寂しい、寂しい
朝のニュースを聞きながら、妹が作った朝食を摂る。
『この病気は単なる精神疾患ではないのです』
テレビで専門家を名乗る人が、最近の流行り病の見解を述べている。
「こんな病気が流行るなんて、アニメか漫画みたいよね」
「会社の人も子供が罹って大変だってよ」
そう言いながら、俺の身の回りには罹ってる人もいないし、あんまり関心を持てない。手早く朝食を食べ、会社へ急ぐ。
「ごちそうさま。んじゃ俺はもう仕事に行くぜ」
「はーい。お皿はそこに置いといていいからね。いってらっしゃい」
妹のお言葉に甘んじて、そそくさと手提げかばんを掴み、玄関へと向かう。
「お前も学校遅れるんじゃないぞ」
「私、遅刻したことないんだけど!」
こんな感じで、俺たちは二人で生活している。別に両親が他界した、とかそういうわけではない。両親はなかなか忙しい人で、海外を飛び回っては年に数度の頻度でしか帰ってこない。ほったらかしにされた俺たちは、残された家で悠々と過ごしている。
---
「ただいまー」
「にーいーさーん、今何時だと思ってるの」
家について最初の一言がそれか。
「残業続きなんだからしょうがないだろ」
最近は残業が多くなり、家に帰るのが遅くなりがちだ。こう見えて、俺の妹は結構寂しがり屋だ。家に一人にさせるのは気が引ける。親でも帰ってくればいいのだが……。
「それにしてもよ。それで兄さん、ご飯は?」
疲れすぎて夕飯の食べる気も起きない。
「明日も早いんだ。朝食べるから今は寝させてくれ」
本当に眠くてどうしようもなくなってる。
「はぁ、兄さんったら……」
---
「ただいまー」
家に帰ると、いつも聞こえてくる妹からの返事がない。
「なんだ、こんな時間に出かけてるのか?」
そんなことを思っていると、リビングからうめき声が聞こえてきた。
「うぅ……」
苦しいのかよくわからない声。
「どうした? 具合が悪いのか?」
そう言ってドアを開けると、リビングの真ん中で丸くなっている妹の姿が目に入った。
「うにゃ……」
苦しくてうずくまっているのかという俺の予想は盛大に外れた。
「お前、その頭の……」
見間違いかコスプレかと思った。頭には猫の耳がぴくぴくと生え、スカートの中からはしっぽがゆらゆらと覗いていた。時間は11時過ぎ。慌てふためいた俺は、今までついぞ回したこともない119番に電話を掛けた。え、110番じゃあないよな?
『はい、119番消防署です。火事ですか? 救急ですか?』
「きゅ、救急です!」
『救急車は必要ですか?』
「わ、わかりません! 妹が……! 猫に!」
慌てるばかりの俺は、自分でも何を言っているのか分からないまま、電話をしていた。
『落ち着いてください。どのような状況ですか? 苦しそうですか?』
そう言われて、目の前であくびをしている妹を見ながら答えた。
「……いえ、丸くなってくつろいでいます」
『それなら問題なさそうですね。今夜はもう遅いので、明日以降、近隣の病院で診てもらってください』
---
翌日、俺は言うことを聞かない妹を無理やり車に乗せて、近くの総合病院に連れて行った。
「あいる……なんすかそれ?」
聞き慣れない病名だ。
「アイルロソリチュード、孤独猫症候群です。」
ああ、最近テレビで聞いたことがある。あれってそういう名前だったのか。
「まだ発見されて間もないですが、世界中で見られる症例です。患者が寂しいと感じると……」
その後も先生の説明を受けるが、これから妹はどうなるのかが気がかりで、実質のところ話が頭に入ってこなかった。
「あの、どうしたら治るんですか?」
一番聞きたいことを聞いてみる。
「家にいて一緒に過ごしてあげてください。聞いたところ、お仕事で忙しくて寂しがっているようですね」
「それだけでいいんですか?」
入院とかが必要なのかと思っていた俺は拍子抜けした。
「普通に過ごしていて感染することはないので、治るまで妹さんと一緒に過ごしてください」
話を聞き終わって家に帰ってから、学校にも連絡して、妹はしばらく休むことになった。看病のため、俺も会社に連絡する。
『あーあれね、分かったわ。ちゃんと看病するのよ。最近残業続きってのもあるし、あなたもしばらくゆっくり休みなさい』
というお言葉を頂き、ありがたく休暇を取った。
『あんたの妹ちゃん、たまに忘れてきた弁当を持ってきてくれる子よね。あんな可愛い子を寂しがらせるんじゃないよ』
余計なことも覚えているもんだ。
---
それから俺たちは、しばらく家で過ごすことになった。家に入ると、とことこと背中の後ろを付いて来る。猫になったと言っても、耳としっぽがついているのを除けば、ほとんど人間だ。直立して二足歩行をする。
リビングに入ってソファに座ると、妹も俺の右隣にピッタリとした位置に座った。かと思うと、そのまま体を倒して、膝枕をするような体勢になる。
「う~……」
かつてこんなふうに甘えてきたことがあっただろうか。もしかしたら小さな頃はあったかもしれない。
「お前な……まあ、いいか」
俺の膝上に乗る柔らかい黒髪を撫でると、嬉しそうに鳴いた。
「うにゅ~」
さらさらとしたその髪は、つい癖になりそうなくらい撫で心地がよく、いつまでも触っていたくなるほどだった。あ、髪から覗く耳の裏――もちろん猫耳の方だ――をさするのいいな。癖になる。と思っていたら、ガッと急に起き上がり、部屋から飛び出して行った。
「なんだ……撫ですぎたか?」
まあ、猫なんだから気まぐれなところもあるか。
---
それからの数日間も、二人の時間を過ごした。
『人によって症状は様々で、猫耳が付くだけの人もいれば、姿かたちがほとんど猫にしか見えなくなる人もいます』
『ほとんど猫になってしまうことも! もう人間と見分けがつかなくなってしまうのですね』
『そうです。そうすると、行方不明になって捜索願が出たりすることもありますね』
ある日は、一緒にソファに座りながらニュースを見る。ちゃんとこの病気に向き合うのは初めてかもしれない。
「お前は耳と尻尾が生えるだけだったんだな、見た目もほとんど変わらないし、よかったな」
「にゃあ?」
そう答える妹を見て考えを改めた。
「いや、にゃあにゃあとしかも喋れなかったな」
何を考えているのかも分からなくなってしまった。いや、別にいつもから心が透けるように分かってるわけじゃないが。
「宅配でーす」
「はーい」
ある日はネット通販でご飯を買って食べたりもする。冷蔵庫に残っている食料が少なくなってきたので買わなければいけない。こんな状態だから、買い物に外に出るわけにもいかず、大手通算サイトの生鮮食品お届けサービスを使う。注文した当日に届くものだから、インターネット様々よ。
「あれ、可愛い猫耳……」
「あはは、ちょっと罹っちゃいまして……」
荷物を受け取りに行くときも後ろからちょこちょこ着いてきたようだ。
「そうなんですね、お大事にしてください」
「ピーンポーン! 先生からのお知らせをお届けに参りましたー!」
ある日は、妹の学校の友達が来て、学校から何かしらを持ってきてくれる。
「あっ、こんにちは、お兄さん!」
「こんちは、いつもありがとうね」
妹の友達と挨拶をして、学校からのプリントを受け取る。
「こーんな優しいお兄さんがいて羨ましいな~」
「そうかぁ?」
「お兄さんのことばかり話すんです。可愛いですよね」
それは初耳だ。一体なんて言われてるのか……。
「ところで、今日も会っていいですか?」
「いや、すまん、今は寝てるんだ。そっとしといてくれないか」
「はぁい、それじゃ、また来ますね」
そんな毎日をずっと過ごしていた。
---
カンカンカンと金属同士を打ち付ける音と共に、妹の声が聞こえる。
「……よ……きて~!」
なんだよ朝から……。
「兄さん! 朝!」
昨日も聞いてたのに、なんだか久しぶりに聞くような気がして……。仁王立ちする妹を見て眠気が吹っ飛んだ。
「お、お前……」
「どうしたのよ、そんなに驚いて」
フライパンとおたまを打ち付け、まるで漫画のキャラのような登場をした妹は、俺を見てきょとんとした。
「お、おはよう……戻ったんだな」
「おはよ、変な夢でも見た?」
夢のような幻想的な時間は過ごしたかも知れない。あの病気だって、きっと本当は夢の産物で……。
「なあ、今日は何日だ?」
「へ? 何日ってそりゃあ……えぇーーーっ!?」
どうやら猫になっていたときの記憶はないようだ。そして、あの日々は夢でもなかったらしい。
「ど、どういうこと!? 私のほうが夢を見てるの!?」
「学校には連絡してあるから、そんなに慌てなくてもいいぞ」
「そ、そう……ならいいけど」
落ち着きを取り戻した妹は、思い出したかのように要件を伝える。
「朝ごはんできてるから、なるべく早く降りてきてね」
そう言って翻った妹のスカートからしっぽが揺らめいてるを見て、もう少し会社を休もうかなと思った。