第2話 鏡の向こうに咲く火
クララの瞳は、昔と同じ灰色をしていた。けれどそこに宿る光は、私が知っていた忠義の色ではない。
恐怖を隠すための強がりか、それとも背後に潜む者を信じ切った確信か──その境界を見極めるのは、難しい。
「……本当に、生きていらっしゃるのですね。処刑台で首を落とされたはずなのに」
「ええ。誰のおかげかしら」
私の声は、鏡に吸い込まれるように低く落ちた。クララは小さく肩を震わせたが、すぐにいつもの微笑を取り繕う。
「それを知っているのは、レイナ様ご自身でしょう? 冥界から戻ったのか、幻のようなものか。わたくしには判断できません」
「冥界」
その一言を口にした瞬間、私の背を走る冷たい感覚に、銀の火がふっと灯った。アルヴィンが、こちらを見ている。見張っている。支えている。
「判断できないなら、従いなさい。昔のように」
クララはわずかに口を開いたが、すぐに閉じ、頭を下げた。
だがその掌は、スカートの端で小さく震えている。忠義からの震えではなく、裏切りが露見するかもしれない恐怖の震え。
──やはり、彼女は知っている。私を断罪へと導いた“黒幕”を。
◇
その夜、私は侯爵邸の自室に忍び戻った。
誰もいないはずの部屋。けれど机の上には、まだ書きかけの手紙と、香を焚いた小瓶がそのまま置かれていた。父が片付けさせなかったのだろう。
父の無言の愛情に胸がちくりと痛む。私は椅子に座り、机の鏡を覗いた。
「……アルヴィン」
名を呼ぶと、鏡の奥に黒い波紋が広がり、彼の姿が浮かんだ。
闇に溶けるような外套、銀の火を宿した瞳。距離は遠いのに、視線は真っ直ぐ心臓を掴んでくる。
『戻ったな』
「ええ。けれど、すぐに動くわけにはいきません。監視の目が多すぎる」
『構わん。獲物を狩るには、焦るな。──お前が気づいたものは?』
「クララ。彼女は命じられて動いただけ。裏にもっと大きな影がある」
『王太子か』
「……違う。殿下は利用された。弱さを突かれただけ。彼を操った誰かがいる」
アルヴィンは少し目を細めた。黒曜石に裂け目が入ったような光。
『ならば、そいつを見つけろ。復讐は根を断たねば意味がない』
「はい」
私は頷いた。
すると、鏡の奥から熱が流れ込み、胸の奥に淡い炎が灯る。アルヴィンの“契約の証”だ。
その温もりに、私は言葉を付け足した。
「……けれど、殿下も裁きます。私を断罪した責任は、誰に操られていようと彼自身の罪。そこは譲れません」
『それでいい。弱さを裁くのもまた正義だ』
魔王の声は冷酷なのに、私の決意を受け止めてくれる温度を持っていた。
初めてだ。誰かにこうして、私の「怒り」を肯定してもらえたのは。
◇
翌朝。
私は侍女の手を借りて髪を整え、あえて人目につく王城の回廊を歩いた。処刑されたはずの令嬢が生きている──その噂は、炎のように広がるだろう。
驚愕、嘲笑、恐怖。どんな反応でも構わない。沈黙は、最も都合の悪い者たちの仮面を剥ぐ。
「……お姉様?」
振り返った先にいたのは、ミリエルだった。
蜂蜜色の髪が朝日にきらめき、隣には護衛に守られた王太子。
二人の顔に走った動揺は、隠しようがない。
「ごきげんよう、殿下。ミリエル。わたくし、死んだはずですが──こうして戻ってまいりました」
人々の視線が一斉に集まる。
私は裾を優雅に広げ、舞踏会のように一礼した。
「次は、あなた方の番ですわね。真実に裁かれるのは」
王太子の顔から血の気が引く。
ミリエルの指先が、恐怖に耐えるように震えた。
その様子を、私は冷ややかに見つめながら、胸の奥で黒い炎を燃やした。
──冥界から戻った令嬢の復讐劇は、今まさに幕を開けた。