思い出ロウソク |終点《ピリオド》 上
その日からオレは、毎日ロウソクを使うことが日課となった。過去に体験したことがあるはずなのに、まるで初めてのような気持ちで見ることができた。
これまで齧られていた思い出を一気に取り戻して、軽く頭がパニックになったがすぐに慣れた。今回は二つの例を紹介しよう。
小学六年生での修学旅行のとき。高台に建てられたそこそこ高そうなリゾートホテルに宿泊することになったオレたちは、深夜にこっそりと会う約束をした。
抜き足差し足の要領で、オレたちはしんと静まり返ったロビーで落ち合うと、そのままホテルを出る。二分ほど歩いて着いたのは、街の景色を一望できるテラス席だ。
「……先生にバレてない?」
「バレてたらここにいるわけないじゃん。にしても、夜風が涼しいねぇ〜」
安らかな表情を浮かべながら燈火は、耳にかかった髪をかきあげる。その瞬間、いっぱいに空気を含んだロングヘアの髪が、鳥のように舞い上がったように見えた。
燈火の全身が、薄暗い月明かりに照らされている。うっかり見惚れそうになってしまったが、すぐに視線をそらし、なんてことない口調で平静を装った。
「そうだな。涼しいな」
「ひゅーちゅん。今あたしたち、すっごい悪いことしてるみたい」
「安心しろ、すっごい悪いことだから」
「なんで悪いことなのに安心するの? 変なの」
とうぜん時間のせいか、すっかり街は寝静まってしまっている。暗黒色のビル群が互いにくっつき合い、まるでモンスターのように見えて少しかっこいいと思った。
そんなことを考えていると、急に底冷えするような風が吹きつけてきた。次の瞬間、燈火が後ろから大胆にも抱きついてくる。心臓の音が聞こえる気がしてドキドキする。
「少しだけ、温まってもいい……?」
「…………」
こくりと頷き、無言でそれを受け入れた。今オレの肩に燈火の顔が乗っている状態だ。スースーと柔らかい息遣いがオレと互い違いに聞こえる。意識しないわけがない。
さっきも言ったが、このときのオレたちは六年生。すでに第二次性徴期の真っ最中で、視界がおぼつかない暗闇で二人きりの空間。そうゆうことになるのは当然で……
「なぁ燈火、オレ……」
「大丈夫だよ。言わなくても」
「ほ、本当に……?」
「うん……わかってる。あたしもずっと……」
そのまま流れるようにして、オレたちは唇を重ねた。このころになると、性への興味や関心が活発になり、初めてディープキスというものを経験した。
くちゃりくちゃりといやらしい音を奏でながら、舌の出し入れに集中した。んっ、んぅ、という燈火の桃色吐息をもっと聞きたくて、より深く没入していった。
頬の裏側、歯の一つ一つにも舌を巡らした。半分泣きそうで、でもそれ以上に幸せと興奮が入り混じった燈火の顔がたまらなく愛おしかった。
ゆっくりと唇を離した間には、月に照らされてぬらぬらと銀糸状のアーチを形成していた。言葉は不要だった。ただ互いを欲していた。それだけのことだった――
「ひゅーちゃんひゅーちゃん、あたし思うんだけどさー……」
次の思い出は、結婚式ごっこをやり出して一年後の小学三年生のときだった。とある学校があった日の帰り道。
もっとリアルさを出したいという燈火から持ちかけられた提案を、オレは不満げに聞いていた。
「? ボクたちってなんかいもチューしてるから、それってけっこんしてるってことじゃないの?」
「ちがうよちがうよ! こないだお母さんのむかしのアルバムを見たんだけど、そこにこーんなに大きいドレスをきて、かおにへんなうすい布かけて、左手のくすりゆびにゆびわをはめてたの。
だから今あたしたちがやってるちゅーだけじゃ、けっこんしたとは言えないと思う」
「……なんかけっこんって、むずかしいんだな……」
燈火の話を聞いて、そんなにめんどくさいなら別に今やっている行為だけを結婚と認めたほうが楽だなと思ったが、本人はいたって乗り気でオレの腕を引いていった。
親が買ったであろう古い号の絶句シィを読みながら、本格的な結婚式ごっこに取り組んだ。そして初めて指輪やベール、ベールアップ、ステンドグラスの存在を知った。
「見てみてー! ベールできた!」
「あれ? その布ってカーテンについてたやつだよね? だいじょうぶなの?」
「へーきへーき。だいじょーぶだいじょーぶ」
燈火が根拠のない自信を口にしたときは、ほぼ決まって母親に怒られてたから、きっと今日の夜とかに怒られるのだろうなと想像した。
それはそうと、他にもデパートで指輪を買ったり、ステンドグラスの代わりである透明折り紙で色んなキャラクターや動物などを作ったりして時間を過ごした。
ふとそんな日常が、当たり前が――とても嬉しくて、尊くて、涙が出るほど幸せな時間だと思うことがある。いつもなら恥ずかしくて言えないけど、今日なら言えそうだ。
オレは透明折り紙を切っている燈火の後ろ姿に声をかける。すぐにこちらを向いてくれた。きょとんとする彼女とは対象的に、赤面している自分がいた。
「オレ……ちかうよ」
「ちかう? なにを?」
「オレ……もっとあたまよくなって、りょうりとかもうまくなって、スポーツもばんのうになって……燈火がオレと……けっこんしてよかったっておもわせてやるよ!!」
何回もキスをした仲のはずなのに、恥ずかしすぎて顔を合わせられず、しかも最後は早口になってしまった。せっかく啖呵を切ったのに、あまりにもかっこ悪い……
心のなかで嘆いていると、唐突に頬に柔らかいものが当たった。唇だ。ちょくご燈火は照れているのを隠すようにして、オーバーなほどにっこり笑いながら、
「みらいのだんなさんなら、きっとできるよっ!
「…………ありがとう」
白い歯を見せながら不器用に笑う姿を見て、オレは――まるで太陽のようだと直感した。他にもたくさんの思い出を、ロウソクで魅てきた。
運動会の思い出、お泊り会をした思い出、ゲームセンターで遊び尽くした思い出、一緒に学校をサボった思い出。
どれもすべて、目がつぶれてしまうほどに光り輝く太陽だ。齧られた思い出、欠片、残骸だったころは、今や見る影もなくなっていた。
あぁ、今オレは、最高に幸せだ。睡魔が極限状態のときに、ふかふかのベッドに入ったような極楽浄土。このまま……このままオレは……ずっとずっとずっとずっと……
ずっと――
*
「ああ燈火、ああああ燈火、ああ燈火」
我ながら最高の一句を詠んでしまった。燈火とオレとのラブロマンスをこれ以上とないほどに表現しきれている。もしかしなくても天才かもしれない。
食べ終えたあとのカップラーメンは汁が入ったままの状態で一カ月以上放置され、ぷぅんと異臭を立ち込め始めている。だがそんなことは一切気にならない。
「燈火……スーッ、スーッ」
突然だがクイズだ。オレはいったいなにをしているでしょーか? 正解は……毎日の日課の一つであるベールを嗅いでいる最中でしたー! ぱちぱちーっ!
まだ微かに甘い匂いが残っている。昨日は何度かしゃぶってしまった。今が何月何日なのかはすでによくわからないが、そんな俗世のことなんてどうでもいい。
「幸せだよ……オレ今、すっごく幸せだよ……」
ここは城だ。オレと燈火だけが住まう秘密の楽園。現実世界のような醜い争いもなく、怒りもなく、悲しみもなく、そこにあるのは抱えきれないほどの幸せだけ。
そこに咲き乱れるラベンダーやジャスミン、金木犀などの匂いに囲まれて、終わらぬ絶頂にオレはただ酔いしれていた。その酔いを解消するように、オレたちは踊りだす。
アン・ドゥ・トロワ♪ アン・ドゥ・トロワ♪ ダンスはあまり得意じゃないが、この世界でのオレは、まるで紳士のように華麗に燈火をエスコートしていた。
燈火はまるで太陽のような笑顔だ。守ってあげたい。あなたを苦しめる全てのことから。学校なんて行っている場合じゃない。この城を守らないと。オレは聖騎士だ。
「もう一回……運動会のやつ見ようかな……」
このロウソクの使い方は、ほんの一ヶ月前まで一日に一回までしか使えないものだと思っていた。
だがそうではなくて、カルアの言葉を思い出してほしい。
――暗い部屋で一人きりのとき、ロウソクを灯して火を見つめるだけ!
そう。オレは暗い部屋という言葉に引っかかって、うっかり夜にしか使えないものだと思っていたが、ただ暗い部屋という状況だけでいいことに気づいた。
そのためアパートの部屋の中は常に真っ暗。人間は太陽の光を浴びないと体調を崩すらしいが、残念だったな。オレはこの通りぴんぴんしてるぞ。
あともう一つ。ロウソクはランダムな思い出しか魅れないと思ったが、じっさいは事前に特に魅たい思い出を頭に浮かべるだけで実現できることに気づいたのだ。
つまり自分の意思でランダムではなく、好きな思い出を延々と魅ることができるのだ。これが最終的に、オレを完全に不登校にさせる決め手となった。後悔はしていない。
「あぁ燈火、幸せだよ、幸せだよ、幸せだよ……」
脳内の遠い箇所で別の意識が働く。自分の状態を客観的に見てみた。結果を一言で表すと――思い出の奴隷だなと感じていた。今日も相変わらず太陽が眩しい。
今までは齧られた思い出がはっきりすれば、気になってしまうこともなくなって前へと進めるものだと考えていたが、事態は、それよりだんぜん悪化した。
「ヤギって紙食べるけど……透明折り紙も食べるのかな……」
試しに一つ食べてみた。むしゃむしゃもぐもぐぐにゅぐにゅぱくぱく……まずい。ペッと床に吐き出す。
話題を戻すが、先ほども言ったように思い出という名の太陽がほぼ完全に目を潰してしまい、現実に対して盲目になってしまった。控えめに言って最高だ。
「いや、やっぱり修学旅行にしよう! そして燈火と……デュフッ、デュフフフ……」
思う存分思い出に浸れる幸せ、これ以上何を望むというのだ? 何回か家にチャイムを鳴らしている人がいたのだが、家賃を払うときを除いてすべて無視した。
もしかしたら先生や学級委員長などが、オレのために学校のプリントや宿題などを届けてくれたのかもしれないが、大きなお世話だ。決めたんだ。この場所こそが……
「オレの……現実――」
ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポン!!!!
やかましくチャイムが鳴る。おかしいな、まだ家賃を払う周期じゃない気がするぞ。何度も何度もインターホン鳴らしやがって……ウザいな。
オレはずんずんと玄関へと歩み出る。もしかしたら大家ではなくて、学校の先生や親なのかもしれない。そうゆうときは決まって、こちらから扉を拳で殴ったあと、
「帰れ!」
と、言えばたいていは引き下がってくれるのだが――扉の向こう側の相手は、チャイムを鳴り止ませる気配がない。ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポン……
頭にきた。一発だけなら殴っても許されるのではないだろうか。オレは衝動に突き動かされるがままに、片手は拳を構え、もう片方は鍵を解錠する。出てきた相手は……
「――ッ!! れ……」
「先輩!!」
ドンッ!! となぜかオレは、廉夏に突き飛ばされていた。完全に不意打ちの攻撃だったため、なすすべもなくよろめいて床に後頭部を打ち付ける。
ドタドタと忙しなく部屋に上がり込むと、廉夏は小さくやっぱり……とまるで悔しさを押し殺したような声をもらす。そして素早い身のこなしで手に取ったのは……
「なっ……それをいったい、どうするんだ……!」
「……こうするんです」
と、廉夏はなぜかオレと燈火しか知らないはずのベールを、持っていたハサミで――ちょん切った。それと同時に、自分の心も一緒に切られてしまったような感覚がした。
一瞬目の前で起こっている現実が受け止められず思考停止してしまったが、すぐに事態の異常に気づく。慌てて廉夏を止めようと飛びかかった。しかし、
「来ないでください!」
「フガッ!!」
またしてもオレは、廉夏に両手で突き飛ばされてしまった。今度は警戒していたのに、純粋な力の差で負けてしまった。どうして、そんなひどいことをするんだ。
オレはただ少しだけ、思い出に浸っていただけじゃないか。髪型で隠れていて表情がうかがいしれない廉夏は、窓ガラスの前まで行くと、今度はステンドグラスを破いた。
「や、やめろ……やめて、くれ……」
「…………」
ビリビリビリビリビリビリと、廉夏は無言で一心不乱に破いていく。一通り作業を終えると、クルッとオレの方へ顔を向ける。
暗闇に浮かぶ廉夏の顔は――涙でぐしゃぐしゃに崩れていた。それはあの鉄棒のとき以来か、引っ越してしまったあの日のような、剥き出しの泣き顔だった。
「私だって、こんなことしたくありません……」
「じゃあ……なんでこんなこ――」
「このままだと本当に、燈火姉ちゃんがいる場所にいっちゃうからじゃないですかァ!」
「――ッ! 廉……夏」
初めてだった。こんなに廉夏が叫び散らすのを見たのは。今でもかすかに鼓膜が震えてしまっている。
その衝撃で思わず口ごもっていると、彼女はせきを切ったようにして話し始めた。
「私は今……先輩に対して怒っていますが、それ以上に、自分に対して怒っているんです。どうしてかわかりますか?」
「どう……して」
「先輩が完全に引きこもってしまった期間、私は何度も今日のように家に押しかけようとしました。でもできなかった。
なぜなら、先輩がすごくすごく燈火姉ちゃんを好きでいることを知っていたし、なにより……見てしまったんです。二人が――結婚式をしているところを」
「――ッ!! だ、だから……」
どうりで納得がいった。
二人だけの秘密であったはずの結婚式ごっこを廉夏が見ていたとしたら、まっすぐベールやステンドグラスに向かっていったことに説明がつく。
「いや、まだ当時はお互いに子どもでしたから、結婚式ごっこというべきでしょうか。そんなことはどうでもいいんです。
燈火姉ちゃんが死んだとき、一番先輩が苦しいとき私は、引っ越してしまって助けられなかったって話は前にしましたよね?
やっぱりいかなる理由があっても、あのときの自分を許すことができません。本来なら自分は、こんなふうに先輩に大口叩いて、説教する資格なんてないんですよ」
「…………」
しばしの沈黙。その間、まるでここ一帯の酸素がなくなってしまったかのように息苦しい。
しばらくしてやっとしゃべり始めたと思ったその声は、喉だけではなく、体全身で訴えてきたように感じた。
「でも……でも…………でもぉ……!!」
ぽろっと手から、破れた透明折り紙がこぼれ落ちる。両手で顔を覆い床に膝をつけると、ヴッ、ヴッと呻くようにして泣いてしまった。
オレはその場から動けない。直感的に閃いたのは、廉夏の涙を止めたいだった。必死で体を動かしてみる。左足……右足……左足……右足……左足……右足、左――
「ちが、う……」
突然天啓のようにして、頭に考えが入り込んできた。オレは廉夏の涙を止めてやろうとしているんじゃない。廉夏とダブった燈火の涙を止めようしているのだと。
燈火の涙を拭いたことは、これまでに数え切れないほどだ。だから目の前で同じように泣いてしまった少女が、生きていたころの彼女と重なってしまった。
決して廉夏のためにやろうとしている善意ではない。これは代償行為だ。その事実が、心臓を鎖で巻きつけられたようにして締め付けてくる。
とてもじゃないが、今のオレには廉夏の元へ行く資格なんてない。あまりにも思い出に埋もれすぎて、汚れすぎてしまったから。嗚咽まじりに廉夏が言う。
「でも……ひっ、好きな人には生きててほしいからぁ……ひっぐっ……これからの人生、過去ばっかり見てないで……前を向いて、生きてほしいからぁ!!」
はぁ、はぁと息を切らしながら床に両手をつく廉夏。今にも倒れてしまいそうなほどに体力も、精神も疲弊しているように見えた。
しかしそれに対して、オレの心は妙に落ち着いていた。先ほど突き飛ばされた痛みはどこ吹く風。ゆっくりとした足取りで歩いていく。
「……前を向くことだけが、人生なのか?」
「……えっ?」
廉夏とはしっかりと距離を空けた状態で、うつむきながら、ぽつぽつと雨が降るように語り始めた。
「聞いたことあるだろ? 人は幸せを求めて生きているって。その通りだと思う。温かいご飯を食べるため、ゲームをするため、大好きな人を引っ張っていけるくらい……強くなるため。
でもそれは……中間地点の道があってはじめて成立するもんなんだよ。
温かいご飯を食べるためなら材料、ゲームをするためならゲームカセットとゲーム機、そして……大好きな人を引っ張っていけるくらい強くなるためなら、大好きな人。
オレはその中間地点を……神様に没収されちまったんだ。幸せを奪われたのと一緒なんだ! そんな人生に前を向いて、希望を持って、いったいなんの価値がある?
オレができることはただ一つ、いつか死ぬその日まで、噛み終えたあとのガムをひたすらに味があると洗脳しながら、何度も何度も何度も、噛み続けることだけなんだよ……」
最後はゲリラ豪雨のように、オレは廉夏に言葉の雨を降らした。体の中に溜まった毒をぶちまけたように、いくらかすっきりとした感覚がする。
しばらく黙って話を聞いていた廉夏が、オレの方へと歩み寄ってきた。足先が視界に映っていた。
「先輩、顔を上げてください」
優しげな声色で、導かれるようにして面を上げた瞬間――ガシッと両頬を両手で逃げられないように捕まえられ、口づけをされた。
頭の中に、いつもロウソクで見てきた燈火の笑顔が浮かぶ。気づいたときには、先ほどオレがされたときと同じように、両手で廉夏をはねとばしていた。すぐに謝る。
「ごめん! つい……」
「いい……です、よ。別に。もう決めましたから」
よろよろとおぼつかない足取りで立つ廉夏。その表情は……なぜかニヤニヤと勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。いつかのカルアを連想させた。
ビシッと人差し指でオレを指さすと、笑みはとたんに、冒険へ赴く戦士のような覚悟を決めた顔つきになった。そして、
「宣言します。私は必ず、先輩の口から――廉夏が好きだと言わせてみせます。幸せを奪われた? なら私が、新しく中間地点の道になるだけですから。
さっきのキスは、ほんのあいさつ代わりです。覚悟しておいてください。思い出なんてどうでもよくなるくらいに……メロメロにしてみせますから」
と、言うと廉夏は、情熱に燃えた目をオレに向けたあと、後ろ手で手を振りながらその場をあとにした。ガチャンと扉の閉まる音が、やけに大きく聞こえた。
オレはただなにも言えず、廉夏によって切られたり破かれたベールや透明折り紙を見つめていた――
*
その翌日からだ。廉夏による猛アタックが始まったのは。朝、またしても家に押しかけられ、半ば強制的に学校に登校させられる羽目になった。
外に出てすぐ、異常なほどの寒さを感じた。今日は何日か廉夏に尋ねたところ、十一月の八日と告げられた。実にオレは、約四ヶ月間は引きこもっていたと理解した。
驚くのもつかの間、廉夏は一目を憚らずまるで付き合いたてのカップルのように腕を絡めてきた。周りのにやにやとした目つきやひそひそとした声が、体中に突き刺さる。
思い出の中では何度も燈火に腕を抱かれた経験はあるのだが、体がはるかに成熟した今の状態では、自身の意識に反して鼓動が暴れていた。
「お、おい廉夏。その……当たってるんだが……」
「当ててるんです。言いましたよね? 先輩をメロメロにするって。あと、これで終わったと思わないでください」
まるで死刑宣告のような言葉を浴びたあとは、昼ご飯のときに学食まで連行されて、強引に食べ物を口の中にねじ込む(強制アーン)を執行させられてしまった。
当然だが、みんなが見ている前で。オレは顔から火ではなくマグマが出てしまいそうだった。放課後は道が分かれるときまで、朝と同様に腕を絡めてきた。なんか慣れた。
「すごく……疲れた……」
そんな激動とも呼べる日々が一週間ほど続いたある日の放課後、
「なぁ、廉夏」
「なんですか?」
「もう――隠さなくていいぞ」
「えっ……」
オレはいつもの拘束された腕を、するりと解いた。
最近はおとなしく捕まっていただけに不意を突かれたのか、特に抵抗されることはなかった。
「いいって先輩……どうゆう、ことですか」
「本当は全部、わかってるんじゃないのか? オレがまだ――燈火の影を追っているって」
とたんに廉夏の表情が強張る。
直後きょろきょろと目が左右に動いていることから、必死でなにかしらの理由を放り出そうとしていることは明白だった。
「で、でも先輩は……初日こそ散々でしたけど、次の日からは律儀に私とご飯食べてくれたり、一緒に帰ってくれたりして……。
ど、土日には私とデートしてくれましたよね? ゲームセンターを回ったり、プリクラを撮ったりして……順調、で……」
徐々に言葉が頼りなく、弱くなっていっているのを感じた。ギチギチと心が握りつぶされるような音がする。
本当はこんなこと、言うつもりじゃなかったのに、どうしてオレは……
「たしかに、ここまでオレを好きでいてくれて、デートにも誘ってくれて、感謝しかない。ありがとうの言葉だけじゃ足りないくらいだよ」
「じゃ、じゃあどうして――」
言うな。それは本人に伝えるべきではない。
「それだけなんだよ。今オレが抱いているのは、恋愛感情なんかじゃない。よくしてくれたことに対しての――感謝の気持ちなんだよ」
あーあ、言ってしまった。
今のオレは、人を笑わすという役割を抜き取ったピエロより最下層の存在だろう。逆に笑えてくる。
「せ、先輩……」
捨てられた子犬のような目、震える手と肩、色を失った唇、すべて自分が招いたことなのに、無責任にもこれ以上視界に入れることができなかった。
踵を返し、オレは走った。後ろで廉夏がなにかを言っていたような気がするか、忙しない自身の足音で無理やり隠した。あのときと同じ、全然成長してねぇじゃねぇか。
「ごめん……ごめん……!!」
まるでビデオテープの巻き戻し映像を観ているようだ。しかし今回は、それ以上に酷い気がする。
なぜなら、思い出ロウソクという選択肢が用意されたことにより、今オレはどうしようもなく……燈火の温もりを欲していた。使いたくて使いたくて仕方ない。
さっき感謝の気持ちとか抜かしていたオレは、いったいどこに行っちまったんだよ! 心のなかでそう叫んだが、答える者はとうぜんいなかった。
薬物中毒者のように微弱振動を繰り返す手で、ロウソクを手に取り火を灯す。食い入るような目つきで揺らめく火に意識を集中させた。間もなくして眠りに落ちる。
「廉夏……ごめん……」
気持ちに応えられなくてごめん。好きになれなくてごめん。思い出をどうでもよくできなくてごめん。
オレがこんなにも引きずっていなければ……と、思考が続くより先に、オレはいつも通り約束された幸福の楽園へと意識は転送された――
*
「……あ、れ? なんで、オレ……」
思い出に到着してすぐ、オレはうっかりしていたことに気づいた。いつもなら寝る直前に魅たい思い出を頭の中で考えるのだが、ど忘れしてしまった。
でもそのことは、今オレが当時のころのオレではなく、現在のオレの意識がはっきりある状態で思い出の世界にいるという事実に比べたら、どうでもいいことだった。
「どこだ、こ、こ……」
周りをきょろきょろと見回す……必要はなかった。なぜなら面を上げた瞬間、目に飛び込んできたのは――全員の大人や子どもが喪服に身を包んだ背中の一群だった。
自分も例外ではなかった。黒いブレザーに黒いネクタイ……ありありと記憶がよみがえってきた。この感覚は久しぶりだった。
広々とした清潔感のある空間に、全体的に白くデザインされた室内。ところどころには死んだ魚のような目をしている人、ハンカチで涙を拭っている人などがいた。
正面奥には、白い菊や百合の花がこれでもかというほどに添えられている。遺影のなかで笑顔を浮かべているその人は……燈火の父方の叔母である水樹姉ちゃんだった。
「水姉ぇ……水姉ぇ……どうして……」
「……あっ」
隣に、一際大きい泣き声を出す人の存在に気がついた。燈火だ。見慣れない喪服に身を包んでいるせいで、一瞬だれかわからなかった。
深夜のように黒いのスカートからのぞいているふくらはぎが、一切の温度を失ってしまったかように白く青ざめて見えた。オレの視線に気づいたのか、燈火が、
「ひゅーちゃん、肩、貸してもらっていいかな……?」
オレが許可を出すよりも早く、燈火は肩にもたれかかってきた。
密着することでより一層伝わる、小刻みな震え、鼻をすする音、他にも構成する要素全てが、言葉なんてなくとも深くて苦しい悲しみを物語っていた。
「ひゅーちゃん。どうして人は、死ぬんだろうね」
とつぜん燈火は、そんな神様でもない限りはわからないような疑問をぶつけてきた。考えた末にオレは、
「……わから、ない」
オレはできる限り、あの日と同じような言葉を使うことにした。
今個人的な意見を言ったりしたら、価値観の相違が原因で、たとえ思い出であれ燈火を傷つけるかもと思ったからだ。
「私は……悲しいよ。悔しいよ。いくら病気で寿命がきちゃったとしても、仕方なかったとしても……残された人は、どうやってそれを受け入れればいいの……?」
「……わかんな――ッ!!」
直後、眉間をピストルで撃ち抜かれたような気分になった。反射的に口元を手で押さえる。
わかんないというよりも早く、オレがあの日に言った本当の言葉を思い出して――その場で吐きそうになった。
――前へ、進むしかないよ。たとえ今がどんなに辛くても、悲しくても、いつかはそれを受け入れないと。
目いっぱい幸せになった姿を、天国にいる水樹姉ちゃんに見せてあげないと、きっといつまでもうじうじしてたら、悲しむだろうから。
それが残された人の……受け入れ方かもしれない。
「? どうしたのひゅーちゃん? そんな怖い顔して」
「いや、なんでも……な……」
「――ッ!! ど、どうしたの!? ひゅーちゃん! ひゅーちゃあん!」
椅子から前のめりに倒れる。薄れゆく意識のなか、燈火が金切り声をあげながら必死に体を揺さぶり、オレの名前を呼びかけていた。
ごめん……でも自分は、そんな心配されるような人間じゃないんだよ。
あの日に言った言葉を、一言一句噛み締める。前へ進むしかない? 馬鹿かオレは。一番前へ進むことができずに、あろうことか過去に縋っているのは自分自身だろ。
いつかはそれを受け入れないとだぁ? いつかの有効期限はとっくの昔に過ぎてんだよ畜生が! あのころは、燈火の涙を止めたいがためにヒーローを気取っていた。
実に……滑稽だ――
*
翌日から、もう廉夏が朝から家に来ることはなかった。登校のときも、昼休みのときも、下校してからのはコンビニに誘うこともなくなった。
高校生以前に送っていた、平穏な日常が戻ってきたのだ。本来なら喜ぶべきことのはずなのに……どうしてだ? すごく、すごく、
「虚しい……」
このなんとも言えない寂れた気持ちになったのは、燈火を失ってから一週間ほどか経ったときだった。
涙なら体の水分をすべて搾り取る勢いで出しきり、あとに残ったのは、どこか知らない世界で自分が浮遊しているような、オレがオレでない感覚だった。
「オレは、廉夏を失って悲しんでるのか? それともまた、燈火を失ったときと同じように、ダブって考えてるのか? わかんねぇ、わかんねぇよ……!」
誰にもぶつけることのできないこの気持ちの、処理の仕方がわからなかった。気づけば一カ月以上が経過していた。その間ロウソクは使わなかった。
今日は十二月二十四日。最も有性生殖繁殖所が利用されている日であり、男がパートナーの女に向かって生臭い雪を降らす。まさに性なる夜と言ったところか。
教室内ではそのムードに包まれており、オレは頭を抱えていた。ああ鬱陶しい、ウザったい、視界に入るな猿共が。軽い頭痛に襲われながら授業を終え家に帰る。
夕食を食べようとして気づく。冷蔵庫の中身がすっからかんなことに。ぐぅ〜と情けない音を立てるお腹。ふと甘いお菓子が食べたい気分になった。それも……
「チョコロールパン、買いに行くか……」
ふらふらとした足取りで部屋を出た。空はすでに薄暗い。一番近くのコンビニに入る。店内からは小さくクリスマスソングが流れていた。オレの耳を癌にする気かよ。
手早く菓子パンのコーナーに行く。見ると残り一個だ。手を伸ばして――もう一つの白い手にぶつかってしまった。その手の主を見て、自分の心臓が一瞬凍りついた。
「あっ……」
「あ……」
どうやら最悪のタイミングで買い物に行ってしまったらしい。クリスマスソングの音が遠くなる。同じくチョコロールパンを購入しようとしていたのは、廉夏だった。
以前オレに向かって宣言したときの情熱に燃えた目は、すっかり鎮火されてしまっていた。そうしたのは間違いなくオレのせいだ。罪悪感が逆流するように想起される。
「せんぱ……」
声をかけられるより先に、オレはコンビニを出ていた。心のなかで再び、あの日の無礼を詫びる。ごめん、ごめん、ごめんと。しばらく走ると息切れしてしまった。
廉夏への申しわけなさと、発言による自己嫌悪と、ロウソクを使った甘えと、燈火の優しさの四つにもみくちゃにされて、なんかもう、消えてしまいたかった。
「オレが、生きる価値って……」
ふと道路を絶え間なく走る軽自動車や、大型のトラックなどが目に入る。遠くから見えるヘッドライトの光に導かれるようにして、一歩、また一歩と歩を進める。
整えられたレンガタイルの道を越え、あと一歩でゴツゴツとした真っ黒なアスファルトの道路を踏もうとしたそのとき――頭にかつての廉夏の声が響いた。
――でも……ひっ、好きな人には生きててほしいからぁ……ひっぐっ……これからの人生、過去ばっかり見てないで……前を向いて、生きてほしいからぁ!!
「――ッ!!」
気づいたときには、体を勢いよく退かせ、尻もちをついていた。怖い、怖い、怖い。その思いだけが脳内を支配した。歯を痛いほどにギチギチと鳴らして怯えた。
恐怖を司る感情が、大波のようにしてやってきた。オレはそれから逃げるように、街灯が照らす明かりの中へと入る。安心感が全身を包みこんだ。その瞬間、
「――ッ!! そう、だったのか……!」
オレは気がついた。今までは思い出を太陽と比喩したが、それは間違いであると。正しくは――陽だまりだ。
ぽかぽかしてて……暖かくて……ずっとここにいたいと思える場所。でも、その陽だまりによって自分自身を、廉夏を苦しめる結果となった。
当初の目的を思い出す。オレは前へ進むために思い出ロウソクをカルアからもらったんだ。決して過去の記憶鑑賞会として一生過ごすための品ではない。
廉夏の顔が思い浮かぶ。あとから振り返ると、思い出の奴隷だったころのオレを解放してくれたのは、あの好きと言わせる宣言だった。お礼を言いたい。そのためには、
「前へ進めば、きっと、オレは……!」
その先の言葉を口にする前に、体は我先にと行動を開始していた。スマホを起動し、詰め込まれるようにして電話帳アプリに入れられた廉夏の名前をタップする。
プルルルルルル と何回かコール音が鳴り響いたあと、突如として無音の時間が訪れる。溜め込んだものを吐き出すようにして一言、なんですか? と廉夏。
「一つ、話があるんだ――」