思い出ロウソク |終点《ピリオド》 下
突然だが、今オレと燈火は遊園地の前にいる。すぐ近くではいかにも私たち幸せです! オーラをこれでもかと纏ったカップル達が脇を通り過ぎていった。
あの日から三日が経ち、今日は十二月二十七日。シーズンを過ぎたせいか、客足は思っていたよりまばらだった。オレは廉夏に電話した内容を思い出す。
――もう一度、廉夏を好きになるチャンスが欲しい。だから……デートをしてほしいんだ。
虫がいい話なのはわかっている。自分から実質振るような発言をしておいて、今さらチャンスもなにもあったものじゃないだろう。
だがもしこのまま離れたら最後、ただでさえ昔燈火を含めた三人でよく遊んでいた思い出さえもなくなってしまうようで、そう考えたら動かずにはいられなかった。
そして最悪の事態として、また燈火のときのように大切なものが手元からこぼれ落ちてしまったら、今度こそオレは立ち直れないかもしれない。
遊園地の出入り口は、まるでメルヘンチックな城のような設計をしており、可愛らしい絵柄の動物たちが描かれている。オレは涼しい顔をした廉夏に声をかける。
「今日はその……来てくれてありがとう」
「…………」
答えることなく廉夏は、量産型カップルのイチャつきをぼんやりとした目つきで眺めていた。
やがて去っていくのを見届けると、静かに語り始める。
「あのとき、先輩が恋愛感情じゃなくて感謝の気持ちって言ったとき……私、目の前が真っ暗になったんです。
これが先輩の言っていた……中間地点の道が没収された状態なんだなって、久しぶりに知りました」
「久しぶり?」
「一回目のときは、私が先輩と燈火姉ちゃんの結婚式ごっこを見たときですよ。
あのときも同じように目の前が真っ暗になって……ほら、いつの日か突然、露骨に先輩を避けるようになったじゃないですか」
バツが悪そうな顔をする廉夏。記憶を巡らせてみると、たしか小学五年生だった気がする。
今までずっと、オレを見つけると決まって笑顔で走ってきた廉夏が、一切目すら合わせてくれなくなったのだ。
「……あ、ああ」
なにか悪いことをしたのかと考えたが、いつの間にか考えることをやめていた。
母に相談したこともあるが、女心は複雑なものだと言われまともに取り合ってくれなかった。
「今回私がデートを承諾したのは、あのときのお詫びだと思ってください。それに……」
「それに……?」
次の瞬間に廉夏は、ダッシュで入り口付近の行列へと向かった。着いたとたん、せんぱーい! と呼びながら大きく手を振って行くのを促している。
さっきの涼しい顔から一転、廉夏はまるで童心に返ったかのように無邪気な笑顔だ。オレが困惑しながら向かうと、彼女は出入り口の向こう側の景色を指さした。
「見てください先輩! ジェットコースターがあんなにでかいです! それにほら、メリーゴーランドも!」
「れ、廉夏?」
まるで昔の燈火を見て……のところで急いで頭を振った。廉夏は軽く興奮気味に、
「私……先輩からデート場所としてこの遊園地を言われたとき、嬉しくて思わず飛び上がっちゃったんですよ。行きたい気持ちはあったんですけど、いかんせん距離が遠くて。
でも、先輩となら電車に揺られている時間も十分に楽しかったので、今日は来ることができました。ありがとうございます」
そう言うと廉夏は歯を見せるようににっこりと笑った。その笑顔にドキリと胸が高鳴る。さっきも言ったが、今回はデートだ。
他にもオレをときめかせる要素がある。廉夏が着ている白のダウンジャケットは、羊のモコモコとした毛を連想させ、そこから水色のプルオーバーがのぞいている。
ロングのプリーツスカートは風に吹かれてふわりと揺れていた。制服ばかり見ているオレには、その姿はとても新鮮で、思わずうっとりと見つめてしまった。
きっとまだ廉夏は、オレのことを好きでいてくれているのだろう。じゃなきゃ今日オシャレをしていることも、ましてや遊園地に来てくれたことにも説明がつかない。
「すみません、高校生二名なんですけど」
いち早く受付係の人からチケットを購入しようとしている廉夏。その後ろ姿を見ながらオレは決意した。
どんな手段を使ってでも、廉夏のことを好きになってみせる。そのためにこれから――燈火を嫌いになる。そして廉夏の気持ちに応えてみせる。
「ああちょっと! オレも払うよ!」
ふと廉夏の財布から、明らかに一人分の代金を超えたお金を受付係の人に渡そうとしていたので、慌てて制止させる。さすがに払わせたら男としての面目が立たない。
話を戻すが、燈火さえ嫌いになれば、オレは新しく陽だまりという名の牢獄から抜け出せて、前へ進めると結論を出した。今まで散々苦しめられてきたんだ。
どうしてもっと早くその結論にたどり着けなかったんだろう。自分の心に残った未だに燈火を引きずる気持ちが、今は忌々しくてしょうがない。
この瞬間から、自分は廉夏だけを好きなまったくの別人になりきらなければいけない。不快感はなかった。嫌悪感はなかった。実際オレは、廉夏のことが気になっている。
「せんぱーい! 並ばれちゃう前に走らないとー!」
と、すでに入り口をくぐった廉夏が、大声でオレを呼んでいた。そんなことをしなくても行くのにと内心ため息をつく。
小走りで廉夏に近寄ると、なんの前触れもなく恋人繋ぎをした。まるで自分の所有物であることを示すように、我ながら大胆な行動だなと思った。
「えっ、ちょっとせんぱ――」
「行こうか。最初はなに乗りたい?」
まず最初に笑顔だ。少しでも相手を安心させないと。
「ジェ、ジェットコースター……」
「よしついてこいっ!」
と、オレは足のアクセルを全開にし、頭の中に新幹線を思い浮かべながら走り出した。うっかり手を離してしまわないように、強く、強く握りしめながら。
おどおどとした表情は、やがてお宝を見つけたようなキラキラとした表情に変わった。ジェットコースターまでは目と鼻の先だ。オレは努めて明るい口調で、
「廉夏」
「なんですか?」
「いっぱい、楽しもうな!」
「……はい!」
そこからの時間はあっという間だった。最初は廉夏のリクエスト通りのジェットコースターや、次にコーヒーカップ、メリーゴーランド、お化け屋敷など。
レストランで食事もしたりした。その間にカップルには定番のカップルストローでドリンクを飲むというリア充イベントをやってみたりもした。チューとストローを吸う。
「……美味しいですね」
「……美味しいな」
そんなありきたりな感想しか出てこなかった。視線を合わすのが恥ずかしい。でも合わせたい。目が合う。そらす。また目が合う。そらす。その繰り返しだ。
心臓が淡く鼓動を刻んでいる。あるとき廉夏がトイレに行ったことで、必然的に一人になったのだが、そのたかが数分間がものすごく長く、不安に感じてしまったのだ。
短いようで長いトイレを終えた廉夏がまたオレのところへ来ると、不安は一瞬で消し飛んでしまった。心の情動から理解した。オレは今――廉夏のことが好きなのだと。
十一時に入園したのだが、最後の観覧車に乗ったころにはすでに夕暮れを過ぎて、空には藍色が覆い尽くしていた。出入り口の城をくぐり抜けると、身近なベンチに座る。
「楽しかったですね、先輩」
「……ああ」
「なにが一番面白かったですか?」
「オレは最初に乗ったジェットコースターかな。あの一気に落ちるときのスリルは、なんかやみつきになっちまうんだよなー。廉夏は?」
「私は最後に乗った観覧車です。ちょうどてっぺんまでゴンドラが運んでくれたとき、太陽が地平線に沈むときだったじゃないですか。
あれがすっごくきれいで……もう一回見たいくらいです」
うっとりとした顔を見て、オレの心臓は痛いのにとても心地よく脈を打っていた。
はっきりと好意を意識した状態でのその顔は……反則だろと心のなかで主張した。でもそんな廉夏が、たまらなく愛おしかった。
「……本当にもう一回見る?」
「さすがに先輩にそこまで迷惑かけられません。もう一回見たいと思えるほど綺麗な景色だったって、ものの例えですよ」
「……そう」
オレたちは無言で、退園する人たちを眺めていた。寒さのせいなのか、全体的に肩をくっつけ、寄り添っているカップルや夫婦が多く見られる。
今日一日、廉夏を楽しませることができたのだろうかとずっと不安になっていたが、さっきの発言から心配は杞憂に終わった。やがて廉夏がいきなり、
「私のこと、好きになれました?」
と、オレを見ずに、まるで薄暗くなり始めた空に溶かすようにして言葉をボソッと放った。その瞬間、安らぎモードだった自分は即座に別人へとチェンジする。
あまりにも楽しすぎて、危うく目的を忘れてしまうところだった。オレは廉夏を好きになるために、燈火を嫌いになるんだと。まっすぐ射抜くように廉夏を見ながら、
「ああ――大好きだ」
……言えた。恥ずかしがることなく、まるで親しい人と会話をするにしてあっさりと。飾り気がないかもしれないが、オレにはそんなものは似合わないと思う。
今の言葉を聞いて、さぞかし廉夏は照れた表情をしているだろうと、オレは考えに酔いしれていた。だから――彼女が先ほどと顔つきが変わらないことに気づかなかった。
「先輩、もう隠さなくていいですよ」
「――ッ!! なにを、言って……」
まるで心のなかまで見透かしたような力のある目でオレを見つめてくる。隠すもなにも、今自分の心は、廉夏一色で満たされている。不純物が混入しているはずがない。
ない、ないんだ。オレが廉夏以外の女の子を、好きでいるはずがないんだ。なのに、どうして……そんな目で……オレを……
「――まだ好きなんですよね? 燈火姉ちゃんのこと」
廉夏の口からあまりにも予期せぬ言葉が出てきたため、一瞬声を発するのが遅れてしまった。
オレはガバっとベンチから立ち上がり、廉夏の両肩をつかみながら否定する。
「ちっ、違う! オレは、燈火のことなんか、忘れて……廉夏のことが本当に好きになったんだ!! 頼む! 信じてくれ!」
ガクガクとつかんでいる腕が震える。辛い。気持ちが伝わらないのって、こんなにも痛くて苦しかったんだと理解する。
それを乗り越えたか、あるいは今現在もずっと戦っている廉夏は、オレなんかよりずっと強かに感じた。
その言葉の直後、オレと同じように勢いよく立つと、うつむきながら両肩に置いている手をそっと下ろさせた。
そしてなぜか、今度は廉夏が両肩に触れてオレを後ろに振り向かせようとしてきたのだ。予期せぬ行動の理由を聞いてみる。
「ええ!? ちょっとなにを――」
「いいから、黙って向いてください」
理由もわからず、廉夏に背中を向ける体勢になる。
数秒ほど無言の時間が続いて、いい加減耐えられなくなり声をかけようとした瞬間、妙にはっきりとした口調で、
「これから一つ、先輩の言っていることが本当かどうかテストをさせてください。構いませんよね?」
「……テスト?」
「はい。と言っても、すごく簡単です。ハチャメチャに簡単です。反吐が出るくらい簡単です」
「反吐が出るって……」
「ただ振り返って――前を向いて私に誓いのキスをするだけです」
その言葉が耳に届いた瞬間、まるで体全体が羽交い締めにされたような錯覚に襲われた。指先一つ、ぴくりとも動かせない。
口の中が乾く。鼓動が踊り狂う。頭の中に、廉夏の誓いのキスという言葉がこだまし続けている。まるで、冷静な思考をする暇を与えないと言わんばかりに。
遊園地は、燈火と来たことのない唯一の場所なんだ。だからこそ今回はデートスポットとして選んだのに、まだ……まだオレは……陽だまりの中にいるのか?
燈火……頼むからオレを歩かせてくれよ。一番の原因は、間違いなく非情に過去を捨てきれない自分自身だ。でも、いくらなんでも、こんなのってないだろ……
「どうしたんですか? 体が震えていますよ」
「お、オレは……」
もっと違う未来があったのかもしれない。もっと素敵な未来があったのかもしれない。そんな可能性を根こそぎ奪った燈火に対して、オレは心のどこかで……恨んでいた。
そう、恨んだ、オレは恨んでいたんだ。でも今までは必死にそれをかき消すようにして、指輪や手作りステンドグラスに見惚れた。見惚れまくった。実にくだらない話。
前を向くということは、その日々を手放すことになる。それは別に構わない。いや、むしろ手放したい。手放さないといけないんだ。前へ。前へ。
前に一度だけされたから、難しく考えずにすればいいじゃないか。でもそう考えたら考えるほど、思考という名の紐は絡まって、解けなくなって……どうして、オレは――
「でき、ない……」
と言ってすぐ、自分の言葉が失言だったことに気づき、違う! と訂正しようとしたが……それよりも早く、廉夏はオレの胸に顔を埋める形で抱きついてきた。
通りすがる客たちが、好奇の眼差しを向けてきた。何十秒ほどそうしてたかはわからない。変わらず埋めた状態の廉夏が、くぐもった声で話しかけてきた。
「先輩。話が長くなりそうですから、場所を移しませんか? いつもの、公園で」
「……へ? どうして――」
たった今オレは、身を持ってテストができないと証明してしまったのだ。
そんな自分に、これ以上用なんてあるはずがないだろうと言おうとしたが――それはできなかった。
「れ、廉夏……?」
なぜなら顔を上げて見えた廉夏の目や頬のあたりは薄く濡れていて、ついさっきまで涙を流していたというのは一目瞭然だった。オレは口をつぐむ。
しかし当の本人は努めて明るい口調で、それでいて笑顔を浮かべている。とても不可解と思うと同時に、潤んだ目の廉夏を――美しいとも感じた。
「それと、お腹減っちゃいました――」
*
すでに空には星が煌めいていた。オレたちはあのあと、一言も言葉を交わすこともなく駅に向かい、電車に乗り地元に帰り、公園まで歩いてきた。
すでに遊園地を歩き回ったせいで体力は消耗しているはずなのに、廉夏はいつもの調子でチョコロールパンを買いに行った。しばらくベンチで項垂れていると戻ってくる。
「先輩も食べますか? チョコロールパン」
「……いや、やめとく……」
そうですか。と廉夏の言葉の直後、横でビリリと袋の破く音が聞こえ、パンを口に頬張る音と小さな咀嚼音が続けて聞こえてきた。
なぜだ? なぜそんな呑気でいられる? オレはそう問いただしたくて仕方なかった。実質自分は浮気をしていますと言ったような男に、どうして今も……
「先輩、単刀直入に聞いてもいいですか?」
一分ほどでパンを完食した廉夏が、意を決したかのように鋭い口調で訊いてきた。オレの体は、直接氷水を浴びせられたようにしてビクッと総毛立つ。
まるで死んだあと、閻魔大王によって天国行きか地獄行きかと宣告されるみたいだなと思った。ゴクリと生唾を飲み込み、次の言葉を待つ。
流れからして、きっと今日一日廉夏に知られまいと思っていた作戦を、彼女は言ってしまうだろう。これは予感ではなく、確信に近かった。
オレは内心言われたくない気持ちを奥へと押しやり、覚悟を決めたように顔を上げた。視線がぶつかり合う。次の瞬間、目の前が真っ暗になる錯覚を覚えた。
「先輩は――燈火姉ちゃんを嫌いになることで、私を好きになろうとしていましたよね?」
「…………ッ!!」
とたんに眉が、自分でもわかるくらいに引きつる。わかってはいたが、こうもはっきりを伝えられると、ダメージは知らないときと比べても大して変わらない気がする。
変に隠し立てをしたとしても、勘のいい廉夏のことならすぐに見抜いてしまうだろう。しかし正直に打ち明けようとする気持ちとは裏腹に、唇は無様にも偽りを述べた。
「違う、違うんだ……廉夏」
「違わないですよ。だって引きこもって、しかもあんなになってまで燈火姉ちゃんが好きだった先輩が、たかが数ヶ月ほどしかちゃんと関わっていない私に鞍替えするはずがないじゃないですか」
廉夏は目を細めながら、口の端をわずかに吊り上げる。それは自嘲の笑みに見えた。また傷つけてしまった。失敗した。信じてもらえなかった。悔しい、悔しい、悔しい。
さらにもう一つの失敗。オレは燈火を嫌いになることができなかった。力不足だった。努力不足だった。ただ陽だまりの中で、足踏みをしていただけだったんだ。
「オレは、本当に……」
必死に言い訳を考えようとする。やめろやめろ。臭い息をばらまくな。あの日、廉夏をデートに誘った日。オレは前に進めたと思ったが、とんだ思い違いだったんだな。
燈火、まるでお前は怨霊だよ。たとえ死んだとしても、こんなにもオレを狂わせる。にもかかわらず、心のどこかでそれを許してしまっている自分がいる。どうして?
「私が先輩に宣言したときのこと、覚えていますよね? 思い出なんてどうでもいいって思えるくらいに、メロメロにするからって。あの言葉、撤回させてください。
私、ずっともやもやしてたんです。何度も言うようですが、先輩があんな有様になるまで燈火姉ちゃんのことを想っていたのに、今更どうでもいいなんて、思えるはずがないですよね。
にもかかわらず、今日一日先輩には、結果的にそれを強制させる羽目になってしまいました。本当に、ごめんなさい」
仰々しく頭を下げる廉夏を見て、ふつふつと怒りが湧いてきた。もちろん自分に対してだ。
オレは微かに肩を震わせ、歯を噛み締め、うつむきながら、
「……だよ」
「……はい?」
「なんで……なんで廉夏が謝るんだよ! 悪いのは全部オレだろうが!
いつの日か話してくれた味噌ラーメンみたいに、ずっとオレに一途でいてくれて……色々とお世話に、なったのに……。
オレは未練たらたらで、心残りありまくりで、廉夏の気持ちに応えてあげることできずに、あろうことか! まだ――燈火が好きなんだよ」
「…………!」
つい衝動的に言ってしまった。燈火が好きという言葉に対してオレは、さっきのように否定――できなかった。声が出なかった。
まるで自分の心にすとんと落ちてきて、ピッタリとはまったようで、気持ち悪いほどに納得してしまったからだ。悔しかった。悲しかった。これでもう、完全に終わった。
まるで長時間罪を認めなかった犯人が、ついに自白したときとよく似ていた。言ってしまった後悔と、言ったことによって精神的な重荷が一気に取れた解放感の板挟み。
きっとオレはこれから、廉夏に嫌われてしまうだろう。昔のオレならなんとも思わなかったのに、今は恐ろしくてたまらなかった。顔を上げることができない。
こわい、
こわい、
こわ……
「――いいんですよ、それで」
…………一瞬、自分がなにをされているのかよくわかなかった。なぜか廉夏の頭が耳の横にある。背中に回された両腕がきつくきつく、オレを抱きしめていた。
じんわりと染み込むような温かさだ。
どうやら抱擁されているらしいと、まるで他人事のように心のなかでつぶやいた。
耳打ちされているが、特に恥ずかしさはなかった。それ以上に疑問だったのだ。
――いいんですよ、それで。
いいんですよ? 頭でも打っておかしくなったのだろうか? もしかして、廉夏は廉夏なりに励まそうとしてくれているのだろうか。
だとしたら、あまりにも逆効果だ。
そんな優しさを見せられてしまったら、オレは……自分で自分を許せなくなる。陽だまりにいたころのように。
でも、廉夏の言葉は、こんなにも耳に優しく響いて……
「未練なんてあって当たり前です。心残りなんてあって当たり前です。それが好きな人ならなおさらだと思います。期間の長さなんて関係ありません。
むしろそんな気持ちを一ミリも持たずに次の恋に移る人のほうが、私は正気を疑います」
「れ、廉夏……」
心地よい。
廉夏の一言一言が、まるで砂漠を徘徊し続けて死ぬ直前、大雨によって喉や体の渇きすべてを癒してくれるみたいに、潤していく。潤していく。
わかっているのに、わかっているのに、これ以上聞いたら、認めてしまう。肯定してしまう。最低な自分を。
だからオレは、精一杯己を否定する言葉を探した。
「でも……また燈火が、好きなせいで、お前に……迷惑が……」
「かかりません。許します」
やめろ
「で、も……オレは、二人も、好きな人がいて……最低な、奴で……」
「仕方のないことです。許します」
やめてくれ
「でも……」
廉夏の表情は、その包容力は、まるで聖母マリアのようだと感じた。オレがこれ以上否定したとしても、無駄であると直感した。
申し訳ないよりずっと……嬉しかった。
言葉は途切れ途切れで涙声になる。
目頭に熱いものがこみ上げてきて、ぽたりとズボンを濡らす。
背中に回された両腕がより強く抱きしめられるのを感じた。廉夏の声は、終始穏やかだった。
「先輩。私はですね……過去に自分が抱いていた気持ちを否定してほしくないんです。
燈火が嫌いだなんて、誰も幸せにならなような悲しいウソはつかないで、逆に、そんな自分もいるって、受け入れてほしいです。
それが前へ進むことだと……私は思います」
――そんな自分もいる。
言葉がまるで波紋のように全身に伝わるのを感じる。とたんに鼻水をすする。ぼろぼろと涙が大粒に変化する。もはや恥も外聞も関係なくなってしまった。
せめて赤ちゃんのように泣き喚かないようにと、必死に少しずつ、涙の蛇口を回していく。
「うぅ……ひっぐっ……あぁ……ああ!!」
凍えそうなクリスマス後のある日の夜、オレは一人の少女に抱きしめられながら泣いた。泣いた、泣いた。
その涙が、ついでに燈火への想いも一緒に流してはくれないかと願った。でも無理だった。だって好きだから。これ以上の理由が、他に必要だろうか?
まだ言葉を全部信じたわけでは無いが……とりあえず今だけはいいだろう。いや、今じゃないと、今後一切こうやって気持ちを吐き出せない気がする。
温かい腕の中で、オレも強く廉夏を抱きしめ返すと、時間の感覚を忘れるほどに泣きまくった――
*
気がつくと、オレの手元にはコンビニの味噌ラーメンが置かれていた。オレが泣いている間にいつの間にか買ってきてくれたらしい。お代を払おうとしたら断られた。
諦めて一口すする。その瞬間、まるで体の内側へとたいまつを投げられたように、ぽかぽかとすぐに温まっていく。途中廉夏も一緒に食べはじめあっという間に完食した。
「やっぱり、寒い時に食べるラーメンは最高ですね」
「……ああ、美味かった」
「結構量があったはずなんですけど、意外とすぐに食べきっちゃいました」
「そりゃまぁ、二人で食べたんだからな」
「でも先輩、先輩が食べたのって最初の三口くらいですよね? それだけだと食べたうちには入りませんよ」
「そうだってけか? もうちょっと食べたような気がするんだが……」
「そうですよ。その年でボケるのは、さすがに笑えませんっ」
と言いつつも、小さく笑顔を浮かべる廉夏。思わず胸がときめく。今になって振り返ると、彼女はここ数ヶ月でかなり笑っていたような気がする。
昔は引っ込み思案で泣き虫だったのに、廉夏は廉夏なりに裏で苦労を重ねてきたのだろう。
「なぁ、廉夏」
「はい、なんですか?」
「お前って……変わったよな」
「私ですか? 自分だとどうも、自覚がなくて……」
恥ずかしかさそうに笑いながら頬をぽりぽりとかく夏。それだよ。その表情がそうなんだよ。
「すごい笑うようになったじゃないか。昔は足を擦りむいただけで泣いていた廉夏が、今やオレをあやすようになるなんて……お父さん嬉しいよ」
と、オレはわざとらしく泣く演技をした。さっきリハーサルをやったから、うまくできたと思う。
「なんですかお父さんって……好きな人ですよ……」
最後の方はかすれて聞こえなかった。
「え? なにか言った?」
「言ってないです! で? なんですか?」
食い気味に訊いてきたので困惑したが、オレは目を覚まさせてくれた廉夏に感謝の言葉を伝えることにした。
「本当にありがとう!……な。オレ、バカだからさ、燈火を嫌いになることで前に進めて、新しく廉夏を好きになれると本気で思ってた。
でも、違ったんだな。廉夏の気持ちに応えたいと思うばかりに、自分を蔑ろにしていた。
正直な気持ちに蓋をして、ウソをついて、結果的に最後は、女の子の前で盛大に泣き腫らす始末だ。男の威厳なんてあったもんじゃない」
オレは馬鹿だった自分を軽く笑い飛ばす。すると突然廉夏はベンチから立ち上がり、数歩ほど自分から離れた。
後ろで手を組みながら、顔だけをこちらに向ける。諭すような口調で廉夏は、
「私は気にしていませんよ。それより、むしろ先輩の知られざる一面を見ることができたようで……得した気分です」
と、最後はまるで小悪魔のように、少しだけ口をニヤつかせた。かわいい。廉夏はさっきのラーメンのゴミを捨てに行った。その間にオレは思いをめぐらす。
彼女には一生分の借りができてしまった。今度は自分が、なにか、なにか……
「お礼がしたい」
「? なにに対してです?」
つい声に出してしまった。考えに耽りすぎてしまったせいで、すでにオレの隣に座っていることに気づかなかった。
廉夏はさっきの言葉の返答を待っている。別に隠す必要もないので、オレは正直に話す。
「廉夏が……こんな最低なオレを受け入れてくれた、せめてものお礼がしたい! 頼む!」
オレは両手を膝に置き、さっき廉夏が謝ったときのように仰々しく頭を下げた。
「お、お礼なんて大層な……私はただ、自分の思っていることを言っただけです」
「できることならなんでもやる! オレがそうしたいんだ! 頼む!」
再度仰々しく頭を下げた。とりあえず明日から財布の中身は氷河期を迎えるだろうが、後悔はないし、あとに引く気もなかった。そんな犠牲はちっぽけに思えた。
しばらく廉夏のおろおろとした声を聞いたが、ある瞬間にぴたりと静かになった。じゃあ……という、彼女の妙に震えた声が聞こえたと思ったら、
「――私と、ごっこじゃない結婚式を、してください」
「……ごっこじゃない、結婚式……?」
いきなり立ち上がった廉夏が、サッとオレの前に移動し、手のひらを差し出した。ぶるぶると震えている手は、寒いだけが理由じゃないのはすぐにわかった。
その顔は、今から爆発でもするかのように紅潮している。ふらつきながらも、はっきりとした口調で決意を感じた。
その瞬間――その姿が存在するはずのない、高校二年生になった燈火と重なる。
昔のまま、ひゅーちゃん! と呼ぶ幼い声。無邪気な声。笑い声、怒った声、泣き声。
でも体つきはしっかりと成長して、道行く人は思わず振り返ってしまうような、とてもかわいい、制服姿。
変わらないロングヘアを風に靡かせながら、手を伸ばしている。オレは思わず、それをつかみそうになって――直前で押しとどまった。
ダメだ、ダメだ。もうダブって見てはいけない。今オレに、勇気を振り絞って誘ってくれているのは、他でもない、
流川廉夏だぞ!!!!
前を向け。前を向くんだオレ! 今は後ろを振り返る時間じゃない。一人の大好きな女の子の、想いに応える時間だ。それまで、過去はポケットにしまうことにしよう。
「したいです、結婚。先輩と……いや、日向君と」
「――ッ!!」
名前を呼ばれたその瞬間、燈火と積み重ねてきた思い出という名の宝石たちが、まるで夜空に昇るのようにしてキラキラと吸い込まれ、星と同化した。
涙は出なかった。出さないように堪えた。手を伸ばすことはしなかった。これでいい、これでいいんだ。
オレも廉夏と同じく立ち上がった。差し出された手を握る。もちろん彼女として。ひどく冷え込んでいた。
それをオレの体温で、少しでも温めたいと思った。
「いいよ。しよっか。ごっこじゃない、結婚式を」
「…………! はい……!」
満面の笑みで大きく頷く廉夏。電灯が頼りなくオレたちを照らしている。しかし今回は、ステンドグラスに差し込む七色の光の代わりにしよう。
ベールは必要ないだろう。だって今のオレたちの間には……障壁なんてものは、ないのだから。
電灯を全身に浴びるようにして正面を向く。
手を握って間もなく、寒いはずなのに手汗が出てきたのを感じる。申し訳ないと思い手を離そうとしたが、廉夏のほうからガッチリと握られていた。
廉夏は童心に返ったようなあどけない口調で、
「じゃあ私が神父をやりますから、日向君は新郎として返答してください」
「……ちょっと待て。言うこと、わかるのか?」
「任せてください。後半は、私のオリジナルです」
「え? それはどうゆう――」
オレの質問をさえぎるようにして、廉夏は誓いの言葉を言い始めた。
「新郎日向、あなたはここにいる廉夏を、健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも……」
「……………………?」
止まってしまった。内容を忘れてしまったのだろうか。今はもうその先の言葉を言われても泣くことはないだろう。
もしかして気を使ってくれているのか? だったら大丈夫だ。教えてあげないと。
「どうしたの……」
「――思い出がチラつくときもぉ!!」
「――ッ!!」
いきなり耳がつんざくような大声をあげる廉夏。横を見ると彼女はうつむいていており、表情はよく見えない。そしてタイミングを見計らったように、雪が降り始めた。
しとしとと、音もなく、スローモーションで。まるで映画のワンシーンに入り込んでしまったようだ。地上に落ちては消え、落ちては消えを繰り返す、結晶たち。
すると次の瞬間、スッと手を離し、まるで芝居をする役者のように身振り手振りをつけながら、廉夏は言葉を紡いでいった。オレはたった一人の観客になっていた。
「思い出が邪魔をしたときも、過去の思い出が今の思い出を飲み込んでしまったとしても、そのせいで喧嘩して、泣いたり怒ったりしても、いつの日かまた…………ぅ、燈火姉ちゃんを思い出してぇ……苦しく、なったとして、も……最後は必ず…………!!」
とんだ大根役者だ。
なぜなら言葉の途中なのにうまく喋れず、涙を、鼻水を流して、せっかくの整った顔が崩れてしまっているからだ。
でもなぜだろう。目を離すことができない。
オレは苦しい気持ちになる。
どうしてかはすぐにわかった――今廉夏が流している涙を、ただ眺めているだけからだ。廉夏は最後の勇気の一滴を振り絞るようにして、
「――最後は必ず、私を一番にしてくれることを、誓いますか?」
「廉……夏……」
体中の臓器や細胞が呼応するようにして、涙を止めたいと、このとき初めて思った。
燈火とダブってなんか見ていない、偽りのない、本当の意味で廉夏の涙を止めたいと思った。
これはもう、代償行為なんかじゃない。
影を追い求める必要なんてない。
だから燈火、もういいよね?
だって、オレのすぐそばには、こんなにも大切な――
「これって……」
驚いて目を見開いた廉夏。それもそのはず、オレは懐から、デートのあとに捨てようと思っていたダイヤモンドの指輪を、廉夏の左薬指にはめてあげた。
小さい目の端にたまった涙を、そっと指で拭ってあげる。すぐにまた出てくる。
すごく出てくる。
すごくすごく出てくる。
輝きを失い、
傷がついていて、
それでいて固まってしまった手垢のようなゴミまでついている。
正直すぐにでも婚約破棄されても、文句は言えないことをしてしまった。
それでも、今証となるなにかをあげずにはいられなかった。先走ってしまった自分の青臭さを呪う。
「ごめん。こんなものしかなくて。それにあげる順序が違うし……本当に、ごめ――」
それより先の言葉を、廉夏はオレの唇に指を当てたことで塞いだ。ゆっくりと顔を左右にぶんぶんと振る。
ぽたりと喜びの雫が、ダイヤモンドの部分に落ちた。
それは一瞬のできごとであったが、わずかほんの刹那、かつて買ったあの日と同じように煌めき、輝きを取り戻した……ような気がした。
「先輩、すごく、きれいです。世界一、きれいな、結婚指輪です……」
一言一言を噛み締めるみたいに、確認するかのようにして、幸せで満たされていく廉夏の心が、手に取るように理解できた。
廉夏は電灯に指輪を翳し、うっとりとした表情を浮かべている。そしてオレはその姿を見てうっとりとする。
この時間だけオレたちの心は、まるでもともとそうであったかのように融合して、一つの生命体となる。
その瞬間、心の情動は最高到達点に達し、高らかに、叫ぶように産声を上げた。感極まった廉夏が、泣き笑いをしながら一言。
「今、わたし――幸せすぎて死にそうですっ!」
「――ッ!! 廉夏!!」
たまらず抱きしめる。力の加減なんて忘れてしまうほどに、強く、強く、強く。もう絶対に離さない。絶対に死なせない。死なせるもんか。
まだ心にはわずかに燈火がいるけど、
いつかは必ず、
本当に大切な思い出だけを残して、
廉夏を、
正直に、
まっすぐ前を向いて、
「オレ、穂村日向は、この世で一番……流川廉夏を愛することを、誓います――」
そう言うとオレは、そっと廉夏の唇にキスを落とす。
あまりにも冷えすぎたせいで、唇が当たっている感触がよくよからない。本当にできたのかと眉をしかめる。
廉夏もそうなのか、泣き止んだと思ったら今度はオレと同じように眉をしかめる。
間もなくして考えていることがシンクロしていると直感したのか、小さく笑い始めた。
それにつられてオレも笑う。まったく、最後までぐだぐだで、
拙くて、
幼くて、
恥知らずで、
でも――思い出に残る結婚式だった。
こんな未完成なオレたちを神様は、燈火は、祝福してくれているだろうか。祝福してくれるといいなと思った。
燈火のあの言葉が想起される。
――みらいのだんなさんなら、きっとできるよっ!
しばらく笑ったあとは、言葉を交わすことなく一緒に、手を握り合いながら夜空を眺めていた。
一寸先は闇、もしくは灰色。
でも廉夏と二人なら、今夜空に輝いている星のように、あらゆる困難を切り裂き、照らし出す光になれる気がした。根拠はないが、それしか考えられなかった。
強く、強く、そう思い込んでいた――
*
「やぁやぁ、待っていたヨ」
満たされた気持ちでアパートに帰ると、オレの部屋の扉にカルアが寄りかかっていた。今さらながら、あまりにも神出鬼没すぎて怖い。
相変わらずのニヒルな笑顔を見ると、せっかくの気持ちが冷めてしまうので、オレは目をそらしながらそっけなく、
「なんだ、いたのか」
「なんだとはなんだい。せっかく君にイイモノをあげようと思ったのに」
と、カルアはオレに孤道具を渡してくれたときと同じく後ろを向いてから帽子を取り、ゴソゴソと中を弄る。某青ダヌキの四次元ポケットを思い出した。
やがて手をグーにしてなにかを持ったカルアは、それをオレの手に握らせた。ゆっくりと開くと、それは黒いパッケージのようなものだった。商品名を見ると……
「? なんだよそ――れェェェエエエ――ッ!!」
すっかり夜が耽ったのも忘れて、オレは恥ずかしさで思わず叫んでしまった。
とっさにカルアからもらった物を放り投げる。きれいな放物線を描きながら、それは雪に紛れるようにして下に落ちていった。
「あららーちょっと! せっかく君と彼女の今後を祝って、ヤガミオリジナル0.0000000001ミリ息子の保護者をプレゼントとしようと思ったのにー」
「手に取った振動で破けるレベルじゃねぇか! それにその……まだそうゆうのはちょっと……」
オレはほんの一瞬でも廉夏とのそうゆうことを想像してしまうが、すぐにかき消した。表情には出なかった。
こうゆうときに、顔に出ない性格で助かったと切に思う。だがカルアはそんな心の動きをすべてを知り尽くしているかのように、とオレの頬をつんつんと指で突いてきて、
「あっ今廉夏君のおっぱいのこと考えてるでしョ?」
「は、はぁ!? 考えてねぇし! 憶測で物を言うなし!」
なんか言葉使いが変になってしまった。声も乱れてしまっている。当分はまだ、自己嫌悪は続きそうだ。
これ以上話すと、かえって墓穴を掘りそうなので口をつぐむことにした。カルアは指で突いてくるのをやめると、ゴホンッ と一つ咳払いをして、
「まぁ、ここまでのやり取りが前フリなわけでして、本当はこれをあげたかったんだヨ」
そう言っていつの間にか手に持っていたのは、ロウソクと呼ぶにはいささか大きいような気がするものだった。
ロウをガラスかプラスチックのような透明な容器で囲み、よく見るとまるでミルフィーユのように、白とイチゴのようなぼんやりとした赤色が配色されている。
「これは……?」
「アロマキャンドルだヨ。アロマの香りとキャンドルの炎の揺らぎを見るだけで、リラックス効果を得られる。自律神経にも作用して、集中力が上がったり気分転換にもなるヨ。
これを使いながら勉強するのもよし、廉夏君と二人きりで香りを堪能するのもよし、食べるのもよし、好きに使いなヨ」
てっきりまた新しい孤道具ではないかと勘ぐってしまったが、カルアの口うるさい商品紹介がないことから本当に厚意でくれたものだと理解する。なんだか気持ち悪い。
オレが受け取った瞬間、用を終えたのかカルアは踵を返して階段を降りてしまう。オレは気づいたときには呼び止めていた。カルアがめんどくさそうに返事をする。
「お、おい!」
「……なんだい? 僕になにか用?」
「いや、用ってほどでもねぇんだけど……カルアが思い出ロウソクをタダでくれたおかげで、紆余曲折はあったけど、結果的にオレは前へ進むことができた。本当にありがとう」
「……そ」
「そこで疑問なんだが……そんなことをしてカルア、お前にいったいなんの得があるんだ?
言っちゃ悪いが、風貌からして幸せな人の顔を見るのが好きだなんて抜かす慈善活動家には見えないぞ」
カルアはこちらに振り向くことはなく、なにも答えない。ただ見えていないはずの目で正面を見つめていた。
相変わらずしとしとと静かに雪が落ちていく音が聞こえるなか、まるで独り言のように小さく語り始めた。
「意外に鋭いね、君。言った通り、孤道具をあげたのは慈善活動でもなんでもない。ただ君は運がよかっただけで、他の君みたいな人はすごく酷い目に遭ってるヨ。
僕がやってることは、そうだな……身勝手で、自己中心的で、独善的で、独りよがりな……エゴの押しつけかな」
「……エゴ?」
「あーごめんごめん。この物語でこのこと話しても、君にはちんぷんかんぷんだったよね。忘れてくれ」
手のひらをズイッと前に突き出し、もう片方の手で額に手を当てるカルア。
そして去ろうとする足取りをオレはまた止めた。今度はふと、個人的な興味が湧いたからだ。
「今度はなんだい? 僕は寒いのが苦手でね、手短にたの……」
「――カルアの素顔が見たい」
「…………」
しばしカルアと向かい合う。オレは真剣だった。やがて間に堪えられなくなったのか、彼女は口元を押さえて小さく笑い始めた。
はじめは耳を澄ませて聞き取れた笑い声が、ふふふと含み笑いに進化し、やがてお腹を押さえながらアハハハハハハ! と高らかに笑ってきた。そして急に無言になり、
「ダメ」
「笑うくだりなんだったんだよ! オレの時間を返せ!」
「アハハ、ごめんごめん。でも本当にダメなんだヨ。だって顔を見せてしまったら……」
「見せてしまったら……?」
「君が……」
「君が……?」
「本気で……」
「本気で……?」
「――僕のことを好きになってしまうからだヨ」
「――ッ!!」
次の瞬間、正面にいたはずのカルアは、なぜか瞬間移動をしたかのようにオレの耳元で言葉を囁いた直後、いつも通り見る影もなく霧散して消えていた。
オレはいきなり瞬間移動を使ったことよりも、断然カルアの素顔が気になってしまっている。でも心のどこかで確信していた。多分もう二度と会うことはないのだろうと。
「なんだったんだ、アイツ……」
と思ってすぐ、自分がずっと外に出ていたせいで体が悲鳴をあげているのに気がついた。急いで解錠すると、滑り込むようにして部屋に入る。
とうぜん誰もいないから部屋は真っ暗なはず……なのだが、玄関からは見えない場所で薄くなにかが灯っているのが見えた。この明かりは……もしかして……
「……! これって……」
とっさに目をそらす。なぜならオレの部屋の中心にはロウソクが、一本だけで淋しげに立っていたからだ。また眠くなってしまう……と思ったが、そんなことはなかった。
風があるわけでもないのに、ゆっくりゆらゆらと揺れているロウソクを見て――オレみたいだなと、ふと思った。
あるときは過去に縋ったり、またあるときは未来に進もうとしたけど結局引き返してしまったり、だいぶスケールのでかい反復横跳びをしてきたなと感じた。
燈火の思い出に囲まれていた生活を思い出す。恋しくないと言ったらウソになるが、だからといってあの生活に戻る気はない。だってオレ……今幸せだからな。
「ここにくるまで、長かったな……」
思えば最初は、蟲に齧られた記憶から始まったのだ。ロウソクの効果で思い出を取り戻すことができたオレは、これで前に進めると思ったが、実際はもっと酷くなった。
気づけば陽だまりのなかにいて、より一層臆病になってしまった。でも廉夏がオレを引っ張ってくれた。そして許してくれた。それがなにより嬉しかった。
なにかまたお礼がしたいと考えて、すぐに思いついたのは勉強することだった。今さらだが、高校二年生にもなって将来を決めていないことはマズい。
時間はあっという間だ。もちろんオレの将来のためでもあるが、それ以上に今度は、廉夏を引っ張っていけるほどの学力を身につけてやろう。先は長いが、とりあえず、
「なんとかなる、か」
オレは勉強するのに邪魔なので、ロウソクの火に息を吹きかける。煙は周りの景色と同化するようにして、上に昇って消えていく。
溶けたロウの匂いが、わずかに鼻孔をくすぐった――
(.)