第7話:氷の騎士と、荒れ狂う猛犬
「……貴様、その手を離せと言っているのが聞こえないのか」
サロンに響き渡ったのは、地を這うような低い、けれど激しい殺気を孕んだ声でした。
お茶のカップが床に落ちて砕け、飛び散ったハーブティーがテオドールの足元を濡らします。けれど、彼はそんなことなど目に入らない様子で、私の腰を抱きとめているレオナードを、射殺さんばかりの勢いで睨みつけていました。
「……アストレイアの義弟か」
レオナードは、腕の中にいる私の重みを確かめるように一度だけ腕に力を込めると、表情一つ変えずに銀色の瞳をテオドールへ向けました。
「彼女は突然倒れた。私は通りかかり、床に叩きつけられるのを防いだだけだ。非難される覚えはない」
「理由などどうでもいい。お姉様に、お前のような他人が触れていいはずがないだろう……!」
テオドールが詰め寄り、強引に私をレオナードの腕から奪い取ります。
乱暴に引き寄せられたはずなのに、テオドールが私を抱き直す手つきは、驚くほど繊細で、壊れ物を扱うように慎重でした。
「……この方は、ひどく熱いな」
レオナードがふと、自分の手のひらを見つめて呟きました。
眠りに落ちた私の体温は、病のせいか、あるいは魔力の暴走のせいか、一時的に高くなることがありました。
「……黙れ。お姉様のことに二度と触れるな、クライス侯爵令息。次にお姉様に近づけば、アストレイア家が総力を挙げて貴公を叩き潰す」
テオドールは私を横抱きにすると、一瞥もくれずにその場を立ち去りました。
残されたレオナードは、鼻をくすぐる桃色の髪の残香と、手のひらに残った微かな熱を反芻するように、じっと自分の手を見つめていました。
「……正義の天秤か。あんなに今にも消えてしまいそうな体で、よくもあそこまで言い切れたものだ」
彼の脳裏には、上級生を真っ直ぐに見据えていた私の碧眼が、焼き付いて離れなくなっていました。
次に私が目を覚ましたのは、屋敷の自分のベッドの上でした。
(……ふぁ。よく寝たわ……)
窓の外はすっかり暗くなり、月明かりが部屋を照らしています。
どうやら、あのままサロンで眠ってしまい、テオに運ばれたようです。
「……起きましたか、お姉様」
枕元に、影のように座っていたテオが静かに声をかけてきました。
その表情は暗く、どこか怒っているようにも、泣き出しそうにも見えます。
「テオ……ごめんなさい。動かないって約束したのに」
「ええ、そうです。お姉様は僕との約束を破り、見ず知らずの平民を助けるために無理をして、あろうことか、あの無愛想な騎士に抱きしめられた」
テオの声はひどく冷ややかでしたが、私の手を握るその指先は、小刻みに震えていました。
「……怖かったんです。お姉様が、あのまま二度と目を覚まさなかったら。僕の知らないところで、誰かのものになってしまったら」
「テオ……そんなこと。私はアストレイアの娘よ。困っている人を放っておくなんて、できないわ」
私がふにゃりと笑って彼の頭を撫でると、テオは子供のように私の膝に顔を埋めました。
「……お姉様は、無自覚すぎます。ご自分がどれほど危うく、そして美しいか。……これ以上、僕の知らないところで誰かを魅了するのはやめてください」
テオの独占欲の籠もった言葉に、私は首を傾げました。
魅了するだなんて、大袈裟だわ。私はただ、上級生に注意をしただけなのに。
「それより、テオ。明日はもっと早く学校に行きましょう? 起きている時間を、もっと有効に使いたいの。今日助けたあの子が、明日も困っていないか確認もしなくちゃ」
「……お姉様。……はぁ、わかりましたよ。その代わり、明日は僕が一秒たりともお側を離れませんからね」
テオが呆れたように溜息をついた、その時。
部屋の扉がノックされ、お父様の執事が入ってきました。
「リリアーナ様、テオドール様。……学園から、急ぎの書状が届いております」
「学園から? 私、初日から何か悪いことでもしたかしら」
「いいえ……。書状の差出人は、エドワード王太子殿下です。『本日、サロンでの貴殿の気高き振る舞いに感銘を受けた。明日、改めて茶会を催したい』とのことです」
「……」
「……」
部屋に沈黙が流れます。
テオの額に、青筋が浮かぶのが見えました。
「……あの、色ボケ王太子め。お姉様が眠っているのをいいことに、公務を放り出して何を嗅ぎ回っているんだ……!」
テオの怒声が夜の屋敷に響き渡りました。
王太子エドワード。彼は、あのいじめの現場を、隠れて見ていたのです。
私の知らないところで、物語の歯車は、急速に「逆ハーレム」へと回り始めていたのでした。




