08-04
気付くと安萄は宿泊していた宿のベッドで目覚めた。
ぼやけた視界とちぐはぐな記憶に軽い頭痛を感じながら、カウンターと最低限わかるような申し訳程度の受付に行き、宿の主人に話しかけると元々そういう表情なのか、それを除いても何が嬉しいのかニコニコとした顔の主人は細い糸のような瞼の大きさを変えずに答えた。
「お客さん、体大丈夫?頭痛くない?」
確かに頭痛のある彼が短く返事をすると、
「あのお酒は強いからね。でも平気平気、頭が痛く無くなったら元気元気。もう全然収まりつかないよ」
まだ正常に頭が働いていない安萄は、ちょっと何を言っているのかわからなかったので「はぁ」と、言って流す。自分はガイドと一緒に森に行ったが、そのあとの記憶がはっきりしないのでその事を訪ねると主人は一瞬間を置き、次にはケタケタと笑い出した。
「何言ってるの、お酒飲んでひっくり返って昨日はずっと寝てたよ。おぼえてない?」
「え、寝てた?」
思考は確かに鈍いが断片的ながらガイドの女性と森に行った記憶は残っている。
しかしその事を言っても、再び笑いで軽くあしらわれてしまった。
「森って?大きな木?何それ?ここジャングル、木ならそこらにいっぱいだよ。まだ寝ぼけてる?」
そんなはずはないと口を開こうとしたが直ぐ様反射的に手で口を塞いだ。
「う……気持ち、悪い」
「ほらーまだ大丈夫じゃない、ここダメ、あっちあっち、トイレトイレ」
大袈裟に飛び上がり、小柄な見た目とは裏腹な力で強引に押され、安萄は薄い板きれの扉の向こうへと追いやられた。
「お水持ってくるから全部だしちゃってね」
気分の悪さと主人の声のボリュームがダイレクトに頭に響き、安萄は微かな呻き声のあと沈黙した。
主人が自身の頭と同じくらいの大きさの木のバケツに水を汲みに行こうとした時、奥の客室から誰かが出てくるのに気づいた。
「やぁやぁお客さん、昨日はよく眠れた?今日はどうするの?観光ならガイド呼んでくるよ?」
昼間の明るい内は電気を消している、大して広くもない宿の通路の陰りからスッっと顔を覗かせるように現れたガスマスクを被った人物に主人が問いかける。
「いえ、今日は市場の方へ足を向けてみようかと。お気遣い感謝します」
暑い地域には似つかわしくない白いレザーのハットと、これまた同色の革のジャケット。もちろん蚊や蜂、蛭といった虫や毒蛇の類もいるので現地の人間は半袖短パンと慣れた恰好であれど、観光客であれば極力肌を出さない服装といった用心も納得できる。それにしてもこの客の恰好は大げさを通り越して珍妙だと主人は思った。
「帰りは少し遅くなるかもしれませんので夕食は外で済ませてきます」
軽く会釈し、その人物は出口へと歩いて行く。
「時にご主人、私の姿が見えていますか?」
半分程振り返り問いかけたが、当の本人は「何してたっけ?そうそうお水お水」と、弾かれるように厨房へと入って行っていった。
それをさして気にする様子もなく、むしろそれが通常と言わんばかりにガスマスクの人物は向き直り外へと出た。
「やはりこちらでは能力の効果にも制限があるようですね。大袈裟に動いて要らぬ横やりを入れられるのも不本意ですので、さして問題ではありませんが普段干渉されないのに慣れているためか、ああ言った騒がしいのは些か、いえだいぶ耳障りですね」
呟きながらジャケットのポケットからチェーンの付いた懐中時計のような物を取り出す。
「未だ沈黙、まだしばらくは役に立ちそうもありませんね」
再びそれをポケットへと戻すと、足音も立てずに歩を進め、人ごみの中に紛れ、やがて陽炎のようにその姿はぼやけ消えていった。




