#1「暖かな愛情」
ゆっくりと、冷えた足を湯船に沈めていく。
少し熱すぎる温度のお湯が、足の先から染み込んでくる。
片足を入れ終わると、もう片足を入れていく。
冷え切った足先が湯に浸かると、鋭い痛みを覚える。
やっぱり、少し熱すぎるか?
そう思ったが、こんな冬の寒い時期にぬるい風呂にも入りたくない。
それに、旅館の露天風呂にそんな事を言っても意味はない。
両足を沈めると、冷たい風が上半身をなでるのを感じる。
体を震わせ、熱さを無視して一息で風呂に沈める。
「おーぅ。アッツイ、けど気持ちいい」
肺の中に残る冷たい空気を吐き出すように声を発する。
なかなか良い。露天風呂なんて初めてだが、実に良い。
目の前に三日月状のビーチというのは季節感が台無しで減点だが。
熱い風呂に入りながら風景を眺めるのがこんなに気持ちいいとは。
寒さと熱さのコントラストも楽しませてくれる。
「侮ってたかなぁ……」
気分の高揚を口に出して発散する。
特に素晴らしいのは、この大きな浴場に俺一人ということだ。
穴場を狙ったかいがあったなと、満足感に浸る。
誰もいない海岸を眺めながら、静寂を満喫する。
ゆっくりと、熱い湯でのぼせそうになるまで浸かっていた。
__________
特に何もしていないのに、とても満ち足りた気分で体を拭く。
それなりの広さがある脱衣所に人の姿はなく、より広く開放的に思える
近くにこれといった名所もなく、あるのは綺麗なビーチのみ。
そんな立地では冬に客が来ることは少ないらしい。
まぁ、だからって水着用露天風呂(混浴)なんてものがあるのは……。
いくらなんでも割り切りすぎだろうと思う。
しかも冬になると『水着用』を外して、ただの露天風呂(混浴)である。
流石の露天風呂とはいえ、貸し切り状態でもないと入りたくない。
男子高校生としてそれはどうなんだと、友人なら言いやがるだろう。
しかしよく考えてみて、そんな場所に入ってくる女性を見て楽しいのか。
だって、明らかに普通でない。
ああ、普通じゃない。絶対におかしい。
「どーして、服を脱ごうとしてるんデスか?」
脱衣所に入ってきて俺の裸を見た挙句、
堂々と服を脱ごうとする幼女に、裏返った声をかける。
見たところ9歳くらいにしか見えないが……。
「少なくとも、親がつかない程度の年齢だろ?」
「ハハ、確かにその通りじゃ。
しかして、この体に欲情するのは変態くらいのものでの?」
色目を使うかのように、来ている着物を着崩しながら言う。
その様子を見ても、特に何か劣情を催すようなことはない。
「断じて違う。俺はロリコンじゃない」
「わかっておるよ」
冷ややかに断じる俺に対し、あっけらかんと笑って返す幼女。
楽しそうに笑う奴だ、と思う。
何より、恥じらいのない奴だ、と思う。
俺のことを気にする素振りも見せず、着物を脱ぎ、畳んで、カゴに入れる。
露わになる健康的な白い肌に、起伏の少ない体つき。
「……本当に何歳だよ、ほんとに分別のつく年なんだろうな?」
「失礼なヤツじゃのう。少なくともおんしよりは年上じゃ。
敬うが良いぞ?」
「いや、無理っす」
即答で返すと、なぜかまた楽しそうに笑う。
本当に、おかしな幼女だ。
そんな思いで眺めても、特に気にした様子はない。
笑い終わるとすぐ、手を小さく振りながら風呂場の扉をくぐっていった。
出来の悪い夢よりも、たちの悪い現実というやつだろうか。
あいつもこの旅館に泊まってるだろうし、また会うかもな。
ふと、さっきのおかしな幼女を脳裏に浮かべる。
強く印象に残ったのは、話し方でも、体でも、態度でもなかった。
まるで、宝石のような――
「アクアマリン……だっけ」
浅い海のような、澄んだ水色の瞳が、彼女を印象づけていた。
__________
少々おかしなことがあったが、今回の旅行は満足だ。
一人で悠々と旅館に泊まることが、こんなに楽しいとは思わなかった。
好きにゴロゴロとできるし、風呂も入り放題、実に素敵だ。
おかしな幼女以外の宿泊客も居ない、その幼女が一番の問題なくらいだ。
貸切に近い一人きり、本当に素晴らしい。
友人に言えば、さみしいやつだな、と目で語られるだろうが。
「寂しいヤツじゃのぉ?」
目の前の幼女は口に出して言いやがる。
別に俺が何かを言ったわけではない。
いきなり部屋に入ってきて、一人で居る俺を見た途端これだ。
「なんで俺の部屋に来てんだよ」
「ハハ、なに。一人では酒がまずいのでな」
こともなげにそう言うと、盆に載せた酒瓶の一つを手に取る。
コップに、なみなみと透明な液体を注ぎ、喉を鳴らして飲み始めた。
俺が未成年であることは分かっているようで、ジュースが一瓶混じっている。
実に美味そうに飲み干すと、その瓶をこちらに押しやってくる。
「奢りか?」
「あぁ、良いぞ。わしのワガママなのでな」
そういうことならと、ジュースの瓶を受け取り、匂いを嗅ぐ。
ラベル通りの柑橘系の匂いがする。アルコールは入っていないようだ。
俺としては林檎ジュースが好みだが……文句は言わん。
というか、言ったらなんかありそうだし。
「わしは若人に酒を勧めるようなことはせんぞ?」
「万が一、ってやつだ」
「用心深いのぅ」
見知らぬ人からもらった物を信用する気はない。
特に、目の前のおかしな幼女は信用できない。
友人も同じくらいおかしいが……うん、やっぱり信用できない。
コップに移すのが面倒なので、そのまま口をつける。
「ん、美味い」
「じゃろ? この旅館はわしのお気に入りじゃからな」
「へぇ、何度も来たことがあるのか?」
「まぁ、馴染みの、と言えるほどにはの。毎年一度は来ておる」
毎年とは、本当にお気に入りなんだろうな。
「夏にも来るのか?」
「たまにはの。あまり人が多いのは好かんのでな」
「同感だ」
チビチビとではあるが、確実に飲み物を消費しながら話す。
そうしているうちに、ふと距離感の心地よさに気づく。
ただの話し相手、というほど遠くなく。馴れ馴れしいというほど近くもない。
なにより、彼女の雰囲気は静かで、俺の嫌いな騒々しさとは無縁だった。
会話を楽しむ、というのも久々だが、悪い感じはしなかった。
「に、しても。見るほどに伽藍の洞のようじゃな」
――その言葉を聞くまでは。
しばらく、彼女の顔を見つめる。
「…………」
「む、そのような顔をするでない。わしが悪かった」
驚くほどあっさりと、頭を下げる。
それを見た俺は、首をそらして天井を仰ぐ。
言っていた意味は、よくわからないのだけど。
どうにも、心に残る。
「そう執心するでない。主の気質にどうこう言う気はないからの」
「そうか……ま、気にしても仕方のないことだろうな」
「すまんかったの、今宵はこれでお開きにするとしよう」
そう言って、空の瓶を回収する彼女。
幼女が酒瓶を集めているのは、とても変な気分だ。
あぁ、そういえば。
「お前の名前、知らないんだが」
「ん? そういえば、そうじゃの。わしは唐崎優凪。
ま、今宵の仲じゃ。優凪と呼ぶが良い」
「そうさせてもらう。俺は、戸藍トウヤ。トウヤでいい」
自己紹介をして、しばし静かに笑い合う。
おかしな幼女だと思ったら、意外と気のおけない仲になりそうだ。
また明日、と言い残して、優凪は部屋を出ていった。
__________
眩しい……。
朝、のようだ。が、寒い。体が布団から出たがらない。
重いまぶたを無理やり開け、時計を見る。
7時37分か。遅いのか、早いのか。
学校に行く時間から見ると遅かった気がする。
だけど、今日は学校がないはず……。えー、っと。あぁそうだ。
「クァー……そういや、ここ旅館だったな」
いつもと違う布団から身を起こし、体を伸ばす。
暖房のスイッチを入れ、毛布で体を包んだまま椅子に座る。
んー、朝風呂に入ってみるのもいいかなぁ。
窓から入る朝日を浴びながら、そんな事を思う。
でも、寒さで湯冷めするだろうし、朝風呂は体に悪かった気がする。
やっぱ、やめとこう。どうせだから、少し散歩しに行くかな。
どちらにせよ俺らしくなかったが、なんとなく良い考えに思えた。
適当に着替えて、上着を羽織る。
目も覚めてきたのか、少しは頭も回りはじめた。
途中で温かい飲み物でも買わないと寒いだろう。
旅館の外すぐ横に置かれた自販機に立ち寄る。
「む? 奇遇じゃのう」
「あぁ、お早いことで」
なぜかいる幼女。もとい、優凪。
彼女は酔い覚ましなのか、天然水を手に持っていた。
彼女に見られながら硬貨を入れ、適当なコーヒーのボタンを押す。
「どこかに行くのかの?」
「アー、別に。ちょっと散歩だ」
「ふむ、良いのぅ。ワシもともに行くとしよう」
「二日酔いじゃないのか?」
「ハハ、わしがその様な風になるわけがなかろう」
飄々と、とでも言うのだろうか。
まるで当たり前のように、自然と隣について歩きはじめる。
やっぱり、おかしな幼女だ。
まじまじと、改めて彼女の姿を観察する。
金色のすすきのような模様が入った着物を着こなしている。
幼い身体に意外と似合っている。いや、雰囲気に似合っているのだろうか。
白髪が肩の上で踊る。こちらを見上げ、首をかしげる彼女に気づく。
「……その着物は自前か?」
「あぁ、そうじゃよ。良いものであろ?」
「着物の目利きなんぞできん」
そんな会話で目線をそらす。あてもなく歩いていたが、こっちはビーチか。
「最近の若者は……」とぼやく優凪を無視して鼻から息を吸い込む。
冷気がちくりと鼻の奥を刺す。微かに、潮の匂いがする。
「この季節に、海とはね」
「悪くはないぞ? 四季折々、風情というものは何にでもある」
三日月状の美しい砂浜に立って、潮風を感じる。
寒いし、波は冷たく泡立っている。
正直なところ、この時期に来る場所ではないだろう。
「海は、空とは違う白を浮かべて、青を弄ぶのじゃな」
「……詩的だな」
「ハハ、悪い感性ではなかろ?」
確かに、波に揺れる青は、弄ばれているように見えなくもない。
悪くは、なかった。静かだと思っていた海が、少しだけ違って見えた。
ぼんやりと彼女の横顔に視線を移す。
肩の上で切り揃えられた白髪が、潮風に揺れている。
その隙間から見える水色は、どこか冷たく見えた。
__________
朝飯の時間が迫っているのに気づき、急いで旅館に戻る。
食堂に行けば朝食が二つ並んでいた。
……隣同士で。
「散歩に行っていたの?」
「あぁ、そうですけど……」
「少し砂浜を見て来たのじゃ。ヌシの思うほどのこともない」
女将の問いに、朝食の席に気を取られていた俺は言いよどむ。
それに被せるように、冷たく放たれた言葉に思わず振り返る。
彼女はさっさと食事の盆を移動させ、俺の盆の向かいの席に座る。
驚き、呆然とする。
「あら……ごめんなさいね、悪い人ではないのよ」
「え、えぇ。知って、ます」
どこかから、嘘をつくな、と責めるような声が浮かび上がる。
「それじゃあ、私は戻るわね」
「………………」
女将が食堂を出ていくのを見ていた。
無意識のうちに、食事の前に座り、手を合わせる。
美味しそうな和風の料理が乗ったお盆が二つ、その先。
彼女が、目の前にいる。
「……すまんの」
「いや、別に」
優凪が、コツコツと箸の先で椀の底をつつきながら、小さな声で呟く。
「おんしは……不老、不死というものを……信じるかの?」
不安そうにこちらを盗み見る目線。
一瞬、おとぎ話のような単語に、虚を突かれた。
だけど、その様子を見れば、いやでも納得がいく。
「あまりにも、その体は幼すぎる」
「……」
確信しているように、俺の推論を述べる。
彼女の沈黙は雄弁で、俺は目線を天井に向けた。
「いや、なに。普通は……信じぬ、じゃろう?」
「そりゃあ、そうだな」
ポツポツと口の先だけで話をする。
頭の中は、流石に混乱している。
あまりに幼い容姿、見合わぬ態度と雰囲気、口調。
納得はいく。その結論が、頭の中でぐるぐる回る。
「……不老不死、か」
「人魚の肉を食ったわけでなければ、龍の血を浴びた覚えもない。
変わったことは、何もなかったんじゃ」
握り締めた箸は、動いていないらしい。
沈黙が、一瞬を永遠にも思わせるほど引き立たせる。
ただ、俺は上を向いたまま、黙って聴き続けた。
「なに、数えで17の時かの。気づいたのは。
背も伸びぬし、月のものも来ぬ。そうして、わしは……」
何年前の話かはわからない。
だが、ほんの100年も前なら、いくらでもある話。
「捨てられた。山の中にの、山菜採りと言うて連れて行かれたわ」
血を吐くような、とはこのような声かと冷静に思う。
弱い子供の体で、女性としての価値も怪しい。
現代ならともかく、村に置いておくわけにはいかない。
「夜が来れば、獣の時間じゃ。ハ、想像に難くなかろ?」
「……そこで、知ったのか」
「思い知った、のじゃよ」
カチカチと微かに箸が震える音が聞こえる。
顔をまっすぐに向け、彼女の顔を見る。
箸が震える音だと思っていた音は、彼女の歯から聞こえていた。
素人目にもわかるほど、血の気を失った顔。
「どこへも、行けんかった。どこへ行っても、この体は……」
「もう、いい」
「っ! ……ッハハ、なんじゃ。気分でも悪くなったかの? 若人には――」
「もういい。俺が、聞きたくない……もう、喋るな」
そう言って、食事に箸をつける。
これ以上話すことはないと、態度で示す。
「……すま、ん」
それだけ言い残すと、箸を置いて食堂から出ていった。
良い匂いのしていた料理は、砂でも噛んでいたほうがマシに思えた。
__________
味のしない朝食を終え、女将にあることを聞く。
答えとしては、予想通りのものと、全く知らないもの。
全く知らなかった彼女の部屋の前に立って手をかざす。
ノックをする前に、扉が開く。
少し顔色の戻った彼女が、俺を見上げていた。
「早かったのぅ。風呂にでも入ろうと思ったんじゃが」
「ちょうどいいさ。ゆっくり話すのなら悪くはない」
視線を下げ、少し困ったように言う彼女。
俺としてもその気だったので、着替えは持っている。
「ハハ、それは僥倖じゃ。では行くか」
優凪は驚いた顔を緩ませ、少し微笑んで誘いに乗る。
「多少落ち着いたのか」
「過ぎたことじゃよ。悔いるほど若くはないのじゃ」
「……そうか」
水色の瞳に浮かぶ恐怖は、未だに色褪せていない。
想像することも嫌になるような、強制的な生。
真っ白な髪を見下ろすと、その小さな体は、とても儚く見えた。
「そういえば、おんしは混浴を好いておらんのだったか」
「そりゃあ、こう。童貞特有のロマンチストだよ」
「ハハハ、良いのぅ。嫌いではないぞ」
さすがに本気ではないが、彼女は気に入ったらしい。
脱衣所に入って、服を脱ぎ始める。
すると、彼女がふと思い立ったように動きを止めた。
「おんし、わしが不老不死であることをよう簡単に信じたのぅ?
なにか下心でもあるのではあるまいな?」
着物の帯を解いて露わになった胸を、腕で隠すようなポーズをとる。
「女将さんに聞いたぞ、少なくとも30年。姿が変わってないってな」
女将さんは、優凪を年上として認識していた。
予想通りの答えではあった。が、それなりの驚きはあった。
「……なんじゃ。アホでは、無いようだのぅ」
「馬鹿なことやってないで、さっさと入るぞ。体が冷える」
こっちはもう裸になってるのに、何をしみじみと言ってるんだか。
やっと気づいたらしく、少し慌てた様子で着物をたたんでカゴに入れる。
「いやー、すまんの」
「別に気にしてないけどな」
シャワーで頭からお湯を被ると、冷えた体に沁みるのを感じる。
お湯につかると、こわばりが溶けていくのを感じる。
一息。大きく息を吐くと、隣に優凪が入ってきたのを感じる。
「はふー。風呂は良いのぅ」
「あぁ、同感だ。実に良い」
二人してお湯に溶けたように気の抜けた声を漏らす
彼女の頬には朱が混じり、倒錯的な色気を感じる。
見た目が9歳の幼女であることを思い出して、目をそらす。
流石にこのままではまずいと、気持ちを切り替える。
「……どうして、俺にお前のことを話したんだ?」
「……」
聞きたかったのは、それだけ。
今更、彼女の過去に興味はない。
それは、過ぎたことで、俺には関係ない。
俺に関係があるのは、その一点だけ。
「人を避けて、繋がらず、共に居たくとも居られない。
そんなお前が、俺に……いや、俺と一緒に居る理由」
「ハハ……なんじゃ、見透かされておるのう。
そうもわかりやすいか? 不覚じゃのう」
ただの推論で、聞くだけ馬鹿馬鹿しくもあった。
それでも、疑問のままにしておくには大きすぎて。
もう一度、彼女を見つめる。
「なに、最初は寂しい奴だと、そう思っておったからじゃよ。
ハハ、この体で先輩風を吹かすと楽しいんじゃよ」
「……そうか」
ある意味、とても安心できる答えが返ってきた。
少なくとも、なにか深い理由があったわけでは……。
「じゃがな」そんな俺の思考を断ち切って、彼女が続ける。
「言うたであろ……伽藍の洞のようじゃと。
まぁ、なんじゃよ。ただ……ほんとに安っぽい同情、のようなものじゃ」
沈黙を返す。
伽藍の洞、そのままの意味でとるなら、伽藍洞であるということ。
それを、同情? 訳がわからない。俺はなんの変哲もない高校生だ。
「俺には……よく意味がわからん」
「ハハ、それで良い。あまり理解されても、わしの恥を上塗りするだけじゃ」
赤く染まった頬をかきながら、ぷいと顔を背ける。
耳まで赤くなっている彼女の様子に、少しだけ納得する。
結局、難しく考える必要はないんだ。
「ありがとう。と言っておけばいいか?」
「っ! や、やめい。からかうでない」
俺の言葉に肩を震わせる優凪。
初めてあった人に、同情し、独り善がりでない行動ができる。
彼女は、そんな優しくて、尊敬できる人だ。
だから、心の底から感謝を伝える。
「……どれぐらい、この旅館に居るつもりだ?」
「冬いっぱいは、おる」
「そうかぁ。俺はあと4日ほどだ」
小さな声で、返す彼女に、提案をする。
「俺にこの街を案内してくれないか?」
「何も、知らぬよ」
「ちょっと歩き回るだけでもいい。それとも、嫌か?」
しばらく間を置いて、彼女は首を横に振った。
__________
もう少し入っているらしい彼女を置いて、先に風呂から出る。
部屋に戻り、カバンの底からスマートフォンを取り出す。
電源キーを押すと、電池残量が心もとないことに気付く。
これだからスマホってやつは。
心の中で愚痴るが、残念なことにガラケーでは目的を達成するのが面倒だ。
仕方ないのでコンセントに充電器をぶっさして、充電しておく。
じっとしてるのもアレなので、旅館を探索する。
「あ、女将さん。ちょうどいいところに」
「あら、どうかしましたか?」
「いえ、実は――」
これから優凪と一緒に街に出ることを話す。
俺や優凪の会話は伏せておいたが、深く頷く女将にはバレてる気もする。
「そういうことなら、いい場所があるわ」
「ホントですか?」
「うふふ、本当よ。地図を渡すから、着いてきて」
機嫌が良さそうにそう言って、歩き始める。
着いて行くと、別館の方へ続く渡り廊下を通った。
ガラス戸から見える庭は、雪が積もっていた。
日本式の庭園に雪が積もっている。
写真に収めるなら、これ以上ないシチュエーションだ。
事実、綺麗だと思った。なにより、きっと彼女もこの景色を見てきた。
きっと、飽きるほど見てきたのだろうけど……。
「ちょっとここで待っててね」
「あ、はい」
考えているうちに、目的の部屋に着いたらしい。
障子の戸を開け入っていった。
直ぐに出てきた女将の手には、二枚の紙があった。
「はい、こっちが周辺の地図よ。昔はお客様に渡していたものだったのよ。
おすすめの場所を書き込んである観光用のものなの」
「は、はぁ」
「それで、こっちが私の小さな頃の写真。
ほら、優凪さんが写っているでしょう?」
そこには、先代の女将と夫らしき男の人。
そして、小さな女の子の手を握る、今と変わらない優凪の姿。
「これで、信じられるかしらね」
「はい、もちろん。信じますよ」
そう言うと、女将は安心したように微笑んだ。
__________
部屋に戻ると、優凪がスマホを弄りまわしていた。
俺が部屋に入ってきたことにも気づかないほど集中している。
持ち上げてみたり、真っ黒な画面をつついてみたり。
時たま満足気な声を上げて、スマホを見つめる彼女。
「おい」
「ぬあっ!? な、なんじゃ。」
驚いた優凪の手からスマホがすっぽ抜ける。
しかし、彼女自身ですぐさまキャッチし、返事を返す。
「そんなにスマホが珍しいか?」
「う、うむ。知識にはあるんじゃが、使ったことはなくての」
「ま、とりあえず返せ」
受け取ったスマホの電源を入れてみる。
充電は終わっているし、変な操作をしたわけでもないようだ。
「機械に疎いわけじゃないのか」
「まぁのぅ、パソコンならたまに使っておるし、便利なものじゃよ」
「そりゃあ良かった。スマホが変にならなかったからな」
「酷いヤツじゃのぉ」
そんな会話をしながら、マップアプリを起動する。
出てくるのは殺風景な白い地図。
ホントに何もねぇなあ。
横から覗き込む優凪は興味津々に画面を見つめている。
「使ってみるか?」
「良いのか?」
キラキラと星がまたたきそうなほど明るい瞳で問われる。
これで冗談だと言えるほど薄情ではない。
電源ボタンとホームボタンを押さないように言ってから、手渡す。
「おー、これは。技術の進歩を感じるのぅ」
「もう数年前の技術だけどな」
「わしにとっては今触れておるものが最新じゃよ」
嬉しそうにスマホをタップしたり、スワイプしたり。
機械に疎くないだけでなく、飲み込みも早いらしい。
年の割に……というのは失礼が過ぎるか。
写ってるのがこの周辺の地図だと気づくと、俺に拡大して見せてくる。
「ほれ、これがこの旅館じゃろ?」
「ん、おお。ホントだな」
いつの間にか、衛星写真モードに切り替えてある。
上から見ると印象が違うが、あのビーチはわかりやすい。
優凪が旅館の位置から少し北の辺りをズームする。
「ここに八百屋があっての、今の時期じゃと……
大根、キャベツ、あとはカリフラワーも美味しいのぅ」
「詳しいんだな」
「ハハ、何年生きとると思っとるんじゃ?」
「こりゃ失敬。にしても、そんなとこに八百屋なんてあったか?」
「む? ぬぬ、確か3年前にはあったはずじゃが……」
朝の記憶を思い返す。
位置的には、前を通っているはずだが。
あまり周りに気を使っていなかったし、見落としただけかもしれない。
「うーむ、そうなると……」
「アー、とりあえず外に出よう。ほら、地図もあるし」
女将から貰った地図を示す。
納得のいかない様子の彼女からスマホを取り上げる。
「ぬー。せっかちじゃのう」
「まったく、昼には旅館に戻ってくるだろうが」
「むぅ……よかろ。年下のワガママを聞くのも甲斐性じゃて」
一転して胸を張り、自慢げに言う優凪。
不老不死は気にするくせに、年は気にしないんだな。
そこを突っ込むのも野暮なので、黙っておく。
さっさと外に出ようとする彼女の背中を追いかけて、旅館の外に出た。
__________
スタスタと、迷いなく旅館からの道筋を歩く。
直ぐに立ち止まって、閉じたシャッターを見つめる。
「やはり、閉まっておるのぅ」
凍ったような瞳をしながら、冷たいシャッターを撫でる。
「……はぁ」
ため息をつく彼女。
どう声をかけたら良いのか分からなかった。
永い時間、変わらない彼女。
人も、社会も、変わってしまうのに。
「すまんの、気にすることはないぞよ。
よくあることじゃからのぅ。今更じゃて」
「そう、か……いや、そうだな」
特に気にした様子もなく、笑い飛ばす。
先程までの冷たい瞳は、もうない。
「おんしは顔に出やすいのぅ」
「そう言うお前は……やっぱいいや」
「なんじゃ、気になるのぅ」
言うほど気にしてはいないのか、背を向け歩き出す。
――お前は、目に出やすいじゃないか。
心の中で、呟く。優しげな、彼女の瞳を思い出しながら。
「ほれ、行くぞよ」
「はいはい、まずは地図にあるとこを目指しながら行くか」
「目に付いたところに立ち寄るんじゃな」
頷いて、地図を開く。
向かいから彼女が覗き込む。
一番近いところは、駄菓子屋だろうか?
「ふむ、あそこの菓子屋かのぅ? もう5年ほど前に閉めたはずじゃが」
「……この地図も古いってことか」
しばらく沈黙して、地図を閉じる。
言葉を発することなく、歩き出す。
とりあえず、歩き回ってみよう。
そんな感じの思いが、顔に出ていたのかもしれない。
__________
歩き回ったが、特に面白そうなところは無かった。
コンビニもないので、一度旅館に戻ろうと思っていた時。
「見よ、あそこに古本屋があるじゃろ?」
不意に、優凪が声を上げる。
指差す方を見ると、レンガ作りのような外観の家が一軒。
入口のガラス戸には『千硯古書店』と書いてある。
「えらく長い間やっておる所でのぅ。わしも馴染みじゃ」
案内できるところがあって嬉しいのか、笑みを浮かべる彼女。
「本、好きなのか?」
「まぁの。暇じゃからな」
「そりゃな」
何気なく頷いて、苦笑する。
なんか馴染んできたなぁ。
そう思いつつ、彼女の背を追って古書店に入る。
扉の隣にレジがあり、そこに男が座っている。
髪が長く、中性的な顔立ちだ。
「久しいのぅ」
「ああ、久しぶり。言っても、去年ぶりだけどな」
「ハハハ、久しかろう?」
「少なくとも、お前が男を連れてくるようになるくらいは時間が経ったらしい」
付き合いが長いのか、屈託なく話す優凪。
その様子に、居心地の悪さが心に溜まり、本棚に視線を向ける。
そのせいか、男が近づいてきたことに気付かなかった。
「……近い」
「ふふ。なに、上の空だったからな」
目の前に男が居た。
近くで見ると、そこらの女子よりも肌がきれいで顔がいい。
一見すると女性にしか見えない。
声は中性的で、男と断定する要素はない。
「なんで海パンなんだよ」
「動きやすいだろ?」
この時期に海パンのみでいるような変人でなければ、の話だが。
いや、流石に女性がそんな格好はしないだろう。
「コイツは元からこうなのか?」
「少なくとも、ワシが知ってる限りではこれ以外の格好を見とらんのぅ」
「そんな目で見るなって。好きでやってるんだから」
「なお悪い」
店主に気を取られていたが、店内はそれなりに広い。
個人経営の古本屋とは思えないくらいだ。
「おー、懐かしい絵本がたくさん」
「絵本は特に古本になりやすいんだよなぁ」
「新しい古本はないかのぅ」
「日本語がおかしい気がするけどあってる」
レジに座りながら俺たちの独り言に反応する店主。
本棚の間を行ったり来たりして物色する優凪。
俺は適当な本を手に取って立ち読みする。
「にしても、唐崎が男を連れてくるとはなぁ」
「オヌシが女を連れてくるのはいつかのぅ?」
「オカンじゃないんだから、言うなっての。
んで? あれか、惚れたのか?」
なんとなく手にとったハードカバーが、手から滑り落ちる。
それは爪先に落下し、ぐぐもった悲鳴を上げ、うずくまる。
トタトタと足音が聞こえ、優凪が隣にしゃがみこむ。
「大丈夫かの? ただのからかいじゃて、気にするでない」
そう言うと、地面に落ちた本をもとの棚に戻す。
そこまで痛くもないはずなのに、なぜか涙が出そうだった。
__________
優凪が一発、店主を殴ったあとで古書店を出た。
綺麗な正拳突きだった。
そう言うと、暇を持て余して覚えたと返す。
しばらく、沈黙して歩いた。
「……腹が減ったのぅ」
「よく考えたら、お前、朝食ってないよな」
小さく腹の虫が鳴くのが聞こえる。
恥ずかしかったのか、赤くなった顔を背ける。
くすりと笑うと、なんだか憑き物が取れた気がした。
「昼飯はなんだろうな」
「この時期じゃと、肉よりも魚じゃろうな」
「へぇ。そういえば、料理もできるのか?」
「当たり前じゃろう。
少なくとも、モノを食べられるように加工するのは誰にも負けんわ」
自虐を含んだ自慢に、思わず苦笑する。
緩んだ口元から、言葉がこぼれる。
「食べたいなぁ」
「ほぅ……よいぞ」
無意識に出た言葉に、彼女が反応する。
一瞬、思考が止まる。
言葉に詰まった俺を気に止めず、くるくると指を振る彼女。
「では、昼からは買い物じゃな。
あと女将に厨房を借りんといかんなぁ」
ついていけずに瞬きを繰り返す。
気付いた途端、顔から火が出そうになった。
俺は、ロマンチストだとよく言われる。
そんな俺に、女の子の、優凪の手料理だなんて。
「ふふん、プロにも負けんと自負しておるゆえ。期待するが良いぞ」
上機嫌で笑う彼女の顔を、直視することができないままで旅館に着く。
「お帰りなさい。昼食ができていますよ」
出迎えに来た女将が、ニコニコと微笑みながら俺たちを食堂に案内する。
昼食は彼女の言った通りに魚が主食だった。
「やはり、ワシは魚のほうが好きじゃのぅ」
そう言いながら煮付けを口に運ぶ優凪。
味が染みているし、新鮮なのが感じられる。
俺は肉の方が好きだが、魚もいいかもしれないと思ってしまう。
「ちなみにじゃが、あやつに料理を教えたのはワシでな」
「マジで?」
驚きすぎてご飯が口から飛び出そうになる。
その様子を見た女将さんがこちらに声をかける。
「私が唐崎さんに教えて貰ったのなんて、少しだけよ」
「少なくとも、ワシを満足させるまでは厨房に立てんじゃろうに」
「ふふ、そうね。懐かしいわ」
思ったよりも、この旅館との仲は深いらしい。
この旅館の味を決めているのは優凪ということになる。
「なんか……すごいな」
「ふふん、じゃろう?」
得意げな顔で鼻を鳴らす優凪。
それを嬉しそうに見つめる女将さん。
なんだか不思議な感じがする。
「あぁ、そうじゃ。このあたりに店はどのくらい残っておるんじゃ?」
「……そうねぇ。ほとんど残ってないわね。
うちの食材を使ったほうがいいと思うわ」
「うむ、では甘えるとするかの」
会話を交わし、外堀が埋められていく。
ホントに、優凪の手料理を食わないといけないらしい。
期待はしているが、期待しすぎてどうにかなりそうだ。
「む? 箸が止まっておるの。なにか嫌いなものでもあるのか?」
「え、あいや。別にないよ」
考えに集中していたせいか、食べるのを忘れていた。
ぬるくなった味噌汁を飲んでいると、女将がつぶやくのが聞こえる。
「……純情ねぇ。ふふ」
あぁ、恥ずかしい。優凪も気を使わなくていいのに。
顔が熱いのをごまかすように、無心で食べ続けた。
__________
ストンと、力無く腰を下ろす。
魂が抜けたような、体が重たいような、思考が空回るような。
「あぁ、もう……」
大きく息を吸って、長い時間をかけて吐ききる。
少しだけ落ち着いた。
座り直して、出来るだけ何も考えないことに努める。
「……まだかな」
さほど時間もたっていないだろうに、言葉が溢れる。
待ち遠しい。というのも違うが、待っていて楽しいはずもない。
優凪が旅館の冷蔵庫で食材を決め、料理を作るまで。
それまで、俺は部屋で待機を言い渡された。
律儀に待つ必要も無いだろうが、そんな気にはならなかった。
意味もなくため息が出る。
足を伸ばして寝そべり、天井にぶら下がった蛍光灯を見つめる。
天井のシミでも数えようか。全くないけど。
窓の外に白い影がちらつくのが、視界の隅に入る。
気にも止まらない。瞼を閉じて、思考に沈む。
彼女が台所に立っている姿が思い浮かぶ。
その妄想を振り払う気力も出なかった。
じりじりと焼け落ちるような時間が過ぎていく。
体が熱くなって、飛び起きる。
こうしていても仕方ない。いっそ忘れよう。
そう思い、スマホを起動する。
いつもやっているアプリを開いて、そっ閉じ。
……女の子が出ないゲームをしよう。
「別に悪いことじゃない、よなぁ?」
得体の知れない罪悪感を持て余す。
声に出して確認しても、疑問形のままで答えにならない。
もちろん、答えをくれる人もいない。
扉が開く。音で気づいた俺は、弾かれたようにそちらを向く。
女将さんが入ってきたのを見て、ホッと息を吐く。
「ごめんなさいね、唐崎さんでなくて」
「え、いえ。そういう訳では……なんというか、心の準備が」
優凪が来るのを期待していた、と受け取られたらしい。
一応弁明するが、間違いでもないと思う。
手の中にあるスマホを意味もなく見つめる。
「唐崎さんに追い出されちゃった。あとは自分がやる、って。
でも、今日のことはたくさんお話したわ」
「そうですか。正直、歩き回っただけですけど」
「唐崎さんはそうは思っていないみたいよ? とても、嬉しそうだったわ」
女将さんは、それが珍しいことであるかのように話す。
くるりと、スマホを裏返して、また戻す。
女将と話す時の彼女は、少しそっけない。
本屋の彼女は、明るかった。俺と話すときは……
「嬉しそう、でしたか」
「えぇ、とっても。
……貴方のことを探る気はないけれど、とても不思議なの。
あんなに楽しそうな唐崎さんは見たことがないわ。」
「そんな、まさか……」
「ふふ、貴方は知らないでしょう?
私も、あの人の料理を食べたことはないのよ?」
それこそ、まさかだと言いたかった。
顔を上げた先の、女将さんの瞳は笑っていなかった。
「私はね、あの人に聞いたことがあるのよ」
「もう、いいですよ。俺たちは、昨日会ったばかりです……どうして」
「それは私にはわからないわ。でも、もしも、聞きたいのなら」
――あなたの気持ちを整理してからにしましょうね。
その言葉は、俺の心を読んだのかと思うほどに正確だった。
きっと、彼女にもバレているだろう。
女将さんが出て行くまで、俺は唇を噛んだまま俯いていた。
__________
「何を寝ておる、起きよ。飯じゃぞ」
「ん……? あぁ……」
考え事にひと段落つけたらいつの間にか眠っていたらしい。
寝ぼけの残った頭で、彼女を認識する。
普段は昼寝の後は寝起きが悪いのだが、スッキリと頭が冴えた。
「おはよう」
「アホウ、もう日暮れじゃ」
言われて、時計を見てみると6時の少し前。
窓を見れば、真っ暗な夜空しか見えなかった。
「1、2時間ほどか。よく寝た気がする」
体を反らすと、背骨から鈍痛を感じる。
布団もしかずに畳の上で寝たのだから、当たり前だろう。
上体をひねりながら机を見れば、美味しそうな料理が並んでいる。
魚の煮付けを主菜とした、和食の見本のような配膳だ。
「美味そうだな」
「間違いなく美味いに決まっておろうが」
自信に満ち溢れた笑みとともに、当たり前のように言う。
その溢れる自信に、より期待が高まる。
香りも見た目も完璧に見える。
美食レポーターでもない俺にはどれくらい凄いのかはわからない。
食べてみれば、すぐにわかるだろうが。
「「いただきます」」
味噌汁を手に取って、口元に運ぶ。
味噌汁の香りがこんなに美味しいとは思わなかった。
だしが香る、とはこのことだろう。
そっと口をつけて、熱い味噌汁をすする。
「……うまい」
言葉にできたのは、たった一言。
それでも満足げに微笑む彼女を見て、俺は食事に集中した。
__________
「ごちそうさまでした」
「お粗末さまじゃ」
どの一品も逸品であった、とでも言おうか。
結局のところ、うまい以外の感想を口にすることはできなかった。
そんなことは気にしていないのか、嬉しそうな笑みをこぼす優凪。
目線のやり場にこまってしまった俺はいっぱいになった腹をさする。
「さて、食器の片付けでもしようかのぅ」
「あ、ちょっと待った」
立ち上がろうとした彼女を制して、向き直る。
不思議そうな顔をして、彼女も姿勢を正す。
こうやって向かい合うと緊張する。
「えっと……その、単刀直入に聞く。
どうして、俺に料理を振舞ったんだ?」
「む? あぁ、女将から聞いたんじゃな?
なんじゃ、えろう腹を括った顔をしとると思うたら……」
上を向こうとする顔を必死で押しとどめながら聞く。
若干声が上ずった気がしないでもないが、もはや気にしてられない。
ヤレヤレといった様子の優凪をジッと見つめる。
「……うーむ、おんしは1日という時を長いと思うかの?」
「え、いや……どうだろう。日による、と思うが」
「ワシにとっては短い。よく言うであろ、年をとれば1日が短いと。
まさか、ワシ以上の年寄りはおるまいて」
そう断言して、小さく首を振る。
「ワシとおんしが出会ったのは、昨日じゃ。
1日、のはずじゃ。とても、長く感じるわい」
しみじみと、感慨深そうに、小さな声で話す。
うつむいてしまったせいで、その表情はわからない。
もちろん、その眼も、見えはしない。
「ただ、飲み、歩き、風呂に入った。それぐらいじゃな、したことは。
全部、よく覚えておる。何故じゃろうな」
自分に問いかけるかのように続けられる言葉に、口を挟むこともできない。
ただ、固唾を飲んで、彼女を待ち続けた。
「最初は、変な奴じゃと思うた。瞳に感情のないヤツなぞ見たことがない。
飲みながら話すうちに、伽藍の洞のようじゃと、思うた。
伽藍というのはの、とても清浄な場所のことじゃて」
昨日の言葉の意味を、とこかおかしそうに話す。
とても正常な場所、という意味の言葉が、俺とどうつながるのか。
彼女は、ゆっくりとひとつ息を吐いて、静かに口を開いた。
「どう言えば良いかのぅ。まるで、凪いだ水面のような静謐さ、かのぅ。
どこか達観したような雰囲気、かのう?」
言葉が見つからないのか、疑問形で問いかける。
誰にでもなく、それどころか答えはいらないように見える。
「まぁ、なんじゃ。
おんしと一緒におることが、楽し……いや、心地良かったんじゃ」
恥ずかしそうに、消え入りそうな声でそう言った。
相変わらず顔は見えなかったが、髪から出た耳の先が真っ赤になっていた。
何度か反芻して、彼女なりの好意だと理解する。
「にしても、おんしは鈍いのぅ。今朝の時点でバレておると思っておった」
その言葉に首をかしげる。
今朝といえば、不老不死を知ったことだろうか?
それでわかる奴なんていないと思うが……。
「ハハ、おんしを過剰評価したワシが悪いのかのぅ。
必死で誤魔化したのが情けなく思えるわ」
誤魔化してたのか……。やっぱり、よくわからん。
しばらくして顔をあげた彼女は、いつも通りだった。
「さて、恥を晒したついでに、恥をかいてしまおうかの。
おんしのことが、好きなんじゃ」
「……あ、ハイ。俺もです」
あっさりとした告白に、つい空返事をしてしまう。
表情を引きつらせた優凪を見て、俺も硬直する。
……こんなにあっさりと俺の恋が実った。
ショートしそうな俺の頭の中では、友人が大笑いする。
目の前では、彼女が湯気を出しそうなほど顔を真っ赤にして慌て出す。
「ぬぁッ? へ、ちょ……ちょっと待って! よく考えて?
いや、そうじゃないくて。えっと、そのぉ……っ!」
「あの、えっと。おち、落ち着こー。ね?」
のじゃのじゃ言ってるのが素かと思ってたけど、そんなわけないか。
呑気にそんなことを考えてるせいか、呂律が怪しい。
目尻に涙を浮かべてやっと落ち着いてきたのか、手で顔を覆った。
「も、もう一回言うよ? ちゃんと……き、聞くんじゃぞ?
おんしのことが、好きじゃ。ワシが、ワシがじゃぞ?」
「いや、わかってるよ。俺も、お前のことが好きだから」
お前本当にそれでいいのか、みたいな副音声が聞こえそうだ。
だが実際、女将と話をしてからすぐに結論は出ていた。
唐崎優凪という女性が、俺の中でかけがえのない人であること。
問題は、優凪が本当に俺のことを好いているのか。それ一点。
「ぶっちゃけ、ほかの問題は考えてなかった」
「アホじゃなっ! おんし、アホじゃろ!
ワシは、不老不死じゃし、子も孕めんし、融通もきかんし……」
頭を抱えて自虐を始めた彼女にもう一度、俺から伝える。
「えっと。俺は、貴女が好き……です。
俺は不老不死じゃないし、貴女を幸せにできる自信もないです。
それでも、いいですか?」
予想以上に恥ずかしくて、敬語になってしまった。
弾かれたように顔を上げると、顔を歪めて涙を流し始めた。
アホ、アホー。とうわ言のようにつぶやく彼女が、愛おしい。
想いに従うまま、彼女の後ろに移動して、震える肩を抱きしめた。
「おんしで、よい。おんしが、よい。好き……だから」
「ありがとう」
彼女の震えが止まるまで、ただ抱きしめ続けた。
小さな体を、守るように。寂しく、ないように。
__________
雪が、しんしんと降り積もる。
白く染まる庭。右手で白い髪を撫でながらその様子を見つめる。
くすぐったそうに体を揺らした彼女の顔を覗き込む。
澄んだ水色の瞳に映る愛しさに、思わず微笑む。
「なんじゃ、浮かれておるのか?」
「お前こそ」
軽口を叩きながらまた庭を眺める。
石灯籠の上に積もった雪を見て、時間を想う。
左手に繋いだ彼女の手が強く握られる。
握り返すと、確かめるように親指で手の甲を撫でてくる。
軽く二度、彼女の頭を撫でるように叩く。
「……子供扱いかの?」
「子供じゃないんだから」
口数は少ない。まるで惜しむかのように。
彼女が俺にもたれかかる。
右手で体を支えて、俺も体重を後ろにかける。
胸に感じる温かさが、心にも届くような気がして、くすぐったい。
「雪は、いつか溶ける。そういう、ものじゃよ」
「でも、綺麗だ。それに、いつか溶けると分かっていればどうとでもなる。
子供じゃ、ないんだから」
「そうじゃな。のう、おんしの家に連れて行ってくれんか?」
「構わないが、冬いっぱいはここにいるんじゃなかったのか?」
「おんしはそういう訳にもいかんじゃろ?」
左手で、彼女を抱くような体勢にされる。
彼女が上を向いたので、目線を合わせる。
「おんしと一緒が、良いのじゃ」
「……そうか」
思わず彼女の腰に回した左腕に力がこもる。
彼女は微笑んで、また庭を眺め始めた。
俺も同じように庭へ目を向ける。
俺が死ぬまで、あと何年だろうか。
何年でもいい。ただ、彼女と一緒に居よう。
彼女が過ごしてきた幾百年を、少しでも感じたい。
ちっぽけであってもいい、いっそ、独りよがりでも。
彼女の、氷のような瞳が、冷たくないように。
そっと、髪の上から口付ける。
それがわかったのか、耳が赤く染まる。
彼女の温もりで、心が満たされる気がしたから。
彼女にも、温もりを込めて。
暖かな愛情を、届けたい。