第1話 断頭台の向こう側で、あなたに会う
王城の大広間は、真冬の湖面みたいに冷たかった。
白い石床に響くのは靴音と、飾り立てられた貴族たちのくぐもった息。私の名前が呼ばれるたび、誰かが扇をたたむ乾いた音が続いた。
「侯爵令嬢レイナ・リースフェルト。──お前はこの王国の秩序を乱し、王太子殿下のご信頼を悪用し、無辜の令嬢を陥れた罪によって断罪される」
玉座に立つ王太子の声は、よく知っているはずの音だった。けれど今日のそれには、かつて私に向けられた優しさの残り香すらなかった。
彼の隣には、蜂蜜色の髪をふわりと揺らす子爵令嬢──私の異母妹ミリエルが、綺麗に泣くための顔で俯いている。
「……弁明を」
尋ねられる前に口を開いたのは、喉が自然にした選択だった。
私はゆっくりと膝を折り、裾を整える。最後まで美しくありたいという見栄が、たぶん私の唯一の矜持だ。
「殿下。わたくしは、ミリエル様を害しておりません。筆跡も証言も捏造です。証の封蝋は、王城の印章庫から盗まれたもの。管理者の帳簿は書き換えられています」
「黙れ」
短い言葉が、刃物みたいに床に刺さった。
「これ以上、恥の上塗りをするつもりか。ミリエルが受けた屈辱は、ここにいる者すべてが見ている。お前は嫉妬に狂い、彼女の舞踏会の席札を入れ替え、毒を盛ろうとした」
それは、用意された台本の台詞。
毒の小瓶を運んだのは、わたくし付きの女中──幼い頃から身の回りを世話してくれたクララだ。彼女の震える手と、背後で「良い子ね」と囁いた影を私は知っている。だがその名をここで告げたところで、糸の先にいる者まで手が届くはずもない。
私は視線を上げ、王太子の瞳を真正面から見た。
そこにあるのは、王になる男の冷たい計算と、幼い正義感の壊れた残骸。
「──殿下、最後にひとつだけお願いを」
「……言ってみろ」
「処刑のとき、わたくしの顔を見ていてください。嘘をつく顔に見えるかどうか、殿下の目で確かめて」
さざ波のようなざわめきが広間を走る。王太子はほんのわずかに目を細め、それでも頷いた。
私の父──厳格で誇り高い侯爵は、目を閉じたまま何も言わなかった。父の沈黙は、私に残された最後の祝福みたいに思えた。
こうして私は、民衆のための見せ物として、王都の処刑場へと連れて行かれた。
◇
空は泣き出しそうで、雨にはならなかった。
石畳に組まれた足場の上、厚布にくるまれた断頭台は昼の光を鈍く弾く。粗末な木の香りと、鉄の冷気。私は膝をつき、係役に手首を台に添えられる。
「レイナ様……」
囁いたのは、護衛の若い兵士。訓練場で何度も見かけた、真面目な目をした子。
彼は本来こんな役を嫌うはずなのに、命令だからと唇を噛んでいる。
「あなたの心配は、あなたを良い兵士にするわ。ありがとう」
私は笑ってみせる。唇が震えなかったことに、少し驚いた。
群衆の向こう、仮面のように表情を消した王太子の顔が、約束通りにこちらを見ている。ミリエルは彼の腕にすがり、両手で口を押さえて泣くふりをしていた。
鐘が一度、重く鳴った。
怖くないはずがない。
でも、恐怖だけの最期にするのは御免だ。
私は誰にも届かない小さな声で、自分自身に誓う。
(絶対に、真実を取り戻す。私をここに連れてきた手を、見つけ出す)
処刑人が、刃の角度を確かめるために少し持ち上げた。
木肌に頬が触れ、冷たさが骨に染みる。目を閉じる直前──遠くで、白い鳥が空を横切った。
鐘が二度鳴り、三度目で、世界が切れた。
◇
落ちていく。
けれど、痛みはなかった。
暗闇は深海みたいに濃く、どこまでも沈んでいきながら、私は奇妙な安堵を覚えていた。音も匂いもない虚無で、ただ身体の輪郭だけが、かすかに光の塵をまとっている。
(これが、死……?)
ふいに、足下に“地面”ができた。
黒い波紋。踏みしめれば、水のように揺れ、けれど沈まない。周囲には柱のように立つ影が並び、天井は見えないのに、巨大な空間の気配だけがある。
「ようこそ、境へ」
声がした。
低く、澄んでいて、何より“こちら側”の空気とはまるで違う密度を持つ声。
私は顔を上げる。そこに──座しているのは、黒曜石のような玉座と、ひとりの男。
長い外套が床を引き、胸元には光を吸うような黒い飾り紐。肌は血の気を感じさせない白さなのに、生命の熱は烈しく見える。最初に目を奪ったのは、瞳の色だった。
夜を溶かしたみたいな深い黒。その奥で、微かな銀の火が揺れている。
「ここは……?」
「冥界と人の世の“間”。境界の間だ。死者はここを通り、人の記憶からほどけていく。だが、稀に──ほどけない縁がある」
男はゆっくりと立ち上がり、一段一段、私に近づいてくる。
足音はしない。けれど、近づくたびに黒い床に白い花びらのような模様が広がった。現実ではありえない逆説。私は息を呑む。
「お前は、ほどけなかった。だから私が拾った」
「……あなたは、どなた」
問うと、男の口元がわずかに笑った。
人の笑みなのに、人ではない温度。
「名乗りが必要か。──冥王アルヴィン。人の世では“魔王”と呼ぶ者のほうが多い。好きに呼べ」
冥王。魔王。
子どもが怖がるための物語に出てくる言葉が、目の前で静かに呼吸をしている。私は反射的に身構えて、気づけば背筋を伸ばしていた。礼法は身体に染みついた鎧だ。
「レイナ・リースフェルトと申します。……わたくしは、死んだはずでした」
「死んだ。首は落とされた。だが、お前は“落ちきらなかった”。」
アルヴィンはその瞳で、私を射抜く。
胸の奥の何かが、ざわりと揺れた。その感覚は恐ろしいのに、不思議と嫌ではない。彼の視線は、飾りも嘘も剥いで、骨の形まで見透かす。
「見えるのですか、わたくしの……」
「“真”。お前が最後まで嘘をついていなかったことも、刃の直前、たった一度だけ殿下を許そうとしたことも」
言葉が、喉の中でほどけた。
許そうとした。──そうだ。
刃が降りる瞬間、私は王太子の幼い頃の笑顔を思い出していた。庭で迷子になった子猫を二人で探して、泥まみれになって笑った夏の日。あれは、確かに真実だった。
けれど、それでも。
「許せません」
私の声は、思ったよりまっすぐだった。
「わたくしを陥れた者たちを。妹と、その背後にいる誰かを。王太子の弱さを利用した誰かを。何もせず目を逸らした自分も。……許せません」
「それでいい」
アルヴィンは頷いた。その仕草は、意外なくらい静かで優しい。
彼は手をひとつ打った。黒い空間に、微かな鈴の音が広がる。私の足もとに、花弁の模様が集まって短剣の形を作った。
「この短剣は、縁を切り、縫い直す。お前が選べ。冥界に下りてすべてを手放すか、境を遡って“戻る”か」
「戻れるのですか?」
「条件がある」
アルヴィンは私の目の前で立ち止まり、ほんの少しだけ身を屈めた。
黒と銀の火が、私の瞳に映り込む距離。
「私は冥界の王であり、人の世に干渉するには“鎖”がいる。お前はほどけなかった縁を持つ希少な器だ。──お前を、私の“婚約者”として迎える。名と縁で結び、半ばは冥に、半ばは人に立つ“鍵”として」
鼓動が、ひとつ派手に跳ねた。
婚約者。冥王の。私が。
ひどく滑稽で、同時に、妙に自然にも感じた。私の世界は断罪の言葉で壊れた。ならば、別の言葉で作り直すのが筋だ。
「婚約とは──契約ですか。名ばかりの飾りではなく」
「名ばかりなら要らない。お前の復讐の刃に私の名を貸す。お前は私の名で守られる。見返りに、お前は戻るたび、私の傍らに立つ。人の世で見たもの、聞いたもの、感じたものを、私に教えろ」
対等な条件。
いや、対等以上だ。冥王の名は、王家の印章庫の封蝋よりも重い。
「……なぜ、わたくしなのです?」
「理由がいるか」
「ええ、とても」
アルヴィンの目に、わずかな愉悦が閃いた。
彼は右手を上げ、空をひと撫でした。虚空に浮かぶ糸のようなものがほどけ、光の粒になって私の周囲に降る。
光の中に映り込んだのは、私自身の記憶だった。舞踏会の夜、父に褒められた初めての刺繍、クララの小さな掌、王太子が子猫を抱いた夏の庭。
どれも、色褪せない本物。
「お前は“最後まで美しくあり続けようとした”。刃の前で姿勢を崩さず、兵に礼を言った。それは私の好きな形だ」
頬が熱くなったのは、冥界にも羞恥の温度が存在するからだろうか。
私は短剣に視線を落とした。刃は鏡のように黒く、映る私の顔は見慣れた顔なのに、瞳の奥だけが知らない灯りを宿している。
「ひとつ、条件があります」
「言え」
「復讐のためだけに生きるのは厭です。殿下の弱さも、妹の愚かさも、誰かの計算も、全部きっちり裁く。そのうえで──わたくし自身の人生を生き直したい。たとえば、誰かを心から信じることを、もう一度学びたい」
アルヴィンはわずかに目を瞠り、すぐ、口角を上げた。
「それは私にとっても都合がいい。復讐だけの器はもろい。お前は壊れにくい」
「では、交渉成立ですね」
「交渉──良い響きだ」
彼は私に掌を差し出した。
指先は白いのに、握れば火が宿るだろうと直感した。私は迷わず、その手を取る。
触れた瞬間、黒い床に花びらの模様が奔り、天井のない空に銀の糸が張られた。私の胸に、熱と冷たさが同時に流れ込む。
「契約は簡素だ。名を呼び合い、誓いを結ぶ。それだけで十分に深い」
「レイナ・リースフェルトは、冥王アルヴィンの婚約者となり、冥と現世の境を渡る鍵となることを誓います」
「アルヴィンは、レイナの復讐と生のために名を貸し、彼女の刃が正しく落ちるよう、手を添えることを誓う」
言葉が終わると、指先から手首へ、肩へ、胸へと、薄い鎖のような光が巻きついた。痛みはない。ただ、約束の重みだけが心地よく沈む。
「……ひとつ、確認していいですか」
「何だ」
「婚約者、というのは──社交辞令ではないのですよね。殿下のそれみたいに」
「私が社交辞令を使う顔に見えるか?」
「いいえ」
不覚にも笑いが零れた。冥界で笑うとは思わなかった。
アルヴィンの目が少しだけ柔らかくなる。黒は冷たい色ではない。深く潜れば、温度は上がるのだ。
「戻り方を教える。──鏡を探せ。最初にお前が“嘘を剥がされた場所”にあるはずだ。その前に立ち、私の名をひと舐めするように呼べ」
「……ひと舐め?」
「言葉遊びだ。真面目な顔をするな」
からかわれた。冥王に。
頬の熱を隠す前に、足下の黒がすっと薄れていく。境が、また境でなくなる合図。
「レイナ」
名を呼ばれて、私は顔を上げた。
すぐ目の前に、彼の瞳。黒の奥の銀が、いまは少し明るく見える。
「お前はもう“ひとりで死ぬ”ことはない。私がいる。だから、行け」
「……はい」
私は頷いた。
最後に、短剣の柄を強く握る。冷たいはずの感触が、掌で確かな体温を持つ。
「では、行ってきます。──アルヴィン」
呼び方は、舌の上で少し甘い音になった。
冥王は目を細め、ほんの少しだけ顎を引く。別れの礼。
世界がまた切れ、黒が透けて、色が戻る。
◇
湿った石の匂い。遠くで鳩が羽ばたく音。
目を開ければ、そこは城の回廊の影だった。壁に掛かった大きな鏡。鏡の縁には、王家の紋章。
ここは──王太子の私室へ続く前庭の通路。私が最後に王太子と言葉を交わし、「お前がすべて悪い」と告げられた場所。
鏡の表面が波のように揺らぎ、私の顔が二重になる。
髪は乱れていない。首も、ついている。喉に指を当てると、ちゃんと脈が打っている。
笑い出したい衝動を、私は深呼吸で押しとどめた。
(戻ってきた)
私は鏡に向かって一歩踏み出す。
短剣の黒が、光のない光を吸い込む。
鏡の奥で、誰かの気配が動いた。きっと、ここは見張られている。王太子の新しい婚約者──ミリエルのために、誰かが通るたびに整えられる飾りの鏡。
「お帰りなさいませ、レイナ様」
背後から、聞き慣れた声。
振り返らずとも、誰だか分かる。クララ。私の女中。私を陥れた手のひとつ。
私は鏡に映る自分の目を見た。
怯えてはいない。震えてもいない。
冥王の名が、私の背骨のまっすぐさを支えている。
「ただいま。──少し、話をしましょうか。クララ」
彼女は短く息を呑み、すぐいつもの調子に戻した。
「まあ、なんて冗談を。お亡くなりになったはずの方が“ただいま”だなんて」
「冗談がうまくなったのね。教えてくれた人がいるのでしょう?」
クララの手が、スカートの端をきゅっと握る。
私は一歩、彼女に近づき、そして笑った。
「安心して。いまは刃を振るわない。最初にするのは、鏡拭きよ。──王城の鏡は、嘘をよく映すから」
鏡面に指を滑らせる。指先で、冥王の名を“ひと舐めするように”なぞった。
小さな銀の火が、ほんの一瞬だけ、鏡の奥で瞬いた。
──レイナは死んだ。けれど、私はここにいる。
処刑台で終わったはずの物語は、冥界でプロローグに書き換えられた。
次に鳴る鐘は、誰のためだろう。
私は鏡越しにまっすぐ自分を見て、背を伸ばした。
冥王の婚約者として、人の世へ戻る私の最初の仕事は、真実を磨き上げること。
さあ、開幕だ。
“悪役令嬢”の二幕目を始めよう。私は私の名で、そして──彼の名で。