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「うーん、せめてあともう少しアイテムカードがあれば戦えるんだけどなぁ……」
「それは分かってるんだけどなぁ……」
カードを買い始めたはいいものの、お小遣いをねだれるほど図太い神経を持っていないケイスケは、持っているカードが全て主戦力状態でろくに戦えず負け通していた。
「ケイくん、お使い行ってきてくれる?」
なのでケイスケは、ヒナコの言葉に弾け飛ぶように、でも足取りは淡々とさせながら台所へと向かった。お金の為に動く奴だとは思われたくないからだ。だから、つり銭の出ない買い物リストを見た時も、何の変哲もない顔をしていた。
「いってきます」
ガラガラと扉をあけると、悶々とした気持ちを払拭するような冷気がかかる。吸い込むと肺の形がわかった。
どうしてただ冷えているだけで、空気が澄んでいる気がするのだろう。ケイスケは、空気をめいいっぱい吸い込んだ。
寒い。
ケイスケは手をポケットに突っ込みながら歩き出す。爪先に、五百円玉の冷たい感触が当たった。
日曜日の昼間にも関わらず相変わらず1分歩いても車に出会わない交通量の薄さは折り紙つきで、考えることもない空っぽの頭に嫌でも買い物リストが入ってくる。野菜が合計5点、全部冬が旬の野菜なので無人販売に売っている。わざわざ遠いスーパーまで足を運ばなくても大丈夫だろう。そう思うと、少し気が楽になった。
平日でもないのに通学路を歩く心地の悪さに顔をしかめ、ひたすら歩く。台風でもくればすぐに飛ばされそうなあの屋根が見えてくる。到着するなり慣れた手つきで野菜を一つ二つと手にとり、どちらが良いかと切り口や葉の状態をぐるぐる回した。相変わらず、この無人販売には人が全く通らなかった。
これなら、金を入れなくてもばれないのではないのだろうか。
ふと、そんなことが頭に浮かぶ。
ケイスケの目が『監視カメラ設置中』の札に吸い寄せられる。しばらく考えた後、風で荒れた髪を整えながら、それとなく電球すら無い空間を見渡してみる。いつの間にか、くるくる回っていたケイスケの手は止まっていた。
ポケットにある500円玉の感触を確かめる。
握り込んで代金箱の上へと手を伸ばすと、腕にかけられたトートバックから野菜5つ分の重みがぶら下がった。
ケイスケは、長い袖の中でパッと手を開いた。
500円玉は、腕の中へ滑り落ちて行った。
*
「おかえりなさい」
家にもどると義母の呼ぶ声がする。
コタツで暖を取っていると、横からお饅頭とお茶を差し出された。
だが、ケイスケはなかなか手をつけようとしない。
彼女から見たケイスケは、好き嫌い以前に表情に乏しい空虚な子供だ。基本、喜ぶことも怒ることもしない。
いったいどうしたというのだろう。浮かない顔を全面に出して俯くというケイスケらしかぬ様子に、ヒナコは戸惑い顔で考える。ケイスケは、そんな些細な変化に気づける余裕もなかった。
だから。
突然閃いたようにヒナコが笑ったのにも、気づかなかった。
「そうだ、今日はお釣りが出なかったのよね」
ピシッ。
ケイスケの顔が凍り付く。
どうしてポケットの中に500円玉が入っているの―― そう唇が動く気がして、ヒナコが自分のせいで謝りに行く様子や、万引きが発覚した後の気まずい食卓、そして冷たくなる周りの目―― 最悪の状況が一通り駆け巡った後、柔らかい笑みで相づちを打つおばあちゃんが、冷たい表情を浮かべた。
そうだねぇ、そうだねぇ。
おばあちゃんもね、昔こうやって、牛乳パックでペン立てを作ったんだよ。
嫌われたくない。
頭がグラグラした。
それだけはどうしても避けたい、でも避けられない…… 逃げ場を失った恐怖が、この世の終わりのように全身を硬直させた。
戦慄く瞳がヒナコの唇を追う。
ヒナコはエプロンから100円玉を取り出した。
「はい、お小遣い」
これが欲しかったんでしょ? と義母は笑った。
「……あ、ありがとうございます」
声が掠れて上擦った。
待ちに待った筈のお小遣いを前にしても、嬉しいなどという感情はわかなかった。生きた心地がしなかった。
*
それから、ケイスケは完全に無人販売に行かなくなった。
平常心でおばあちゃんと話せる自信が無かった。目に入れるのも怖かった。そんなものが欲しくて盗んだの?、と問われて、耐えられる気がしなかった。何より決定的に嫌われるのが怖かった。
それでも、下校の際には嫌でもおばあちゃんと合ってしまう。
なるべく目を合わさないように通り過ぎる。
目を合わせなくても、背中の視線に気づいてしまう。
見られていることが分かってしまう。
*
ケイスケは勉強をして気を紛らわせた。
友達の前で馬鹿みたいに明るく振る舞って笑いをとった。気さくで、勉強が出来て、欲を掻かないことに徹底した。良いところを沢山作れば、一つの悪い事が霞んでくれると思っていたのかもしれない。
次第に友達が沢山出来た。
テストはいつも90点以上を取り、先生に中学生の問題集をこっそり渡されたりもした。
誰もが嫌がるクラスの仕事を率先してやる姿は万人の評価を得、好感度がみるみる内に上がっていく。だが、当の本人は貼り付けた笑顔の裏でいつも浮かない顔をしていた。
何をやっても気分が晴れない。どう周りに評価されても、良い結果を出しても、何一つとして心から喜べない。むしろ評価を得るほど、どうして自分は努力しているのか、そこに思考が行った。最低な気分になる。
あの日の500円は使っていない。使っていい金ではない。何度もこっそり返しに行こうと思ったのだけど、万が一にも野菜も買わないのにお金を入れているところを見られるのが怖かった。どうしてと聞かれるのが怖かった。
人は、例え見つかってもお金を返しに来たんだからいいじゃないかと言うかもしれない。
しかし、ケイスケはどこまでも真面目な少年だった。お金を返したところで、盗んでしまったという事実は消えやしない。おばあちゃんの信用で成り立っているあの店を、まるでお金を払ったかのような小細工までして欺いた自分が、気持ち悪くて気持ち悪くて仕方がなくてもうどうすればいいか分からなかった。
だからちゃんと謝りたい。
でもあわよくば、おばあちゃん以外の誰にも知られずに謝りたい。でないと家でのケイスケの立場が無くなってしまう。ヒナコに万引きを見破られたと勘違いしたことは、ケイスケのトラウマとして深く深く突き刺さっていた。
謝ろう。
今日こそは、謝ろう。
だからケイスケは、わざわざ下校時刻をずらさず帰る。
しかしいつも、おばあちゃんの前に差し掛かった瞬間、怖い、早く通り過ぎたいという感情が勝ってしまう。無視を決め込んで通り過ぎてしまう。何度か、一人で抱えてしまった方がマシだとすら思った。だけど結局、一人で抱えきれず苦しんでいる。
今日こそは、絶対に。
カーブになっている見通しの悪い道を抜け切ると、昔の居場所が見えてくる。おばあちゃんは、相変わらず空を見上げていた。
と思いきや、意図せず目と目が合ってしまった。
ケイスケは慌てて視線を逸らした。
この行動が全てを変えた。
やましいことをしていない訳がない動作をしてしまったケイスケは、せりあげてきた恐怖に胸が根元から締め付けられたまま、到底声など出せない苦しさに追い込まれた。
入院していた母親がケイスケを引きとりに来ると言ったのは、その日の夜の事だった。
ケイスケの心は複雑だった。
ここは住み慣れた家だ。時間をかけてヒナコの信頼を得た、大きくなっても大切にしたい友達も居る。それに、この家は割と裕福だとケイスケは思っている。ご飯が美味しい、ちゃんと三食食べられる。母は好きだ。でも、この前まで病気を患っていた母が一人働いて支える―― それを想像すると、あまり未来は明るくないように思えた。それに、刑務所に入っている父親がいつか出てくる事実に母と二人で対抗出来る気がまるでしなかった。
それでも、ケイスケは素直に車に乗り込んだ。
驚くほど未練が無かった。
大きくなったわね、と抱きしめられる。今までごめんねと手を震わせながら再会に高まるケイスケの母親に合わせて、適当に背中に手を回す。自分でもなんでこんなに感動できないのか不思議だった。
なんとなく、母親の肩に顎を預けたまま見馴れた外の景色を見る。
変な声が漏れた。
「……ぁ」
居る。
道路側に面したガラス窓から、無人販売に居る筈のおばあちゃんが立っている。
(――なんで)
全身が粟立つ。
まだ車は動かないのか。表示を見るとまだエンジンが温まっていないと赤いランプが光っている。焦る。今おばあちゃんはどんな顔をしているのだろう。相手の心理を推し量りたい。盗み見るつもりで顔を上げたら、また、息が出来なくなってしまった。
顔が引き攣った。
朗らかな顔しか見た事が無かったケイスケは、想像だけでしかなかったその顔を、初めて現実で見てしまった。
エンジンが加速する。
おばあちゃんはじっと、こっちを見ている。
おばあちゃんの顔が遠ざかる。
それでもじっと、こっちを見ている。