ラッキーキャンディー
会社での地位を失い、人生の崖っぷちに立たされていた元マネージャーの滝田信広。彼は、その原因を同僚の架純にあると逆恨みしていた。
しかし、ひょんな勘違いから彼女の家に転がり込むことに成功する。
「この女と気味の悪いぬいぐるみを支配し、家も財産もすべて俺のものにしてやる」
彼は密かに牙を研いでいた。
2050年9月。滝田信広(元マネージャー)
目の前に座っている女は、どうやら片耳をなくしたらしい。その母親も声を失った。
あれからスピちゃんは機械音に似た『オバァチャン』という言葉らしき音を発する。
やはり、ぬいぐるみの噂は本当だったらしい。
───自分に足りないものを奪う。
そいつは、架純の首にぶら下がっているのだ。どうやら片耳と声を手に入れただけでは満足しなかったらしい。
その欲深さに腹わたが煮えそうになる。何を聞いても理解出来ないくせに、次は声が欲しかったのか。もしかして……歌っちゃっりするのか?
なんと図々しい。思わず鼻を鳴らしてしまった。
それに、自分の存在価値が分からないらしい。それなら、俺が教えてやる。
お前は、ただの布の塊にすぎないのだ。
それにしても、この状況は普通ではない。ホラー映画でもあるまいし、ただのぬいぐるみが生身の人間から一部を取り込むなど。
……絶対におかしい。そんなことはわかっている。
しかし、ゴキブリが干からびているのと同じでどうでもいい。俺にとって害虫でなければいいのだ。仮に害を加えてくるようなら踏みつぶせばいい。俺は選ばれた人間なのだから。
恐れることはない。
四十年人生を歩んでいるが、あと一歩で崖下の景色を拝みそうな時でさえ、何度も免れたのだから。
その後には必ず、鴨がネギを背負ってくる。常に良い方向に転がっていく。まさに架純の勘違いから始まったこの生活こそが証明しているのだ。
それなら、もう何も手をかける必要はない。
そして、布の塊を上手く使いこなせばいい。
そうだ。犬の脳みそを与えるのはどうだろう。人間は面倒だが、犬なら従順だ。スピちゃんには、そのくらいが丁度いい。
そして、奪い方を教える。後は『スピちゃん』に任せればいい。
あれは、本格的な梅雨が始まった六月の始めだった。
水分を含んだ空気が、肌に貼りつく。息をするたび、心の奥まで暗雲が覆っていくようだった。
いや、雨のせいにしたかったのかもしれない。しかし、心が晴れない理由は、俺自身がまいた種だったのだ。
「滝田さん、社長室へお願いします」
事務員にそう言われ嫌な予感がし、景色が音を立てて崩れたような気がした。
「わかりました」
たった六文字の言葉を震える声で発した。足枷を嵌められたかのように重い足取りで社長室を二回ノックした。
「どうぞ」
「失礼いたします」
「呼ばれた理由は、わかるだろう」
社長の怒気を含んだ低い声で、足枷には鎖がついたかのようにその場から動けなくなった。
「……はい」
「返金希望のお客様に金を振り込んだ。誠意を見せるために色をつけてな。表面上、システムエラーだということにしてある。会社の評判がこれ以上落ちるのは死活問題だ。あの年代の女性ほど恐ろしいものはない。尾ひれを付けた噂話しが一気に拡がるんだ」
「すみませんでした!」
「君には失望したよ。デリケートな案件を、後回しにするなんてとても残念だ。期待した私が馬鹿だったのだ。言うまでもないが、今日限りでマネージャーの席は降りてもらう」
「大変申し訳ありませんでした」
萎れた花のように頭を垂らした。それと同時に焦燥感が、波のように押し寄せてくる。
また崖っぷちに立たされるのだろうか。
「……社長。一つだけお聞きしたいことがあります。減給されるのでしょうか」
「言うまでもない。席があるだけでも、いいと思うがな」
紙切れに視線を落としながら放たれた言葉は、ガラスが刺さったように胸が痛んだ。
───目も合わせてもらえない人間になったのかと。
先程まで雲に覆われていた心は、一気に吹き飛び真夏の太陽のようにギラギラと姿を変えた。
あの、女が悪い。
いい歳した大人が、毎日ぬいぐるみに話しかけている気味の悪い女。
教室の片隅で自分の世界に没頭し、何が起きても『関係ありません』みたいな顔をするようなやつ。そして嫌なことは人に押し付ける。きっと友人などいないだろう。
数日前、右手を上げ『マニュアル不適合』の合図をし俺に振った。
あいつが返金手続きを渋ったせいだ。年寄りの戯言なんて聞き流せばいい。どうせ、理解できないのだから。それに、あの電話さえ代わらなければその金を懐に入れようなど思いもつかなかったのに。しかも、計画が実行される前に社長の耳に入り、このザマだ。
「絶対に、許さない」
拳を握り、奥歯が軋む音がした。
早々にデスクの移動を命じられた。だが、最後にもう一度見慣れた景色を目に焼き付けておきたかった。
鳴り響く電話を取る女たちは、マニュアルに目を向け淡々と口を動かしている。その姿を眺めることができなくなる。
「はい。申し訳ございませんでした」
「効果が現れるのは、人それぞれでして……」
「かしこまりました。お調べ致しますのでお待ちください」
正面から眺めていると、まるで俺にペコペコと頭をさげているように錯覚し、俺の心を満たした。
「この席を……離れたく、ない」
自分の声に驚いた。だが───
そんなことは、どうでもいい。今度こそ落ちてしまうのか。
年寄りから奪うはずだった計画も失敗し、金回りは最悪だ。
「離れたくない。離れたくない。離れ……」
受話器越しに向けられる無数の視線を感じるが、同じ言葉をやめられない。
俺は遠くを見つめていた。
そのとき、目の前に影が落ちた。そして声と音が重なった。
「ワタシモデス」
影に目を向ける。口が動いているが、言葉として入ってこない。『ワタシモ?デス?』
「……え?」
「私も、離れたくないです」
「離れたく、ない?」
「はい。目を見ながら言ってくれたじゃないですか。私も同じ気持ちです」
───目の前に立っていたのは、架純だった。
あのとき、俺が拳を握りしめ奥歯を軋ませた女。
それこそが鴨だったのだ。
築三十年。玄関のガタガタが耳障りだが、庭付きの二階建てはそこそこの価値があるだろう。それに、駅から徒歩十分。条件は悪くないはずだ。近いうちに不動産屋へ足を運んでみるのもいいかもしれない。
架純はマネージャーに昇進し、母親の真紀子は遺族年金をたんまりともらっている。
だから、主夫になることにした。
窓際でハンコを押しているだけの毎日を繰り返しても、何も手に入らない。
ならば、あの二人の心に住みつくべきだと思ったのだ。
架純の旦那となり、小宮家を手に入れる。
「信広。聞いてるの?」
「い、犬を飼わないか?」
架純の声だと気づき、咄嗟に口元に手を置いた。
「犬?キャンキャン吠える、あの犬?」
それ以外にどんな犬があるのだ。いちいちめんどくさい。スピちゃんは一人分の声しか奪えないのだろうかと疑問に思った。
「そう。ほら、お義母さんの為にもなると思うんだ。声を失ってから元気がない。少しでも癒しになればと思ってさ」
「いらない!スピちゃんがいるでしょ!この子、お話も出来るようになったのよ。キャンキャンうるさいものなんて必要ない!……やっと、耳障りが一つ減ったのに」
キンキンとした声が脳天を突き破りそうで思わず顔を歪めてしまった。
「あなたが犬を’飼える’と思ってるの?」
金切り声は突然、地響きのような声色に変わった。このジェットコースター感情をどうにかしてほしい。俺は常に平常心でいることに嫌気がさしていた。しかし、我慢する価値はあるはずだ。
「お金の心配はいらないよ。僕だって少しくらい貯金がある。犬一匹くらい買えるさ」
「信広も私と同じように飼い主になりたいのね。犬が犬を飼う……。何か変な話ね」
この支離滅裂な会話にも、もちろん嫌気がさしている。
「早速、ペットショップに行ってこようかな」
「やっぱり……ダメね」
「絶対、架純ちゃんに迷惑をかけたりしない。世話は僕がするよ。お義母さんのことだって今まで通り、全部任せて」
この女に悲願している姿は哀れだか、勘付かれる訳にはいかない。しかし、買ってきてしまえば勝ちなのだ。
所詮、子供がペットを欲しがるのと同じ。つぶらな瞳にフサフサした毛を纏った生き物を、抱っこしてしまえばイチコロなのだ。布の塊などゴミ同然となるに違いない。
「……はぁ。残念。人間の考えることはつまらないわね。どうしてそんな面倒なことを増やすの?スピちゃんなら、もっと楽しいことを考えてくれるはずだわ!そう思わない?」
架純の右手は撫ですぎてクタクタになったスピちゃんの布に触れ、左手は耳たぶを引きちぎれそうなほど伸ばしている。
やばい……。
この行動は幾度か目にしてきたが、ろくな事が起きない。
ここはひとまず話を合わせておくのが良案であろう。
「そ、そうだね」
「やっぱり、そうよね!」
架純の表情が水を得た魚のように生き生きとし、左手は耳から離れた。俺の選択は間違っていなかったのだと無意識に胸を撫で下ろす。
「信広も同じ気持ちでいてくれて、本当に嬉しい。ありがとう」
……ありがとう?架純から初めて聞いた言葉に思わず頬が緩んでしまった。こんな女にも良心があったのか。
「私ね、少し前にいいことを思いついたの。聞いてくれる?」
「もちろん」
「スピちゃん、お話が出来るようになったって言ったでしょ?でもね、考えることが少し苦手みないなの」
布が考える?話が全く読めない。
「スピちゃんはどう思う?って聞いても答えられなくて」
仕方なく相槌を打ってはいるが、表情がついていかない。やはり、イカれているのか。
「だからね、信広。スピちゃんにあげて」
「あげる?……な、何を?」
「ノウミソ」
……。
「のうみそ?って僕の脳みそ?」
「そうよ。そしたら、考えることが出来るでしょ。さっき、『そうだね』って言ってくれたじゃない。ありがとう。信広さん」
架純と布の塊が目の前で笑った気がした。
俺は、最後の最後まで崖下の景色を拝むことはなかった。
今、仮に突き落とされたとしても自分の目で見ることは不可能だったのだ。




