第6話:まどろみの正義と、黒銀の騎士
長く退屈な入学式典が終わる頃には、太陽はすでに高く昇り、時刻は午後一時を回っていた。
私のリミットである『午後二時』まで、あと一時間を切っている。
「……ふぁ」
控え室として開放されているサロンのふかふかとしたソファに沈み込みながら、私は小さく欠伸を漏らした。
重たい制服を着て、大勢の人の中で座っていただけで、体力はすっかり底をついている。まぶたにはすでに、抗いがたい鉛のような重さがぶら下がっていた。
「お姉様、お疲れですね。顔色が透けるように真っ白です。……今、喉を潤すための温かいハーブティーを淹れさせてきますから、絶対にここから動かないでくださいね」
「ええ、ありがとうテオ。ここで待っているわ」
私の顔色を見て血相を変えたテオは、私をソファに厳重に座らせると、足早にサロンを退出していった。彼のことだから、他人に任せず自分で完璧な温度のお茶を淹れてくるつもりなのだろう。
こくり、こくり。
温かい春の陽射しが窓から差し込み、私は微睡みの波に揺られていた。
このままここで、こてんと眠ってしまえたらどんなに幸せかしら。
そんなほんわかとした誘惑に負けそうになっていた、その時だった。
『おい、平民上がりの特待生。お前のような薄汚いネズミが、王立学園のサロンの空気を吸うなど許されると思っているのか?』
『身の程をわきまえろ。貴族の靴でも磨いていればいいものを』
静かなサロンの奥、中庭へと続くバルコニーの影から、ひどく冷たく、棘のある声が聞こえてきた。
重いまぶたを擦ってそちらへ視線を向けると、三人の上級生らしき男子生徒が、小柄な新入生を壁際に追い詰めているのが見えた。新入生の制服には、貴族の紋章がついていない。きっと、優秀な成績で入学を許された特待生なのだろう。
いじめっ子の一人が、怯える特待生に向かって嘲笑いながら手を振り上げた。
(――いけないわ)
気づけば、私はふらつく足に鞭を打ち、ソファから立ち上がっていた。
アストレイアの人間として、弱き者が虐げられているのを黙って見過ごすことなど絶対にできない。
「……そこまでになさい」
私の声は、ひどく掠れていて小さかったはずだ。
けれど、凛と響いたその声に、上級生たちは弾かれたように振り返った。
「なんだお前は。……チッ、今にも倒れそうな青白い顔をした新入生が、上級生に向かって偉そうに」
「おやめなさい。誇り高き王立学園で、力なき者を虐げるような振る舞いは、貴族としてあまりにも恥ずべき行為です」
私は一歩、また一歩と彼らに近づき、碧い瞳で真っ直ぐに彼らを射抜いた。
立っているだけで眩暈がして、視界がぐらぐらと揺れる。それでも、私の正義感は決して折れない。
「なんだと……!? 痛い目を見ないとわからないようだな!」
激昂した一人が、私に向かって腕を振り上げようとした。
しかし、その男の視線が私の胸元――金糸で刺繍された『星と天秤』の紋章を捉えた瞬間、彼の顔からスッと血のの気が引いた。
「そ、その紋章……まさか、アストレイア侯爵家の……!?」
「建国以来の、あの……っ! ば、馬鹿な、なぜこんな所に!」
彼らは幽霊でも見たかのように震え上がり、互いの顔を見合わせると、特待生を放り出して蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「……ふふ、どうやら、わかっていただけたみたいね」
私は小さく安堵の息を吐き、壁際でへたり込んでいる特待生に向かって、ふにゃりと笑いかけた。
「怪我は、ないかしら? もう大丈夫よ」
手を差し伸べようとした、その瞬間。
(あ、れ……?)
唐突に、視界が真っ暗に反転した。
限界だった。ただでさえ残り少ない体力を使い果たし、さらに気力を振り絞った反動で、私の体は完全に機能の停止を宣言したのだ。
時計の鐘が鳴るよりも早く、私の意識は急激に暗い泥の底へと引きずり込まれていく。
(テオ……ごめんな、さい。動かないって、約束したのに……)
冷たい石畳の床に倒れ込む。そう覚悟して、私は抵抗することなくまぶたを閉じた。
――しかし、私が床に叩きつけられることはなかった。
「……っ」
強い腕が、倒れゆく私の腰を抱きとめ、ふわりと宙で受け止めたのだ。
微かに香る、鉄と清涼な森の匂い。
重い重いまぶたの隙間から、最後に私の瞳に映ったのは。
夜の闇を切り取ったような漆黒の髪と、驚きに見開かれた、鋭くも美しいシルバー(銀色)の瞳だった。
左目の下にある泣きぼくろが、ひどく印象的で。
「……軽すぎる。羽のようだ……」
頭の上から降ってきた、ひどく低くて涼しげな声。
それが、代々近衛騎士を輩出する武門のトップ、クライス侯爵家の嫡男――レオナード・ヴァン・クライスとの出会いだった。
彼は、学園内のパトロール中に騒ぎに気づき、駆けつけようとしていたのだ。
しかし、彼が剣を抜くよりも早く、今にも倒れそうに儚げな桃色の髪の少女が、毅然とした態度で上級生たちを退けてしまった。
(なんという気高さだ。この信じられないほど華奢な体で、一歩も引かずに……)
レオナードは、腕の中で完全に意識を手放し、すーすーと平和な寝息を立て始めたリリアーナの無防備な顔を見つめ、言葉を失っていた。
常にストイックで、他人に興味を持たず、剣の道だけを歩んできた彼の冷徹な銀色の瞳に、かつてないほどの強い衝撃と、説明のつかない熱が宿った瞬間だった。
「……っ! お姉様に気安く触るな、その手を離せ!!」
直後、サロンの入り口からお茶のカップを持ったテオドールの、鼓膜を裂くような激しい怒声が響き渡る。
しかし、深く甘いまどろみの中に落ちてしまった私には、その後の彼らのバチバチとした睨み合いを知る由もなかったのである。




