その6
「ハッピー、ハロウィーン!」
「う、うわぁ!」
バンとロッカー内側から思いきり開き、私を心底驚かせたのは、居ないはずの人物、居てはいけない人物である、葵だった。
「いやー、いいリアクションだね。狭いわ暗いわ、もう嫌になってたんだけど、その驚いた顔が見えたから、まあ良しとするよ。」
「もしかして、部屋に入る前からずっと中にいたのか!!」
そーだよー。と言いながら、葵はロッカーの中から這い出てきた。服を二三度叩き、肩についていた埃を払ったあと、こちらをしっかりと見据えてきた。以前のように目を細め、にこにこと笑っていた。
「さて、こんなもんで掴みは上々かな?…おにーちゃん、色々、聞きたいことがあるんだろう?」
先程までとうってかわり、酷く低い声で葵が問うてきた。聞きたいことは山ほどある。が、しかし唇が上下に張り付き、口が開かない。真っ直ぐこちらを見る葵を、ただただ見返すしかない。それこそ蛇に睨まれた蛙ように動けず、金縛りにあったようにその場に立ち尽くすしかなかった。
「…うん?どうしたんだい?おにーちゃん?」
抑揚なく、首を傾け、動けない私を見ている葵は、そのままゆっくりと近づいてくる。一歩、また一歩と近くにくるたび、心臓は張り裂けそうに鼓動を速めた。
「あぁ、そうか。おにーちゃんは、怖いんだね。」
合点したように、葵は一人頷いた。私、私は、怖がっているのか?
葵の言葉が、頭蓋骨の中、脳内を、隅から隅までぐるぐると回る。
「何のことか、わからないみたいだね。ダメだなあ、おにーちゃんは。葵のこと、きちんと覚えておかなきゃ。」
硬直している私を尻目に、葵はやれやれと首を横に振った。そして、突然赤いチェックのシャツのボタンを外し始めた。
「何してるんだ!」
いきなりのことに、やっと声が出せるようになったが、出てきたのは短い怒声だった。大きな声に反応して、葵は第二ボタンまで開けていた手を止めた。
「何って、見ての通りだよ?思い出さない、いや忘れようとしているおにーちゃんに、私のことを知ってほしくね。」
ははっ、と失笑とも挑発とも取れるような乾いた笑いを浮かべ、葵は少し俯いた。
「思い出さない!?忘れようとしている!?今日初めて会った人間の何を知ってるっていうんだ!!」
まるで、野犬ように吠えた。そうしないと声が出なかった。両手は、爪の跡が付き血が滲むほど固く握りしめていたが、それさえ気にならない程、葵との対峙が怖かった。本能的に逃げ出したく欲求の遂行を、恐怖が許さなかった。
「そんなに怒鳴らなくてもいいのに。もう、しょうがないなあ。」
本当は自分で思い出してほしかったんだけど。そういうと、葵は瞬間的に息を吸った。
「お兄ちゃん《・・・・・》、後ろは危ないよ《・・・・・・・》?」
はっとした。たった一言だが、それで十分だった。そうだ、葵は、私の妹は、
「高速道路、トラック、速度超過。」
葵は目の前まで迫ってきていた。その葵の一言一言がきっかけに、記憶が蘇ってきた《・・・・・・・・》。
「な、夏の終わりに、家族、で、遊びに行こうって」
「そう。そうだよ。お兄ちゃん。お父さんが、お酒を飲みたいからって後ろに来て、お母さんが助手席に、お兄ちゃんが運転席に」
ありありと、ハンドルの感触まで思い出せた。速度メーターは100km前後。周りの車は少なく、眠くなるほど単調な道のりだった。父さんは後部座席でビールを仰ぎ、母さんは隣で転寝をしていた。そして、葵は外を眺めながら、私とおしゃべりに興じていた。
「お兄ちゃん、彼女は作らないの?今度、買い物に付き合って!お父さんねっちゃたよ。…色々、話したよね。」
眼前の葵は、目を閉じて涙を流していた。
突然、後方からクラクションが聞こえた。なんだろうと思い、バックミラーに目をやると、後ろから大型トラックが迫っていた。今思えば、そのトラックを避けたほかの車のクラクションが聞こえたのだろう。だが、その音に気が付くのが遅かった。次の瞬間には
「暗転。真っ暗になった。気が付いたら、体中が痛んで、目の前が真っ赤になっていた。そして、お兄ちゃんは見たんだよ。」
葵は、赤い、赤黒く《・・・》なってしまったチェックのシャツを脱いだ。
「私が、潰れていた」
葵の目の涙は、血に変わっていた。腹部は正視できる状態ではなかった。
「トマトとザクロ、私を思い出すから今も食べられないんだって?」
口の端から血を流し、葵はとびっきりの笑顔でそう言った。




