第3話 黒い鎖が囁くとき
大広間を包むざわめきは、刃物のように鋭かった。
「死んだはずの女が歩いている」という事実が、群衆の常識を切り裂く。侍女たちが口を押さえ、兵士たちが槍を構えかけては戸惑い、老貴族たちが交わす囁きが波のように重なる。
その渦中で、王太子エドワードの顔からは血の色が失せていた。
彼は震える唇で、ようやく言葉を吐く。
「……幻覚だ。処刑は確かに行われた。首は落ちたはず……!」
その隣で、妹ミリエルが甲高い声を上げる。
「そ、そうですわ! 姉さまは悪霊に憑かれたに違いありません! どうか早く討ち取りを!」
必死の言葉が、かえって恐怖を曝け出す。
私は裾を翻し、ゆったりと二人へ歩み寄った。
「悪霊か人か──それを見極めるのは殿下ご自身ではなくて?」
その一言に、王太子は息を呑んだ。
彼の目が私の顔を直視し、瞬間、迷いの色が浮かんだ。きっと思い出したのだ。断頭台の上で私が言った「顔を見ていてください」と。
◇
胸の奥で、黒い熱がざわめいた。
――呼べ、と囁く声。アルヴィンの声。
私は周囲に悟られぬよう指先を握り、心の内で彼の名を呼んだ。
(アルヴィン)
刹那、冷たい炎が背骨を駆け抜ける。
視界の端に黒い鎖が現れ、空気を切り裂くように揺れた。誰もそれを見てはいない。けれど、その威圧は広間にいるすべての人の心臓を握り潰す。
「ひっ……!」
ミリエルが尻餅をつく。王太子でさえ膝を折りかけた。
私はゆっくりと彼らの目の前に立ち、囁く。
「これが“冥王の婚約者”に与えられた証。私を処刑しても、この鎖は決して断てなかった」
鎖が王太子の足元に落ちると、石床にひびが走った。衝撃はないのに、彼の呼吸は荒く乱れ、冷や汗が頬を伝う。
「殿下……あなたの罪は、まだ始まったばかりです」
◇
群衆の中から、ひときわ強い声が飛んだ。
「この女を捕らえよ! 魔に堕ちた存在を野放しにするな!」
軍務卿リヒト――父の政敵であり、古くから王家に仕える男だ。
彼の号令とともに数人の兵が動きかけたが、鎖が床を叩くと、一斉に足を止めた。
誰もが分かっていた。これはただの幻覚ではない。本物の“力”だと。
私は振り返り、リヒトに目を据えた。
「……なるほど。糸を引いていたのは、あなたですか」
一瞬、彼の眉がぴくりと動いた。
そのわずかな反応を、私は見逃さなかった。
(やはり……クララを操ったのは彼。王太子を利用し、ミリエルを駒にしたのも)
胸に熱い決意が走る。
復讐の標は、いま確かに姿を現した。
◇
そのとき、鏡のように揺らめく空気が背後に生まれ、アルヴィンの声が心臓を打った。
『いいぞ、レイナ。仮面を剥いだなら、次は“証”を突きつけろ。鎖は刃に変わる』
私は微笑み、リヒトをまっすぐに指さした。
「覚悟なさい。真実は必ず、あなたを喰らう」
黒い鎖が鋭い刃に変わり、床を走った。
貴族たちの悲鳴が木霊し、王国の均衡が、静かに、けれど確実に崩れ始めた。