第1章 ―自分を言えない―
目を開ける。
草の匂いがした。
青い空。
白い雲。
どこまでも続く、眩しいほどの草原。
「……ここって」
起き上がる。
視界のどこにも、あの灰色の教室はなかった。
黒板。
山田先生。
冷たい机。
息が詰まるような、あの空気。
全部、ない。
「……はは」
乾いた笑いが漏れた。
頬をつねる。痛い。
笑いが止まらなかった。
「……終わった」
誰にも呼ばれない。
当てられない。
誰もいない。
間違えて、笑われることもない。
草原に倒れ込む。
背中に当たる地面が、少し硬い。
でも、嫌じゃなかった。
空を見上げる。
青かった。
胸の奥が、少し軽くなる。
目を閉じる。
風が吹く。草が揺れる。
呼吸が、驚くほど深く入ってきた。
「あー、すっきり、解放感」
もっと早く逃げればよかった。
◇
足元に、赤い実をつけた低い木があった。
一粒、口に入れる。
濃い蜜の味が、喉に広がる。
……甘い。
近くに小川が見えた。靴を脱ぐ。
冷たい水に足を入れる。
「っ……!」
思わず声が漏れた。
水を蹴る。
白い飛沫が、陽の光の中で散った。
そのまま、草の上に寝転んだ。
空が広い。どこまでも、どこまでも。
いつの間にか、眠っていた。
◇
冷たい風で目が覚めた。朝だった。
草が揺れている。
昨日と同じ空。昨日と同じ景色。
静かだった。
静かすぎた。
誰もいない。
僕を呼ぶ声も。
笑う声も。
怒る声も。
何もない。
空は広かった。
……広すぎた。
起き上がる。
自分が転がった場所だけ、少し草が倒れていた。
歩き出す。
理由は、自分でもよくわからない。
遠くに見える石造りの街に、人の気配がした。
◇
街に入った瞬間、熱気が押し寄せてくる。
市場だった。
色の強い布。
見たことのない果物。
笑い声。怒鳴り声。
石畳を叩く音。
「……すごい」
誰も、僕を知らない。
誰も、僕を見ない。
そのことに、少しだけ安心した。
「すみません」
近くの男に声をかける。
「———」
返ってきたのは、日本語じゃない。
知らない音だった。
「え……?」
もう一度言う。
「すみません」
男は肩をすくめる。
去っていった。
周りの声に耳を澄ませる。
意味が、ひとつもわからない。
澄んでいたはずの胸が冷たくなる。
「……なんで」
何も、通じない。
◇
「おい、そこの迷子」
振り返る。
筋肉だった。
視界が、筋肉で埋まる。
岩みたいな肩幅。
「日本語、わかるか?」
「わ、わかります!」
声が裏返った。
凍っていた胸に、熱が戻る。
「よかった。酷い顔してたぞ」
男の口元が、少しだけ動いた。
「なあ、ハルト。」
「通じるわけないだろ。ここはそういう場所だ」
「……え?」
ハルト。
言っていない。一度も。
「なんで、僕の名前……」
「細かいことは気にするな」
男は歩き出す。
「俺はミッチ。この世界の歩き方を教えてやる」
◇
市場の中央で、男が足を止めた。
その辺に落ちていた細い枝。
二本、無造作に拾い上げる。
投げてきた。
「使え」
それだけだった。
意味がわからない。
でも、拾った。
「あのお姉さんに話しかけろ。自分の名前を言うんだ」
パンを売っているお姉さん。
枝を握ったまま、近づいた。
「えっと……I、ハルト?」
お姉さんは首を傾げた。
「My name、ハルト……」
反応はない。
別の客の方を向いてしまった。
次の人。また通じない。
その次。また。
三十分。
何人に話しかけても、誰にも届かない。
◇
「……もう、嫌だ」
石段に座り込む。
ここでも、僕は何も言えない。
逃げた先でも、結局、僕は僕のままだった。
枝を、石畳に投げる。
乾いた音がした。
二本の枝が、転がる。
……横に、並んでいた。
【 = 】
ただ、それだけだった。
意味なんて、わからない。
でも、なぜか目が離せなかった。
手を伸ばす。拾う。
口が、勝手に開いた。
「……I am Haruto.」
何も起きない。
やっぱり――
「さっきより、声が小さいな」
ミッチの声。
息が止まる。
どうせ無理だと、決めつけていた。
枝を、強く握り直す。
逃げない。
ごまかさない。
まっすぐ前を見る。
「I am Haruto.」
はっきり、言った。
枝が、白く光った。
鋭く。
まっすぐに。
I am Haruto.
人が突然立ち止まって見てくる。
名前を言っただけ。
枝が輝く。
僕は。
僕が。
ここにいる。
この世界で今日。
僕は初めて、自分を言えた。




