おまけに伝説の魔法使い効果か、早くも先の内戦で中立だったレイクッド大国を始め、アスティリア国内のいくつかの諸侯がこちら側につくと表明しているらしい。
残念ながらその中にバーン家は含まれていないとはいえ、今度ばかりは、デリアン個人の神がかった武力をもってしても、状況を引っくり返すのは難しいだろう。
ああ、心底楽しみでたまらない。
完全に負け戦だと悟ったときに、あのデリアンが私にどんな顔を向けるのかと想像するだけで、思わず喜びで全身が打ち震えてしまう。
「あはははははははっ――!」
高笑いを山々へと響かせ、私は復讐達成の期待に胸を躍らせた――