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桜の記

錦秋桜

作者: 楠 海

薄桜鬼とはなんら関係はないのです。

山道を登ってくる人影が見えた。そう険しくもない道であるから、少女らしきその人物は着物の裾を絡げながらも確実にここを目指している。

 人間か。

 眉間にしわを寄せるとはこんな気持ちなのかもしれないと思う。

 私は一人でいたいのだ、なのに何故わざわざ里から登ってくる。

 追い返すことにした。

 さて、どうしたものか……

 そうこうするうちに、少女は山道を登り終えていた。最後の一歩を踏み締めると同時に目を上げ、小さく歓声を漏らす。

 彼女の眼前には、艶と咲き乱れる桜の大樹があるはずだ。

 少女が無人の桜の根本に腰を下ろした。と同時に、私はその隣に飛び降りた。

 努めて無表情に少女を見下ろすと、驚いたように目を丸くしていた。

 そして大事そうに胸の前で抱えていた風呂敷包みに手を入れた。

 刃物でも出すつもりかと思ったが、出したところで私に敵うとは思えなかったため眺めるに留める。

 果たして、少女が取り出したのは小さな緑色の塊だった。それをいとも気軽にこちらに差し出してくる。

「あなたも食べる?」

 真顔で言うから受け取ってしまった。鼻先を草の香がかすめる。

 おかしな行動に走った少女をまじまじと見つめると、少女は小首を傾げて見返してきた。

 見たところ、大人びてはいるが十三か十四かといったところだろうか。質素な町娘のなりをしている。蓬色の地味な着物と簡単な髪の結い方がよく似合っていた。

「食べないの?」

「……逃げないのか?」

 質問されたが質問したいのはこっちの方だ。

 今の私は、少なくとも普通の人間の姿ではない。

 腰まで流れる白髪、紅玉の瞳。冷ややかな美貌の少年である。

 人間を脅すために意識して作った容姿だ。目論み通り人間は私を恐れ、噂を流した。

 あの山桜は鬼が守る桜、禍々しい桜だと。

 ご丁寧にも「桜鬼」と名前もくれた。なかなかに雅で良い。

 話が逸れた。

 何故彼女は私の姿を恐れないのだろう。

めくらか」

 それなら納得がいく。

「まさか」

 否定されてしまった。

「なら何故逃げない。鬼だぞ。怖くないのか」

「全然」

 何。

「綺麗だし」

……この容姿も改良するべきかもしれない。

「美しいものほど怖いとは思わんのか」

「あんまり」

 図太いのかそれとも馬鹿か。

「綺麗な鬼になら食べられてもいいかなって」

 ただの馬鹿だ。

「ならば今ここで」

「その前に」

 食ってやると言う前にびしりと指差された。

「それ食べたら?」

「それ?」

「それ」

 そういえば緑色の塊を持っているのを忘れていた。

「これは食べ物なのか」

「食べ物に見えないって言うの?失礼ね」

 人を指差したお前も失礼だ。

 改めて匂いを嗅いでみた。草の匂いに混じって仄かに甘い香りがする。

 見ると少女は既に同じものを頬張っていた。いくつか風呂敷に包んでいたようだ。

 かじってみる。弾力のある緑色の中から黒くて甘いものが顔を出した。緑色は手にやたらと張り付いた。

 躍起になって剥がそうとしていると、私の様子を眺めていた少女が笑い出した。笑われたことに対する不快感は何故かなく、むしろ華やかな笑い声が快い。

「食べたことないの?」

「ない」

「蓬餅っていうのよ、それ」

「そうか」

「おいしい?」

 嘘をつく理由はない。

「ああ。春の匂いがする。萌え出る若葉の匂いだ」

 正直に感想を述べたのだが、少女はまた可笑しそうに笑った。

「ずいぶん粋な言い方するのね。これが春の匂いかぁ」

 蓬餅とやらの匂いを深々と吸い込み、またにこりと笑う。

「蓬だから春の匂いがするのも当然かもね。……ねぇ、私の名前も蓬っていうのよ」

「そうか」

 人間の名前にさしたる興味はないため素っ気なく返したが、蓬と名乗った少女はからかうような微笑を浮かべて身を乗り出してきた。

「私も春の匂いする?」

「どれ」

 離れていては匂いなど分からないため、とりあえず引き寄せてみた。蓬餅と同じ香りが微かにした。

「わ!?」

「する」

「ちょっと何すんのよっ」

 危うく叩かれそうになった。平手打ちされては困るので、振り上げられた手を捕まえておく。

「ぬしが匂いがどうとか言ったからだ」

「だからって本当に嗅ぐことないでしょ!?」

「意味が分からん」

 頬を桜色に染めた蓬は、私の手を振り払ってしばらくそっぽを向いていた。

 視線がふらふらとさ迷い、やがて頭上の桜に留まる。

 満開だ。

 微風に乗り、薄紅の花弁がほろほろと舞い降りている。

 見惚れるように桜を眺めていた蓬は、視線を逸らしたまま呟くように問うた。

「……あなたの名前は?」

「桜鬼」

「おうき?」

「桜の鬼の、桜鬼」

 彼女はくすりと小さな笑いを漏らした。

「似合ってる」

「そうか?」

「あなたの髪、桜色してるもの」

 そう言われ、目の前で踊る一房を掴んでじっくり検分してみた。

 春風に弄ばれているこの髪の色は白だと思っていた。

 桜色。そうかもしれない。

「ぬしは」

「何?」

「何故ここに来たのだ?」

 意味を量りかねたように目を瞬かせる少女に言葉を重ねる。

「この桜の近辺には鬼が出ると聞かなかったのか?親にも止められただろう」

「親には言ってないよ。私は今頃長屋の裏で遊んでることになってる」

「鬼の噂を聞かされたことは」

「だって私の周りに鬼に直接会った人なんていなかったもの」

「直接会った人間は全員食われたとしたら」

「だったらなんで噂が流れるのよ」

 なかなかに頭の回る娘のようだ。

「……ねえ、桜鬼」

 躊躇いを滲ませた声で名を呼ばれ、無言で少女を振り返る。

「今までずっと一人だったの?」

「まあな」

「寂しくなかった?」

 そう問われ、今までのことを思い返してみる。

「ああ、全く」

「嘘」

「嘘じゃない。ずっと自分で人間を追い返してきたのだから」

 放っておいても人間はわざわざ私を見に来る。本当に鬱陶しい。

 そう言うと、少女は私の反応を窺うように上目遣いに呟いた。

「……もしかして私も鬱陶しい?邪魔?」

「いや。ぬしは花枝を手折りはせぬ。酒に酔って騒ぎもせぬ」

 すると少女は表情を一転させ、ふわふわと微笑んだ。人間の表情というものはこれほどまでに早変わりするもののようだ。

「よかったぁ。……邪魔じゃないならまた来るね」

 なんだその挨拶は。

「もう帰るのか?」

「うん。あんまり長くここにいたら親にばれちゃうし……あ、桜鬼もしかして寂しいの~?」

 少女はにやにやと笑い、私を突き回した。痛い。というよりくすぐったい。

 ひとしきり突くと、少女は風呂敷を畳んで立ち上がった。その姿が名残惜しげに見えたのは気のせいだろうか。

「じゃ、桜鬼。また明日」

「また……明日?なんだそれは」

 少女は目を丸くし、そして微笑した。

「明日また会いましょうっていう意味よ」

「……また、明日」

 言い慣れない言葉をようよう繰り返すと、少女は手を振って木々の間に消えた。

 小さな背中が見えなくなってから、小さく口に出してみた。

 蓬。

 手指にはまだ餅の香りが残っていた。


 自然の摂理に逆らう日々が始まった。

 本来ならば景気良く散らすのが桜は最も美しい。が、蓬は花見にここに来ているのだ。散ってしまうと来なくなることは目に見えている。

 人間と話すということはこれほどまでに面白いものかとようやく気付いた。つくづく今まで人間を追い払い続けてきたことが惜しまれる。

 闇雲に追い払うことなく、せめて子供だけでも引き止めていたならどんな話が聞けたろうか。

 ともすると枝から離れていきそうになる花弁を引き留めながら、蓬が来るのを待つ。来たら他愛もない話をし、挨拶をして別れる。

 蓬は毎日、「また明日」という。

 その明日には花が散っていることなどないように注意を払ってきたのだが、葉が出ようとし始めるとそれはもう悪あがきに近い。というよりも完全な悪あがきだ。

 花の最後の一片が散ったのを蓬は眺め、小さく嘆息した。

「ここの桜は長いこと咲いてるなぁと思ったけど、さすがに皐月ともなるともたなかったわね」

「……すまん」

「なんで桜鬼が謝るのよ」

「引き留めようとはしたんだ」

「桜は一気に散るのが一番綺麗なのよ?」

 来年は一気に散らすことにする。

 桜が散ったことなど気にも留めない様子で、蓬はいつものようにつらつらと喋っていた。家族のこと、友人のこと。昨日はあれをやった、これをやった。

 喋っているのを聞いて相槌を打って、その間にも日は中天を通り少しずつ傾いていく。

 そして赤く染まり始めた空を見上げた蓬が立ち上がった途端、思わず私は彼女の袂を掴んでいた。たたらを踏んだ蓬は呆気なく転び、そしてがばりと顔を上げる。

「何すんのよっ」

「……別に」

「そろそろ時間だから帰ろうとしただけじゃない」

「…………別に」

「別に別に言ってるだけじゃ何言いたいのかわかんないんだけど」

 私はしばし逡巡した。何か言いたくて引き留めたわけではない。衝動的に掴んだだけだ。

 そのときに自分が何を感じていたのかは覚えていない。ことにする。たとえその感覚が胸の奥に残っていようとも。

 その内にぽろっと言葉がこぼれた。

「蓬餅は美味であった」

 それにしても何故こんな言葉なのだ……

「じゃあ来年も作ってくるね」

 どうやら次に会うのは来年になるらしい。

 胸の奥にわだかまっているものが質量を増した気がした。正体は何なのか皆目分からないが、実に不愉快な感触だ。

「そうか。ではさっさと帰るがいい」

「何仏頂面してんのよ桜鬼」

「別に」

「さっきからなんでそんなに不機嫌なの?」

「なんでもない」

「なんでもないならいいけどさ。じゃ、また明日ね」

 ……何?

 桜は散ったというのに、蓬はいつもと同じ態度で、同じ言葉を残して里に下りて行った。

 「また明日」を蓬が違えたことは一度もない。よほど天気が悪くなければの話ではあるが。

 西の空は綺麗に朱い。明日は晴れると見た。

 やはり、来年は出し惜しみせずに桜を盛大に散らすこととしよう。


 驚くべきことに、桜が散った後もほとんど毎日蓬はここに通い詰めた。

 初めて会ったときは蓬色だった着物の色を染め変えながら。

 天気の悪い日はさすがに来なかったが、雨続きになる水無月は赤い番傘を差してここまで登って来た。若葉の中に赤が映えていた。

 夏、蝉の声が降りしきる中を。

 秋、日々山が粧いを美しくする中を。

 冬は雪が降るまでだ。あの山道も冬の間は雪に閉ざされる。

 そんな冬の間、私は本来の姿である桜の中でまどろみながら、暖かくなるのをひたすら待っていた。

 初めて人と話すことを知った(一方的に追い返すのではなく会話を成立させることだ)。

 冬の間は誰とも話すことはない。

この山に生きる同朋たちも、冬の間は春を夢見て眠る。

私も眠っていた。そして時折仄かな意識を取り戻す。

それはいつもと同じなのに、ふと目を覚ましたときに何故だが胸が疼くのだ。

誰かと会話することのない人恋しさか。

人間と――蓬と会話するまでは、こんなことは知らなかった。

人間とはこんなにも不思議な力を持つものなのか。

色々と彼女には教わったが、いまだに人間というものはよくわからない。


 そして季節は巡り来る――


 桜が咲いた。

 私は待っていた。桜の樹の上で。花弁を一片たりともこぼさないように細心の注意を払いながら。

 山道を人影が登ってくる。いつか見た蓬色の、いや、あの色は違う。

 もっと大人びた色が、笑い始めた山を登ってくる。

 大事そうに風呂敷包みを抱えた人影は、桜の樹の下に立って周りを見回した。まるで何かを探すかのように。

 その眼が上を見上げる前に、私は彼女の隣に飛び降りた。

 私自身ずっと白だと思っていた桜色の髪がふわりとなびく。

 一拍おいて、彼女は振り返った。

 ああ、

 人間というのはなんという不思議なものだろうか。

 初めて会ったときはもっと幼かった。少年の姿をした私よりも背は低く、少女らしくきらきらとした瞳が私を見上げていた。

 そして今、彼女は私を見下ろしている。

 瞳の澄んだ光はそのままに、だが確実に深みを増していた。

 その瞳がにこりと笑う。

「桜鬼、久しぶり」

 その声は既に少女のものではなかった。年頃の娘の声だ。

 声も姿も、最後に見たときより成長していた。

「……ぬしよ」

「何?」

 柔らかな声が笑みを含んで問いかけてくる。思わず一瞬声を呑み、そして注意深く言葉を紡ぐ。

「……美しくなったな」

「え、私が?大袈裟ね、そんなに変わってないわよ」

 笑いながら片手をはたはたと振る彼女の目を避けるように、桜の大樹の裏に回り込む。私の名を呼ぶ訝しげな声が聞こえてきた。

 やがて彼女はこちら側を覗き込み、目を丸くした。私はそれを少し高い位置から見下ろした。

 しばらく呆気に取られていた彼女は、私の姿をひとしきり眺めて唇を尖らせた。

「なんで大きくなってるのよ」

「背の高さを合わせた」

 今の私の背は彼女よりも二寸ほど高い。

 私の姿は作り出したものだから成長はしない。だから背の高さを彼女に合わせるためには、こまめに調節をするしかないのだ。

 小さく肩をすくめた彼女はにっこりと笑い、持っていた風呂敷包みを私に差し出した。

「今年も作って来たのよ」

 春風が、桜の花弁を盛大に舞い上げる。桜吹雪が束の間視界を覆った。

 風呂敷からは春の匂いがした。


 毎日がゆっくりと過ぎていく。

 いや、穏やかな時間だったというだけで、もっとずっと早く毎日は過ぎていたのかもしれない。

 冬が迫り来るのが異様に早い気がした。


 今日、山はすっかり粧い終えた。ちょうど紅葉が盛りを迎え、この山も遠くから見ると燃え上がっているように見えるだろう。

 相も変わらず私は桜の樹に寄り掛かり、彼女が来るのを待っていた。しかし今日に限ってやたらと遅い。だが今までにも、いつも決まってやってくる時間に遅れたことはある。さして気にはならない。

 初めて気になったのは、半刻ばかり遅れた彼女が桜の樹に近付いてきたときだった。

「浮かない顔だな」

「え……あ、わかる?」

 声をかけると彼女は微笑みを浮かべたが、その笑顔が妙にぎこちない。それすら気が付いていない様子で、私から目を逸らし山を眺めている。

「ぬしよ」

「……紅葉、し終わったのね」

「ぬし……おい、蓬」

 彼女は傍目にもわかるほどぎくりと肩を震わせた。それでも頑として私を見ようとしない。

「何を隠してる」

「別に……何も」

「何もないという顔ではないぞ」

「……別に」

「別に別にと言っているだけでは何が言いたいのかわからん」

 いつか彼女に言われた台詞をそっくりそのまま返してやると、ようやく彼女はこちらを向いた。何かを決意したように唇を引き結んでいた。

「……あのね、桜鬼」

「なんだ」

 彼女は大きく息を吸い、言った。

「私ね、遠方に嫁ぐことになったの」

 瞬間、胸の奥で何かが大きく揺らいだ。それを押し隠し、平静な声を出す。

「そうか」

「何よそのあっさりした反応!」

 相槌を打つと眦をつり上げて怒った。

「前々から嫁ぎ遅れた嫁ぎ遅れたと愚痴っていただろう。むしろ目出度い話ではないか」

「だからってなんで好いてもいない相手とくっつかなきゃいけないのよ!だいたい縁談が来てたなんて話私はこれっぽっちも聞いてなかったのよなのに親が勝手に進めてて当人の了承も取らずにっ」

「拒否すればいい話ではないか」

 そう言うと、むう、と頬を膨らませた。

「今の段階で拒否したら先方が怒るわ」

「だいたい縁談を拒否したい理由でもあるのか」

「好いた人とでないと嫌」

「ならばはっきりと親に言え」

 蓬はふと表情を曇らせた。憂いを含んだ眼差しがついと伏せられる。

「……結ばれることのない人が好きだなんて言えないもの」

「いつぞやぬしが熱く語っていた駆け落ちとやらは」

「そんなことしたら二人揃って縛り首よ」

 だいたい、と呟いた蓬は、目を伏せたまま囁いた。

「言えるわけないじゃない。……鬼が好きだってこと」

 私は思わず目を瞠った。まさかその表情は俯いたままの彼女には見られてはいまいと踏んでのことだが。

「ぬしが懸想する鬼がこの近辺にいるというのか」

「莫迦っ!ばかばかばかっ!桜鬼のばかっ、鈍すけっ、朴念仁っ」

「いっ、痛っ、痛いっ」

 突然ぽかぽかと殴られた。意味がわからない。頭を腕で庇いながら、何故だか情緒不安定な蓬を睨む。

「いきなり何なんだっ」

「なんでここまで言っても分かんないのよっ」

「分かるかはっきり言え私は裏を読むのは苦手なんだ」

 蓬は私を殴る手を止め、きっと睨み返してきた。目の縁に薄っすらと涙が滲んでいる。

「私はっ…………あんたが好きなのよっ」

 …………は?

 …………ああ、だから結ばれることはないと。

 蓬は今やぼろぼろと涙を零していた。

「だから縁談なんて嫌なの、遠方へなんか行きたくないの!お嫁に行かなくてもいい、ずっとここにいられればっ」

「ではぬしよ」

 言葉を遮られた蓬は口をつぐんで私を見上げた。だが彼女の顔は見ない。見ないままに、言う。

「鬼の嫁にでも来るか」

 今の私の顔は、酷薄な薄笑いを浮かべているようにちゃんと見えているだろうか。

 隣に座っている蓬は大きく目を見開いていた。

「飽いたら喰らうこともできるだろうからな」

「それでもいいわ」

 良くない!

 辛うじて張り付けていた仮面がいともたやすく剥がれ落ちた。

「私の意図くらい読み取れ!」

「裏を読むのは苦手なのよはっきり言いなさいよ!」

 涙で目の縁を赤くしているくせに、噛みつきそうな勢いで言い返してくる。

 言わねばなるまい。

 私は立ち上がり、空を見上げた。

 よく晴れた秋空だ。刷毛で刷いたような薄雲がたなびいている。

「……ぬしは人間だ」

「そんなこと知ってるわよ」

「ならば察せ」

 私自身が望まないことを口に出して言うのは勇気が要った。

「人の間で生きろ。鬼の嫁になるなどと言ってはいけない。たかが縁談で駄々をこねるな」

「でもっ」

「これが生涯の別れではない」

 見てはいけない。振り返ってはいけない。

 一度彼女を見てしまうと、手放せなくなってしまうから。

「帰って来ればよいのだ。どんなに時間がかかっても、帰って来ればよい」

 蓬の声は聞こえない。ただ視線が背中に触れているのを感じる。

「遠方にでもどこにでも行け。――待っているから」

 息を呑む気配がした。

「どんなに時間がかかっても、待っているから」

「……じゃあ、できるだけ早く、帰ってくるから」

 彼女の声は、笑おうとしていた。それでも隠しきれずに震えていた。

「桜鬼が待ちくたびれないうちに、帰ってくるから」

 腰を上げる気配。そして彼女はきびすを返す。

 返事をする余裕がなかった私は、

 振り返る。

 そして離れていく背中に精いっぱいの声で呼びかけた。

「蓬――――っ!」

 振り返った蓬は、心底驚いたように片手を口元に当てた。

 視界に薄紅の花弁が舞う。

 私の背後の桜は七分咲きか、八分咲きか。できれば満開にしたかったが仕方あるまい。

 紅葉と、桜吹雪の間に立つ美しい娘。

 花枝は折らぬぬしに、この花束をやろう。受け取れ。

 頬を涙で濡らしていた蓬は、その瞬間確かに笑った。

 今まで見たどんなものよりも、綺麗だと思った。


 鬼桜の噂は廃れた。

 代わりにつけられた名前がある。

 錦秋桜。

 毎年、山が粧うと同時に咲く桜――


 蓬が約束を違えたことはない。

だから今回も違えないと信じている。

 私があの日から数えて既に百回咲いたとしても、人は百年も生きられないとしても。

 もしかすると蓬の容姿はすっかり変わっているかもしれない。名前も意味を成さなくなっているかもしれない。

 それでも、会えばきっと分かるはずだ。

 会うのがいつであっても、どんな季節であっても、

 彼女からは春の匂いがするだろうから。


 待っているから。

 どんなに時間がかかっても、待っているから――

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