追放、5日後。 ~悪名は利用してこそ価値がある~ 【コミカライズ進行中】
母の形見の宝石箱、それだけがリリティラの心残りだった。
今宵、リリティラは婚約破棄をされた。
「追放だ!」と婚約者に命じられて、身ひとつで夜会会場から連れ出され粗末な古い馬車に放り込まれたのだ。
ガタガタと古い馬車は騒がしい音を軋ませて、夜の底を死蛍のような霞けい光のランプをゆらゆらさせ荒れた道を走った。
すでに王都を出て、月の照らしさえ朧となって届きもしない深い森へと入っていた。
背の高い木々がどす黒い幽霊のように影を揺らし、窓からは闇が蠢くような黒一色しか見えず、リリティラは馬車内の片隅で肩にかけていたショールを掛け合わせた。遠く獣の鳴く声も、響く鳥の啼く声も、ヒヤリと首筋に触れられるような恐ろしさがあり、いかに気丈夫なリリティラといえど16歳の貴族の令嬢に過ぎず、不安に心が折れるように侵食されそうだった。
ギギギギ、森の湿った土を車輪に塗り付けるように馬車がとまる。
武器は持っていない。リリティラは唇を噛み締めながら、髪から飾りを抜き取った。髪飾りは簪タイプのため、先に尖りがあった。
森の、獣の目と鳥の目しかない場所でとまった馬車である。リリティラにとって、その目的は恐怖のみしかなかった。
馬車の扉が開かれる軋めく音は、耳元でどくどく鳴る海鳴りのような心臓の音に消されて聞こえなかった。
男が立っていた。
夜を吸い込み呼吸しているような闇色の髪をした若い男だった。
ぎゅっ、とリリティラはじわりと汗が滲みはじめた手で簪を握った。緊張で背筋の産毛が逆立ち、胃の奥から吐き気が込み上げてくる。
追放は、家族も身分も財産も全てを失う刑罰だ。そして庇護してくれる親鳥を失った雛が、獣や虫の餌となるのは自然の摂理である。
躊躇いつつも母の形見を使うべきか、とリリティラが自分の腕輪へ手を伸ばした時。
「メシ、食いませんか?」
リリティラが思ってもいなかった言葉が、闇の中で響いた。青年が愛嬌良く笑っていて、
「俺、腹が減って。夕食前に命令を受けたので食いそびれてしまって。夜食を作ろうと思うんですけど、いっしょに食べませんか?」
夜の闇に似つかわしくない、真夏真昼のような明るい声にリリティラはポカンと口を開けた。
「ウィルム、て言います。俺、お姫様の追放馬車の警護兼御者兼食事係です」
「お姫様?」
手際よくテキパキとウィルムが用意した焚き火の前に座って、リリティラが呟く。指の関節が白くなるほど強く強く握り締めていた簪は、今は膝の上に置かれていた。
暗闇の中で光彩を放つ夜光の宝石のように、揺らめく炎の上にはスープ鍋。
「お姫様は公爵家のご令嬢でしょう? だからお姫様です。俺たち平民には、公爵家も王家も等しく雲の上の存在ですから」
沸かしたてのお湯を木のコップに入れて、はい、とウィルムがリリティラに渡す。一口飲むと温かさが喉を滑り落ち、緊張していた身体の力がゆるんだ。
「ありがとう。おいしいわ。でも、私の噂を聞いたことがないの?」
「お姫様が、傲慢で散財豪遊をしている悪役令嬢って噂ですか?」
「そうよ。いじわるで自分勝手で血も涙もない女」
「うーん、それ違いますよね? 俺、ちょっとしかお姫様のこと知らないですけど、傲慢な貴族の令嬢はただのお湯を投げ捨てることはあっても、ありがとうなんてお礼は言いませんよ」
曇りのない目で真っ直ぐにリリティラを見て言いきるウィルムの言葉に、雪のように少しずつ降り積もり、積もったままだった負の感情が、ぴしりっと亀裂を走らせ心を波打たせる。
リリティラは、公爵家の娘であると同時に魔女の娘でもあった。
この世界は魔法の概念はあるが、実際に行使できる人間は少ない。男は魔法使い、女は魔女と呼ばれ、王国全土で30人もいない少なさだった。
リリティラの母は魔法の研究のための援助を公爵家に望み、公爵家は家に魔女の血を入れて、魔法使いあるいは魔女の誕生を期待してリリティラの母を第二夫人とした。
しかし生まれたリリティラに魔力はなかった。それでも魔女の血筋は、孫やひ孫の代に魔力が現れることが多々あるため、リリティラは第三王子と婚約をしていた。が、第三王子はあっさり浮気をして、自分の浮気を正当化するために、リリティラに根も葉もない悪口雑言で悪女の汚名を被せた。
欺瞞と虚偽に塗れた社交界で、リリティラに同情したり擁護する良識のある者もいたが、さも真実の如く流布する醜聞は他人事だけに無責任で面白い。
特にリリティラの同じ年の異母姉は、第一夫人の娘として長年リリティラを賎しめ貶めてきたが、第三王子と恋愛関係になったことにより、リリティラの悪意ある噂を積極的に広めた。さざめく噂や陰口、嘲笑。火種を大火にして、魔女の娘であるというだけで王族と婚約したリリティラに嫉妬した異母姉は、公爵家の長女としての人脈を使って油を注ぎ入れリリティラの悪名を燃やし続けた。
そしてリリティラは冤罪で婚約を破棄され、追放されたのだ。
「この命令書だって正規じゃないですよね? 貴族を裁く権利を持つのは国王様だけなのに、第三王子の署名で。有り得ない命令ですけど、俺たちしたっぱは命令に従わないと罰せられますし、でも従ったら、正式な命令じゃないですから後々どんな処分を受けることになるやら……」
控え目にため息をつき、ウィルムは言葉を続けた。
「たぶん、処罰で首が飛ぶと思うんですよ。だから俺ひとりでいいかなと思って。部隊のみんなは、子どもがいたり両親がいたり家族がいるんですよ。俺には誰もいないから。俺ひとりでこの仕事を引き受けたんです」
覚悟した顔で笑うウィルムを、リリティラは優しい人だと思った。信頼できる人だと。
「ウィルム。ねぇ、このまま追放刑だなんて私も貴方もお先真っ暗でしょう? だから私が貴方を雇うわ。私の護衛になって私と逃げないこと?」
さいわいリリティラは、夜会のドレス姿のままである。首から大きな宝石のついたネックレスを外すと、ウィルムの手に差し出した。
「貴方は私を殺して身ぐるみ剥ぐこともできた。なのに貴方は、私に温かいお湯をくれてスープを飲ませてくれた。このネックレスでお願い、私の護衛になって。二人で死の偽装をして王国から逃げ出しましょうよ?」
「死の偽装?」
「貴方も言ったでしょう? 正式な命令ではない、と。死人に口なし、と第三王子は暗殺者をきっと送ってくるわ。無駄なのにね。追放の目撃者はたくさんいるのに。でも、自分に都合の良いことしか考えない方だから、私を殺してしまえば万事上手くゆく、と。先の破滅よりも、今、露見しなければ希望はあると思う無謀で無策な方なのよ」
パチパチと火の粉が散った。
こんもりと茂った樹冠に覆われた夜空が、所々、木々の形に縁取られた天窓のように垣間見え、今宵の月が箱の底を覗くみたいに顔を見せていた。
「とても危険なことを頼んでいるわ。でも行くのも帰るのも首が飛ぶならば、私に貴方の命をちょうだい? 私には魔女の娘としての利用価値があるから、国王陛下や父の公爵が動いてくると思うわ。だから、第三王子ではなく国王陛下の追手があるかもしれない。けれども私を傷付けるばかりだった貴族の社会にもう戻りたくないの」
ウィルムは黒髪の下から覗く、青の、銀の、不思議な青銀色の目でリリティラを見た。真っ直ぐな視線。波ひとつない水面のような静淵な目であった。
「お姫様、ご家族は?」
問う声は柔らかだったが、リリティラは苦悶を滲ませた表情で首を振った。
「父の公爵にとって私は政略の道具。第一夫人と異母姉は、めざわりな魔女の娘として私を見下し陰湿に苛めた。婚約者は魔女の娘なんて不気味だと最初から私を嫌い、社交界では私を侮辱する噂が流れ、私はどこでも一人ぼっちーー母が亡くなってから。私を愛してくれたのは母だけだった」
「お姫様、行きたい所はありますか?」
「ないわ、いえ、海に。海というものを一度見てみたいと思っていたの。海へ行きたいわ」
「海ですか? いいですね」
ウィルムは小さく笑った。すでに頭の中では逃亡ルートが何種類か組み上がっていた。
「実は、お姫様がお湯にありがとうと言ってくれた時から、お姫様を安全な場所まで連れて逃げようと思っていたところなんです」
「リリティラが死んだだと!?」
国王の前で片膝をつき胸に手を当てた兵士たちが、見てきたことを報告する。王の尊い御身を見ないように視線は低い。
「無謀にも夜間に馬車を悪路でかなりの速さで走らせた為、崖から落ちたようです。馬車は大破して、前方部分は崖下を流れる川に。兵士と馬は川に流され遺体はありませんでした。後方の馬車内には、おびただしい血とわずかな肉片が。おそらく獣がリリティラ様の遺体を持ち去ったと思われます。リリティラ様の長い髪とドレスの切れ端が、馬車の残骸に引っ掛かり残されておりました」
「何ということだ。貴重な魔女の血筋が……」
国王が重く唸る。第三王子の愚行を知り、すぐさま追手を出したのであったのだが、兵士たちが発見したのは崖下へ転落して形がなくなるほど壊れた馬車だった。
「万が一の生存の可能性もある。近くの村や町も調べるのだ」
命令を承った兵士たちが、恭しく深く頭を垂れた。
魔法使いも魔女も、尊敬されると同時に畏怖される存在であった。特に一部の者たちから懐疑と恐怖の目を向けられ、その力ゆえに迫害されることはなかったが、下げられた頭の下で顔を歪ませる人々に危機感を常に感じていた。
それ故に、自身の身を守る為にも自分の心を癒す為にも、魔力を所有する者同士で婚姻を結んでいた。王命や権力を使っての結婚の強要は、国外へと多くの魔力保持者の逃亡へ繋がり、ただでさえ少ない魔力保持者を激減させた結果となった歴史が過去の教訓としてあった。
リリティラの母は、数少ない例外なのだ。
第三王子は、部屋の隅で跪き頭を垂れたまま父王に慈悲を願っていた。父王の静かな怒りに、微動だも出来ず床をひたすら見つめる。
「父上、お許しを……」
昨夜はリリティラを婚約破棄して意気揚々としていた第三王子であったが、たちまち父王に露見して血の気が引くほど叱咤されていた。
「おまえの謝罪に何の価値がある? 私は国王としての権力も発言力もあるが、その息子である第三のただの王子に、私の許可なく貴族を裁く権限があったとは、ついぞ知らなかったぞ。顔を見るのも疎ましい。誰か、王子を貴族牢へ。処分が決まるまで出すでないぞ」
同時刻、リリティラは馬に乗って蹄の音をパカパカ響かせていた。馬車をひいていた、川に流され死んだはずの馬である。
「馬車の偽装、上手くいったかしら?」
貴族の令嬢にあるまじき、短く切られた髪が肩の上でゆれる。
「獣の血をたっぷり撒きましたし、まさに凄惨な現場って感じになっていましたから皆騙されてくれると有り難いのですけど。俺たちの死体のない理由を、川へ流されたとか上手く思ってくれれば」
もう一頭の馬にはウィルムが乗りリリティラと並ぶ。
「俺の兵士の服も川に流しましたし、馬車に着替えを積んでいてよかった。お姫様には男物で申し訳ないのですけど」
「すごく馬に乗りやすくていいわ」
「お姫様、乗馬がお上手ですね」
「私、普通の貴族の娘より色々できると思うの。子どもの頃から魔女の娘と指差されて、身を守る為にたくさん勉強したし、たくさん訓練したし。魔女だったお母様から薬の調合も習ったのよ」
少し得意気に瞳を輝かせるリリティラに、ウィルムは微笑ましそうに頷いた。
「薬も作れるのですか?」
「魔女の秘薬なのよ」
ふふん、と胸を張ったリリティラが子猫のように可愛くて、むくむくと庇護欲を成長させたウィルムは、無事に国外へ脱出しようと改めて誓った。
その夜。
「野営ばかりですみません」
トイレの穴を掘っていたはずなのに、初めての穴掘りが楽しくなって、どんどこ穴を掘りまくっていたリリティラが、謝るウィルムに手を洗いながら首を振る。
「何を言うの? 安全が第一よ。町に入って見つかりでもしたら、私も貴方もアブナイんだから。それより、ねぇ、夕食のしたくをするのでしょう? 私も手伝うわ」
「お姫様、料理ができるのですか?」
「まかせて! 料理の本ならばいっぱい読んだわ。追放されたけれども、本当は近々家から逃亡をしようと思って色々な準備をしていたのよ」
じゃがいもを持って自信たっぷりにニコニコ笑うリリティラに、苦笑をもらしたウィルムは包丁の持ち方などの基本を教えた。
ザン! ザン!
間違ってもじゃがいもの皮を剥く音ではない音をさせながら、リリティラが真剣に頑張る。
「できたわっ!」
ほらっ、と手のひらには角切りにされた正方形のじゃがいも。サイズは1センチ四方なり、が手にちょんと乗っていた。
19歳のウィルムは母親のような微笑を浮かべて、えらいえらいとリリティラの努力を褒める。
夕食のスープの皿には1センチのじゃがいもが、うまかろ?という顔で入っていてリリティラを大満足させた。
翌朝、湯を沸かすための水を川へ汲みに行くウィルムの後ろを、子犬のように懐いたリリティラがちょこちょこ歩いていた。
「川がこっちにあるの?」
「いいえ、ここら辺には大きな川はないんです。でも数日前に雨が降ったので、地理的に水の出る場所があって一時的な細い小川が、ああ、あそこです」
ウィルムが指差す方向を見て、リリティラが瞳をキラキラさせた。
「見て! 珍しい薬草がたくさんあるわ、高い売値になるものよ!」
ちょこん、と地面に座り嬉しげに薬草を摘むリリティラに、公爵令嬢としての気品など欠片もない。だが、それでいいとウィルムは思った。
「蟻! ウィルム、この蟻たち花を運んでいるわ。ねぇ、蟻さん、パンと交換して?」
ポケットから朝食の残りの、おやつにする予定だったパンを取り出し、ひょいとパンと花を取り替える。
「図鑑と同じ! 本物を初めて見たわ」
やわらかな蝶の翅のような薄い花びらに、きゃあきゃあと蜜色に溶けた声を上げてリリティラは笑う。
魔女の娘として縛られ、公爵家を中心に行動を制限されていたリリティラは森が楽しくて仕方がなかった。
風は空気の吐息のようで。
水は硝子の音楽のようで。
花は淡雪のように美しい。
見るもの聞くもの初めてのものばかりで、幼い子どものように世界の全てがリリティラの心をふるえさせた。
無邪気で、可哀想で。かわいくて哀れでとてもかわいくて。地面に座り込んではしゃぐリリティラを、ウィルムは瞬きもせずにじっと見つめた。
その時、空を高く飛ぶ鳥がウィルムの目の端に入った。
こちらに飛んで来る鳥にニヤリと口角を上げて、ちょうど真上で弓を引く。筋肉の筋が浮き上がって張りつめ、大きな肩甲骨が天使の羽根のようだ。
バシュ。
空の底から放たれた矢は、リリティラが上を見て下を見た時には二羽の鳥を落下させていた。
「旨い朝メシが飛んで来てくれました」
リリティラは弓を射たことはないが、それでもウィルムの腕前が異常だと理解した。神技の域だと。
「王国の武術大会で圧倒的な勝利者になれる腕だわ」
「したっぱの兵士が優勝などしたら、上官たちや貴族たちの面目が丸つぶれですよ。何年か前に三位になった平民は大会直後、片腕を失くしました。だから下級兵士は可もなく不可もなくの腕でいいんですよ。特に俺みたいな家族すらいない人間は、目を付けられるとロクなことにならないですから」
しゅん、とリリティラは花が萎むように項垂れた。
「世の中って辛い……」
おとなしく慎ましくしていたのに、立派な悪役令嬢の悪名を背負うハメになったリリティラは、ウィルムの言っていることを正しく判断することができた。
「いいこともありますよ。こうしてお姫様と逃避行して、朝メシは滅茶苦茶うまい鳥の丸焼きを食べられます」
ゴクリとリリティラの喉がなる。
「……その鳥って、そんなに美味しいの?」
「メチャクチャ旨いです。滅多に獲れないので、たぶん王様でもご馳走レベルだと思います」
メチャクチャ美味しいものなど母が亡くなってから食べたこともない。長い間、公爵家で鳥の摺り餌のような具なしの薄いスープと固いパンのみだったリリティラにとって、ウィルムの作ってくれる食事は甘露の如く美味しいご飯であった。
たちまち水をたっぷり与えられた花のように、リリティラの背が可愛くぴゃっと伸びたのだった。
ほぅわ~、おいしい~、とリリティラが鳥にかぶりついている同時刻、リリティラの生家である公爵邸では父の公爵が怒り狂っていた。
「リリティラが死ぬなど! リリティラの母親は王国一番の魔女だったのだ、あれの血には計り知れない価値があったのだぞ!!」
ブン!と振り上げた手で容赦なく第一夫人を殴る。次にリリティラの異母姉である娘も。
「国王から祝福があったのだぞ、おまえと第三王子の結婚を祝うと! 第三王子が公爵家の婿になると!」
公爵は娘を指差し、足をダンダンと踏み鳴らした。凍るような目で妻と娘を睨む。
「はっ! 婿だとっ! あの無能で浅慮で考えなしの第三王子が! 公爵家を第三王子の尻拭いに生涯使う気なのだ、国王は!」
公爵にとって第三王子は王族故に政略的価値があったのだ。リリティラは第三王子妃になる予定だった。
しかも異母姉は婚約者がいる身であった。浮気が原因と異母姉の有責で相手から婚約を破棄され、莫大な婚約破棄の違約金を請求されていた。
「第三王子は貧乏神か疫病神だ! このままでは公爵家は傾いてしまう!!」
ウィルムの弓は一矢も外すことなく百発百中、剣技にも長けていて、毎日リリティラに美味しいお肉を食べさせてくれた。
「幸せ~、おいしい~」
「お姫様、手づかみが平気なんですね」
「もう林檎の丸齧りもできるわよ、シャリシャリって」
小リスのように頬をお肉でふくらませて、ムグムグするリリティラが朗らかに答える。
追放されて今日で5日目だが、リリティラは元気ハツラツだ。鳥籠から逃げ出した小鳥は、ウィルムにお腹いっぱいご飯を食べさせてもらって、たくましく野生化していた。
ウィルムは眦を優しく細め、
「はい、どうぞ」
とリリティラの手に、夕食後のデザートとして小さめの赤い実を置いた。
「最後の林檎です。ずっと野営でしたが、明日、隣国に入ったら町へ行ってみませんか?」
「追手とか大丈夫かしら?」
「もちろん警戒はします。でも、情報も欲しいですし食糧も買いたいですし。それに今のお姫様は薄汚れていますから、貴族の令嬢の面影がないですし」
「え!? 私もしかして臭いの?」
「匂いはしませんよ。そうではなく、例えば」
ウィルムは貴重な宝石のようにリリティラの手を取った。
「お姫様の手は、もう傷ひとつない綺麗な貴族の手ではないです。働き者の頑張り屋さんの手になっています」
残る片手でリリティラの頬を撫でる。
「肌もくすんで、太陽の下で働いている者のようになって、貴族の白い肌とは違います。お姫様、公爵令嬢でしたのに不自由な生活の中よく踏ん張りましたね」
「あのね、それなら、もう貴族ではないのなら、お姫様って呼ばないで?」
ポポポ、と花が染まるように赤くなってリリティラがウィルムの手を握り返す。
「リリティラって呼んで? あ、偽名がいいならば名前をちょうだい。お姫様ではなくウィルムに名前で呼ばれたいの」
ウィルムの言葉が嬉しくて。ときめいて。せつなくて。リリティラは溢れだした気持ちを告げた。
「ウィルムが好き。大好き。私と結婚して?」
冷たく沈む夜の空気を暖めて、パチリ、と焚き火が爆ぜる。火の粉が小さな妖精のように生まれては消えた。
「……俺と?」
素直な心情としては叫びたいほど嬉しい。
一日また一日と日を重ねる毎にウィルムは、リリティラの何もかもが可愛く思うようになっていた。しかしリリティラは追放されたとはいえ公爵令嬢、身分差がある。
「だってウィルム優しくて、とっても優しくてとっても頼りになって。私、あのね、お得っていうか、6ヶ国語が話せるし、薬も作れるし、それに今なら空間収納付きの腕輪に金貨5千枚付きなのよ」
服の袖を捲って腕の古い腕輪を見せる。
「母の形見なの。金貨の他にも色々入っているのよ。ね? お買得でしょう? だから結婚して?」
一生懸命にリリティラはウィルムを口説こうと言葉を綴る。貝殻のような耳まで真っ赤にさせながら、一途にウィルムだけを瞳に映した。
「知り合って5日で結婚を決めていいんですか? それに俺は平民ですよ」
「私、もう公爵令嬢ではないわ。……5日間ウィルムは私を大切にしてくれた、私もウィルムを大切にしたいの。5日だけでなく一生。ねぇ、ねぇ、私たち駆け落ちしてきた恋人の設定にするのでしょう? それが本物になったらダメなの?」
子猫のように濁りのない瞳で上目遣いをするリリティラの可愛さに、可愛過ぎてウィルムは両手を上げて降参した。
熱情を孕む鋭い双眸が、真摯さを滲ませてリリティラを捕らえた。
「俺、死ぬまで永遠に離さないですけど、それでもいいんですか?」
同時刻、王都の至るところで絶叫が上がっていた。主に貴族の屋敷で。
「ぎゃあああアアアァァ!!」
「嘘! 嘘! 嘘! アリエナイッ!!」
「ヒィィィいいいいっっっ!!」
「うおぉおお! 耐えられないッ!!」
「痒いっ! 痒いっ! 痒いいいィィッ!!」
夜空には白い月が満ちて煌々と輝いていた。
辺りは冴え冴えとした銀色の光に包まれ、神殿の柱のような大樹の枝も葉も月光を浴びて艶やかに光り、想いを告げ合ったばかりの恋人たちを祝福しているようだった。
「明日は隣国です。二度とこの国へ帰ることはないですけど、心残りはありませんか?」
「宝石箱がちゃんと開放されたか、それだけが心配だけど、たぶん、もう、誰かが、お異母姉様あたりが有力だけれども、部屋に残してきた母の形見の宝石箱を開けていると思うから、心残りはないわ」
「宝石箱?」
「内に宝石ではなく、呪いの入った宝石箱よ」
「母がつくったものなの。開けると呪いが発動するようになっているのよ、母と私に意地悪をした人たちへ」
リリティラの瞳が、いたずらな子猫のように笑う。
「箱の底が二重底になっていて、その中に対象者の名前を入れるの。箱の蓋が開かれると呪いが対象者へ飛ぶようになっているのよ。その人の頭部が永久脱毛になるように、足が治療不可の水虫になるように」
「つまりハゲと水虫の呪い?」
「呪いだからツルリンハゲで、頭部にかつらや帽子などを載せても滑り落ちるようになっているし、水虫は他人にうつらないけど薬も効かない治療のできない強烈タイプだし――私のこと、嫌いになった?」
「どうしてですか? この前に話した武術大会で三位になった人は、俺の先輩で剣を教えてくれた人なんです。俺ね、バレていないですけど、相手の貴族を遠くから矢で射て両手両足を動かなくさせてやりました。でも、利き腕を失った平民は職場をクビになり、たちまち生活苦になるのに、寝たきりになっても貴族は使用人が世話してくれるんですよ」
「そういう社会ですけど、こちらを踏みにじって相手が笑っているのに仕返しはダメだなんて、理不尽じゃないですか。バカバカしくて反吐が出ます。悪人と呼ばれても、俺は復讐したことを悔いていません」
「うん。私なんて何もしてないのに悪役令嬢と相手から罵られているし。それなら相手の期待通りに、悪役として悪役らしいお仕事として呪ってあげたの。相手がくれた悪名だもの。利用してあげただけよ」
リリティラの母は魔女として尊ばれていたが、魔女というだけで理由もなく忌み嫌われていた。
リリティラもしかり。
しかも魔力もなく、子ども故に抵抗もできないリリティラは、第一夫人や異母姉たちのように本人のどこまでも都合のよい悪意によって、しつこく周到に虐げられてきたのだ。魔女の娘と罵倒され、悪役令嬢と貶められて。
「母も私も呪おうと思えばいつでもできたけど、常に踏みとどまってきたわ。だから悪名をありがとう、て感じだわ。ためらいもなく宝石箱を悪名をくれた人たちの要望通り置いておくことができたもの。彼らが私に、血も涙もない悪役令嬢の役を求めたのだから」
リリティラは少し体温を失った自分の指に、はぁ、と息を吹きかけた。ウィルムが両手で包んで、温かさをわけてくれる。
「内に宝石が入っていると思って盗むために開けたのでしょうけど、呪いの蓋を開けたのは彼らの誰か。自分で呪いの署名をしたようなものだわ。でも、ちゃんと善良な人には害にならない、国民の迷惑にならないような呪いを、母の遺品の中から選んで置いてきたのよ」
「ハゲは見た目の問題、水虫はうつらなければ本人が悶え苦しむだけですもんね」
ハゲは貴族の、特に貴婦人のプライドを全方位でズダボロにして、水虫は地獄の痒みを与えていることだろう、とウィルムは内心ひそやかに笑った。
「そうよ。お父様も第一夫人もお異母姉様も第三王子も、私を虐めた人たち皆これでツルピカのカユカユよ」
可愛さぶっちぎりで笑うリリティラに邪気はない。
「呪いも思い遣りが大事よね! だってお母様の残してくれた呪いって、身の毛もよだつエゲツナイものが多いのよ」
え?
ハゲと水虫はやさしい呪いなのか?
ウィルムは、身の毛もよだつエゲツナイ呪いが多々入っているらしいリリティラの腕輪を凝視した。
翌日の追放6日目、隣国の田舎の教会で、リリティラとウィルムは二人きりの結婚式をあげた。
飾りものは野花の花冠だけであったが、その花冠はリリティラの生涯の宝物となったのだった。
読んで下さりありがとうございました。