2・“カンチ、セックスしよ!”
運営さんゆるしてください! なんでもしますから!(土下座)
2・“カンチ、セックスしよ!”
「あー…」
今日も今日とて、木檀の横長机の上でダレている学生…少年が一人。
「あぁー…」
頬に当たるひんやりとした感触が、よい。
ヒマだが、平和だった。何よりもそれが尊いと感じるのが今の少年の価値観だった。非日常? 馬の干し草にでもまぜとけ。…その干し草のような切りそろえ方の黒色のざんばら髪を揺らして、中高生相当か、しかし欠けたように奇妙な沈着のある気配をした少年は、今ゆっくりと身体を動かし始めた。
「あぁぁーー…っ」
レット・イット・ダラダラ。略してレリダー、
始業前の無人の教室で、朝、この時間を過ごす事を少年は己へと課している。
手足をドンドンと鳴らさせてから、右方向へと身体の上半身を捩り、今度は左へ。もう一回。一ゴロリン、二ゴロリン…程良くほぐれた所で、全身の筋肉をゆる〜く弛緩させて、はい終わり。ぐでたま人間の一丁上がり、だ。
「あぁっはぁ〜ぅんんんっ、」
完膚無きまでに、一日の始まりであった。
己の耳の穴にはまっている白いカナルイヤホンの、ストラップで首から吊り下げられた胸元の2009年型ウォークマンから流れるゴキゲンなミュージック・アワーだって、傍目の人間からすればシャカシャカしたノイズにしかならないだろう。それから銭湯でオッサンがそれを唄うが如くの己の下手な鼻歌…にもなってない、うなっているだけだが、それも、ここに他人の存在があればまず露出していない物事だ。
つまりその両方をこなしている今、今日も少年は確かな達成感を小さな幸せとして噛みしめてもいた。…ーこの少年の幸せは小さかった。
だが、今日は違ってもいる。
学校の、学年始めの初日であるという事もそうだし、一年前のあの日と同じの、あれがある。…
「………」
不意に少年が目を開いた時、泥のように淀んだその眼には温度が限りなく無かった。
濁りきった、老人のような目。
これまでのなにかによって光と熱の奪われすぎた瞳で、教室の窓の向こうの…この学園の新入生徒が集合を始めている校庭を俯瞰した。
一年前では、見ることの無かった視点だ。
・・・・
だが、ある意味では繰り返しなのだ。そう少年は予測している。現実にもそうなるだろう。そして、それから…
「……………」
もう一度、少年は瞑目をした。
何かを祈るように、何かを悔いるように。
それがまた開かれた時……平熱程度の体温は眼光となって戻っていた。
こうやって少年は“今”を始める。こうしなければ、この少年は“現在”を始めることができなくなっていた。
それが、いつもの作業。
エンジンスタートの為のコンプレッサ、それに例えることが出来る。始動さえしてくれれば、己の熱量の機関は稼働が可能だ。そして、今日も、明日も、それから…
「…あっ?」
しかし、そこで少年はある事に思い至った。そう言えば、今年は、今日は…ー
「…」
何かを確かめてみたい、という意志で口元は笑みかけた。
蹴るように立ち上がった少年は、履き潰されかけたローファーが床を叩く足音を刻みながら…やがてあけっさらしの教室の扉から消えていった。
* * * * *
「うわーもう?!」
砂糖菓子のような声だが、しかし血気迫っていた。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん!」
「わーってるっての! このボロ馬車んたら、速度がでないんだからっもー!!」
この“姉妹”…二人は、疾走する幌馬車の上で不満を言い散らせていた。
速度が出ない…とはいえ、現実には相当の速度が出ている。目的の場所へ時間内に間に合わないかも、という
意味だ。
姉妹の頭上の幌の枠には魔導式ポケット・ラジオが一つ吊り下げられており、国営放送第一のチャンネルでちょうど一分半前から掛かり始めた陽気なロデオ・ミュージックが、慌ただしい二人の旅路のBGMになっている。
「コラ、ばーちゃん馬! とっとときばらんかい!」
「いけ、いけ、やれ、やれー!」
怒鳴られる荷馬も気が気ではない。今月で二十歳を迎えた双子の馬のドンキーとサンダース(どちらも♀)も、姉妹の怒声は鞭よりも効き目があるのか、伸びきった鼻毛を鼻息で揺らしながら必死に走る!
しかし、作られてから三十年は経つ中古の馬車である。重量がかさむ代わりに頑丈な作りである事が街市場での謳い文句だったのに、ガタガタ、ゴトゴト、…ガコン! という振動と揺動のダブルデュエットに今にも自壊寸前だった。それに揺られる二人であったが、しかし馴れているのか酔う素振りもみせない。…馬車を引く馬だけが努力をしていた。
「時間は!? …なんだまだ余裕あるじゃーん…」
「その銀時計十五分も遅れてるんだよね」
「あぁ急げ急げいそがなくちゃぁ?!」
忙しなさは続く。
車上で積み荷に積んできたバスケットの一つを開き、中にぎゅうぎゅうに詰められていたサンドイッチを一つずつ…小さい妹の方はミルクジャムのを、大きい姉の方はマーマレードの奴を…引っこ抜いて、そして食べ始めた。
食べるよりも押し込むような、押し込むよりは押し流すといった方が正しい様相であったが、その結果、むせるのもふたり同時の瞬間だった。
「げっふえふ…あのねー、ホントーにとうとうここまできちゃったんだねーえ?」
「えふっえふ……なによー、言い出しっぺはあんたでしょー。もしかして、怖じ気付いたとか?」
「ぜぇんぜん。妹離れできてないおねーちゃんはざんねんだったね」
「ふっふん? おねしょのクセだってこないだ取れたばっかりなのに、毎晩トイレでおこされてさー?」
「…」「…」
「…妹よ!」「姉よ!」
ひし、っと馬車上で抱き合う姉妹である。
美しい姉妹愛であったが、ここは平原上。だれも観客はいない。
せいぜい残るのは馬二頭であるが、姉からの手綱がゆるめられたのをこの隙に、と、目に見えるようで目に見えないギリギリのラインで速度を減速させたのが今だ。
「どうすんの。“王子様”とケッコンまで持ってくの?」
「ええええええ!!!!!!? ととととととそそそそこはさ、あああ相手のカンジョーとかをまずはそんちょーして、そそそこからうまーいこと切り崩していくかどうか、とか……」
「なによー! 当たって砕けちゃいなさいよー!!」
「縁起でもないー!」
「このこのー!」
「うにゃぁぁん!?」
今度は飽きずにスキンシップまで始めた……ほぼ十分間隔でやっているのだが、それを六セットで計二時間。馬のため息は深い。
ともかくも、妹の方の紅色の髪がぐしゃぐしゃとかき乱され、姉の栗色の髪の毛もぐいぐいとポニーテールを引っ張られている。
こそばゆさだったり痛さだったりに互いに涙を浮かべている状態だったが、それでも構わず、やり続ける。
これがしばらくするとほっぺたのつねりあいによる姉妹内我慢比べ大会になったり、しっぺの相互破壊抑止によるコールド・ウォーの縮尺実証(ただし口は“熱戦”である)だったり、あるいは不毛なうんこしりとりの家庭内最高記録更新チャレンジとかになったりした。
とにかくまあ…結局このサイクルはもう一セット続けられる事となって、それが終わりかけたちょうどその時…
「…はへ(あれ)っ?」
「どうしたのっ?」
「ラジオの音楽がかわった。うちの国の国営放送ってロックなんてかけないじゃぁん、フリョーになるから、って」
「ああっ、これか。これねぇ、“グッドモーニング・アナスタシアス”。聖アナスタシアス学校の放送部がやってるラジオ局なんだけど、これが聞こえるってことは…」
「「がっこうが近い!!」」
「よぉし!」
ふたたび荷馬にはムチが放たれて、二頭はその顔をむなしさにゆめながら…道路はあと少しであった。
「通行証と入学証明を見せてくるから、」
待っててね! と馬車から駆けだしていった姉を、妹ははにかんだような顔で見送った。
そしてすぐに馬車の幌から首だけを出す格好になり、馬車の中で、着替えと本日の日程で必要な自前での携行物品を支度しておく体勢となった。
馬車が到着したのは、水堀に掛けられた大きな跳ね橋の手前の検問所である。
あのままの高速突入は警衛の射撃機装兵からの阻止を受けかねないからだいぶ手前から低速で馬車を入れて、他の入学者の乗っているだろう数おおくの馬車と、“ジドウシャ”…そのどれもが二人の乗ってきた馬車に比べて豪華で絢爛であった…と共に、係員役の用務員が見回りを続ける受付のレーンで停車している。
この正門を起点に、全周が堀と長大な防壁で囲まれた巨大な敷地がミュール首都平原西北部の北部草原に十年前に出現していた。
幸運な事に、時間には間に合った様だった。
慣れた手捌きで普段使いの街娘ルックを脱ぎ払い、それから首だけを幌から出した状態で、実に器用に“学校”の制服に着替える。まだ着慣れていない、一ヶ月前に届いてから三回しか袖を通していない真新しい布地の硬い感触が新品感という奴で少女を満足させた。
ラジオからはしっとりとムーディな曲目が流れていて、布の擦れる音が鳴り終えた。
最後に、胸元に“お守り”を入れたならカンペキだ。
馬車に鏡は無かったが、張られた幌に自分のシルエットが透けて通った気がする。それを確かめたならば…次は、
「おーい」
「ひゃ!?」
突然、荷台の幌を開いて姉の顔がどアップに迫ったのだから、少女が驚愕の悲鳴を上げるのもその通りであった。
その妹の反応に、“姉”とされている若い女性…化粧っ気は無いが、そのままでも酒場のホールガールならば指名度上位は間違いない容貌の、ただし日常の苦労は顔や髪の枝毛に潜ませているアラウンド・サーティ予備軍…は満足げにうんうんうん、と頷いた。
「ううう、こんなアクマなおねえちゃんとも、今日でおわかれです…」
「短いようで長かったねー」
「ふつう逆じゃない?!」
「まあまあまあ、…」
「………」
なだめるように開いた利き手を少女の目前にかざして、しかし…次の瞬間には、時間が途切れたかのような沈黙と静寂が二人の間にあった。
「…」
「…あのね、おねぇ「ねぇ、…アリア、」」
「ふぇ?」
「…、」
迷うような姉の視線が、最後に少女の眼に合わせられて、
「ぶっちぎっちゃいなさい。どんな結末であれ、あんただったら必ず幸せになれる。家族だった事を、私たち二人は永遠に忘れない。いい?」
「!」
ぱぁ、と少女の顔が輝いた。それを見た姉の方は、姉としての、家族としての、親代わりだった者としての…寂しそうな表情を浮かべて…しかしはっきりとした意志のある顔に切り替わり、
「いつでも戻ってこれるんだからね!」
「うん!」
二人はしっかりと手を握った。その柔らかいけど確かな感触に、“姉”……エイラ・リーネンハープは数ヶ月前のあの日、あの機装騎士から目前の少女を託されたときの、その後の…命綱のように少女の手を握りしめながら、自分でも真っ青だと分かる顔を震えながらひきつった笑みにゆがめ、悪魔的な状況の説明をしながら、やがて大きな決意を得た時の…あの小さな手のひらの重さを思い出す事が出来る。
だから、…だけど、再び寂しさを顔に出すような女ではないつもりだ。
再び、馬車の歩みが再開された。
入校証の確認が済まされ、通行証明のIDも問題がない事が確認されたからだ。すこし事務手続きで手間取る事態が発生しているらしく、予定の順番待ちから繰り上がっての番となった。
二人の馬車が、“正門”…アナスタシアスは砦としての機能も備えているので、設計と実構造は城門のそれである…の巨大なアーチの中へと通過していく。
それを、馬車の幌から身を乗り出した少女は、食い入る眼でアーチの尾根に誇らしげに掲げられた銀色の大きなレリーフを見ていた。馬車がアーチの中に入って、その反対側へと出たときも、馬車の後部側へと駆けだしていってアーチの裏側にも張られているレリーフをしっかりと目に焼き付けた。
そのレリーフには…ー聖アナスタシアスの校章には、あの砦の楼首の紋章が刻まれている。
胸元に納めた“お守り”の、紅いマントの切れ端に付いたままの留め具の文様を指でなぞりながら、少女はとうとうここに来たのだという到達感で心を震わせていた。
「…、! わぁ…っ!」
姉の声かけに再度振り向いた時、その少女…アリア・ベレスティの眼に映る世界は、軍営公国立アナスタシアス学園の“校舎”…大規模砦としても使用が可能な、むしろそれを前提に作られたと聞く、レリーフのモチーフ通りの楼首が見える…白の“城塞”が青空の下にそびえる光景が全てになっていた。
琥珀色の両目が、城の白を映して光り輝く。
流れてきた春の風波が、馬車から降りた少女と見守る姉の二人の姿をそよがせた。
………
「………」
…時間は流れて、
「……う゛ーっ」
現在、少女アリアは最初にして空前の困難に立ちはだかられていた。
城壁の中、砦、外郭施設群の一つ、屋内運動場…“体育館”。
二階建て半相当はある頭上高くからの明橙色照明によって、周りの新入生徒達と同様に半鋼半木製の折りたたみイスに座る少女のうつむいた視界は暖色の影色になっている。
そしてその相手は、閉じられた自分の膝の上にぺらぺらの姿で乗っていて、少女はしばらく藁半紙の灰がかった茶とガリ版の黒という色が嫌いになってしまいそうだった。
周りからも、自分と同い年くらいだろう少年少女…子供達のうめき声が聞こえてきている。
それどころか、自分よりも年長のおねえさんおにいさんのみんなだって、もっと年のいったおじさんおばさん達だって同じく苦しみの呻きを上げていた。
体育館は地獄の一丁目と化していた。
どうにも手が出せなくて、少女はイスの座面が高くて地に着かない己の足の先をぶらぶらさせる気紛らわしを再びするしかないか、とも思いつつあった。
「…うー、」
悪いドラゴンは、自身の顔よりも一回り大きい書類という形で少女の敵となっていた。
これをやっつけられる勇者の剣は、利き手の先に危なっかしく握られた巨大な業務用ボールペンとなってアリアの手元にある。だが、“剣になる”方が“剣をつかう”というのはどんなものか。
…学校のおべんきょうならば、敵ではない。
アリアは、自慢ではないがあたまがいいらしい。いやよしんば宜しくなかったとしても、あの日以降…並々ならぬ熱意と意欲と努力で、与えられたカリキュラム通りの知恵と英知の離乳食を急速に己の血肉へと変えていった。そして今ではベビーフードを離れてお菓子程度ならばかじれるようになり、九歳ちょうどという年ながら、全同年齢層トップ15内の実力でこのアナスタシアス校に入学する程となっている。
けれど、雑書類のこなし方なんてのは勉強した事がなかった。
「うーっ」
どうしても、この書類を整える必要があった。
この書類をこの場で提出をしないと、入学が認められない…ー先程、その旨を学園長の将軍が宣告したのだ。
皆、その瞬間に凍り付いた。アリアも凍結した。配られた書類を確認して、そして体育館が冷凍庫になりそうな位全員が凍えた。…
そして、三十分が経過して今に至る。
あーもう、
どうしても難しくて、書くことが出来ない。用紙の換えはいくらでもあるそうだが…読めば読むほど混乱して!
それがただ、難しい単語や言い回しで回りくどくされているだけだが、冷静に読み解けば自分の名前と年齢と性別とかとこれまでの簡単な履歴だとかを、分かる(書ける)範囲で書けばいい、と小さく用紙の端に注意書きまでされている事に…しかし気づけた者は片手で数えられるか、という数であった。そして、これは全く全体に波及しない…なぜだろう。
それは、あまりにもこの書類の存在が幻想と威風あるルーテフィア世界の辺境国・ノイフォンシュタインでは異質なものであったからかも知れないし、あるいはこの世界の人間ではない者がこれを見れば、六十億人の中の一億五千万の割合で馴染みのある市役所とかの各種届け出書類の書式である事を指摘できたのかもしれない。しかし、それでもお役所なりに親切な受付員は、ここには“まだ”いない。
ともあれ、今年度から取り入れたこの“確認調査”は、“成功を収めた”という事だった。
ベンチマーク・テスト。端的にはそういう意味がある。
「………?」
だから、アリアがその存在に気づいたのも、どうにもならないから目線をいったりきたりさせている内にたまたま目の焦点が合ったからだ、と少女は思う。決して運命なんかじゃない、そのはず。
右側方、体育館の入り口の脇に立っていて、なぜか新入生徒達の並びに入っていない…制服の少年。年の位は、彼の見た目と、この学校の中等生だったか高等生だかの識別ディテールが制服の各所にされているのを見て理解した。黒い髪と黄色系の肌だという事は分かるので、アリアも初めて出会う事になる…このノイフォンシュタインでは珍しい東方の出の者だと推察できた。
「…!?」
だが、次にアリアが驚いた事は、なんと自分たちに手渡されたこの書類を、彼は紙飛行機の形にし始めていたのである!
それどころかもっと驚く事が次の瞬間にあった。なんと…
…用紙の記入欄が埋まっている。
(そ、そんな)
視力3.0の良好な視野を持つのだから間違いがない。
天才を目撃した気分がアリアにもたらされた。衝撃だった…
そのあまりのショックで、小さなアリアはしばらく魂が空中散歩をしかける程だった。
だが、不幸というか、縁の巡り合わせはまさに今回り始めた瞬間だ。
「ーーえ」
なぜなら…ーその少年が、まるであらかじめ決めていた約束の待ち合わせに今から来るかのような気軽さで、アリアの、己の方へと…一直線に! 歩いてくるのがたった今であったからだ。
だからアリアの出来た事は、年相応に愛嬌のあるが相当に端正な…美人な…己の顔立ちを、まるで小動物…というか、カラスにおそわれるモモンガのようにおびえさせることくらいであった。
(あわわわわ)
一歩、二歩、三歩…ーー
そして五秒目の瞬間には、少女アリアの目の前に少年は立った。
直前に立つ相手の顔であるが、年齢よりも背の低いくらいのアリアがイスに座っている事で上目遣いをがんばっても覗く事は叶わない。
ーーそんな彼だが…困っているような笑いを浮かべている気がした。
「ねぇ」
「ーーえ、」
そして、ついに、少女は話しかけられた。
「ひゃ、ひゃ、ひゃぃ」
「……これの書き方、おぼえられる?」
「え」
「覚えられたら、まわりのみんなに教えてあげてほしいんだ。お手本はこれなんだけど…」
「あ…」
そうして少年が挿していた腰から取り出した“用紙”は……しかし、
「………」
「………」
……見事な紙飛行機だった。
「……………」
「………、」
「…………ぷふっ」
「ふふ、」
「!」
やれれた(やられた)! 自分は笑わさせられれたのだ!!
どういう訳だが相手が、まるで百年の約束の最後を見届けたかのような、そんな壮絶なエンディング感のあるような…なんというか重みと意味のある表情で、しかし、はっきりと安堵だとか“確かめきった”たぐいの泣きそうな“微笑み”を自分の笑顔を見て柔らかに顔にしていたのもよく意味が分からなかった。
「う゛ーっ!」
ハッキリいおう。この少年はおっさん状態である。…アリアはそう見なした。なんなのかしらんが中年の悲喜交々は滑稽ではあれど苦痛でもある。加齢臭の出し方を間違えてるんじゃないのかー? とも、
おあいにくとも、アリアは勝手に終わらせられるのも始まらせられるのもキライなおんなだ。
だから次の瞬間には威嚇をしていた!
「じゃん、」
「あ」
しかしそれも、その次の瞬間に少年が一瞬の手品のように紙飛行機を展開し、アリアの目前に必要事項が完全に記入された状態の“用紙”が提示された事で中断させざるを得なかった。
「あ、う、えぇと」
「ひとつずつ書いていこう。簡単だから、すぐに出来るよ」
「う、」
相変わらず慇懃無礼なほどに腰の低いしゃべりでそういわれたら、ば、だった。
だから…
…変わっているが、親切なおにいさん、というのが第一印象だった。
カズマ・スドウ、という名前である。
「できた、」
「拍手!」
「「「「「「おおぉお〜!!!!!!!!!!!!!!」」」」」」
内容と言葉の持つニュアンスを最大までかみ砕いてある印象の話法の…その少年の個別集中指導を受けながら、アリアが用紙を完成させた頃、その周囲は十重二十重に集まった新入生たちによって黒山の人だかりと化していた!
畏敬なる大ドラゴンを屈服させた勇気ある少女として、アリアには集まった老若男女の同級生候補たちから、祝福の喝采が浴びせられてもいた。
体育館中が拍手に鳴り響いていた。
発表会の時でもこんな経験は無かったのに…アリアは照れとエッヘン、とした感情で耳たぶを赤くしながら、うつむき気味にはにかんでいたのだ。
そして時計の長針がもう少しだけ進んだ頃には…みんな、このドラゴンが生まれたての子猫よりも可愛らしい程度の事実を続々と証明していった。
「おっちゃん、たのむ!」
「おにーさんですよー…っと、はいはい」
それでも出来ない、出来なかった新入生徒には、少年が直々に秘伝技を伝授している。
たった今のこの瞬間も、野性味のある方向で元気で活発そうなアリアと同い年くらいの少女が、小柄な身体よりも数倍にボリュームがあるたっぷりの綺麗な金髪を、ツーサイドアップのそれを獅子のたてがみのように忙しなくしながら少年との問答に答えていた。
ただ、どうもその返事の内容が、相当にふっとんでるというか悪くいうと素っ頓狂なのだが…まあ、彼と同じくできなかった人に順番で教えながら、手をラッパにして聞き耳を立てている己も己か、とアリアは合点した。
それよりも分からないのが、その金髪の少女に付き添っている青いロングの髪の少女の事である。
アリアとも金髪の子とも同年齢のようなのであるが、しかし少し背のくらいが長身で、その頭の上には入学時に通常の白い学帽と購入が選択出来た紅のベレーが載っていて…あれ高価かったんだよなぁー、
そしておっとりとした感じが離れているここからでも伝わってくるような仕草だし、金髪の子とのコントのようなやり取りも、一々たおやかであった。
「…むー」
ただ、あの少年を中心に集まっているように見えるのが、なんだかおもしろくなかったりして、
「…あっ」
だけど気づくと、凍っていた体育館が、今は雪解けをしていたのが分かった。
たくさんのボールペンの筆記音が体育館中に聞こえていて、新入生徒たち同士が活発に、熱烈にこの難敵“だったもの”に打ち勝つためのコミュニケーションを取り合う…そんな空間になっていた。
冬は春になった。
用紙の回収率が80パーセントを越えた今、新入生全員が最初の難局を乗り越えた瞬間はもうすぐである。
「…えーと」
「………」
時間はさらに経って、ザ・ロンゲストだった入学挨拶の時間はようやく終わろうとしていた。
今は在校生徒名代の、生徒委員会会長の凛としたおねえさんが…短いながらも熱血の通った訓辞と激励を述べ終え、新入生各自から拍手で答えられた瞬間だった。
そうしてアリアも内心ほっ、としていたのだが、……その隣には、あの少年が座っている。
「………、」
「………」
何故か、といえば、先程の“ビンゴ大会”によって新入生達の大移動が引き起こされ、それが終わり席に戻ったとき、席順をバラバラに各自が勝手に座って…という状態に今はなっていたからである。皆の打ち解け具合が深さが分かる一幕であった…
が、いやいや上級生がなんでここに、とかの前に最初立ってた人が後から座ったらイスが足りなくなるのでは、とも思ったが、それは実際に少年がさっきまで立っていた場所に、入れ替わられた本人らしい立派なガタイの青…少年?が泣きそうな顔で立ち尽くしていた事からお察しだった。
はたまたこれが周りをよく見ると、照明が一段階落とされた事で出来た体育館四隅の暗がりには、同じように立ち尽くす、大小高低さまざまの都落ちした哀れな新入生徒達の黒い影が………いや、ちがう。
人数の数が合わない。しかも、かなり増えている。
ざわめくことも、どよめくこともしていない。それだけで“存在”は完璧に秘匿されていた。相当数の、バラバラの個性が見える立ちようだが、確かな統制があった。
潜むように、この入学挨拶の時間が終わる瞬間を待つように…立っている。
…なんだろう。
それから………隣の少年にも変化が起きていた。
「…むーぅ」
こちらはなんて事の無い、その耳の穴にイヤホンがはまっているだけである。
一々、不真面目である。
なにやらシャカシャカとしたノイズが断続、連続、…途切れ途切れに、人の声みたいなそれがやや大きめの青色のイヤホンから漏れていて、それに合わせるかのように、少年は身じろぎだったり足の組み替えだったりを、繰り返す。
一回、首を左右に振る。
三回、床に足を鳴らした。
今、首を鳴らした。
アリアが今までの人生で聞いたこともない様なバキ、ベキベキ! というものすごい音が発せられて体育館の中はひそひそ、というざわめきが聞こえる様になり、壇上に立っていた穏和そうな女性の教諭がお話を遮られた事で涙目になっていた。
ーーそして、
『…ーーー新入生歓迎! 在校生徒、駆け足!!』
「えっ?」
それが、始まった。
体育館の暗がりから一斉に飛び出た制服の生徒たちが、足踏みとともに駆けだしてきたのだ。
統制によってリズムのある巨大な足音となった彼ら彼女らのそれに、アリアは圧倒されていた。
そして彼彼女たちらが新入生徒たちの座る列づつの間に駆け足で入っていって、イスの列同士のわずかな隙間を高速で抜ける瞬間に、握手を求めるかのようにその手がこちらに繰り出されて広げられた。
「え、えっ…と…」
「こうすんだ」
お手本のように、少年が手を前へと延ばした。
すると開かれていた彼のその手の平に先輩生徒達の手のひらが触れていって、やがて拍手のようなパン、パン、パンという拍子の音に変わった。
ーーまだこの時は一重奏だった。
「…っ、」
アリアも、その小さな手のひらを差し出す。
触れる。タッチした。パン! 驚いた。手をひっこめかける。だけども…
手を掲げ続ける。連続になった。パン、パン、パン、とタッチをしていく…、まるで拍手のように。
音に気づいた他の新入生徒も、試し始める。
いつしか無数の、たくさんのタッチされる音が体育館中に響き始めた。
タッチの雨が聞こえていた。
「ねぇっ、これってっ」
「相性チェック、」
「なぁに!?」
「これが“契約”の相手が見つけられる第一のチャンス。よほど相性がいいのはビピッ、っどクるんだぜ。君はどうだ?」
「私は…っ」
触れる手のひらは、大小さまざま。男のひとだったり女のひとだったり、色が黒かったり白かったり、細かったりごつごつしていたり…ーー
そのどれもが、その相手の感情が伝わってくる感触があった。
(すごい)
少女の手のひらに、大勢の人たちの意志と熱量が集められていた。
こうして熱さがわかった今の己の手のひらを、アリアははじめての感覚であると思う。
自分が笑顔になって、この学園の最初の日を楽しみはじめている事だって…ーー
「なっ」
「ひゃ、」
声かけにどきり、となって横を向いた時、彼が、こちらへ親指を立てた握り拳…サムズアップを向けていた。
「…」
小さく触れてみた。
この時触れた彼の手が、誰よりも一番暖かく感じられた気が、する。
そうして最初の洗礼が終わり、壇上に整列した在校生徒たちが合唱隊のような隊形になってから各自の自己紹介を始め、終わり、最後に会が解散されて在校生と新入生との交流会に移ったその時まで、アリアは座ったまま、己の手のひらの体温を、握りしめて…噛みしめていた。
目を瞑ったまま…記憶に残した。
「…あっ、」
しかし、ここで少女はハッ、となる。
次から次への出来事の連続に、自分が少年へのお礼を言い忘れていた事に気が付いたのだ。
(えぇーっと)
どうしよう、どうなんだろう……こんな年長のおにいさんと、ここまで交流をする事がこれまででなかったのにもアリアは気づいた。でも、お礼は言わないと、
すると緊張をしてくる。なんだか目が潤んで、顔が赤くなっているような気も感じられていた。もじもじとしながら、それでも勇気を出して…ーー
「あの、」
「うん?」
隣の少年は、おなじく座っていた。
上半身を向けて振り向いた少年は……やはり、こわくない。敵だとかおそれるものだとかには、なりようがないのだという確信を得るに至った。
だから、すぅ…と息を吸い込んでから、それから、
「あ…ありがと、ございま!」
噛んだ。
「…」「…、」
…数秒かけて、ゆっくりと唸りながら痛む舌を出す。
「…」
「…、、、」
「きみね」
「はい?」
だから、次の瞬間、
「カワイイ」
「…へ」
…え?
「 か わ い い ! 」
「 、」
は?
「いやーやばいわマジ萌えたは……どうす…んーー、、、…ん?」
「 。」
「あ゛」
アリアは氷になっていた。
照明の照度がゆっくりと回復する体育館の中、周囲の雑踏も、喧々囂々も、温度も、凍り付いていた。
そしてこの瞬間…一年前のこの日と同じ失敗を繰り返してしまった事実に気が付いて、…しかし困ったような、望んだとおりとものような、もしくは…、…ーそんな表情を少年はしてみせた。
“かわいい”と言う事は、今や、この国ではあまりよろしくない意味を持つ。
つまりは、腰と頭の軽い男が手癖の悪さを乙女の純血で購わん、という時。
毒牙に掛けられた乙女が涙を飲んで男の伴侶になる、という意味でもあるし、事後のベッドの上には…ー真っ赤な薔薇が一つ。
「…ぃ、」
だから、
「いにやぁあぁあああああああああああああああああああっ!!!???」
ーー少女の絶叫もかくやむなし、であった。