第5話 冥王の契約の印
宣告を残して大広間を去ったその夜、私は侯爵邸の奥の間にひとり腰を下ろしていた。
蝋燭の火は揺らぎ、窓の外では王都のざわめきが絶えない。処刑されたはずの令嬢が蘇り、魔王の花嫁となった――その噂は瞬く間に広がっていた。
召使いが怯えた目で私を見る。彼らの視線に混じるのは恐怖と、わずかな畏敬。
人は理解できぬものに怯えながら、同時に憧れる。
(……狙い通り。まずは噂が根を張ればいい)
私は短剣を取り出し、机に置いた。冥界から授かった黒い刃。その映り込みに、アルヴィンの瞳が浮かぶ。
『よくやったな、レイナ』
「お褒めにあずかり光栄ですわ、アルヴィン」
呼びかけると、部屋の鏡がふっと揺らぎ、彼の影が現れる。
深い黒の外套、冷徹な微笑。けれど、その視線だけは優しさを帯びて私を射抜く。
『だが、リヒトはそう簡単に手を引かぬ。お前を魔に堕ちた存在として断罪し直そうと、王都の評議会に圧力をかけるだろう』
「分かっています。けれど、その前に……あなたの力をもっと」
私は自分の胸元に手を当てた。
鼓動は確かに生者のそれなのに、その奥で鎖が静かに震えている。
『力を望むか』
「ええ。復讐のために。そして、生き直すために」
◇
アルヴィンは片手を差し伸べた。
その指先が空をなぞると、黒い紋が広がり、床に複雑な魔法陣が浮かぶ。燭台の火が消え、部屋は闇に閉ざされる。
『冥王の婚約者にふさわしい証を授けよう。これを受ければ、お前は冥と人を行き来し、真実を暴く“契約の印”を得る』
私は膝を折り、その中央に立つ。
影が背に触れた瞬間、焼けるような冷たさが胸を走り、肩から腕へ、脚へと巡った。
「……っ」
痛みではない。魂そのものを塗り替えるような感覚。
息が詰まりそうになったそのとき、アルヴィンの低い声が覆いかぶさった。
『耐えろ、レイナ。お前は強い。お前の矜持は誰にも折れない』
その言葉に支えられ、私は奥歯を噛みしめた。
やがて光が弾け、胸元に黒い薔薇の紋が浮かぶ。血のように紅い雫が中央で煌めいた。
『契約は果たされた。これからお前が真実を暴くとき、この印が刃となり、鎖となり、お前を守るだろう』
私は深く息を吸い、姿勢を正した。
背筋に、これまで感じたことのない力が宿っている。
「ありがとう、アルヴィン。これで……私は誰にも負けない」
『いや――忘れるな。お前がひとりで戦う必要はない。私が傍らにいる』
その声音は冷酷に聞こえるはずなのに、不思議と温かかった。
◇
その夜遅く、王都の酒場では「処刑令嬢が魔王と契約を結んだ」という噂が人々の口に上り、広がっていった。
恐怖はやがて畏敬に変わり、「もしかすると彼女こそ腐敗した王家を裁く存在なのでは」という囁きさえ生まれ始めていた。
そして、リヒトは評議会に向けて密書を送り、王太子は寝台の上で震えるばかり。
一方で、ミリエルは夢にうなされ、何度も「姉さまが来る」と叫んでいたという。
――嵐の前夜は、もう始まっている。
私は胸元の印を撫で、決意を固めた。
復讐の序章は終わり、次は行動の番だ。