最終話:夢幻のお茶会と、永遠の箱庭
アストレイア侯爵邸の最も奥深く。
かつて陽だまりのように温かかった令嬢の私室は、今や分厚いカーテンで光を遮られ、時を止めるための『聖域』と化していた。
部屋中に張り巡らされたのは、天才魔術師シリルが自らの命を削って構築した、何重もの延命の魔術陣。扉の前には、王宮の護衛任務すら放棄した近衛騎士レオナードが、彫像のように立ち尽くしている。
部屋の片隅には、国中からありとあらゆる秘薬をかき集めた王太子エドワードが、血走ったアメジストの瞳でただ一点を見つめ――そして、天蓋付きのベッドの傍らでは、義弟のテオドールが、一ヶ月間ただの一度も離すことなく、リリアーナの白く冷たくなりつつある手を両手で包み込んでいた。
「……お姉様。今日は、とても天気がいいですよ。お庭の、お姉様が好きだった白い薔薇が咲きました」
テオドールの声はひどく掠れ、その美しい顔はげっそりと削げていた。
星祭りの夜から一ヶ月。四人の男たちは、あらゆる手段を尽くした。権威、武力、魔術、そして自らの命さえも天秤にかけ、彼女の『眠り病』から時間を買い戻そうと足掻き続けた。
しかし、残酷な運命は彼らの血の滲むような努力をあざ笑うかのように、彼女の時間を完全に奪い去ろうとしていた。
シリルが構築した魔術陣が、限界を告げるようにピキリと微かなひび割れを起こした、その時だった。
「……ん、ぁ……」
凍りついたような静寂の部屋に、微かな、本当に微かな吐息が落ちた。
「お姉様……!?」
テオドールが弾かれたように顔を上げる。
一ヶ月間、ただ固く閉ざされていた縁取られた長いまつ毛が、震えるようにゆっくりと持ち上がった。
吸い込まれるような碧眼が、ぼんやりと天蓋を映し、やがてゆっくりと焦点を結んで、ベッドを囲む四人の男たちを順番に捉えた。
「……みんな。どうして……そんなに、泣きそうな顔をしているの?」
ひどく掠れた、けれど、ふにゃりとした愛らしい声。
それは、命の灯火が消える直前にだけ魅せる、奇跡のような最期の目覚めだった。
「リリアーナ嬢……っ!」
エドワードが王太子の矜持もかなぐり捨ててベッドに縋り付き、レオナードが剣を落として床に膝をつく。シリルは眼鏡の奥から大粒の涙をこぼし、テオドールは彼女の手を自分の額に押し当てて、声にならない嗚咽を漏らした。
「ごめんなさい……私、ずっと眠ってしまっていたのね」
リリアーナは、自分の体がもう限界を迎えていることを悟っていた。
指先一つ動かす力もなく、ただ細い呼吸を繰り返すだけで精一杯。それでも彼女は、ボロボロになった四人の顔を愛おしそうに見つめ、あの春の陽だまりのような微笑みを浮かべた。
「ねえ、お願い。……私と、最後のお茶会を、してくださる?」
その言葉の残酷な意味を、四人は痛いほど理解していた。
これが、彼女の『最後の時間』なのだと。
シリルが震える手をかざすと、淡い光の粒子が部屋を包み込み、暗い寝室に『美しい春の庭園』の幻影が広がった。ベッドのシーツは柔らかな芝生に変わり、空中には華やかなティーセットが現れる。
レオナードが彼女の背中にそっとふかふかのクッションを当てて上体を支え、エドワードが彼女の乱れた桃色の髪を、壊れ物を扱うように優しく梳いた。
「……とても、いい香り。美味しいわ」
幻影のカップに口をつけるふりをして、リリアーナはゆっくりと紡いだ。
「エドワード殿下。……私をただの侯爵令嬢ではなく、『リリアーナ』として見てくださって、ありがとうございました。あなたの優しさに、いつも救われていました」
「よしてくれ……。君を救えなかった私に、その言葉を受け取る資格はない……っ」
「レオナード様。……あなたがいつも背中にいてくれたから、私は少しも怖くありませんでした。私の、最高の騎士様」
「私の命など、とうに君に捧げているというのに……! なぜ、身代わりになれない……」
「シリル様。……私のために、たくさん無理をしてくれてありがとう。あなたの魔術は、いつだってとても暖かかったわ」
「嫌だ……俺が、俺の魔術が未熟なせいで! 頼むから、俺を置いていかないでくれ……っ」
一人ひとりに感謝を告げ、最後にリリアーナは、泣き崩れるテオドールへと視線を向けた。
残されたわずかな力を振り絞り、彼のミルクティーベージュの髪をそっと撫でる。
「泣かないで、テオ。……あなたは私の、自慢の弟。アストレイアの誇りよ」
「嫌だ……お姉様、お願いです、嫌だ……! 僕を一人にしないでください、僕から光を奪わないで……っ!」
「私の時間は、他の人よりずっと短かったけれど。……あなたたちに出会えたから。私の人生は、世界で一番、きらきらしていました」
ポロリと、リリアーナの碧い瞳から一粒の涙がこぼれ落ちた。
「私のために、あなたたちの未来を壊さないでね。……どうか、幸せに。大好きよ、みんな」
そのふにゃりとした最高の笑顔を最後に。
リリアーナ・フォン・アストレイアの瞳は、ゆっくりと、ふたを閉ざした。
スゥ……、スゥ……。
穏やかな、微かな寝息だけが残る。
彼女の心臓は動いている。シリルとアストレイアの魔力が、彼女の肉体を『永遠にこの瞬間のまま』保存するからだ。
ただ、その碧い瞳が再び開かれることは、二度とない。
彼女は、四人の男たちの前で、永遠のまどろみの中へと旅立ったのだ。
「……ああ。おやすみなさい、お姉様」
静まり返った幻影の庭園の中で。
テオドールは、涙を拭い、ひどく穏やかで、狂気を帯びた瞳で微笑んだ。
彼は愛しい義姉の唇に深く口づけを落とし、その冷えかけた頬に自分の頬をすり寄せる。
「もう、誰もあなたを傷つけない。あなたの時間は、永遠に僕たちだけのものだ」
――それから、数年の月日が流れた。
アストレイア侯爵邸の奥深くにある『聖域』には、今も四人の男たちが狂おしい愛を捧げ続けていた。
彼らはリリアーナの「未来を壊さないで」という最期の願いを聞き入れることはなかった。
国王に即位したエドワードは、自らの権力を全て注ぎ込み、彼女の眠る部屋を「絶対不可侵の硝子の城」へと作り変えた。誰も彼女の美しさを盗み見ることができないよう、国を挙げて彼女を秘匿し、夜な夜な彼女の寝顔を眺めに訪れる。
近衛騎士筆頭となったレオナードは、生涯独身を誓い、彼女の部屋の扉の前に立ち続けている。彼にとっての主君は国王ではなく、扉の奥で眠るたった一人の少女だけだった。
天才魔術師シリルは、宮廷の地位を捨て、彼女の部屋の片隅で、昼夜を問わず狂ったように魔術の研究を続けている。「いつか必ず、俺のキス(魔術)で目覚めさせてやる」と、結実することのない禁忌の術式を、永遠に紡ぎながら。
そして義弟テオドールは。
彼は今日も、眠り続けるリリアーナの隣に寄り添い、その美しい桃色の髪を優しく梳いている。
「お姉様。今日は、とても天気がいいですよ」
彼女が目を覚ますことはない。ふにゃりと笑ってくれることもない。
それでも彼らは、永遠に変わることのない「美しいお姫様」を守り続けることに、歪で、けれど純粋な至福を感じていた。
彼女が誰かに奪われることも、自分たちの前から姿を消すこともない、約束された永遠のハッピーエンド。
硝子の城の中で。
無自覚な優しさで四人の男たちを狂わせた令嬢は、すべてを知らぬまま、今日も彼らに守られて平和な夢を見続けている。




