桔梗
私の家の右隣には先生と呼ばれている人が住んでいる。噂好きの母親が言うには、どこぞの資産家の三男坊。生前贈与で建てられた大きな家にひとりで住んでいる、書道家の先生だ。
だから先生と呼ばれている。というわけではなく。その大きな自宅の一部で書道教室を開いているから、先生と呼ばれているのである。
年の頃は四十半ばだったか。同級生の男子なんか随分とコドモに見える。女子高生には大変魅力的なオジサマだ。
淡い恋心なんてものも抱いてしまっている。
けれども、よちよち歩きの頃から知られているのが原因か。立派な女子高生となり書道教室のお手伝いを始めるに至った今でも、先生にとっての私はずっと小さなお嬢さんのままだった。
告白したところであしらわれるだけだろう。
だから、初恋は初恋のまま。ずっと胸の内側に秘め続けていた。
「あら、あら、あらららら」
書道教室に並べられた机を拭いていた背後から、まったくもって慌てた様子のない声が聞こえてきた。どうかしたのかと振り返れば、横着して高く重ねられた紙束がどさどさと床に散らばっている。
書道教室の入り口。落とした本人である先生が、あちらこちらへ紙が散らばる様をのんびり眺めていた。
なんとも可愛らしい。時おり垣間見える、こうした先生の大雑把な部分に、恋心が柔く心臓を締め付けた。
「あーあ、先生。この前もそうやって落としてたじゃないですか」
小言を言ったつもりの口元が、ムズムズとニヤける。
「ありがとう。手間をかけます」
「いいえー、慣れてきましたよ」
小娘の生意気な物言いを、先生は笑って済ませた。つまりこういったところで子ども扱いを感じるのだけれど、その優しさに甘えている自分も否めなかった。
恋心とはなんとも難しい。
せっせと紙を拾い集めるだけで、うっかり指先が触れ合っちゃったりしちゃわないかな? なんて妄想も広がってしまう。触れ合ったところで何が起こるわけでもないのにだ。
期待を込めてひとつ、ひとつ拾い上げていく。その中のひとつに、先生がいつも持ち歩いている手帳が落ちていた。
落ちた拍子に開いた中身は、なんてことないスケジュール帳だ。先生の綺麗な字で、沢山の予定が書き込まれている。
正直、先生のスケジュールなんて興味津々だ。いつどこで、どんな事をするのか。いつならこの家にいるのか。知れるものなら知りたいと思う。
けどそれじゃあストーカーだ。あまりじっくり眺めてもいけないだろう。と好奇心を抑え込み、拾い上げたそこから一枚の写真が抜け落ちた。
「あっ――」
色褪せた写真である。今より若い先生と、男の人が楽しげに笑っている一瞬を切り抜いた紙片。その二人の姿から、なぜだか目が離せなかった。
「失礼」
節だった右手がその写真を拾い上げてなお。視線は、写真を追い続けた。その姿にクスリと笑った先生の声が、呪縛を解く。
「気になりますか、この男が?」
ぱっと、頬に血が昇ったのを自覚した。
「あ、えっと……はい。見たこと無い方だなぁって」
ウソ。気になったのは見たことのない顔で笑っていた先生の方。だけれど、それを正直に伝えるのは、ちょっと面映ゆかった。
「昔、ここの手伝いをしていた者ですよ。ツゲと呼んでいた男です」
ほら、と写真の裏側に書かれたツゲの二文字を先生が見せてきた。先生の字ではないのだから、そのツゲと言う人が書いたのだろう。
写真を、もう一度表返した先生はとっておきの内緒話でもするように、口元をほころばせた顔で写真の中のツゲを指さした。
「この男はね、そこの生け垣の所で倒れていたんですよ。だから、ツゲ」
「え?」
「呼びかけても目を覚まさないし。仕方なく救急車を手配してやり、起きたと思ったら記憶喪失で。警察にも届けを出しても手がかりはなく……。しょうがないから、拾った責任と引き取った男なんですよ」
冗談だろうか。映画みたいな話だ。けれど先生がウソですよと言ってくれる素振りはない。なら、本当の話なのだろうか。
「もう、随分と前の話ですけどね」
爪先で憎らしげに写真を弾く。先生の横顔は、なんだか寂しそうにも見えるのだった。
「……先生?」
肩を揺すられ、うたた寝から目を覚ました。自家用車の助手席。ぼんやりとした意識で見た運転席には、庭先で拾った男が座っていた。
共に生活を始めて早数年。記憶が戻る気配もないまま、身の回りの世話を任せ続けている男だ。
「あーあ。宣材写真なのに、これじゃあ寝起きの顔ですよ」
こちらが寝起きで頭が回らないのをいい事に、好き勝手言ってくれる。
初めこそは、会話も必要最低限しかしないような間柄だったというのに。いつの間に、こんな減らず口まで叩けるような男へと成長してしまったのだか。
ウンと両手を天井に伸ばして嘆息。ツマラナイ気分で到着した建物を眺めた。
「別に、寝起きでもなんでもいいよ。僕は顔で評価してもらいたいわけじゃないから。無いと困ると言われたから撮るだけだ」
「そうは言っても先生かっこいいんですから。ほら、シャキッとして。行ってきてください」
へぇ、と吐息。ニヤついた横目で彼をからかった。
「君は、僕のことかっこいいと思ってくれてるんだね」
「思ってますから、早く。道が混んでて時間ギリギリなんですから」
しかしそれも適当にあしらわれツマラナイに逆戻り。
「あぁ、君も一緒に来るといいよ。次に記憶が無くなった時用にでも写真を撮っておいたらいい」
しょうがないとシートベルトを外しながらの誘いに、ツゲは怪訝そうな顔つきを隠しもせずに眉をひそめた。
「来るといいよって、そんなもったいない。あ、だからこのシャツ着て行けって言ったんですか?」
当然ツゲはここで終わるのを待っているつもりだったのだろう。鼻にまでしわを寄せて苦い顔だ。
ようやく愉快な気持ちが沸き起こってくる。
「それ以外に何がある」
これの困った顔を見たさに、時おりこうして余分な金をかけているのだ。弾んだ声音に、ツゲはそっとため息を吐き出した。
「まったくあなたと言う人は。どうせ、今さら止めたは出来ないのでしょう?」
「御名答」
「けど、二人分も撮ってたら時間かかるんじゃありませんか。夕飯の支度、してきてませんよ」
「ならどこかで食べて帰ろう。それぐらいの稼ぎはあるよ」
また無駄遣いをしてと目線が語る。食うに困るような生活はさせていないはずだけれど、ツゲはなかなかに堅実な男であった。
まぁ実の家族にさえ、道楽だと思われているような仕事だ。そう思われても仕方はないのだろう。
そもそも両親は跡継ぎにも、その予備にもなれない三男坊にさして興味はなかった。女の子が欲しかったのだとは耳にタコの話題だ。美人と評判の高い母の顔を受け継ぐも男。妹が生まれた後は尚の事。きちんと育てて貰えただけ感謝だと思っている。
生前贈与と渡されたあの家でさえ、単なる見栄だろう。この先、自分には家族なんてものを作る気もないのに。息子の意見には耳も貸さず、部屋ばかり多い屋敷を与えられた。
作品の置場には困らず済んでいるのが幸いか。
住処と同じくがらんどうの心はそんな風に考えていた。
そこに、ツゲは突然現れたのである。
初めこそ捨て犬でも拾った気分だったが、世話を焼き、共に暮らしていくうちに随分とあの家に彼は馴染んでしまっていた。いつか記憶が戻った時には、元の居場所へ喜んで送り出してやろうと考えていたはずなのに、だ。
今では、時おり不安げな顔つきで遠くを眺める彼の姿に、胸を掻きむしる思いにも駆られる。それがどんな名前のつく思いかまでは知らないけれど。
ずっとここに居たらいい。
この家で、共に暮らしていけばいい。
願う思いは、けれど杞憂にも感じられ、直接彼に伝えることはなかった。
「もう少し笑ったらどうだ? 顔が硬いよ」
髪と服を整えられ、カチコチに身体を固めたツゲをカメラマンの後ろから笑う。犬が、借りてきた猫だ。
そもそも写真など撮るつもりも無かった男は不満げだ。じとりとこちらを睨む姿は、親に連れられてきた七五三の子どものようでもある。ぬいぐるみでも振ってやろうか。
「どうだって、先生みたいに写真慣れなんかしてませんからね」
むくれ顔でも固さが和らいだからだろう。カメラマンに目線で会話を続けてと促された。
「そうは言うけど、君、普段はよく笑ってるじゃないか」
家に来た頃とは違って、と続く言葉は止めておいた。それはそうだろう。生きてきたこれまでを全部無くしたのだ。想像するだけで恐ろしいことだ。
「おかげさまで楽しく生活させてもらってますけど、それとこれとは話が別でしょう」
それがよくもまぁ、笑うようになったものだ。困り顔で苦笑いをする男の様子に、胸の奥がくすぐられる思いがした。
「あぁ、なるほど。君、緊張しているのか」
「今さらですか?」
「けど僕と話している時はそうでもなさそうだね」
「なら先生、どうせなら一緒に写りましょう。先生と一緒なら、より帰る家が分かるでしょう?」
その言葉に、呼吸を束の間忘れた。
彼もまた、あの家を帰るべき場所だと思ってくれているのかと。じわじわ腹の底から喜びが口元にはい上がって行ったのだ。
カメラマンからも是非と促され、彼の横へと並び立つ。視線は少し上へ。
「なら僕も一枚持っていようか。迷子の君を探せるように」
ツンと顎を上げ告げた冗談に、ツゲはいたずらっぽく口の端を上げた。
「じゃあ裏に住所と名前と、電話番号も書いておきましょう。だから先生、携帯電話を忘れずに持ち歩いてくださいよ」
「善処しよう。で、君は写真をいつも持ち歩くと」
パシャリ、パシャリ。柔らかな空気ごとフィルムが写し取ってゆく。
「えぇ。現像したらすぐにでもポケットに入れて」
「君はそのまま忘れて洗濯機を回すんだろうね」
「確かに。やりかねませんね」
「そこは否定しなさいよ」
「あ、じゃあペンダントにでもしますか? よくあるじゃないですか、ロケットを開くと写真があるやつ」
「やめてくれ。それじゃあ僕は故郷に残してきた家族か何かみたいじゃないか。君、それを近所に見せて回るつもりだろう」
「あっはっは」
晴れやかな笑声。
「いい、それ、いいですね。先生。それ、やりましょうよ」
「ぜったいに嫌だ」
「はははっ」
心地よく耳に触れるその笑い声につられて笑った。
その一瞬をカメラは切り抜いたのである。
「……先生?」
写真を眺め、押し黙ってしまった先生をそっと呼びかけた。うっすらと笑んだ口元は、何を思い出していたのだろうか。
呼びかけに、ここではないどこか遠くを眺めていた先生の瞳が揺らめき、横目がついとこちらを向いた。
「君も、会ったことはあるんですよ。小さくて覚えていないでしょうけれど」
ぼんやりとしていた時間など無かったかのように、先生は喋り始めた。どうかしたのかと問う隙もない。むしろ、隙を無くされたのだろう話口か。
先生が話さなかった内容を、知りたくないわけでもない。けれど別に構いもしない。私は写真の見知らぬ男よりも、先生との会話に興味があるのだから。
空気を孕んだ先生の優しい声音を聞き続けたいが為に、会話を続けた。
「へぇ、ぜんぜん覚えてないなぁ。ね、先生。ツゲさんってどんな人だったんですか?」
どこまで答えてくれるかは、賭けのようなものだけれど。先生の引く立ち入り禁止の線を探った。
「さぁどんなと言われましても。普通の男でしたよ。あぁカボチャの煮付けが下手でしたね」
「そういうんじゃないです」
「なら、帰ったらお母さまにでも聞いてみなさい。エピソードのひとつや二つ持っているかもしれないよ。あの男はここいらのアイドルでしたからね」
「えー、先生だって人気だよ?」
「それはどうも」
なんだか適当に、あしらわれている気がしてならない。
恋の駆け引きなどとは程遠く、どうやっても子ども扱いされるのだ。いつまで経っても大人の会話に入れてもくれない。先生の態度に唇を尖らせた。
私だってこの写真のツゲさんみたいに先生へ近づきたいのに……。と、ふてくされかけて気がついた。
「あれ、でも、じゃあなんで今は居ないんですか?」
こんなに仲良さそうに笑い合っているのに。何故だろう。疑問が胸をざわめかせた。
遠くにでも引っ越してしまったのだろうか。
興味からこぼれ落ちた疑問に先生は、何の感慨もなく答えを口にしたのだった。
「記憶が戻ったからですよ」
「えっ昔のこと思い出したんですか?」
「えぇ、ある日突然に」
「えええ! すっごい!」
思わず大きな声になる。胸に蟠っていたものも、全部吹き飛んでしまうくらいの衝撃だ。
「……すごいですか?」
先生は、あまりピンときていないようだけれど、だってすごいじゃないかとひとり、興奮していた。なんせタイクツな日常の外側にあるような話だ。
会ったこともないツゲさんに俄然興味がわいてきた。
「だって映画みたいじゃないですか。あっでも、どうやって戻ったんですか? 頭ぶつけたとか? もしかして、ツゲさん探してた恋人さんと出会ったとか?!」
食いつくような勢いに、先生は苦笑い。
「……事故にあったんですよ。その時頭をぶつけた衝撃で、思い出したそうですよ」
「えーすごっ。ほんと映画みたい!」
「えぇ、ほんとに」
一応、と頷く仕草をしてみせた横顔は、また写真を見つめ瞳の奥を揺らしていた。
「喜劇みたいでしたよ」
それは、作業も一区切りつき、のんびりと過ごしていた午後のことだった。ツゲが車にはねられたと、近所の人が家に飛び込んできたのだ。
「え……?」
一瞬、言われた内容に理解が追いつかなかった。追いついたとて、どうしたらいいのか、分からなかった。たぶん、しばらく呆けていただろう。
気がつけば、ツゲの一報を届けに来てくれたその人の車に乗って、ツゲの運ばれた病院へと向かっていたのだった。
手には財布とまだ新しいツゲの保険証、それから彼と二人で写った写真を挟んだ手帳を持っていた。
裏面にツゲ本人の字で、ツゲと書かせた写真である。よしんば彼がまた記憶を無くしても、筆跡が同じなら分かりやすいだろうと書かせたものだ。
なんせ、あれは身分証明になるものをひとつも持たずに家を出たのだから。教室に残されていた生徒の忘れ物を届けに行くだけだからと、財布のひとつも持って行かなかった。
意識がなく身元不明となっているならまだいい。けれど再び記憶を失っていたならば、運んだ先でも困ってしまうだろう。
馬鹿な考えだ。そんなたらればを考えたところでどうしようもない。けれど、回り出した頭はそんな余計なことばかりを心配し続けた。
最悪を、想像しないように。
結局、辿り着いた病院でツゲはまだ意識を取り戻していなかった。治療を担当した医師からは、骨折などはしているものの、命に別条はないという。
ホッと息をついたそのままに、足が崩れてしまいそうだった。それでもなんとか踏ん張って、入院手続き等忙しなく済ませればもうへとへとだ。
帰り際に触れたツゲの手の温かさだけが、心の支えであった。
ツゲはそれから五日間、目を覚まさなかった。
折り悪く、以前より組まれていた遠出の仕事へと向かっている間に、彼が目を覚ましたとの連絡が入ってきたのだ。
しかし、すぐに帰るわけにもいかず。再び病院へと足を運べたのは、ツゲが目を覚ましてから一週間が経った後のことだった。
久々の見舞いは大荷物だ。彼の衣類や日用品。それから土産も提げて病室へと向かう。逸る足は軽やかだった。
まずは何と声をかけようか。
上へと向かうエレベーターの中で考えた。
そうだな、ひとまず目覚めて良かったと言ってやろう、と。それから、家の事は自分で出来るから、しっかりと養生すればいいとも伝えなければいけないだろう。それから。
エレベーターが、ツゲのいる階を示した。
それでも早く帰ってきて欲しいということも言葉にしよう。――心底、心配したのだと。素直に言ってみようと思うのだ。きっと彼は「すみません、先生」と苦く笑うだろうから。そしたら、からかってやろうと。
むずついた口元のまま。病室の、扉を開けた。その先。
白い部屋のベッドの上から、頭に包帯を巻いた男が、ツゲによく似た顔でじっと、こちらを見つめてきたのだった。
「……先生?」
喜劇とはいったいどういうことなのだろうか。皮肉げに笑みを刻む先生に恐る恐る問いかける。
映画みたいだなんてはしゃいだ自分を嫌いになりそうだ。それ程、先生の横顔は寂しげだった。
「あの男はね」
ふっと息を吐くように、先生は投げやりに笑った。
「元の記憶を取り戻す代わりに、ここで過ごした記憶を失ったんですよ」
「え……先生のこと、忘れちゃったんですか?」
尋ねても良いのだろうか。一瞬考えた心配はけれど好奇心に負けてしまった。この人はどうしてこんなに寂しそうな顔をするのかと、その理由が知りたかったのだ。
先生の目にはそんな軽薄さが見えていただろう。口元に刻まれた笑みが変わった。
「いいえ、ぼんやりとは覚えていたそうです。朝起きてすぐの夢のように、私との記憶を覚えていると言っていましたかね。……なんにしろ、恩を忘れた薄情者ということですよ」
けれど、その笑みがどんな意味かまでは、分からなかったから。
「それで、元の家に戻って行っちゃったんですか?」
答えてくれる先生の好意に甘えて、質問を重ね続けていた。
「いいえ、元いた場所には戻りませんでした。何でかは聞いた気もしますが、興味もないので詳しいことは覚えていません」
「じゃあ、何でここを出て行っちゃったんですか?」
「入院中にツゲを看病してくれた看護師と好い仲になったんですよ。結婚すると言うものですから、私が追い出しました。ここではお小遣いみたいな給金しか渡せませんからね」
「退院して、それきり?」
尋ね、合わせられた目の奥の奥。笑みの下にパックリ割れた、傷口を見た気がした。
「そうですね。最後に挨拶へ来て、それきりです」
それきりになるように、自分自身で手を回したのだ。なるべく早く、あの男がこの家から出て行けるように。入院中から片付けを始めていた。
けれど、まるで最初から出ていくつもりがあったかのように、ツゲの私物は少なかった。
洋服など、ほとんど買い与えたものだ。趣味の読書も、ツゲが好んでいただけらしい。新しい家に置き場もないと、取り残されたそれらの侘しさに笑った。
何のために持って行くのやら。二人で写った写真だけは大事そうに段ボールへ収めた男が、深々と頭を下げた。
あぁ、そのシャツだって、パンツだって、僕がツゲに買ってやったやつだ。
ツゲは、着るものに頓着しないから。また余分な物を買ってきてと怒る顔見たさに、彼に渡した服。それを身にまとった男の顔は、当たり前のようにツゲと同じ顔なのに、やはり知らない男のものなのだ。
「今まで、大変お世話になりました」
あの日病室へ行った時から変わらない余所余所しい態度が余計に腹立たしい。自身でさえ理由の把握しきれていない怒りは、なんとか笑顔の下に収めておいた。
「どうも、お世話様でした。さぁ早く行ってあげなさい。外で待っているのでしょう?」
「えぇ。会っていただいて、ありがとうございました」
外で待つ看護師の彼女にはこちらの思惑が伝わっていたのだろう。お互いこれで最後にしようと挨拶を交わしたまでだ。
端から見れば、親切な金持ちの優しさに見えるだろう。記憶喪失の人間を拾い、そのまま住まわせ、給金を払い。事故に遭えば治療費を持ち、結婚して出て行くと言えば祝い金を包むような男だ。次の職の口利きだってしてやった。
全部、ツゲという男の為に。全てを忘れた男との縁を、この上なくスッパリと切る為に。
そして名前の付けようのない、この想いの為に。
自分の内にあった、その感情に気が付いた時の気分と言ったら、なんとも最悪なものだった。ツゲが看護師へと向ける表情に、どろりと焼け付くような嫉妬を覚えたのだ。
だけど今さら、この想いを告げるわけにもいかなかった。告げたところで、どうなる関係でもない。むしろ、困惑させるだけだろう。
それに、これを恋情と呼べるのかも分からないのだ。
だから胸に秘そうと決めたのである。互いが、幸せである為に。
ここでの別れを選んだのだ。
「あの、先生……」
「はい?」
なのに男はいつまでもウジウジと玄関に居座り続けた。まだ何か言い足りないとその目が語っているのだ。
本当に苛立つ。
「湿っぽい挨拶でしたら不要ですよ」
「いえ、そうではなく」
口内で籠る言葉は聞き取りづらい。惑うように視線が彷徨いた。
「でしたら何の御用でしょうか」
対してゆっくりと丁寧な口調は余計威圧感を与えるだろう。分かっていても、抑えが利かなかった。
「あの……勘違いでしたら、大変申し訳ないのですが」
「聞いてから考えますよ。どうぞ」
本当に気に入らない。唇をひと舐め。手汗をシャツの裾で拭った男の覚悟を決めた目よ。
「勘違いでなければ先生は、ツゲに家主以上の想いを寄せてくれてはいませんでしたか?」
一突き、心臓を突き刺した男の言葉が、ゆっくりと唇に笑みを刻ませた。
「だとしたら、どうなんです?」
今さら、どうしたいと言うのか。たくさんの感情を仕舞い込んだ心の蓋がカタカタと音を立てていた。
きっと目の前の男にはそんな事にはちっとも気付いていないのだろう。さらに真剣味を増した顔つきで、ツゲだった男は口を開いた。まるでそこに強い責任を感じているかのように。
「あの。今の僕には、これにどんな名前を付ければいいのか分かりません。けれど……ツゲも、少なからずあなたを想う気持ちがあったと。それだけは、お伝えしたく――」
目の前が真っ赤に染まるとはこういう事か。気づけば戯言を宣う男の頬を強く張っていた。痛い。暴力に不慣れな手のひらがじんと熱を持った。
馬鹿にするのも、大概にして欲しいものだ。ぽっと出の他人が、ツゲとの時間に土足で踏み入るような真似をして。いったい何がしたいと言うのだろうか。何を、分かったつもりでいるのか。
何故……今、言うのか。
「優しさの、おつもりですか? 勘違いも甚だしい。彼との間にあった感情は恋情などではない。迷い犬と拾い主の情、それだけですよ」
自分がどんな顔をしているのかさえ、もう分からなかった。ただ、目の前のこの男はやはりツゲではないのだと。そう理解する虚しさだけははっきりと感じていた。
「……すみませんでした」
しおらしく頭を下げた姿に思うこともない。
「さぁ、もうお話する事もございませんから。どうぞお帰りください。あなたの、帰るべき場所へ」
「先生……!」
だからまだこちらへ縋ろうとする男には、嫌悪さえ覚えたものだ。もう一度拾ってやる義理もない。
ツゲだった男の泣きそうな顔に笑った。
薄情者なこの男の未来がどうか、不幸であればいいと妬んで。
その願いと同じくらい、好いた女と幸せになればいいと願って。
「さようなら。これで今生の別れです。どうぞ、お幸せに」
告げた別れの言葉が、深々とこの胸にも突き刺さっていた。
それは、今もなお。
「それきり会ったことはありませんが、今はどうしてるだとか、子どもが生まれただとか。時おり風の噂は聞きますよ。例えば、君のお母さまから」
クスリと意地悪げに笑った先生の言葉に、肩をすぼめて頭を下げた。
「すみません、母が……」
「いいえ、謝って貰うことじゃありませんよ」
「先生は、ツゲさんに会いたくないんですか?」
「そうですねぇ。会ったところで、深める旧交もありませんからね」
ばら撒いた紙の最後の一枚を拾い上げながら、穏やかに先生はそう言った。
その表情は、いつも通りの先生だ。けれど、さっき見た傷口は気の所為なんかじゃないのだろう。
だってツゲさんのことを話す先生の表情は、ただの同居人だった人の事を思い出す顔じゃあないから。
だから、きっと。
「先生……」
「なんです?」
――先生は、ツゲさんのことが好きだったんですか?
尋ねようと舌に乗せかけた問いかけは、今度こそ直前で飲み込んでおいた。そんなこと、聞くまでもなく私の初恋は泣いていたから。
「ツゲさんは会いたいかもよ?」
先生みたいに、本当のところは胸の内だけに仕舞って、表面上だけを繕った。
「さて、どうですかね」
そう言って苦笑した先生だって同じだろう。たくさんの感情を裏に秘めた表情は、けれどいつもと同じに思えた。
それでも、隠された感情に気づけてしまうのは、私が先生を好きだからだろう。
「ツゲさん、今も幸せだといいですね」
何気ない会話に垣間見えた、好いた男へ刻まれた傷に目を細める。
「えぇ、そうですね」
ほら、取り繕った笑みの首肯から一転。大事に仕舞われていた二人の写真を見つめながら笑った先生の横顔よ。
それは今まで見てきたどの表情よりも、一等、美しいものだった。




