ブラックキャンディー
黒いキャンディーを娘に渡した日から、架純は別人のように変わってしまった。
ぬいぐるみに執着し、孫を望む母の言葉すら届かなくなる。
やがて母と娘の歪んだ願いは、取り返しのつかない形で交差していく。
2050年。8月。真紀子(架純の母)
もう私の娘では、ないのかもしれない。
あの真っ黒なキャンディーを渡した日から、様子がおかしい。まるで脇役から主役になった女優のように振舞っているのだ。
あんな炭の塊を本当に食べるとは思わなかった。
宝石でも見るかのように、うっとりしながら黒いものを口に放り込んだのだ。
昔から目立つことを嫌っていたあの子とは別人だ。
声も異様に高い。キーンと耳障りな機械音のように。
気づけば男まで家に居座っている。嫁入り前のくせに、なんてはしたないのだろう。
「家のことは任せて下さい!僕は一日中、架純さんとお母さんを全力でサポートしますから」
男はそう宣言したのだ。ラップが口に貼り付いているのかと本気で思ったほど、こもった声にも胸がザワついた。
「誰の助けも必要ありません」
始めは猛反対してたはずなのに、今では頼ってしまっている。毎朝の掃き掃除。私より先に新聞を取り、湯呑みまで温めてある。
言葉通り、どんなときでも手を差し伸べてくれるのだ。そんな姿を見ているうちに、いつの間にか『信広さん』と呼ぶようになってしまった。自分の旦那でもないのに。
信広さんがいる限り、近所で知られている『私の顔』が崩れる心配もない。
「おはようございます。最近、お庭のお花がとてもキレイに咲いてますね。きっと秘訣があるのね。今度教えて頂こうかしら」
「そんなもの、ありませんよ。ただ、お花の声を聞くようにはしてますわ」
「声?……。そうだわ!そんなことより架純ちゃん、結婚おめでとうございます。よかったわねぇ。これで念願の『おばぁちゃん』の仲間入りね」
『仲間』なんて言われてしまったら、否定などできない。蚊帳の外でいるのも耐えられないのだ。
それに、あの子一人よりは体裁もいい。
その中でも一番驚いたのは、ぬいぐるみを抱え恋する少女のような表情で話しかけられたとき。
「見て。フサフサした耳が生えたの。かわいいでしょ」
あの子の目が、私ではなく『ぬいぐるみ』だけを見ていた。
「か、架純!耳がないじゃない」
「そうだよ。スピちゃんに私の声を、聞かせてあげたかったの」
開いた口が塞がらなかった。
やはり、この子は『架純』ではない。
そう考えなければ、説明がつかない。
あの日、私はぬいぐるみとキャンディーをゴミ置き場で拾った。
モフモフした毛、つぶらな瞳。なぜか母性本能がくすぐられてしまった。
「かわいそうに。こんなにかわいい子を捨てるなんて、ひどい!そうだわ!一緒にお家へ帰りましょう」
無意識にぬいぐるみを抱きしめていたのだ。
数日前、藤村さんにお孫さんが生まれた話を聞いたからかもしれない。
私は、孫が欲しい。
それなのに架純は相変わらず、お一人様なのだ。
「そろそろ、適齢期なんじゃないの?」
「そうだね」
「何よ、その返事。もっと真剣に考えたらどうなの?今の時代お見合いパーティとか、色々あるでしょ」
「出た。また孫の話?いい加減にして。私、子供好きじゃないの」
この話題になると、あの子は顔を歪める。やっぱり私に似ていない。それならば、母性さえ沸けば夢が叶うかもしれないと思ったのだ。
2050年。5月。
隠居生活になってから、外に出る意味を見いだせない日々を過ごしていた。できる事なら一歩も家から出たくないのだ。
しかし、ポストに投函される音を聞き逃せない。新聞が唯一の社会との接点であり、目を通さない訳にはいかないのだ。
「そんなことも知らないの?」
言われる側になるのだけは、耐えられない。
そのためには、素直に言うことを聞かなくなった足を進めるしかない。
「本当に気が利かない子よね。だから、いつまでもお一人様なのよ。新聞くらい取ってきてほしいわ」
ドア越しでも耳に届く声量で、架純の部屋を通り過ぎた。
右膝を摩り、玄関のたたきに視線を落とす。キッチリと揃った靴の姿を崩したくなかった。仕方なく踵が余るサンダルをひっかけ、玄関を開けた。
車のすれ違いがギリギリの道路には、昨晩の雨が水たまりになり太陽の光を反射させている。
「もう!眩しいわね。目がチカチカするじゃない。雨が止んでも鬱陶しいのよ!早く消えてしまいなさい」
なんの罪のない道路に、矢のような視線を向けている自分にハッとした。こんな姿を見られるわけにはいかない。
近所では『仏の真紀子さん』と呼ばれているのだから。
赤い郵便受けの口からはみ出ている新聞をサッと取り出し、辺りを見渡す。
「よかった。誰もいない」
思わずそっと胸を撫で下ろしてしまう。
玄関へ体を向けようとしたとき、またチカチカが視界に入り込んできた。
「本当に鬱陶しい。だから外に出たくないのよ。やっぱり新聞取りは、架純の仕事にするべきね」
この時、光の反射を目で追ってしまった。
そこには、スポットライトを浴びているかのような一体のぬいぐるみがポツンと置かれていたのだ。
普段ならわざわざ、この足を動かしてまで近寄ったりしない。しかし、私はゴミ置き場へ駆け出していた。
2050年。8月。
目の前に片耳を失った架純であろう女が座っている。
紫の毛糸を首にかけ、あのぬいぐるみをぶら下げているのだ。
「食事のときは、取りなさい」
「何か言った?」
「だから、ぬいぐるみを取りなさい」
「いやだ。そんなこと言って、スピちゃんを奪うつもりなのね!絶対に誰にも渡さない」
「取ったりしないわよ。そんなもの誰が欲しがるの。気味が悪いわ。あなた、自分でおかしいと思わないの?その姿はどう考えても普通じゃない」
目の前の女の顔が踏みつぶされた空き缶のように、歪んでいく。
「うそをつかないで!本当は欲しいくせに。由紀ちゃんだって、奪おうとしたんだから!欲張りは、バチが当たればいいのよ。まぁ、仕方ないか。私のことが羨ましいのね」
「……やっぱり変よ」
「なによ。変なのは、お母さんの方じゃない!かわいい孫にご飯を食べせないなんて。あんなに、欲しがってたくせに」
いけない。この女に飲み込まれてしまいそうだ。
立ち上がろうとしたが、足が石のように重い。
椅子に接着剤でも付いているのかと、全く関係のないことが頭をよぎってしまう。
そんな様子にも気づかず、あの口は動きつづけている。
「あぁ。そういうことね」
これ以上、声を聞きたくない。脳みそまで侵入してきそうだ。早く、立ち上がらなければ……。
「スピちゃんに『おばぁちゃん』って呼んでもらえないのが、気に入らないのね。それなら、いい方法があるわよ」
「もう、やめて!あなた、なにを言ってるの?」
お願い。早く助けにきて。いつでも手を差し伸べてくれるじゃない。二人の会話は聞こえているはずよ。
信広さん。
「お母さん、願いを叶えてあげる」
女は座ったまま、廊下の方へ声を響かせた。
「信広!お母さんに教えてあげてほしいの」
願いが通じたのだと、肩の力が抜けていく。早くこの場から連れ出してほしい。あの人なら、この異様な空気に気づくはず。
階段をトントンと軽やかに降りる足音が聞こえ、腕まくりをした信広さんが顔を出した。
「天気がよかったから、シーツも洗ったんだ。今夜はぐっすりと眠れそうだね。お母さんの布団もフカフカですよ」
額の汗を拭いながら、目尻に皺を寄せている。
相変わらずこもった声だが、少年のような笑顔を見ると心がほっとしてしまう。
「そんなことは、どうでもいいの。信広もお母さんの願い知ってるでしょ?」
「もちろん。知っているに決まってるさ。でも、願いは叶ったはずだよ」
「でもね、満足してないの。だから、ご飯も食べさせてくれないの。酷い人よね。どうしても『おばぁちゃん』って呼ばれたいのよ」
早くこの女の口を止めて。眉をひそめている信広さんの顔を想像し、視線を動かした。
「そうかぁ……。それは、残念」
信広さんは、大きな手をそっと私の肩にのせた。温もりで心が鎮まる。
これで飲み込まれずに済む。
女に気づかれないように、アイコンタクトでもするのだろうか。目尻を下げた顔で真っ直ぐと私を見つめている。頬が熱をもち、思わず視線を逸らしてしまった。
「お母さん、スピちゃんに足りないものはなんですか?」
「……」
スピちゃん?あなたもそんな呼び方してるの?
「お母さんなら分かりますよね」
そんなまさか……。
「もう一度聞きます。足りないものは?」
やめて!
しかし、体は言うことを聞かない。足だけではなく、全体が動かない。
「僕の名前を呼ぶとき、どうしますか?」
今度は、両肩に手をのせてきた。背中に虫が這っているようにザワザワとする。
私に触らないで!
「あなたまで、なにを言っているの?」
「そんなに悲しい顔をしなくても大丈夫です。安心してください。僕が教えてあげますから」
もう、何も聞きたくない。
もう、何もいらない。
早く手をどけて!
「スピちゃんにあげてください。」
「な、なにをあげるの?」
「お母さんの声です」
体は岩になり、もはや目玉しか動かすことができない。
目の前の女が口を開く。
「スピちゃん、『おばぁちゃん』って呼んでほしいんだって」
ぬいぐるみに願った女は、片耳をグリグリと動かし、口端を上げている。
その姿は、架純にそっくりだった。




