最後の電話
私が大学を卒業して、初めて就職した年のことだった。仕事に慣れる暇もなく、忙しい日々が続いていたある日、ふと実家からの電話がかかってきた。
「お母さん、どうしたの?」
電話の向こうで、母の声が少し遠く、弱々しく聞こえた。
「元気か? 最近、忙しいんだろう?」
「うん、まあ。仕事が忙しくて、たまに家に帰ることもできないけど、大丈夫だよ。」
母は少し黙り込んだ後、静かに言った。
「あなた、覚えてるかしら…。あの、あなたが小さい頃、よくお母さんと一緒に見ていた公園の桜の木のこと。」
「うん、覚えてる。あそこ、桜の花が綺麗だったよね。」
「そう… その桜の木の下にね、今でも一人で座っているんだ。」
「え?」
少し驚いた私は、すぐに母が何を言いたいのか分からなかった。母の声は、どうも普段とは違っていた。
「桜が咲くと、私はいつもそこに座っている。でもね、あなたが忙しくて帰ってこないから、誰も来なくなったって思って、ちょっと寂しい。」
「母さん、そんなこと言わないで。帰るよ、今度絶対に帰るから。」
その日は通話が切れて、私は何か不安な気持ちを抱えて仕事を続けた。
数日後、どうしても忙しくて実家に帰れなかった。その翌日、また母から電話がかかってきた。
「お母さん?」
しかし、電話はつながらず、ただ「プープー」と無音が続いた。何度かかけ直すと、ようやく繋がった。
「お母さん、どうしたの?」
すると、電話の向こうからかすかな笑い声が聞こえた。その声は、明らかに母のものではなかった。
「あなたが来ると思って待ってたけど、来ないんだね…」
その瞬間、私の心は冷たくなった。違和感が急速に広がり、慌てて通話を切った。すぐに家族に電話をかけると、母は…二週間前に他界していたということを告げられた。桜の木の下で、母が私を待っていたのだろうか。
その後、実家の近くにある桜の木の下に立ってみたが、ただ風に舞う花びらしか見えなかった。しかし、その年の春、あの声をもう一度聞けることを切に願っている。