深夜の電話
その日も遅くまで仕事をしていた私は、ようやく自宅に帰り着き疲れた体をベッドに横たえた。寝室には静寂が広がり窓の外からは風の音がほんのりと聞こえている。夜が深まるにつれて、私はすぐに眠りに落ちた。
ふと目が覚めると、部屋の中に妙な空気が漂っていることに気づいた。時計を見ると、深夜二時。周囲は完全に静まり返っており何も異常はない。しかし、どこからか電話の音が聞こえてくる。
電話の音が響き渡り、私は頭をかすかに動かして、その音がどこから来ているのかを確かめようとした。普段、電話は寝室に置いていないので、リビングにあるはずだ。電話が鳴っているということはリビングに誰かがいるのだろうか。
恐る恐るベッドから起き上がり暗い廊下を進む。電話の音はだんだん大きくなり、リビングの方からだと確信した。
リビングに到着すると、電話が壁の方に置かれたままで確かに鳴り続けている。しかし、電話機のディスプレイには何も表示されていない。番号も名前も表示されていない。ただ、無機質に「着信中」とだけ表示されている。私はおそるおそる受話器を取った。
「もしもし?」
返事はなく、ただ一瞬の沈黙が続いた。気味が悪くなってもう一度声をかけた。
「もしもし?誰ですか?」
その時、受話器から低い、かすれた声が聞こえてきた。
「あなた、今どこにいるの?」
その声は、私の知っている誰の声でも無かった。いや、正確には、確実に私が聞いたことのある声だった。声の主は、数年前に亡くなった母親の声だったのだ。
「母さん……?」
その声は続けて言った。
「あなた、私のところに来なさい。」
その言葉が耳に入った瞬間、冷や汗が背中を走った。電話の向こうから、母親の声はあまりにも静かに、でも決して消えることなく響き続けている。しかし、電話の音は突然、ブツッと切れた。
私は一瞬、固まった。電話は切れてしまったが、心臓の鼓動は高鳴り、呼吸も荒くなっていた。振り返ると、リビングの奥に、母がいつも座っていた場所に誰かが立っているような気配があった。けれどもそこには何も見えない。
恐る恐る歩み寄ると、その場所にあったはずの椅子が、ほんの少しだけ揺れているのが見えた。