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怖くて、怖くて、ただ怖かった。
あの目が記憶に焼きついて離れなかった。
ケイスケの胸はいつも薄暗い閉塞間のある霧で覆われていた。嫌われたくなかった、おばあちゃんにだけは軽蔑されたくなかった。
どうすればいいだろう。
どうすれば、この気持ちから開放されるだろう。
ケイスケは想像する。
おばあちゃんがびっくりするくらい立派な人間になって、お金を返しにいく様を。
すると、少し小気味良くなった。
驚くほど胸にしっくりときた。
それからのケイスケは水を獲た魚のように猛勉強を始める。どうすればいいか分からなくて地に足立っていない頃の苦痛に比べれば、やるべき事がしっかりと見えている勉強の方が二倍も三倍も楽だった。あの難関校の制服を着て現れれば、きっとおばあちゃんは褒めてくれる。中学に上がったケイスケは、常に好成績を取り続けた。
「またお前が一位かよ、すげぇな!」
「この学校初の合格者が出るかもしれないな」
「すごいわねケイスケ、よく頑張ってるわ」
友人の賞賛は心地よかった。先生の期待は重圧だったけれど悪くは無かった。母の褒め言葉は何の心にも響かなかった。例え70点を取ったとしても、母は同じことを言っただろう。ケイスケは、簡単に得られる賞賛に価値を見出していなかった。
――すごいねぇ、すごいねぇ。
おばあちゃんに褒めて貰いたい。
迫ってくる受験の日。高まっていく周囲の期待。ここで落ちたら人生が終わる。謝る機会を永遠に失ってしまう。受験の際はプレッシャーで吐きそうになった。けれど、自分が解けない問題なんかないという積み重ねてきた自信は、そんなケイスケを落ち着かせるほどにあった。
そして時は合格発表。
「――っ」
ケイスケは難関校に合格を果たす。
生まれて初めて、拳を振り回して喜び喚いた。
憧れの制服に袖を通す。
まだ身長が伸びることを見越して選んだブレザーは、弛みが目立って服に着られているというのがぴったりな有り様だった。
鏡を見ると、自分の体格に対して肩幅が全く足りていない感じがして恥ずかしい。
もう少しだけ、大きくなってから。そんな事を、思った。
時は瞬く間に過ぎて行った。
やがて高校生活最初の定期考査が行われる。ケイスケは自信を持ってテストに挑んだ。手応えもあった。これだけ出来ればトップ3には入っているだろう。一位でもおかしくはない。
だがケイスケはクラスで5位だった。
テストの得点自体は悪くはなかった。ただ周りが高すぎただけだ。そう分析しながら、ケイスケは薄ぼんやりと危機感を感じていた。
それが現実になって現れ始めたのは、三学期の定期考査だった。
どうしても解けないというほどの難問ではなかった。時間をかければ解ける問題だった。だが当然ながら時間は有限で、間に合わないと踏んだケイスケは、時間のかかりそうな問題を後回しにして先に進んだ。汗が流れた気がした。全てを確実にこなしてきたケイスケにとって、問題を捨てて得点を取りにいくようなことをしたのは初めてだった。
良く解けたと実感があっても、順位は5位から動いたことが無かったのだ。
ケイスケは、ついに上位5位から転がり落ちた。
早く解けないのなら何度も問題を解き続ければ良いとか、そういう問題でないのは本人が一番分かっている。今まで、時間の全てを勉強に費やしてきたのだから。
じわじわと、ケイスケは自分の限界を感じ始めていた。
なんとかしがみ付いて頑張ってきたけれど、二年の中期には、その差は埋められないほどに開いていった。この麻酔のように広がる諦観は、長距離走で50m先に居る人間に追いつこうとする感覚に似ている。いくら走って走って追いつこうとしても、差は全く縮まることはなく、むしろ足が疲れてスピードが落ちた自分とどんどん差が開いてくる。この頃には、もう追いつこうなんていう気概はなくなっていた。
大切な約束にも似た決意が、諦めに塗り潰される思いを知った。
やる気を奮い立たせようとするも、どうしてもそんな気が起きない自分への自己嫌悪と、そんな自分すらも受け入れられてしまう疲労感と諦め。それでいて、こんな敗者の姿だけは見せたくないというつまらないプライドだけはしっかりと残っていた。
何かの糸が切れたかのように、ケイスケは無気力になっていった。
そんなぼんやりとした感情のまま、ケイスケは大人になっていった。