ヒトラーのひげき
突然だが、どうやら俺はヒトラーに憑依してしまったらしい。
鏡で自分の顔を確認したから間違いない。人相といい、チョビ髭といい、どう見ても教科書に載っていたヒトラーと完全に一致している。
何でこんなことになったのか、俺にもさっぱりわからん。誰か教えてくれ。
俺は自分で言うのも何だが、平凡そのものの大学生である。
夜、バイト先から、一人暮らしの安アパートに帰ってきたつもりだったが、そこは全く見覚えのない部屋……と言うか大きな広間だった。
いや、誤解はしないでほしい。ドアを開けた時は、確かに俺の部屋だったんだ。他人の部屋だとわかっていて入るなんて、そんな馬鹿なことを誰がするっていうんだ?
ドアの内側から鍵をかけて、振り向いたら既に知らない広間にいた、というわけだ。
俺は呆然と中を見回した。
何と言うか、とにかく広い。下手をすると俺のアパート全体の敷地面積を超えてるんじゃなかろうか。床がいくつかの段差で大まかに二つに仕切られていて、奥のほうが低くなっているので、余計に広々とした空間に見える。
広間のあちこちに、おそろしく金のかかってそうなテーブルとか椅子とか、踏んだら怒られそうな豪華な絨毯とかが配置されていた。高い天井からはシャンデリアが下がり、壁には大きな絵画やタペストリーが飾られている。他にも、彫刻だの、大きな地球儀だのわけのわからないものが置いてあって、もうお腹一杯である。
ただの大学生の俺にも分かる。これは高級ホテルのラウンジなんてレベルじゃない。どこぞの国家元首とか要人とかをもてなすのに使う迎賓館クラスだ。
そして、このとんでもない空間にとどめを刺しているのは、正面奥の壁の大部分を占める巨大なガラス窓だった。ガラスごしに、ここは一体どこのアルプス山脈だよとつっこみたくなるような、雄大な山々の連なりが見える。
何だかわけがわからんけど、この状況ってやばいんじゃねえか?
慌てて背後を確認すると、さっき閉めたばかりのアパートのドアではなく、重厚な雰囲気の木の扉が目の前にあった。
うん、ここは俺の部屋じゃないな。
それは嫌になるほど理解した。問題は、この事態をどうするんだってことだ。
何にせよ、どこのお屋敷なんだかわからないところに勝手に入り込んでいるのは、非常にまずい。
俺は両開きの扉を開け、外に一歩踏み出そうとして……しばらく硬直した後そっと扉を閉めた。
外の様子もすっかり変わっていたのだ。
実は、元のアパートの通路に戻れるんじゃないかと一縷の望みをかけていたんだが、俺の期待は完全に打ち砕かれた。横に長い空間なので、通路という点だけは共通しているが、逆に言うと、それ以外の共通要素は何ひとつ見当たらない。
しかも、中が迎賓館のレセプション・ホールなら、外はさらに輪をかけてひどかった。分厚い絨毯がぴかぴかに磨かれた石張りの通路の真ん中に長々と敷かれているのは、そういうもんだと思って諦めよう。だけど、古めかしい教会や修道院のような、荘重なアーチを描いている天井にはドン引きである。ここまで来ると、明治時代あたりの西洋かぶれの歴史的建築なんて言葉では説明がつかない。
この建物を作らせたのは、絶対に日本人じゃない。建築には素人の俺でも断言できる。
そして、広間の巨大な窓から見える山々は、日本にいることを忘れさせるほどの迫力と壮大さを持ち――ちょっと待て。
何で窓の外が「見える」んだよ。俺は夜のバイト帰りだったはずだぞ。
外が昼ってことは、ここは日本じゃないのか?
「まさか、本物のアルプス……!?」
手に握っていたままだったキーホルダーが床に落ち、ガチャンと耳ざわりな音をたてた。
放心していたのは数秒だったかもしれないし、数分だったかもしれない。
とりあえず、落とした鍵は拾わなければと身をかがめて……俺はふたたび硬直した。
変わっていたのは部屋だけじゃなかった。いつの間にか、着ている服まで別物にすり替わっていたのだ。
スニーカーはピカピカに磨いてある革靴に、ジーンズはビシッとアイロンのあたった黒いズボンに。上半身はダブルの茶色っぽいジャケットだが、その辺のおっさんが着てるのとは何だか雰囲気が違う。そう、サラリーマンのスーツではなく、軍服っぽいのだ。襟元を確かめるとワイシャツにきちんとネクタイをしているようだった。
そして左腕には腕章をつけていた。柄を確かめると、卍のマークがある。いや、何か違うような気がする。よくよく見ると、卍がひっくり返って斜めになってるナチスのロゴだった。
これはまずい。本格的にやばい気がする。
どうやら日本じゃないらしい豪華な広間に、ナチスドイツっぽいコスプレをしている俺がひとり。一体全体、何がどうしてこうなったんだ。
確かに、この広間の雰囲気にナチスのコスプレはぴったりだと思う。でも俺は関係ないから、巻き込まないでくれ。そっち方面には全然興味がないんだよ。
明らかな異常事態の中、俺に残された日常と言えるのは、拾い上げたキーホルダーと、なぜか服装が変わっても背負ったままだったリュックサックだけだった。
俺はリュックにキーホルダーを放り込み、代わりにスマホを取り出した。
日付は今日の日付だが、時刻は22:17。明らかに窓の外と時差が発生している。
そして、もちろん圏外だ。うん、これも予想してた。この状況で圏内のわけがない。GPSで現在地を確認することはできないってことだ。
俺はさらにカレンダーを呼び出した。
――1942年。
「おい、ちょっと待てよ!」
ついスマホに文句を言ってしまった俺は悪くないと思う。
スマホのくせに、未来ならともかく、スマホどころか携帯電話自体が存在していなかったような時代の年号なんか出すなよ!
と、遠くから、かすかなざわめきが聞こえてきた。近づいてくる。どうやら数人のグループが会話しながら、こちらに向かっているようだ。
俺は扉と部屋の中を交互に見やりながら、そうっと一歩下がった。来るな、来るなと念じつつ、必死に頭を回転させる。今の状態は見つかりたくない。でも、どこに隠れればいいんだ?
だが幸いにも、連中はこの広間に用はなかったらしい。かなり近くまで接近したようだが、そこから進行方向を変えて遠ざかっていってくれた。
どうやら助かったようだ……今だけかもしれないが。
立ちっぱなしなのも間抜けな気がしたので、入り口のところの階段に腰を下ろして一休みすることにした。椅子はこの部屋にいくつもあるが、どれもこれも豪華すぎて座る気になれない。俺には階段で十分だ。ふかふかの絨毯も敷いてあるしな。
俺はありえない年号を表示しているスマホ画面を見ながら、考え込んだ。
1942年。
これが本当だとすると、知らない広間やコスプレ衣装なんかよりもはるかに大問題である。そろそろ、どこの神様だか仏様だか悪の秘密結社だか知らないが、この状況を引き起こした責任者が出てきて説明してくれてもいいんじゃないかと思う。まあ、今すぐ元のアパートに戻してくれるなら、説明はいらんけどな。つーか、今すぐ戻せ。
1942年。
もしかすると俺の衣装もコスプレ用じゃなくて、本物なのだろうか。だったら「現在」はナチスドイツの時代ということになる。しかも第二次世界大戦はもう始まってる……よな? 最悪じゃねえか。
1942年。
他に何か、この年に重要な出来事はあっただろうか。俺はなけなしの脳みそをふりしぼって考えたが、何も思い出せなかった。
当然である。俺はもともと歴史が大の苦手で、特に高校時代は、世界史も日本史も追試の常連だったのだ。しかも大学に入ってからは歴史関係の教養科目を全力で回避しているので、歴史の知識は高校時代よりも確実に低下している。だから俺の脳細胞に歴史を期待しても無駄だ。卍とナチスマークの違いに気がついただけでも御の字なのだ。
歴史がダメな人間を過去に飛ばして、一体、何の意味があるんだ?
どう考えてもおかしい。よりによって俺とか、ミスキャストにもほどがあるんじゃねえか?
「そろそろ出て来いよ、責任者!」
不意に、背後の扉が開いて、誰かが部屋に入ってくる足音がした。
「あら……」
「ひっ!」
俺は反射的に立ち上がり、恐る恐る振り向いた。
「こんなところにいらしたのね。皆様、もう集まっておいでのようですわよ」
笑顔で話しかけてきたのは、くるくるとした金髪の巻き毛で、いかにも白人さんな外見の女性だった。レトロな感じのひらひらとしたワンピースを着ている。
俺も反射的に愛想笑いを浮かべたが、どう答えていいのか分からず、沈黙した。
耐えろ、俺の表情筋。笑顔をキープしてごまかすんだ。
で、この女の人、誰? 俺のことを知ってるようだが……。
「どうかなさったの?」
女性が首をかしげて近づいてきたので、俺は反射的に一歩下がった。その結果、階段を踏み外して後ろに転げ落ちそうになった。女性がとっさに支えてくれたので、無事だったが。
いかにもフェミニンな髪型やファッションの割には、結構、力の強い人らしい。
二人で安堵の笑顔を交わしたのはいいんだが、何でこんなに距離が近いんだろう。ほぼ抱き合っているような状態に居心地の悪さを感じていると、女性の顔がさらに近づいてきた。
と思ったら、頬にチュッとキスされた。びっくりして飛び上がりそうになるのを必死でこらえた俺は、よく頑張ったと思う。
大変申し訳ないんだけど俺はまだ二十歳なんで、推定三十歳のおばさ……妙齢の女性は守備範囲外なんだよ。
そろそろ、愛想笑いでごまかすのも限界か。俺は頭を高速で回転させて、何とか言葉をひねりだした。
「そ、その、待たせてるっていう人たちは……」
「そうね。こんなことをしていたら、わたしがあなたを引き止めたことになってしまいますわ」
女性は俺から離れてくれた。ごめん、年齢さえつりあっていれば、すごく嬉しかったんだけどな。
それにしても、この人、俺を一体誰だと思ってるんだ?
まあ、名前を呼んでもらっても、誰のことだかさっぱりわからんだろうけどな。だって俺、この時代のドイツ人はヒトラーぐらいしか知らないし。
「ありがとう」
「ここにいらっしゃることは秘密にしておきますけれど、早く皆様のところへ行ってあげてくださいね」
女性は俺の胸にそっと片手をあてると――何度も言うが俺には年上趣味はないんだ――俺とすれ違うように階段を下りて広間の奥に進んでいった。
困った……彼女がここに居座るとなると、外に出るしか選択肢はないじゃないか。
広間を出た俺は、後ろ手に扉を閉めながらため息をついた。一体どうすりゃいいんだ。まあ、リュックとスマホについて何か言われる前に脱出できただけ、よかったと思うべきなんだろうか。
幸いなことに廊下には誰もいなかった。
とはいえ、すみやかに安全な場所に移動する必要がある。この場合の安全とは、人が来なくて誰にも会わなくて済むという意味だ。理想はトイレの個室である。「俺」を待っているらしい連中なんか知らん。そんなのは後回しだ。
俺はスマホをリュックに放り込み、廊下を右方向へ歩いていった。右を選んだのはただの消去法である。左はすぐに行き止まりで壁と扉しかなかったし、目の前に下へ降りる階段もあったがやけに薄暗かったので別の意味で危険だと思ったのだ。
もしこれが夢を見ているんだったら、そろそろ目が醒めてもいい頃合いのような気がする……。
でも身体にまとわりつく疲労感はまぎれもなく本物だった。夢だと思いたくても、全ての出来事があまりにも生々しくて、現実だと諦めるより他になかった。
不意に、視界の隅を人影がよぎった。
俺はぎょっとしてそちらに向き直ったが、すぐに肩の力を抜いた。そこにあったのは、全身を映せるくらいの細長い鏡だったのだ。人影だと思ったのは他人じゃなくて、鏡に映った自分の影だったというわけだ。
鏡か……。
そういえば、俺のコスプレってどういう風に見えてんだろう?
俺は鏡に歩み寄り、正面に立ってみた。
「おい、マジかよ……」
鏡の向こうから見つめ返していたのは、俺でさえ顔を知っている超有名なドイツ人、ヒトラーその人だった。
人間、あまりに驚くと逆に冷静になることもあるようだ。
俺は首をかしげたり、笑顔でピースサインをしたりして、それが間違いなく自分の顔だということを確認した。人相といい、チョビ髭といい、どこからどう見てもヒトラー本人である。ついでに額にはりついた前髪を持ち上げてみたら、ハゲだった。
おい、冗談にもほどがあるんじゃねえか。
俺はまだ二十歳だ。どうせなら、せめて同い年のヒトラーにしてくれよ!
こんなハゲのおっさんとか、一体何の罰ゲームだ!?
いや、もしかしたら、世界史が好きで好きでたまらないご老人だったら、ヒトラー役でも喜んで演じてしまうんだろうか。儂が歴史を変えてドイツを勝利へ導いてやろう、とかそんな感じで。
でも俺は、絶対に嫌だからな。何が何でも降りさせてもらうぞ!
まず、ナチスの腕章とか胸についているわけのわからないバッジとかを、全部外した。それでゴミ箱が見当たらなかったので、ちょうど近くにあった窓から捨ててやった。非常事態なのでゴミ捨てのマナーについては無視するしかない。リュックに入れることも考えたが、捕まった場合に持っているとまずいような気がするので、ヒトラーだと身元が分かりそうな物は全部ポイ捨てだ。
さて、最大の問題はこの顔だな。
俺にわかるくらいだから、この時代だと全世界に手配書が回っているような状態じゃないだろうか。
試しに、ウェットな感じの前髪をオールバックにして、ハゲを全開にしてみた。これが自分の生え際かと思うとあまりの無残さに怒りがこみ上げてくるが……変装という意味では悪くなさそうだ。念のために手のひらに思いきり唾を吐き出して、髪になすりつけて湿らせ、できるだけ後ろに撫でつけておいた。
次は髭だな。
俺は足もとの絨毯で手のひらをきれいに拭ってから、リュックからキーホルダーを取り出した。
ぶら下がっているのは、アパートの鍵、自転車の鍵、実家の鍵、……それからもう一つ、小型のアーミーナイフだ。ファッション感覚で持っていただけで、ろくに使ったことはなかったんだが、まさかこいつが活躍する日が来ようとは。
今まで何も切ったことがないナイフをパチンと取り出して、チョビ髭の側面にあててみた。でもいきなりこの長さを剃るのはちょっと怖い。俺はナイフを元に戻すと、小さなハサミを引っ張り出した。最初はこれでいこう。
髭を少しつまんではチョキチョキやるのを何度か繰り返しているうちに、チョビ髭は失敗した無精髭みたいになった。
よし、剃るか。
ハサミをパチンと収納すると、再びナイフを引っ張り出し、俺はできるだけ丁寧にヒトラーの髭を剃り落としていった……
一歩下がって鏡をじっくりと見た。
ハゲで髭なしのおっさんが映っている。さっきとはほぼ別人で、少なくとも俺の目にはヒトラーに見えない。
「よし、完璧だ」
俺は役目を果たしたキーホルダーをリュックに戻すと、窓を大きく開けた。
あばよ、ヒトラー。ナチスドイツの未来なんか知るか。文句があるなら、俺じゃなくて、俺を選んだ責任者に言ってくれ。
俺は絶対に逃げさせてもらうからな!
※蛇足
この短編の舞台はヒトラー別邸のベルクホーフ山荘です。廊下――実は一階のエントランスホールです――の天井は美しい新古典様式の交差穹窿ですが、残念ながら主人公には全く理解できません。それから、見取り図と当時の写真を比較参照したかぎりでは、鏡は実際にこの場所にあったみたいです。
途中で出てくる女性はヒトラーの恋人のエーファ・ブラウン。主人公が年齢について失礼なことを言っておりますが、ヒトラーから見れば二十三歳年下の女性なので、むしろ若すぎると言うべきですね。鏡を見て自分の外見に気がついたから、少しは反省した……かも?