02-01
「さぁ今日も頑張りますか~」
まだ昼には少し早い時間。いや、実際こちらの世界には時計が存在しないので正確な時間はわからないが太陽の位置が真上に来たらここも少し慌しくなる。
それが食事処であれば自分が元居た世界での「昼時」と認識して相違ないだろう。
安萄 流衣弥は一人呟きながら賑わうランチタイムに備えて食器などを出していた。
「あの人たちが来たのが二週間くらい前だから私の方は三週間?我ながらすんなり受け入れて順応してるわ」
歳は二十代半ば、
「二十三よ。あと漢字だとなんかゴツくない?リイベで良いわよ」
失礼、大学を中退し演劇の劇団に入りアルバイトをしつつ夢に向かって邁進していた彼女だが気づけばこの異世界へといた。
身長は160cm半ば、日々の稽古の成果が見て取れる細身ながらもしっかりした体つき。
髪は元々地毛ではあるが染色しているのかと思えるほどの明るい栗毛色が肩の辺りまであるのを縛ってポニーテールにしている。
肌は軽く陽に焼け「健康的」といった言葉が良く似合いそうだ。
服装は着てきたTシャツは穴やほつれが目立ってきたので、今は現地の素材で仕立てたものを着ているがその上からデニムのショートジャケットと下はワイドパンツを穿いている。
瞬きをして、普段見慣れた景色から一変。彼女がいたのは自分から見ればどこかの外国のような田舎町。
最初こそ戸惑いはしたが順応は早く、お話の世界にいる二足歩行の服を着た喋る動物といった代表的な住人達を見て、知性はあるものと判断したのでコミュニケーションを試み、あっさり言葉と話が通じたことに驚いた。
「私みたいな迷い人って結構頻繁に来るらしいからそれを保護、送還しに来た……そのなんだっけ、管理局……だったかしら。この地域はその人の管轄で、まぁ上手くやっていくためにいろいろ入れ知恵してたからなんだとか」
本来であればリイベのように迷い込んだ人間が長い期間異世界に滞在できるケースは珍しい。
それに加え、今まで管理局が動かなかったのは管理局のシステムに感知されなかったからである。
しかし急に異変、それも極めて危険レベルの高い対象と認定されたため、主が調査と保護のため派遣されたのである。
簡単にこの「異世界」の事を説明すると、文明のレベルとしては水車や風車はあれど電気を起こすまでには至っていないがこれはこの世界の住人が電の存在は知っていてもそれを用いる必要性を感じていないからである。
主達が暮らしている世界と幾つか違い、人以外の全ての生物が人と同じように進化していることであり、中にはその枠を超えた妖精やドラゴンといった存在もある。
設備を用いて発電等を行う必要性を感じていない要因の一つとして、いわゆる「魔法」と呼ばれるものの存在が起因している。
リイベもこちらに来て最初に自分の持っている携帯端末を確認したが、電気の文化が無いこの世界では「電波」などという存在は自分の世界でいうところの魔法に等しかった。
「どうせなら私も魔法使えるようになってれば良いのに。電話通じなくなってるだけこっちが損してるじゃない」
端末の画面を睨んでいても圏外の表示は変わらず、見ず知らずの世界に来ておそらく最初に縋りそうな存在、それが役に立たないとわかると悲観的になりそうだがリイベは早々に区切りをつけて自身の置かれている立場を確認した。
「服着て歩いてるから一応言葉は話せると思ってジェスチャー交えて『ワタシ、マヨイマシタ』とかフル自分の国の言葉で話しちゃったら向こうは流暢に喋るしさ。私限りなく頭の悪い子みたいよね、恥ずかし」
その後しばらくすれば迎えが来るはずだからと現在滞在中の宿に案内されて一安心と思いきや、一日経ってもそれは来なかった。
それから何日かしても状況は変わらず、だいぶ遅蒔きながら滞在が一週間になろうかという頃に不安と恐怖がリイベの中に広がっていった。
「本当は最初に話した人から怪しむべきよね。誘拐なんて外国では当たり前だから旅行の時は特に気をつけろって友達が言ってたのすっかり忘れてたわ」
一度そう考えてしまうと全ての親切が信じられなくなってきた。
いつも笑顔の宿屋の女主人、実は裏でリイベを競売にかけ高値で売ろうとしているのかもしれない。
この料理には毒が。(そもそも食材すら疑っていなかった)
まさかここに閉じ込めておいて太らせてから食べるのか。(だが部屋はおろか入り口にも施錠はされておらず自由に外出はできた)
様々な思考が渦巻き、セオリーというわけではないが人気の少ないであろう夜中にこれまたお約束通り、二階の窓から切ったシーツをロープ代わりにして降りる。町と外を区切っているであろう気持ちばかりの番人もいない門(田舎の無人駅にある改札の方が余程立派に見える)をそそくさと通ろうとすると最初に話しかけた犬の頭をした住人に声をかけられた。
怯えながら精一杯の虚勢を張っているリイベを落ち着かせようとゆっくり笑顔で近づいてくる姿勢が逆に不安を煽り、耐えきれずに彼女は近くに落ちていた拳程度の石を投げつけた。
だがその住人は驚く素振りも見せず、軽く「おっと」と言いながらいとも容易く石をキャッチして門の方へと放った。すると門を通り過ぎようとした石は凄まじい閃光と破裂音、雷が落ちたような衝撃と共に灰となって空に舞い上がった。
住人は尻もちをついて軽い放心状態のリイベにそれ以上近づかず、現状の説明をするがそれは朗報ではなかった。
聞いた話をリイベなり解釈すると、この町は元居た世界でいうところの大使館に当たる存在らしい。
ただ、迷い込んだ人を迎えがくるまで保護し不自由ないよう支援はするが、問題は迎えがいつ来るかもわからないことに加え、そもそも連絡手段がないとのこと。
大抵は一日と経たず来ていたので住人も今回はやけに遅いと少し気にかけていたところ、宿屋の女主人が徐々にリイベの不安が募っていることを周りに伝達していたため実は早い段階から町の住人達は昼夜交代で見守っていたのである。
だがその話を聞いてもリイベは半信半疑だったのでその「迎え」の詳細を聞くと、驚くことに誰もその事を上手く説明できなかった。
そもそも自分たちが生まれた時からの言い伝えのようにどの家庭にも「迎え」に関するルールのようなものが目立つところに貼ってあるらしく、
・この町に突然迷い込んで来た者には親切に、親身に、友好的に接すること。
・奇妙な服装をし、体格は似たようなものだが自分たちより遥かに非力だということを前提に決して乱暴はしないこと。
・決して町の外へは出さないこと。
他にもいくつかあるが一般の家にはとりあえず優しく見守るようにとのお達しでそのほか商店や宿、食事処等にはまた別にマニュアルのような物が配布されているらしく、無一文のリイベが何不自由なく過ごせていたのはこれのお陰であった。
しかしそれでも自分の元居た場所に帰れないという不安はストレスとなり、彼女に行動を起こさせたわけである。そもそも住人たちがいくら代々からの言い伝えのようなものとはいえ、馬鹿正直にそれを行っていることにも疑問が残った。
「ま、単純にここの人達が純粋だったってだけなんだけど」
結局その夜は興奮気味のリイベにこれ以上の理解は得られない決め、住人により強制的に眠らせられ(後で魔法と聞かされた)、翌日改めて町の代表者数名と話し合い、それを聞いても納得するにまでは足らなかったが最終的に「証拠は無いけれど信じてもらうしかない」という回答にリイベの方も「酷いことしたり食べられたり殺したりするならとっくにされてるか」と、自分に言い聞かせて一応の警戒心は持って行動しようと何とか飲み込んだ。
その後は徐々に観光気分も薄れていき、ただただ日々の暇と向き合った。
どこに行っても基本顔パスなので店頭に並んでいるものが欲しければ一言いうだけでもらえたがもらえる物には制限があり、住人が体に影響を及ぼすと判断した物はもらえなかった。
これにも理由があり、この町を見た限りではリイベのいた世界のように排気ガスを出す車もいなければ、何か自然を汚染するような施設なども無い。いわばリイベからすれば大昔過ぎて文字通りすべてが純粋なので何も知らずにそこら辺の木に成っている実でも食べようものなら、リイベにしてみれば「100%の純水」を飲むに等しい危険があると考えてのことだ。
他には衣服に関してもパッチテストをして、アレルギーが出るようなものは駄目だったり、一日何時間陽の光に当たっても大丈夫かとか、ここの住人にとっての薬がどの程度まで効くのかなど、気づけばリイベが長く滞在すると踏んだ住人たちに軽く実験台にされていた。
「別に酷いことされたわけでもないし、お陰でこっちの食べ物にも順応できたんだから結果オーライでしょ。でもな~、簡単な魔法ぐらいは使える様になりたいんだけどな~」
一応図書館と呼ばれる少し大きめの家屋に魔法や魔導、魔術など科学の世界に居た人間としては映画などでしかお目にかかれない書物が自由に閲覧できることから、日々暇を持て余しているのも勿体ないし、興味が無いと言えば嘘になるので多少心躍らせ本を開くとこれも不思議なことにリイベの世界の言葉で書かれていた。だが読めるのと理解できるというのは別物で、簡単そうなものをとタイトルで選んだ「赤ちゃんから始める初期魔法」の最初の項目にある「呼吸法」ですらリイベには得とくすることはできなかった。
他にもメジャーな錬金術、不老不死、アカシックレコードなどリイベの世界ではオカルトやスピリチュアルと呼ばれる類の書物が数多くあったが、どれをとってもリイベが理解し得るものではなかったので「本当は魔法とかも夢物語の創作物なのでは?」と外で遊んでいる子供達に魔法の類が使えるか尋ねたところ、返事の代わりに一人は指先に昼間でもはっきりわかるほどの火の玉を作り、また違う子供は適当な葉っぱを拾って両手で軽く握ってから開くと青々とした虫が羽を広げて飛んで行った。
子供でもできるのだからと一応諦めずに続けてはいるが成果を出すまでには至っていないのが現状である。
「せめて種火程度の小さな火でも出せれば調理も楽になるんだけど」
「あら、フォロムでは不服でして?」
リイベの独り言に疑問符を投げかけながら一名の妖精が飛んで来た。
「そうは言ってないでしょ。あなたがいてくれるのは凄い助かってるわよ。ただこっちの世界ってガスコンロとかじゃないから鍋一つ沸かすにしたってあなたにお願いしてだから少し手間というかなんか毎回悪いなって思ってさ」
「そのためのレンタルピスシーでして。フォロムの属性並びに能力をご所望でしたらいつでも使い魔として契約させればよろしいかと。フォロムとしてもそうすれば晴れて主人持ちとして格段に能力の飛躍が望めるのでして、リイベが主人になってくれるなら悪くないかと……人柄としては」
「ごめんね。非力で無力な人間で」
「あぁ!そんな嫌味で言ったわけではないのでして。誰にでも得意不得意はありましてほら、フォロムはリイベの世界の話聞くの好きで……科学、でしたっけ?理解はできないですが」
慌てて両手を振りながら話している、フォロムと呼ばれた大きさにすればリイベの拳大程の妖精は町の住人からお世話役として彼女の元に派遣されていた。
蕾が開く途中のような髪型は色白な顔から境目なく、徐々に鮮やかな濃いピンク色へとグラデーションしていておそらく服と呼ばれる装いは葉を思わせるデザインでいかにも森の妖精といったイメージだ。
「別にいじけたりしてないわよ。確かにあなたと契約すればいろいろ便利になるんだろうけどさ、その契約の仕方ってのが……ねぇ」
そう言って用意していた食器からフォロムの方へと目を移すと、皿に横たわり上目遣いで期待を込めてリイベを見つめる瞳が輝いていた。
「いや、だからね、その取り込み方が躊躇するのよ」
「魔術も使えない、召喚の知識も無いとしたらこれが一番原始的かつ確実な方法、というよりこれしかないのでして。そもそも話を聞く限り、食物連鎖はこちらもあちらも共通の摂理でして。フォロムが良いと言ってるのに何を迷う必要があるのでして?」
「だって丸呑みしなきゃダメなのよね?絶対途中で戻しちゃうわよ」
「咀嚼したらフォルムはただの『お食事』でしかないのでしてそれでは意味はなく。あ、お味はお聞かせくださいでして」
「食べた後にどうやって聞かせるのよ。とりあえず私は諦め悪く、まぁほとんど投げてるけど何とか自力で魔法ってのを使えるよう努力してみるわよ。あ、お鍋沸かしたいから火つけて」
「ヒト種は短命なのに勤勉でして。どうしてもっと効率的かつ合理的で楽して楽しく生きようとしないのでして」
ぼやきながらフォロムは両手を近づけ、軽く目を閉じるとその手の間に赤く熱を帯びた球体が現れる。それを煉瓦で作った台と鍋の間に入れてしばらくすると底から気泡が浮き上がり鍋の中のスープが煮だってきた。
「不思議なんだけどあなたって森……木とか自然の妖精よね?火とかって天敵とか弱点なんじゃないの?」
「これはお陽さまのエネルギーをお借りしていまして。フォロム達からすれば光合成と変わらないのでして、でも直接的な火はもちろん苦手。さ~本日のスープのお味は」
「熱でも似て非なるものなのか扱い方の違いなのかって感じね。あ、足りなかったら適当に味足してね」
それから少しして町の住人が数名店に入ってきたのを皮切りに十分も経つと席はほぼ満席になっていた。
元よりリイベの様に外(異世界)からの来訪者以外は利用者のいないこの宿には使いもしない部屋がいくつもあった。
今賑わっているここも、リイベの世界で言えばファミレス並みの広さがあるが、無駄に大きい宿泊者用の食堂であり、暇に飽きたリイベが自分の食事を作ろうと利用し始めたのが切っ掛けである。
宿は女主人がいつ来るかも知れない客のために、何故だか数だけは用意されている客室を一日一部屋のペースで掃除している程度なので特に何も言われなかった。
宿代の支払い等が無いのもあるが滞在が長く、お客さんとしての意識もすっかりなくなっていたリイベが女主人に聞いて料理を作ったところ絶賛され、噂と匂いにつられて次第に町の住人が訪れるようになり、気づけばほぼ使われていなかった食堂はいまや外に行列を作るほどの繁盛店となっていた。
今では女主人やフォロムが手伝ってくれるが、最初はリイベ一人で切り盛りできる程度の客入りであった。
さすがに町の住人ほぼ全員の好みを聞いて食事を提供するのは時間がかかりすぎるので、いくら住人が文句を言わない(労働の観念がない住人らはほっとけばいくらでも待っている)としてもリイベの方が気にかけ、主人に相談したところ、現在は注文を聞いてから作るのではなく、あらかじめ作っておいた料理を各自が取って行くビュッフェ形式へと落ち着いた。
その他に混んでいて中に入れない住人用に予約制でテイクアウトの弁当を用意したりといった配慮もあり、「リイベ食堂」は本日も盛況である。
「あたしに経営の才能があるってわけでもないけど、毎日これだけの客入りで一人頭を計算したら結構良い儲けよね。それも通貨や賃金っていう物があればの話だけどね」
「リイベの国ではその『お金』というものを得るために労働という行為をするのでしてね。元よりその辺にあるものを使っているだけなのに、どうして対価を支払う必要がありまして?」
第一波の料理提供が終わったので追加用の仕込みと弁当を作りながら二人は話していた。
「ん~、自分が生まれた時から当たり前の様にあった概念、ルールを説明しろって言われるとなんといって良いものかなんだけど……。例えばあたしがあなたに火を起こしてもらったお礼とかなんだけど、それって別にあたしができないことでもないけどあなたの方が効率的にできる。だからあなたに頼んでしてもらったことへの謝礼を形にしたもの……って感じなのかな」
「ありがとうだけではダメでして?」
「あぁいや、双方の対価の価値観が合えば基本はそれで良いんだろうけど……あ、そうそうこっちの世界でも貿易……えっと市場とかで物々交換はしてるでしょ?ここの町には無い物を別の町から持ってくる時に、例えば魚と肉を交換するにしたってそこまでの運搬費とかそれ自体の価値が違うからそれの帳尻を合わせるのに「通貨」「お金」っていう共通の概念があると揉め事が無くて済むっていうかさ」
「お魚もお肉も一つは一つでして。一つに対して一つ以上の価値があるというのがフォロムは理解に苦しむのでして」
「でもお肉の場合は牛(に似た動物)一頭でも切り分けられた一部位でも一つでカウントするでしょ?それと小さい魚一匹とかだと釣り合いとれなくないかな」
「それこそ双方の納得、合意の上での交換でして。向こうが欲しい数を言えばその分のお魚を出すのでして、小柄な種族が自分の家より大きいお肉もらっても食べきれなくて腐らせるだけでして」
「そこは保存食として加工するとかなんとでも……まぁそれで成り立ってるのも根本的な考えが違うというか、たぶんあたしの世界よりはるかに原始的で純粋な部分が発展してる世界だからまかり通ってるのかな」
「いわゆる優しい世界ってやつなんだな」
二人の会話を割って入るような軽い声が飛んで来た。
「あ、来たわね。フォロム、そっちの二人分の包み取って。今日も懲りずに引き渡しの交渉ご苦労様。相変わらずあたしは戻る気無いわよ」
「アンドリューもすっかりこっちが気に入ったんだな。水が合ってるなら問題ないの……おぉ今日は照り焼きさんなんだじょ♪」
「果物を煮込んだ調味料と香辛料合わせた夜な夜な試行錯誤した自信作よ。あとね、その『アンドリュー』って呼びかた全然定着してないからいい加減リイベって呼びなさいよ」
「アンドリューの方がカッコいいんだな。リイベってなかなか覚えにくいの」
「水兵リーベ僕の船って方がよっぽど馴染みあると思うけど」
「何なのそれ?アンドリューは水兵さんで船持ってるの?」
「え?ちょっと、このフレーズ知らないの?」
驚いたリイベは思わず姫とそのすぐ後ろにいる主を見た。主は振り向いた姫に何やら伝えているがその声は聞こえない。
「元素記号?……あ、どっかで聞いたことあるの。水兵リーベ僕の船……サインコサインタンジェントなんだじょ」
「なんでいきなり三角関数になるのよ。それで、数とかあってる?あと明日も来るなら記帳しといてね」
「どっかの珈琲店で聞いた気がしたんだな。……あ、アンドリューいつ頃帰りたくなるの?」
既に包みを解いて少し大きめだが姫がハンバーガーを齧りながら聞くとリイベは腰に手を当てながら答えた。
「食べながら話すのはお行儀悪いわよ。言ったでしょ帰る気無いって」
「こっちで良い人でもいるの?」
「そうでしてリイベ?フォロムの他に契約する相手がいまして?」
「フォロムまで入ってこないでよ。別にそんなんじゃないけど向こうに未練もないし、こっち食堂が軌道に乗って楽しくなってきてるから無理して帰ることもないかなってだけよ」
「こっちでの生活が長くなると帰った時の社会復帰が難しくなるんだな。ただでさえ向こうは就職難なの」
「一気に現実的な事言わないでよ。滞在は三週間くらいかもだけど戻ったら何年も経ってたなんてこと有りえなくもなさそうだし、それでいきなり就活しろって言われたら頭痛くなるわよ」
「あぁそれなら問題ないんだな。初対面の時にも言ったけど基本的にこっちでの滞在期間はノーカンだし、アンドリューが迷い込んだ日くらいに戻ると思うから年齢は来た時のままなの。特殊な体験をして歳も取らずに帰れるんだからお得なんだじょ」
「そうだっけ、最初に説明された時のことも既に記憶から消えかかってるけど、ここのことも忘れちゃうんでしょ?」
「夢みたいなもんなんだな。覚えてたらラッキーくらいと思っとくの。あ、錬金術の知識持って帰って一財産築く気なんだな?残念ながら呼吸も波紋も会得してないアンドリューには高値の花、失敗してホムンクルスすら生み出せないんだじょ」
「別にそんなこと考えてないわよ。ほら、食べるなら席行って食べてよ。いつまでも厨房のカウンターいると後が閊えるでしょ」
「田舎(元居た世界)の話が通じる相手がいなくて寂しいと思ったのに、だいぶ蔑ろな扱いを受けたんだな。……あ、馬面だ!お~い馬面~今日も嘶くんだじょ!」
少し離れた席にいた馬に似た生き物の顔の住人を見つけた姫は弾むような足取りで行ってしまい、主と目が合ったリイベはなんとも言えない間を感じた。
「えっと、初日に会った時に聞いたけどあなたの声は聞こえないんだっけか。お札、だっけ?それを使えば普通に会話できるけどあたしに帰る気がないから交渉も保留にしてるのよね」
主はゆっくりと頷き、指でスープの入った器を指すと続けて二本指を立てた。
「あ、はいはい。今日はダシを変えてみたから良ければ感想をって聞けないか。何か意見とかあったら、あのお姫さんに言っておいてね。あ、熱いから気をつけてよ」
軽く会釈し、主は器を二つ持ち厨房から一番離れたところに「予約」と書かれたプレートの置いてある席へと歩いて行った。
「無口ってわけじゃないのよね、あたしに聞こえないだけで話してはいるのよね。あ、いやそもそもマスクつけてるから口元わからないけど。説明だと通常は影が薄いってわけじゃなくて存在を認識されないらしけど、異世界に来た人はそれが起因であの人の存在を認識することができるんだっけか。けどお札を使わないで会話できる人はほとんどいないとか。あと一番重要なことも言ってたわよね」
そう、主達がリイベに接触した初日に経緯と今後の事も説明していた。
そして異世界に来た人間が長期間滞在できるケースは珍しく、本来ならば早々に帰らなければならないのだが、できる事なら強制送還ではなく本人の意思で帰る気になってもらうのが好ましいとのこと。
一応異世界とを繋ぐ扉は管理局の方で操作し発現させることができるのだが、それには迷い込んだ人物の意思が関係するらしく、早い話がその者が帰りたいと願えば元の世界への扉が現れやすくなるようで『強制送還』の場合は、例をあげると関節技で締め上げる物理的なものから催眠や洗脳の類を用いた方法などがあり、飾り気なく文字通り最近の管理局では極力しない傾向にある。
しかし本来であればイレギュラーなリイベのような存在を一早く帰すはずの立場の人間がそこまで無理強いしてこないので『帰らないと世界がヤバい』的な説明もされたがいまいちピンとこないリイベもまたマイペースに構えている。
だが主達には話していないがリイベは自分の元居た世界の事を少しずつ忘れ始めていた。
「帰らなくても問題ないから、帰りたくない理由……」
「んふぅ~、馬の嘶き~♪」
何かを思い出そうと呟いた時、突然カウンターから顔だけを覗かせた姫にリイベは驚いた。
「な、なによ一人だけご機嫌になっちゃって」
「お腹が満たされたからまた丘の木陰に行ってお昼寝なんだな。あ、アンドリュー、晩ご飯用のお持ち帰りと……今日はそのジェリーのとチョコがのったやつ入れといてほしいの」
姫はカウンターの横に置いてあるカゴに入っている焼き菓子を指して言った。まだ食後のデザートまで手が回せないリイベが日替わりで作り置きしているものだ。
「どうせこっち来て食べるならお持ち帰りにしなくて良いんじゃないの?」
「迷い人の保護と送還だけがお仕事じゃないんだな。お外で色々してるからこっちに食べに来れない時もあるの。これでも妾達は忙しいんだじょ」
「いま、木陰で昼寝って言ってたわよね」
話していると、ひと段落したのか手の空いたフォロムが飛んで来た。
「姫姫~……スパイク様がお越しになるご予定はないのでして?」
「おぉ蝶々、トカゲは狂竜病の予防接種でお留守番なんだな。帰ったら蝶々が会いたがってたって言っとくの」
「フォロムはいつでも準備よろしいとお伝えくださいまして」
「あんなトカゲが好きなんてもの好きさんなんだな」
「姫姫は一緒に住んでらっしゃるのでスパイク様の魅力に気づかないのでして。あぁお会いできるだけで名誉なことですのに、図々しくも取り込んでもらえたらなんて……はぁ~フォロムったらはしたない子なのでして~」
淡い桃色の光と靄を背景に両手を頬に当て身をくねらせ意識が別世界へと行っているフォロム。少しして主がカウンターまで来ると姫は軽快に飛びついた。
「んじゃアンドリュー、蝶々また明日なんだな♪ご馳走様なの~」
姫は会釈をしている主のジャケットをじりじりと昇って行き、肩に座るとリイベ達の方を向き大きく手を振って店を後にした。
「ここ最近はこの流れのくり返しね。さ、山越して片付けが終わったら明日の仕込みね」
すっかり食堂の仕事が板についたリイベ。
しかし何かを考えないように忙しくしているが、それでも拭えない想いが少しづつ蓄積されていることは本人が一番よくわかっている。
それは何か、そう向こうへ戻った時に何かを変えられるヒントやきっかけ、「奇跡」や「魔法」を探しているのかのように。
「あ、主。クッキー入れてもらったから出してほしいんだな。妾チョコのが良いの」
『では私はジェリーの方を……あ、わかりました半分こしましょう。安萄さんもすっかりここの住人になってしまっていますね。影響が無ければ喜ばしいことなのかもしれませんが……』
「アンドリューに言わなくて良いの?」
『時がくれば事が運ぶのは一瞬ですから。本人の意思か私か他意の強制か、いずれもそう長くは続かないかと。
さて姫、食事も済ませたので陽が暮れるまで少し調査に向かおうと考えていますがいかがでしょうか?』
「今回はだいぶ動き回るんだな。妾お夕飯さんまで食休みしたいんだじょ」
『暇に任せてと言うと他の業務が蔑ろに聞こえますが、時間があればいつもより足を延ばして調べておきたいので』
「主、眠いから抱っこ」
『なるべく揺らさないようにはしますが起こしてしまったら申し訳ありません』
「お札足りる?」
『安萄さんの件が優先ですので調査の方はそこそこで切り上げる予定です。おいそれと簡単に終わるものでもありませんし』
「ま、気長になんだな。異世界は広大なんだじょ」
『ではしばしのご辛抱を』
店を出て早々にデザートを平らげて満足した姫を抱えた主はジャケットの胸ポケットから一枚の札を取り出す。
札は眩い光を放ち、次の瞬間、主達の姿はそこには無かった。




