馬鹿な婚約者が『薄暮の魔女』に惚れたから婚約を解消したいと言い出した
また気の強いヒロインを書いてしまいました。
いいよね、気の強いヒロイン。
私の婚約者は馬鹿だ。大馬鹿者だ。
「……そういう訳だからリラ、俺との婚約は解消して欲しいんだ」
今、私の心は様々な感情がグワーッと湧いてきたのだけれど、その最たるものは目の前の婚約者、アルが馬鹿だと呆れる気持ちだった。
しかし、その気持ちを全て封じ込め面には出さぬようにしなければならない!
私はいつもの無表情を貫く。けれど心のざわつきはそう簡単にはおさまらない。思わず右手を首元にやった。いつも服の下に着けているお守りのペンダントを、服ごとギュッと握り込む。
(……大丈夫。私は普段から無表情気味だし、アルは大馬鹿者だからきっと気づかないわ)
そう自分に言い聞かせ、私はウォーター伯爵邸のソファにちょこんと腰掛けたままでいた。向かいの一人掛けソファに座る婚約者をじっと見つめると、アルフォンス・ウォーターはどこか遠くを見つめて悩ましげな溜息を吐く。
「はあ……」
黒服に身を包んだ彼は、服で隠れていない部分が対照的に美しく色づいている。
黄金色の長い睫毛で暗緑色の瞳を隠し、溜息が抜けていった頬は淡い薔薇の色だ。まるで一杯きこし召したかのように。
……これが酒に酔っていたのならどんなに良かったか。彼は別の、もっと質の悪いものに酔っているのだから。
「嗚呼、ライラ様の素晴らしさと言ったら……。あの髪、眼……。あの方を魔女だなんて呼んではいけないと思うんだ。このウォーター伯爵領では『薄暮の女神』と呼ぶように領民に伝えようと思う」
……馬鹿! 本当に馬鹿!
彼は、先日領地内に突如として現れたライラと名乗る美しい女性に一目惚れした、と私に向かって宣ったのだ。
その女性は微笑むだけで異性を蕩かす蠱惑的な美貌と女性らしい豊かな身体つきに加えて、夕暮れの如く変化する薄いオレンジとブルーの髪に、宵の星のように煌めく瞳を持つ。
そして何よりも他を圧倒する魔法の遣い手だった。それで『薄暮の魔女』と呼び名が付いたそう。
今、第三者がこの話を聞いたら「なんて馬鹿なことを!」と表向きは言いつつも、心の中では「まあ、無理もない」とどこか納得してしまうだろう。『薄暮の魔女』の特徴は何もかも、世間から揶揄されている私とは正反対なのだから。
私には胸の膨らみも彼に釣り合うような背丈も、整ってはいても男性に魅力的に映る美貌も、豊かな表情や愛嬌も、そして……アルの婚約者として一番求められているはずの……強い魔力も見られない。
以前他の貴族から「オイリー伯爵家の末娘は、無い無い尽くしの人形姫だそうで」と陰口をたたかれたこともあったくらい。
けれど私は納得していない。たとえ世界中の人間が彼の意見に賛同しようとも、引くものか。
視界の端で、私の長くまっすぐな銀の髪がさらさらと細かく揺れる。私の身体がぶるっと震えたからだ。この震えは寒気かしら、それともアルに対する怒りのあまりかしら。自分でもわからないわ。
と、それまで私と目を合わせようとしなかった彼が突然こちらを向き、心配そうに声をかけてくる。
「リラ、どうした? 寒いなら暖炉に火でも入れさせようか?」
「結構です。領地が大変な今、私なんかで貴重な薪を消費しないでください」
「私なんかとは聞き捨てならないね」
「まあ、私なんかを大事に思ってくださるのですね。『薄暮の魔女』の次くらいには」
遂に私の怒りと呆れが閾値を超え、嫌味たっぷりの言葉となって外に出てしまった。次の瞬間、本当に寒くなったかのように談話室の空気が張り詰める。
特にアルの後ろで控えていた彼の執事と、彼に「ばあや」と呼ばれているウォーター伯爵家のベテランメイドは驚きで顔を引きつらせていた。
私は少しだけ首を回して、オイリー伯爵家から連れてきた私の侍女、エレンをチラと見る。こちらは対照的に全く動じていなかった。
……まあそれもそうね。今まで婚約者として何度も伯爵家を訪ねていたけれど、私はアルと二人きりの時以外は猫を被り、いつも大人しい少女のフリをしていたもの。
一方でエレンは、こんな豹変なんて屁でもないほど凄いものを我が家で何度も見ているのだから。
正面に視線を戻すと、アルが困ったように眉根を寄せるところだった。
「リラ、そんな言い方をしないでくれ」
「じゃあ他にどんな言い方をしろと? 貴方はたった今『薄暮の魔女ライラ』に夢中だから私との婚約を解消したいと仰ったのですよ、伯爵様」
「……君が怒るのも無理はない。すまない」
彼は更に眉根を寄せ、謝罪の言葉と共に頭を下げる。今まで私のわがままで、少々彼を困らせたことは何回かあったけれども、こんなに悲しそうな顔を見たことはなかった。
それで私も一瞬絆されそうになったのだけれど、すぐにハッと思い直す。
(だめだめ! 彼の思いどおりになんてさせないわ。キッチリと言質を取らなければ!)
心の手綱をグッと引き絞り、彼を問い詰めていく。
そう、これはチェスの詰みのようなもの。時には直線的に攻撃し、また時には搦め手を使い揺さぶり、目指すゴールに相手を追い込むのだ。
「まあ!『すまない』の一言で済むとお思いですか? 私はこんななりですけれど、ご存知のように来週には十六歳の成人になりますのよ」
敢えて「こんななり」と言うのには訳がある。私の見た目は、少女のままなのだ。
アルと婚約した十三歳の頃から三年間、時が止まったように見た目だけは変わらない。
「わかっている。君は立派な女性だ。だから今回の婚約の解消は、君に非は一切ないんだ。慰謝料はきちんと払うから……」
……アルはそう言うけれど、今回の件は私にも非がある。非の部分の多くは、私と言うより私を溺愛していて過保護な兄姉たちの仕業とも言えるけど。
でも、それを差し引いたってテーブルの向こうで座っている彼が色んな意味でお馬鹿さんなのは相殺しきれない。私のことを何だと思ってるのかしら。
「そんな言葉で騙されるとでも? 私を馬鹿にしてますの? 今、ウォーター伯爵領は苦しい時期ではありませんか。私への慰謝料なんてとても支払えないでしょう!」
「いや、大丈夫だ。当てはあるから何としても払う」
「当てですって? 王命の婚約を一方的に解消しようという者に援助してくださる物好きが居ると? その物好きの名をきちんとこの場で明かしてくださらなければ、とても信じるわけにはまいりませんわ」
「……」
黙りこんだ婚約者を私は冷たい目で見た。今の正論には太刀打ちできないものね。
私たちの婚約は王命。それをよりによって他の女性に懸想したからなどという理由で解消すれば、どうなるかは火を見るより明らか。
アルの評判は地に堕ち、今の立場はとても維持できないでしょう。
先日の嵐と土砂崩れで大きな被害を受け、困窮している伯爵領を亡き前伯爵から継いだばかりのアルフォンス・ウォーター伯爵。
今の彼はこんなことをしている場合じゃない。伯爵領の立て直しに全力を注ぎ込むべきと誰もがわかっているはずなのに。
私のイライラは更に増した。本当にこの人は私を馬鹿にしている。口では私を「立派な女性」と言うくせに、見た目どおりの十三歳の少女を相手にしているつもりなのだわ。
……確かに今までの態度も、思い返してみるとそうだったかもしれない。常に私を婚約者として尊重しつつも、実際には指一本触れようとはしなかったのだもの。それを最近までの私は、彼が優しく誠実で紳士的なのだと思っていた。
(……私も、結構なお馬鹿さんだわ)
彼は私を大人の女性としては見ていなかったのにね。
私は小さな溜め息をひとつついてから、再び口を開く。
「伯爵様、お考え直しください」
私が今までのように「アル」と彼の愛称を呼ぶのではなく、わざとらしく爵位呼びをしたことに彼の顔が明らかに固くなった。でも続く言葉で、彼だけではなく執事やばあやさんの顔色までもが同時にさっと青くなる。
「私は婚約を解消するつもりはございません。貴方様が他に好きな女性がいるのでしたら、愛人として屋敷に迎えればよろしいのです」
「!」
彼は眼を丸くしたまま、私の言葉を否定する。
「い、いや、そんな事ができるわけないだろう」
「何故です? 貴族階級の女性に比べて男性には沢山の権利が与えられています。愛人を持つこともそのひとつ。夫が望むならば、妻は反対できる立場ではないでしょう?」
「……」
アルは無言で頭を抱えた。今の私の言葉も正論だ。
平民なら浮気者の亭主は妻にとっちめられることもあるらしいけれど、貴族女性の妻には夫の浮気を咎める権利などない。せいぜい愛人が子供を産んだ時に、それが本当に夫の子であるか見極め、爵位継承権について口出しが許されているくらいのもの。
この国ではまだまだ女性の立場は弱いのだもの。女性だというだけで見下してくる男性もいるほど。……まあ、そういう場合、大抵はその男本人が無能だから他に威張る相手がいなくて女に当たり散らしているだけなのでしょうけれど。
私の姉が四年前、婚家から無理やり帰ってきて鬱憤をはらした時も、どうやらそういう事だったらしいから。
「ああ、もう大失敗だわ! あんな男だと思わなかった!」
姉とその夫の結婚は政略結婚ではあったけれど、我がオイリー伯爵家は国内での影響力も強い名門で、しかも姉は引く手数多の美人。だから幾つも来た縁談をこちらが選ぶ立場だった。
姉の夫は結婚前までは優しく紳士的なフリをしておいて、いざ嫁入りすると豹変し「お前は女のくせに生意気だ」と二言目には言うようになったのだそう。
姉は結婚生活一年で離縁した。今は王立魔法院で魔道具作成部門の研究助手をしている。
最初は女性なのもあり、魔法院院長の父やエリートの兄たちのコネで入れたんだろう、と同僚に嫌味を言われることもあったそうだけれど(まぁ、コネなのは事実だし)。姉はもともと強い魔力の素質を持っていたのと研究者向きの性格が幸いして、今では「研究室に欠かせない人材だ」と言われるようになった。
余談だけれど、姉の元夫は激怒した父と兄たちから(法に触れない範囲で)ギッチギチに詰められたらしい。上の兄が「無能のくせに生意気だ」って元夫に何度も言ったら泣いていたそうな。
「リラ……」
疲れたように呟いたアルの声で、私は思い出話から現実に引き戻された。
彼は長い指を顔に当てたまま、少し顔をあげる。私の好きな、優しげで理知的な緑の瞳が隠れてしまっていた。でもギュッと引き結んだ口元はハッキリと見える。その口が開き、何度目かの残酷な言葉がこぼれた。
「それはできない。お願いだ。婚約を解消してくれ」
「……何故でしょうか。これでも私、譲歩しているつもりですのよ。できない理由をきちんと説明してくださらなければ納得できませんわ」
「……」
彼は少し沈黙した後、苦しげな顔で絞り出すように言う。
「俺は、彼女を……ライラ様を愛しているんだ。あんな素晴らしい人を愛人になんてできない。そもそも、愛人の誘いだなんてあの人に失礼だ。彼女のほうが魔法の使い手としては俺より遥かに上かもしれないのに」
私の眉が思わずぴくりと跳ね上がる。
「まあ、聞き捨てなりませんわね。伯爵様よりも遥かに上ですって? それじゃあ当然、私のお兄様たちよりも上ってことですよね? この国で一番の魔法使いになってしまうかもしれませんわ。そんなのちょっと信じられませんもの」
この国で、魔法は誰もが使えるものではない。まさに天から与えられたギフトである―――とは一般的には言われているけれど。
本物の突然変異というごく稀な例を除けば、魔法の素質は血筋の色が強いと、王立魔法院の研究者たちは結論づけている。
そしてその血筋により代々強力な魔法使いを輩出し、毎回魔法院のトップを争うふたつの家門こそが、我がオイリー伯爵家と、アルのウォーター伯爵家だった。
我が国で一番の魔法使いならば、この二大巨頭の系譜に連なる者である筈だ、というのは貴族階級の間では常識でもある。
なお、そのトップ争いが代を重ねるごとに激化して、私の父と、今は亡き前ウォーター伯……つまりアルのお父様の仲もあまりよろしくなかった。うちの兄たちなんてアルを事あるごとに目の敵にしていたのよ。
まあ、アルの魔法の素質は確かに素晴らしくて、次の代での魔法院のトップはアルフォンス・ウォーターではないかという噂もあったそうだけれど。
話が少し横道にそれたけれど、ともかく、両家の仲の悪さを王家は重く見たのでしょうね。
アルと私の婚約が王命によって決められたのは、二人でウォーター伯爵家とオイリー伯爵家の仲を取り持つようにという意味と、両家の血を引いた子供が生まれれば素晴らしい魔法の素質を持つだろうという目論見があったのだと思う。
「……ああ、漸くわかりましたわ」
私はソファに大人しく腰掛けたまま、微笑んだ。
……上手く微笑んだつもりだったけれど、口角の片側だけがクイッと上がってしまったわ。皮肉る表情が作られてしまったかもしれない。
「ウォーター伯爵、貴方は『薄暮の魔女』ライラに一目惚れをしたと言いながら、本当はその魔力の高さを手に入れたいだけなのですね?」
突如現れた正体不明の魔女がこの国で一番の魔法使いだなんて噂が流れたら大変だ。今まで私の曾祖父の更に上の世代からウォーター伯爵家とNo.1の座を巡って争っていた歴史が全部無駄になってしまう。
他の家の貴族たちは、魔女ライラを自分の家に取り込もうと躍起になるに違いない。私たち二大巨頭の牙城を崩せるチャンスなんだもの。
おまけにライラは魔「女」だ。女ならどうとでもなると軽んじる男も居るでしょう。……もっとも、力ずくで何とかしようとするなら、炎の魔法で焼かれるのがオチだけれど。
まあ、アルはそんなことをする男じゃないのは私が一番よく知っているわ。むしろ彼はそういった男たちから彼女を保護し守りたいと思っているのでしょう。
その彼は蒼白な顔を左右に小さく振った。
「俺が……土砂崩れの現場を訪れた時に彼女はいた」
土砂崩れの現場。その言葉を発する前にアルは少し躊躇っていた。
半月ほど前、ウォーター伯爵領は大規模な嵐とそれに伴う洪水に遭い、大きな被害を受けた。
前ウォーター伯爵とその夫人は領地と領民の様子を見に馬車で現場に向かい、そして崖下を通過する時に土砂崩れに巻き込まれたのだ。馬車の中にいた前伯爵は降り注ぐ岩石に気づくのが遅れ、魔法で対抗することもできずに馬車ごと生き埋めになった。
アルはその現場に駆けつけたけれど、予想以上に土砂崩れは激しく、馬車は大きな岩に押し潰されていて救出は困難を極めた。……いえ、もう救出ではないと、その場の誰もがわかっていた。それでも、打つ手がなかったのだ。
「彼女は天から現れると、俺も領民も動かすのに手を焼いていた巨大な岩を魔法の一撃で砕いた。凄まじい魔法だった。そして細かくなった岩を土魔法や風魔法を使い、あっという間に取り除いてくれたんだ。そのおかげで俺は……」
アルの唇が震えている。彼の顔は、魔女に恋する表情ではなかった。それを見た私の胸もきゅっと縮む。
「俺は、父上と母上にもう一度会うことができた」
アルがやっとそこまで言うと、後ろにいたばあやさんが「坊ちゃま……」と小さく呟き、目元を拭う。
「それだけじゃない。ライラ様は水害を受けた地域のあちこちを水魔法や風魔法を使って復旧してくれたんだ。俺たちにとって救いの女神なんだ。彼女の素晴らしい魔法に、俺は惹かれてしまった」
「だからといって、私との婚約を反故に?」
「……すまない」
彼はつむじが見えるほど私に向かって深々と頭を下げる。
私はそれを見て、少しだけソファの背もたれに背を預けて小さく息をついた。
端から見れば、お飾りの婚約者で魔力の乏しい人形姫の私が、伯爵となった彼にここまでして貰えばもう充分でしょう。一見して誠意ある説明と謝罪、慰謝料の提示までしてくれている。私に非はなく、自分が一方的な悪者であると表明しているのだもの。
だけど。私はソレが気に入らない。
「伯爵様、どうぞ頭をお上げになってくださいませ」
「リラ……わかってくれたのか?」
上目遣いで縋るように私のYESを求める彼を見ると胸が締め付けられる。今すぐYESと言いたくなってしまう。でも、もう少し。もう少し言質を引き出してからでなくては。
「伯爵様の言い分はよくわかりました。けれどもまだ私の言い分がございます。どうか、お人払いを」
「……え?」
ポカンとしたアルとばあやさんに、イラッとしながらも、その表情を殺して私は告げる。
「まあ! 今日突然、一方的に婚約を解消したいと言われたのに、大声でなじることも許してくださいませんの? そんな恥ずかしいところ、使用人には見られたくありませんもの」
「……それは、確かに……」
「ね? 婚約者として最後のわがままですわ」
薄い微笑みでたたみかけると、執事やばあやさんも納得したようで、エレンとともに退室していった。
さて、鍵は掛けたほうがいいかしら? ううん、どうせ執事が合鍵を持っているだろうし、無駄ね。もしもアルがこの後大声で騒いでも入ってこられないように扉を細工してしまおうかしら。
……まあ、エレンはあれでなかなか強いから、執事とばあやさんくらいなら力ずくで止めてくれるでしょうけど。
扉からアルに視線を戻す。私がそんな悪だくみをしているなんて、彼は全く気づいていないようだった。
本当に愛すべきお馬鹿さんね。
「伯爵様。今は敢えてアル、とお呼びしても?」
「勿論だ。敬語も必要ない。今までのように話してくれ」
「……アル、わがままをきいてくれてありがとう」
「いや、そんな」
「いつもアルは私のわがままを叶えてくれたわね。確か一番最初は『婚約者なんだから愛称で呼びあいたい』って言った気がするわ」
「ああ、わがままというけれど、君の要求は可愛いものばかりだったよ」
「あら、火喰い鳥の羽根が欲しいって言ったのは可愛くないと思うけれど?」
「確かに! あれは大変だったなあ」
思わず二人で笑いだした。私は彼と二人きりなら、こうして屈託なく笑ったりできる。オイリー伯爵家にいる時と同じように。いつから彼にこんなに心を許すようになったのか、思い出せないわ。
私は外では完璧な人形姫のフリをしていた。完璧すぎて、感情を出さないようにしている事以外の秘密はアルも気づかなかったのね。……まあ、でもやっぱり彼はお馬鹿さんかもしれない。今、ヒントをあげたのに気づきもしないんだもの。
「アル、私、怒ってるのよ?」
そう言ったら、笑っていた彼は途端にシュンとなった。
「すまない……こんな不義理、幾ら謝罪しても足りないのはわかっている」
「違うわ、私が怒っているのはね、貴方が私を子供扱いするからよ」
「!」
「これから領地を復興させるために貴方はとても忙しくなるし、結婚式もその後の結婚生活もきっと貧しいものになるでしょう。私が気づかないとでも思った?」
今日、ウォーター伯爵家を訪れた時に応対してくれたのは執事とばあやさんたけだった。今までならもっと沢山の使用人が出迎えてくれたのに。おそらく殆どの使用人に暇を出したのでしょう。
「アル、貴方は私が貧しい生活に耐えられないと思ったから、婚約の解消を持ち出したのでは?」
私は深く息を吸い込み、次の言葉を吐き出した。
「わざわざ『薄暮の魔女』に惚れたからなんて、馬鹿な嘘をついてまで。そこまで自分を貶めれば王命の婚約も取り消せるし、私の名誉にも傷がつかないと思ったのでしょう?」
「……」
彼は無言だったけれど、顔色が蒼白になったのが答えだと思う。そこに更に追い討ちをかける。
「私は、たとえ貧しくても厳しくても、結婚して貴方を支えるつもりで居たのよ、アル。貴方のことが好きだから」
婚約が決められた十三歳の頃は、彼のことを何とも思っていなかった。むしろイメージが悪かったくらい。アルを一方的にライバル視していた兄たちがオイリー家の中では散々悪口を言っていたからなの。
だけど婚約者として一緒に過ごすうちに、彼の優しさや誠実さに触れて、私は考えを改めた。アルフォンス・ウォーターは魔法の素質だけじゃない。人間性でも兄たちよりずっとずっと優れているのだと。もうその時には恋に落ちていたのだと思う。
「アルが私に恋愛感情を持っていないのは、なんとなくわかっていたわ。私はこんななりだし……だけど結婚してからきっと成長はするだろうし、少しずつ夫婦の愛を育むことだって出来ると思うの。考え直してくれない?」
今までウロウロと視線を彷徨わせていた彼の暗緑色の瞳が、私の言葉でぐっと歪んだ。みるみるうちに涙が盛り上がり、ポロリと彼の頬を転がり落ちる。
「違うんだ……リラ、嘘じゃない……」
「え」
「俺も土砂崩れがあるまでは似たようなことを考えてた。君と夫婦になってから静かに愛を育めるだろうと……。だけどライラ様に出会ってしまった。俺は一瞬だけ彼女の魔法と、それを扱う彼女自身の美しさに見惚れてしまったんだ」
「一瞬だけ?」
「一瞬だけだが、心を奪われた。それでも君に対する裏切りには違いない。この気持ちを抱いたままリラと夫婦になるなんてできないよ。君にもライラ様にも失礼だ……」
彼は美しい涙をポロポロとこぼしながら、最後は声を詰まらせ俯いた。なんて真面目すぎるお馬鹿さんなの。そんなの、私に黙っていればわからないのに。
……でも。そんな彼だから私は好きになったのだし、そんな彼だからこそ、横に居るのに綺麗なだけのお人形では務まらない。時には大胆な嘘や駆け引きが出来る強い女でなくては彼を支えられないもの。
「アル、お願いがあるの。慰謝料は要らないから『薄暮の魔女』を掴まえて伯爵夫人にして」
「……え?」
「貴方は、私への慰謝料を払い、領民を救うために王家に爵位を返上する気だったのでは?」
「……」
彼は涙に濡れた顔をまた俯かせた。ああ、やはり図星ね。王命の婚約を破棄しようとする者に出資する人がいるわけがない。いたとしてもお金に見合う担保を差し出す必要があるもの。
伯爵領を王家に返上すれば、王家が直接災害に遭った土地の復興に携われる。彼が平民になるのと引き換えに領民たちは救われるでしょう。彼は私と領民のために自分の持つもの全てを投げ出す気だったのね。
この人はなぜ自分を蔑ろにするのかしら。その自己犠牲に酔うくらいだもの。そうまでしないと自分に価値はないとでも言いたいの? だとしたら大馬鹿者よ。馬鹿すぎて腹が立つ。
「そんな事は許さないわ。私との婚約を解消する以上、その理由になった『薄暮の魔女』とはきちんと添い遂げてくれなくては、納得できないもの」
「でもライラ様はどこにいるかもわからないんだ。もう二度と会えない可能性も」
「なら、婚約の解消には同意できないわ。彼女を見つけたら、絶対に掴まえて結婚してください」
「……」
彼は俯いたまま、私のほうを見ずに答えた。
「わかった。ライラ様を見つけたら、俺は彼女に求婚する」
「約束よ」
「……ああ」
今までやりすぎなほど誠実だった彼が、初めて私に曖昧な言葉で約束をした。そうよ。これくらいの言葉遊びは覚えてくれなくちゃ。ウォーター伯爵としても、次期魔法院院長としても、必要になる時がきっとくるでしょう。
「では、約束を違えぬよう契約でもしましょうか」
「っ、それは契約書で?」
彼は少し躊躇っている。契約書の文章では、さっきのようなごまかしの言葉が利かないから。
でもそんな心配は要らないわ。私の欲しかった言葉はもう手に入れているもの。
「いいえ。もっと強い結びつきで」
そう言って私は立ち上がり、ローテーブルの向こうにまわる。ソファに座るアルと目を合わせた。
そして彼の膝の上に乗る。
「え!? リラ!?」
アルは慌てた。約三年の婚約期間の間、こんなことは一度もなかったものね。でも私は知らんぷりをして膝の上に腰掛けたまま、きっちりと首元を覆っているドレスのボタンをひとつ外す。彼は今まで見たことがないくらいぎょっとした。なおもボタンを外そうとする私を止めるため、手を伸ばす。
「待ってリラ……!」
この三年間、私に指一本触れようとしなかったアルは、今日初めて知ることになる。
私の全身に強力な魔法がかかっていると。
彼が私の手首を掴もうとした瞬間、バチンと音がしてそれは弾かれた。アルは深緑の目を丸くする。成績優秀な彼なら、それが何かは即座にわかるでしょう。
「これは、防護魔法……」
「ええ。とびっきり強力な。このお守りに込められた魔法のひとつ」
私は首元のボタンをもうひとつ外すと、服の下に着けていたペンダントをジャラリと引き出して見せる。ゴツくてダサいデザインだったので、普段は見せないようにしていたの。
「そして、あとふたつは封印魔法と幻術魔法」
私がペンダントを外し傍らに投げ捨てると、それらの魔法が解除された。今まで十三歳の少女に見えていた私は本来の姿を取り戻す。
年相応の背丈と、十六歳にしては随分と大人びた蠱惑的な美貌。細くて儚い身体は女性らしい胸と臀部の膨らみを得て儚さの影もない溌剌とした雰囲気になる。
封印されていた膨大な魔力が溢れ出て、私の銀の髪の周りでオレンジとブルーの薄い靄を作り出したのが目の端で見えた。それはくるくると踊り混ざって常に変化し続ける。きっと私の目も魔力でギラギラと輝いているに違いない。
「リラ、なのか……?」
アルの丸かった目が更に丸く大きくなった。顔からこぼれ落ちそうなほど。
私はクスクスと笑いながら、やっと彼に言いたかった言葉を告げる。
「私の本名を忘れたの? お馬鹿さん」
「ライラック・オイリー……伯爵令嬢」
「ええ、そうよ」
これは我が家の秘密なのだけれど。オイリー伯爵家の子供たちは男よりも女のほうが魔力が高い子が生まれやすいのだそう。
けれど男尊女卑のこの世界では、男よりも強い力を持つ女なんて生きづらいことが殆ど。
だからお父様は姉と私が生まれた時、魔力を大幅に封印する魔道具をアクセサリーにして贈った。姉は嫁入り後もそのアクセサリーを着けていたけれど、酷い夫に辟易して離縁した後は着けずに過ごしている。高い魔力を持つ彼女は魔法院の魔道具研究室で重宝されているのよ。
そんな経緯があって男性不信だからなのか、それとも兄たちの「アルフォンス・ウォーターは良い子ちゃんのフリをしてはいるが、絶ッ対に性悪だ。いつか尻尾を出すだろうから、それまで俺たちの可愛いリラに指一本触れさせないでくれ!」という妄言を鵜呑みにしたからなのかはわからないけれど。
姉は得意の魔道具作成を用いて、兄たちと協力しペンダントを作ったの。それを婚約祝いを兼ねたお守りとして三年前に私にプレゼントした。
父が作ったのよりも更に強力な、魔力を封じる封印魔法と「オマケに防護魔法をつけておいたわ!」って触れ込みで。
まさか更にオマケで幻術魔法が込められてるなんて、最近まで思いもしなかった。
これに気づかなかったのは私がお馬鹿さんだからじゃないわよ。だって自分には幻術はかからないんだもの。周りからは十三歳の頃から成長していないように見えてるだなんてわかるわけないじゃない!
貴族階級のなかでも特別頭の悪い人が『無い無い尽くしの人形姫』って陰口を、陰からじゃなくて面と向かって言いに来るまで気づかなかったの。
あと、私の侍女のエレンが妙に肝の座っていたのも原因のひとつね。彼女はいつもオイリー家で私の着替えや湯浴みを手伝ってくれている。エレンの前でペンダントを外した時に、私の姿がガラリと変わっていたはずなのに、何も無かったかのようにずっと振る舞っていたんだもの。
普通はアルみたいにびっくりするものでしょう?
そのアルは、まだ事態を飲み込めないみたいで目を丸くしたまま口をはくはくと開けたり閉じたりしている。
そして目の前の女性に一瞬でも心を奪われたことを思い出したのか、青白かった頬に徐々に血が上り、赤みを帯びてきた。
私はその頬にそっと両手を添え、愛しい彼の顔を覗き込んでこう言う。
「さ、約束よ。私に求婚して。一生添い遂げてくれるんでしょう?」
もう詰みね。私の婚約者としての最後のわがままも叶えて貰うわよ。
まあ、妻となってからもわがままは言うつもりなのだけれどね。
紀ノこっぱ様よりファンアートをいただきました!
素敵……ありがとうございます。
【オマケの人物紹介※ネタバレ注意】
◆リラ(本名:ライラック・オイリー)
国で一番どころか、500年に1人くらいの魔法の逸材。
姉と兄たちが三人がかりで一ヶ月かけて必死で作った封印の魔道具でも、完全には抑え込めないほどの魔力を持ち、その魔力を持て余してもいる。
持て余している例としては、魔力が溢れ出て髪や目の色を変えてしまうとか、喜怒哀楽の感情が激しくなると魔道具で抑えていても漏れ出てしまうとか。(だから外では無表情でいた)。
アルフォンスの事が大好き。
ウォーター領が嵐と土砂崩れに遭ったと聞いて、いてもたってもいられず、封印を解き魔力を全解放して文字通り飛んでいった。岩を崩した後、少しでもウォーター領の復興を手伝いたいと魔法を使いまくり、領民に感謝されたまでは良かったが「ぜひお名前を」と言われて咄嗟に「ライラ」と名乗る。
二人きりになった後、アルの膝の上に乗った理由は「だってアルが一人掛けのソファに座っていたんだもの。二人掛けならちゃんと横に座ったわよ」とシレっと言っていたが、多分嘘。
◆アル(本名:アルフォンス・ウォーター)
超弩級真面目かつ、自己犠牲の塊みたいな優しい人。魔女ライラに一目惚れ(?)をする。
綺麗だけれどセクシーさの欠片もない少女から、セクシー美女に大変身した膝の上のリラ(ライラ)に「私に求婚して」と言われ、真っ赤になってどもりつつも「け、結婚してくださぃ……」とちゃんと言えた。
◆リラの姉と兄ーズ
生まれた順は、姉、兄1、兄2、リラ、の4人姉弟。
オイリー伯爵家の人間は総じて大雑把で気が強い。元々真面目で細かいところをきっちり詰めてくるウォーター伯爵家とは反りが合わないのだが、成績優秀、品行方正なアルフォンスを「絶対に裏がある」と悪意の色眼鏡で見ていた。
姉の元夫が結婚後に豹変したこともあり、リラがこのままでは不幸になってしまうと思い込み、彼女の魔力と容姿を魔道具で変えてしまおうと企む。
なお、姉と兄ーズはアクセサリーの趣味が少々変わっていて、でっかい剣にドラゴンが巻き付いて更に名前入りというアレなデザインのペンダントを生み出してしまい、リラは服の下にペンダントを隠して着けていた。
先日、ペンダントに幻術魔法まで込められていたとバレ、怒ったリラに「姉様も兄様も大嫌い!」と言われ口を聞いてもらえなくなったことで大ショックを受け、三人揃ってリラに土下座し泣いて謝った。
その後、罪滅ぼしとしてウォーター領の復興作業を魔法で手伝ううちに、アルとも少し仲良くなる。
◆エレン
リラの身の回りをお世話する侍女。主人であるリラがどんなに破天荒でも動じない、使用人の鑑。オイリー伯爵家の分家の分家の末端の家出身で、魔法は少ししか使えないが胆力と腕っぷしが強い。
◆◇◆
お読み頂き、ありがとうございました!
今作はいかがでしたでしょうか。「リラの花」がライラックを指しているとご存知の方には、最初からバレバレだったでしょうが、ご存知で無い方にはリラの正体でビックリしていだたけたかも?
もし面白いと思っていただけたなら、↓の感想の☆を★に塗り替えてくださると次回作の励みになります。よろしくお願いします!












