幕間:ある女生徒の独白〜触れられない春の精霊〜
王立学園には、決して足を踏み入れてはならない『聖域』がある。
それは特定の場所のことではない。
ふんわりとした桃色の髪を持つ、一人の美しい令嬢がいる場所。そこが、私たち一般の生徒にとっては、物理的にも心理的にも決して近づくことのできない絶対の聖域だった。
アストレイア侯爵令嬢、リリアーナ様。
彼女は、まるで春の陽だまりがそのまま人の形をとったかのようなお方だ。
透き通るような白い肌に、宝石のように澄んだ碧眼。廊下ですれ違う時、不注意でハンカチを落とした私に、彼女は自らそれを拾い上げ、「落としましたよ」と、ふにゃりと愛らしく笑いかけてくれた。
侯爵家という雲の上の身分でありながら、誰に対しても平等で、信じられないほど優しくて、そして――今にも消えてしまいそうに儚い。
彼女に近づけない理由は、彼女の身分が高いからだけではない。
彼女の背後には、常に恐ろしい四つの影が張り付いているからだ。
「……お姉様に近づくな。用があるなら三歩下がって僕を通せ」
氷のような声で周囲を威嚇するのは、義弟のテオドール様。彼はリリアーナ様の一挙手一投足から目を離さず、彼女に触れようとする者があれば、それが誰であろうと噛み殺さんばかりの殺気を放つ。
「リリアーナの視界を遮るな。彼女が疲れるだろう」
冷徹な銀眼で見下ろしてくるのは、次期近衛騎士筆頭の呼び声高いレオナード様。彼は影のように彼女の背後を守り、彼女が少しでもふらつけば、誰よりも早くその体を支える。
「あーあ、君たちうるさいよ。彼女の魔力が乱れるから、さっさと散ってくれない?」
飄々としながらも、有無を言わさぬ圧を放つのは天才魔術師のシリル様。彼は常に彼女の体温や顔色を魔法で観察し、不穏な要素を徹底的に排除する。
そして何より。
「……私の愛しい鳥を、あまり無遠慮な目で見ないでほしいものだな」
絶対的な権力者である王太子、エドワード殿下。殿下が彼女の隣で優雅に微笑むだけで、私たちは息をすることすら躊躇ってしまう。
学園の頂点に君臨する四人の殿方。
彼らが、ただ一人の病弱な令嬢を囲い込み、異常なほどの執着と過保護さで守り抜いている。
それは、一枚の絵画のように恐ろしくも美しい光景で、私たち学園の生徒は皆、遠くからその『逆ハーレム』を見つめることしかできなかった。
羨ましい、と思う令嬢も最初はいたかもしれない。
けれど、今の彼女を見て、嫉妬を抱く者など一人もいない。
なぜなら――リリアーナ様が学園にいる時間は、日に日に短くなっているからだ。
入学当初は、午後二時頃までいらっしゃった。
それが先週は午後一時になり、昨日からは、お昼休みの鐘が鳴る前に、テオドール様に抱き抱えられて早退されるようになってしまった。
テオドール様の腕の中で、こてんと首を傾げて深く眠りに落ちている彼女の顔は、あまりにも無防備で安らかだ。
けれど、彼女を抱き抱えるテオドール様の顔は、いつも泣き出しそうなほど歪んでいる。
周囲を取り囲む三人の殿方たちも皆、彼女の寝顔を見つめながら、まるで世界の終わりを告げられたかのような、ひどく絶望的な瞳をしているのだ。
私たちには、詳しい事情はわからない。
ただ、彼女の命の砂時計が、恐ろしい速さで落ちきろうとしていることだけは、その場にいる全員が肌で感じ取っていた。
『……どうか、明日もあの美しい桃色の髪が、学園で見られますように』
誰もが口には出さないけれど、心の中でそう祈っている。
触れることすら許されない春の精霊が、永遠の冬に閉ざされてしまわないようにと。
あんなに優しく微笑む彼女から、これ以上、生きる時間が奪われないようにと。
私たちモブ生徒にできるのは、遠くから祈ることだけだった。




