その8
「今回の報告は以上です。彼は、相変わらずですね。」
「いつもいつもありがとうございます、先生。」
白い机にベット、大量のカルテが置いてある診察室で、眼鏡に《・・・》白衣の男と車いすの妙齢の女性が向かい合っていた。
「あの、先生。」
車いすの女性が、疲れ切った顔で白衣の男に声をかけた。
「あの子は、一生あのまま、葵の死に責任を感じたまま、生きていくんでしょうか。」
目に涙を浮かべ、静かに、静かに白衣の男の尋ねた。男は優しい笑顔で、女性を見ていた。
「大丈夫です。彼は、今客観的に自分を見ようと必死なのです。だからこそ、白衣に身を包み《・・・・・・・》、自らの体験を他人に投影するんです《・・・・・・・・・・・・・・・・》。」
「体験を、投影。」
女性は少しだけ目を大きく見開いた。夫と娘を亡くして以来、久しく見せていなかった、疲れと悲しみ以外の感情だった。
「ええ、そうです。自らが医師であると思い込み、他人を治療しようとするのは、彼なりの自己治療です。彼と私を入れ替えて、お話として体験を語るのは、そういうことなんです。大丈夫ですよ、彼自身は治るつもりでいるんですから。ゆっくり、ゆっくり経過を見ていきましょう。」
女性の手を両手で包み、白衣の男が笑いかけた。車いすの女性は、短くはい。と返し、大きく頷いた。
「センセー、お母さんお帰りになりましたー。」
「そうか、ありがとう。」
間の抜けた口調の、看護服を着た女性が報告に部屋を訪れていた。
「でも、大変ですねー。あの子の、あの子がここに来た時の話、もう何回も聞いているんですよねー?」
机のカルテをファイルに入れながら、看護服の女が顔も見ずに言った。
「まあな。でもこれも仕事だし。しょうがねえよ。」
一度大きく背伸びをしながら、白衣の男が答えた。首を左右に振ると、ゴキゴキと骨が鳴った。
「しかし、ホテルロークジットねえ。葵の話もそうだが、今回はいつもより詳しいうえに、今までにない展開があったな。」
「これまでは葵ちゃん、出てきてもしゃべらなかったんですよねー?それに、ホテルロークジット、これも初めて出てくる単語ですねー。」
ロークジット、ってなんですかー?と女性が男に尋ねた。
「知らねーよ。これだと、自分の客観視は出来ても、せん妄が酷くなってくかもしれないな。…治るんだか治らないんだか、もうわかんねえな。」
はあ。と大きくため息を一つついた。女性はそんなこと気も留めず、机を布巾で拭いていく。
「まあ、そこらへんはセンセーのお仕事ですからー。頑張って治療してあげてくださいねー。」
「まったく、他人事だからって、適当言いやがって。はあ。ちょっと外の空気吸ってくるわ。」
扉を開け、心地よい音楽が鳴る廊下へ男は出て行った。はーい、いってらいっしゃいませー。と間の抜けた声が、遅れて廊下に響いた。
「消費税の増税は、これからの国を支える大きな柱です!これまでの政権と違い、我々は、強い国を作り、人々の生活を豊かにしていかなければなりません!その他為には、一つでも多くの議席、一票が必要なのです!皆様、これから我々とともに頑張っていこうではありませんか!」
「おー!」「そうだそうだー!」「その通りだー!」
建物の屋上に上がると、遠くで選挙の演説が行われているようで、騒がしいノイズが耳に入ってきた。男はタバコに火をつけると、一口煙を含み、そして吐き出した。
「しかし、なぞなぞねえ。『見えるのにないもの。聞こえるのにないもの。』か。」
風に煽られ、ちりちりとタバコが燃えていく。煙は空へ流れ、消えていった。男は目だけ動かし、その動きを眺めていた。
「答えは、煙。いや、違うな。答えは…」
声をいったん区切った。特に意味もなかったが、そうしたいいように思えたからだ。
「「幻」」
二人分の声が、風に飲まれていった。眼鏡をかけた白衣の男は驚き、後ろを振り返った。
「センセー、流石だね。あのなぞなぞ、答えは、幻。伊達にセンセーやってないね!」
そこには、赤いチェックにジーンズ、黒く長い髪の女の子、葵が立っていた。男は口をだらしなく開け、手に持っていたタバコを落とした。
「あ、葵?」
「うん、そうだよ!あ、センセーは初めましてだね!会ったの初めてだし!」
にこやかな笑顔を湛え、葵は軽く手を振った。
「お前、お前は、死んだはずだ!そして、今はあいつの妄想で!そう、妄想の存在だ!」
男は小刻みに震え、顔も白く血の気が引いていった。言葉うまく出せず、舌が縺れているようだった。
「ははは、センセー、今自分で言ったじゃないか。私は幻だよ。」
葵はお腹に手をあて、軽く笑いながら言った。
「でもね、センセー。」
葵は一歩、男に近づいた。
「センセーも、とっくにこの幻に取り込まれたんだよ?」
もう一歩、葵は近づきながら言った。
「気づいてないのはセンセーだけ。センセーはもう、幻の住人なんだよ。」
見ていると吸い込まれそうな、濁った眼で男を見ている葵は、言葉を続ける。
「そうだ、センセー、お祝いをしようか。センセーが幻だと気付いた記念に。」
うふふと、葵は笑った。すべてを包み込む、優しい優しい笑いだった。
「やっぱり、幻ならこれだよね。センセー、おめでとう!」
笑ったまま、葵は話し続ける。そして、思いっきり両手を空に伸ばした。
「ハッピーハロウィン!アンド、ハッピーニューヤー!センセーのために、大きな声で挨拶をしよう!そして、教えてあげよう!!この幻の通称を!!」
「ホテルロークジットへ、ようこそ!!」




