おまけ 晦様の使い
ある小さな村に「晦様」と呼ばれる神様がいた。その神様は、村の人々にとっては畏れ多い存在であり、年の最後の晦日の日にのみ姿を現すと言われていた。晦様は土着の神で、田畑を守り、豊作を願う神でもあり、村の者はその日を大切にしていた。
ただし、晦様が現れるのは決して良いことばかりではなかった。村には古くからの言い伝えがあり、晦様が現れる晩には、村の誰かが「予兆」を感じることがあるとされていた。それは、決して良い兆しではなく、時に誰かが姿を消すこともあった。
若い男、一条はその晦日が来る前日、村の老女から注意を受けた。「明日の晦日は、絶対に夜更けには外に出てはいけませんよ」と。その理由は、老女も詳しくは話さなかったが、彼女の目は何かを隠すように揺れていた。
一条は、どうしても気になり、好奇心にかられてその晦日の晩、外に出てみることにした。月明かりに照らされた田畑を歩きながら、彼は村の外れにある小さな祠に向かって歩き続けた。途中、風の音だけが聞こえる静けさの中、何か不気味なものを感じていた。
祠に辿り着くと、空気が急に重くなり、目の前に一つの黒い影が現れた。その影は、まるで月光に溶け込むように、だんだんと人間の形に近づいていった。背の高い男性のような姿に、漆黒の衣を纏ったその存在は、晦様であるとすぐに理解できた。
「お前も、来たのか」と、その声は低く、響くように一条の耳に届いた。
「私は...ただ、見たかっただけです」一条は震えながら答えた。
晦様はゆっくりと顔を近づけ、その瞳にじっと見つめられた。「見ることが、すべてではない」
その瞬間、一条は何かが自分の中で崩れるような感覚を覚えた。彼は自分の足元が不安定になり、目の前の世界がぼやけていくのを感じた。気づくと、周りの風景がひどく歪み、空気が異常に冷たくなっていた。
「お前の存在は、すでにここにはない」晦様の声が言い放った。
気づけば、一条はその晦様の祠の前に立ち尽くしていたが、まるで何も覚えていないかのようだった。村へ戻る道を歩きながらも、何も感じず、ただ無心で歩き続けた。
翌朝、村は何も変わっていないように見えたが、一条は違和感を覚えていた。周りの人々の表情がどこか冷たく、彼の存在を無視しているかのように感じた。家に戻っても、家族はまるで彼がいなかったかのように振る舞っていた。
不安になり、一条は村の長老の元に行き、事情を尋ねた。長老はじっと一条を見つめた後、こう言った。「お前、昨日の晦日には外に出てはいけなかったんだぞ。お前が見たものは、もうお前を迎えに来ている。晦様は、お前を見つけた」
その時、一条はようやく理解した。彼が見たのは、神様ではなく、晦様の「使者」だった。そして、晦様が出現した時、予兆として誰かが姿を消すというのは、一条のように「消えた」存在を指していたのだ。
「お前は、もうこの村にはいない」長老の言葉が一条の耳に響いた。
それからというもの、一条の姿はどこにも見当たらず、村人たちは彼のことをすっかり忘れたように過ごしていた。ただ一人、老女だけが彼の姿を見たと言っていたが、それは今も誰にも証明されることはなかった。