03-02
何故だか、今日はやたらと楽しい。
終業後、約束どおり昼間の女性社員と平野を含め、四人のグループ(男二:女二)は、平野の紹介のBarに来て早くも一時間は経過している。
なんというか、会社を出るときから店に着くまでの道中。入店してからの注文、飲み物の出てくるタイミング。更に言えば、いつもは気にしないお通しまで。大袈裟な言い方をすれば、それら全ての流れ、段取りが完璧だと平野は思った。
騒がし過ぎず、店の雰囲気を壊さない程度の賑やかさ。
部署での飲み会は、人数が多いのでなかなか個人個人とゆっくり話すことは難しい。
たまにはこういうのも良いもんだなと、乾杯から少しペースが早かったので、抑えるためにウイスキーの氷を少しずつ溶かしながら飲んでいる。
「......で、平野課長はぁ~......」
「......この前の試合ではもう少しで......」
「......あ、でも来月から......、なんですよね......」
(.....楽しい......。だけど、)
「あ、あのさ。ごめん、俺酔っちゃったのかな、え~っと君、名前なんだっけ?」
「やだぁ~、課長ったらぁ。......ですよぉ」
「あぁ、そうだった。ちょっと酒が濃いのかな~。ははは......」
(やっぱりだ。じゃあ次は、)
「今日はマスター休みなんだね。そういや、俺は見るの始めてだと思うけど、名前なんて言うの?」
今度はカウンターにいるバーテンダーに聞いてみる。
いつもは中年だが、髪の後退も見られないオールバックのスタイリッシュな髪型を乱さないマスター。だが、今日は替わり、細身で長身の嫌味もなく、少し染めてあるのか明るめだが自然な茶髪を首元まで伸ばしてる今風の、いかにも女性受けしそうな青年だ。
それほど頻繁ではないが、それでもここ数年はこの店に通っていて、マスターが不在の時に出くわしたことはなかった。
「......ですよ。チェイサーお出ししますか?」
(まただ。これも引っかかる。いや、バーテンダーの言い方が気に入らないとかじゃない)
......そう、何一つ頭に入ってこないのだ。
単純に「楽しい」というイメージだけ頭に流し込まれてるようで、まるで内容が無い。それ故、数秒前に声を上げて笑ったのに、何が楽しいのかも思い出せない。
会社を出てから、今現在までの記憶すら思い出せない。
(俺は何が楽しくて笑い、いま聞いた部下とバーテンダーの名前はなんだ?)
(......部下?)
(ちょっとまて、本当に俺の部署の部下か?)
自分の部署は二十人程度。今年も数名は新入社員が配属されている。一~二週間程度ならまだしも、自分の管理する部下だし、新入社員であっても、既に三ヵ月は経過している。中途採用というわけでもないし、それこそ顔も名前もわからない事などまず有りえない。
今はこの楽しい時間を壊すことが、とてもいけないことのように思える。
(……だけど、)
「なぁ、君らで入社何年目くらいだっけ?」
「えっと、僕は四年くらいですね」
「あたし二年目です」
「えっとぉ五年......、ですかねぇ。どうしたんですか課長?」
「うちの部署って、なんて名前だっけ?」
「えっと......。あ~、僕も酔ってるのかな、ど忘れ~」
「じゃあ、うちの会社が扱ってる商材は?」
「......なんですか?いきなり。お酒の席で仕事の話なんて」
「もっと簡単な事を聞こうか。会社の名前は?」
さっきまでの楽しい雰囲気が既に無くなっていることも、酔っていたはずの自分の頭が恐ろしいくらい冴えていることを自覚した。
店内に客が自分達しかいない違和感。いつもは控えめな音量で流れているジャズや、それこそ誰一人として物音一つ立てずに止まったような空間、無音とすら思える静けさ、すべてがおかしいと感じる。
沈黙に耐えられなかった平野は、手に持っていたグラスを口に運んだが、
「なんだこれ。さっきまで飲んでいたものじゃない?」
特別珍しいわけでも、値が張るほど年代が古い物でもない、そこそこなウイスキーのはずだがその味は炭を噛んだように埃臭く、砂が舌に絡みつくような後味の悪いものだった。
「もう酔いが覚めるとは、よっぽど強い魂ですのねぇ」
その声にハっとして顔を上げると、そこには鮮やかだが気品のある色使い。ふわりと軽く、それでいて絹のようにしっとりとした印象の生地。着物ではあるのだが、どことなく現代的な仕立てをしている服装の女性が立っていた。
平野はこの女性にどこかで会ったことがあると直感した。だが、いつ、何処でかが思い出せない。
「そもそもぉ、このお酒飲んでまともでいられる時点で、ここらへんの人ではないんですよねぇ」
女性が持っている酒瓶を平野の前に差し出すと、中には作り物なのか、サイズがおかしいが確かに人の頭蓋骨がいくつも入っていた。
「な!?」
思わず尻餅をついて後ずさるが、すぐにバーカウンターが背中に当たる。
「あ、怯えずともぉ、玉藻ちゃん達って悪鬼羅刹とかじゃないですよぉ。異類異形の類かもですがぁ、それでも悪い狐狸妖怪ではないので。とりあえず落ち着いてお話しません?」
何がなんだかわからないが、テレビのドッキリか?などと考えるほどに、変な落ち着きはある平野に玉藻と名乗った女性はコップを差し出した。
中には、恐らく水だろうと思われる透明な液体が入っていた。
「こちらは大丈夫ですよぉ。お話は酔いをちゃんと覚ましてからですぅ」
いったい何の話をしようと言うのかはわからないが、とりあえず危害を加える気はなさそうだと思い、平野はコップを受け取る。意味があるかはわからないが、少し舐めてみたり、匂いを嗅いでみたあと、恐らく普通の水だろうと一口含む。すると、商店街で玉藻を見た時のことを思い出した。
「この水は......」
それは倒れていた平野が飲ませてもらった、異常なほど美味い水であった。
気持ちを抑えられず、また一気に水を飲み干す。あの時、自分の身に起こったことも思い出したが、
「今度は溺れないから大丈夫ですよぉ......。その代わりぃ」
体の異変にはすぐに気づいた。と、いうより体が動かないのである。
「いくつか質問させていただきますねぇ。お名前は?」
(何を今更、さっき自分でも平野課長って呼んでたじゃないか)
「......平野......広......広......?平......たい......ら......」
(どうした?自分の名前じゃないか。「たいら」じゃなくて「ひらの」だろ?それに下の名前は広......ひろ......?)
「では次ですぅ。自分が覚えている限りでぇ、一番幼い時の記憶ってお答えできますぅ?」
(今度はなんだ?幼い記憶......、子供のころ両親に遊んでもらって......。遊んだ?誰と?両親......誰だ?)
「勤めている会社の名前は?部署は?扱ってる商材は?今お住まいの住所は?何か一つでも、ご自身のことをお答えできることがございますぅ?」
(わからない......何も自分のことが答えられない......)
「ではですねぇ......、玉藻ちゃんのこと覚えてらっしゃいますかぁ?」
(......それは覚えている。先日、俺が倒れているところを介抱してくれた......)
(......違う、もっと前、遠い昔......)
(......知っている。俺はこの女性を知っている)
(......そうだ!)
「お前は」
「あなたは」
「俺が」
「私を」
「「殺した」」




