風のとどまる場所
寒い冬がまたやってきた。今回の冬は狼の退治がなかなか進んでなくて、奴らと競争している間に後れを取ってしまったかもしれないと、皆が心配している。俺もそうだ。狼の群れを統率する長が交代した時からだった。奴は猪突猛進な先代の狼よりずる賢く、群れの数を増やしていったのである。森の恵みが減ってしまう。暖かいうちに食べられる草花も冬には食べられなくなってしまう。
俺たち太い骨族は細い骨族と違ってより多くは食べなくてはいけないのに。
細い骨族と共同生活が始まってどれだけの時間が過ぎたか。最初はこんなに細い連中と生活することは果たしていいものかという疑問がわいたが、彼らと生きているうちにその考えは徐々に変わり始めた。見た目がこんなに違うというのに感覚は似通っている。同じく複雑な道具が使え、歌を歌うと一緒にそれを口ずさむ。
俺たちの喉では少ない発音しかできないけど、細い骨族はより複雑な発音ができるのは素直にすごいと思った。彼らも俺たちの力には感心していた。
この広い大地に細い骨族は旅をしながら生活する人が殆どだ。俺たちは一つの場所にとどまる。森を、山を、野原を走りながら獲物を追い狩る。
細い骨族はそれができなくて、果物やキノコ、食べられる草花を食べて、肉はあまり食べていないようだった。彼らの狩りは俺たちとは違っていたのである。俺たちは獲物に素早く接近して殺しきる。
細い骨族はこうはいかないのである。力の弱い細い骨族だけど、彼らは俺たちより長く走れる。細い骨族はただひたすら走っていた。追いかけるように走って、走って、ずっと走って、やがて獲物が動けなくなるほど疲れたらそこで仕留めて狩りを終える。
要領が悪いのにもほどがある。だからか、彼らは旅をしていたのだ。どこまでも遠くまで。
その風のような生はどんなものなんだろうか。俺も彼らのようにはなれないものか。しかしなぜか彼らは俺たちと同じところで住まうことを選んだ。
俺たちより食べる量も少ないのに、遠くまで行ってたくさんの果物やキノコを採ってきて来る。なぜ俺たちにそこまで親切にしてくれるのか。
ああ、それは言わなくてもわかる。彼らが、風がたまたまとどまった場所の先に俺たちがいただけのこと。
俺たちは滅多に動かないのだ。いや、動けないといった方が正しいか。少ない数でも狩りはできるけど、それだけでは足りない。足を使って移動すること自体はできるけど、食べる量が多いので移動した先に何もなかったら腹を空かせて下手したら全員が飢餓で死んでしまうかもしれない。
そんな決定なんてとてもじゃないが群れの中の誰であっても賛同できるものではない。だから慣れ親しんだ場所から、そこで手に入れる食料だけを糧にして日々を過ごすのである。
しかしそうやって一つの場所に長くとどまるとしても、すべてが不自由なままだ。大地の恵みがよき日もあれば悪い日もある。彼らのようにこの大地から離れるなんてことはできやしないのである。それは太い骨族がたくさんの食べ物を欲しがってしまうから。
昔ある時は雨が長らく降っておらず、このあたりにある草花が枯れた時があった。その時はどうしたのか。
群れで一番弱い人たちが自らの命をささげた。そう、自分を食べてでも生きて欲しいと言っていたそうだ。
みなして涙しながら同胞を食したという。俺たちもそうなるかもしれない。だけど、心配は減った。細い骨族が現れたのである。彼らの群れは俺たちより多かった。しばらく一緒の洞窟で生活をすることにした。別に争うこともない。彼らは根無し草で、どこへでも行けるようだ。彼らはキノコと噛むと甘い草花をたくさん持っていた。初日にそれを俺たちの肉と交換した。草花を食べるとさっぱりするし、腹の調子もよくなるから好きだ。
彼らは久々の肉だったと言っていた。言葉…。言葉は使ってない。身振り手振りである。それでも通じるから不思議なものだ。
一緒に暮らすことになってからは番になるものも増えた。
俺の番も細い骨族で、一人だけ生まれた子供は俺たち二人の特徴を半々くらいに受け継いでいた。
洞窟には昔の絵が描かれているし、小さい石が集まった墓地も向こう側に見える谷にある。
冬はいつも厳しい。細い骨族が来てからは彼らが遠出をしてまで食べ物を持ってくることになったことから余裕ができたとは言え、それにも限界はある。
俺たちは多くを食べないといけないのに。いつも譲ってもらうばかりで。いくら俺たちが狩りに長けていたとはいえ、申し訳ない気でいっぱいだ。俺の番にももっと多くを食べさせてあげたいのに。
雪が降っている。太い骨族の男たちで洞窟の外へ。細い骨族の中でも足が一番早い男が一人だけついてきている。それでも俺たちよりは遅いが、彼らはより広く地形を把握しているようなので、一人いるだけで安心なのである。
やはり森には獲物の数が減っていた。狼が増えたせいだろう。
ウサギと鳥を狩って洞窟へ戻る。皆で心置きなく食べつくすには少し足りない数だけど仕方ない。
『お腹空かせていないか。』番にジェスチャーだけで会話をする。
『いいの。あなたが無事でよかった。』
俺たちは笑いあった。
食事を終えて、皆で話し合った。狼をどうするか、細い骨族をもっと遠くへ採取に行かせるべきなのか。彼らだけで狼の攻撃を受けるかもしれないのに危険ではないのか。
細い骨族は自分たちがいけるべきだと言っていた。
俺たちは反対した。番を危険な目に合わせるわけがない。彼らは頼りになる存在なのだ。俺たちだけで、太い骨族だけで狼をどうにかするべきだと。
だけど場所がわからない。互いに群れでいるときに目が合う時は何回かあった。群れ同士だと死闘なんて起こらないものだ。そんなことをしたら互いに大きく傷ついてしまうだけだから。皆が大地の恵みを受けて生きているのだ、狼でも、太い骨族でも、細い骨族でも。
皆同じである。
いつかは彼らとも、狼とも協力できる気が来るのだろうか。大地の恵みが今より暖かい日々を許してくれるなら、狼とも抱きしめあう日が来るのだろうか。俺が俺の番とそうするように。
話し合いを終えてからはみんなで歌い始めた。太い骨族はずっと低い声を出して、細い骨族は高い声を出す。互いの声が溶け合って美しい音色を奏でた。
どうか、大地の恵みが、俺たちの未来を明るく照らしますように。大切な番が俺との時間でもっと楽しめるように。
喉を鳴らす。皆が一つの大きな目標に向かっているような気がした。種族が違っても、俺たちは一緒だったんだ。
次の日から狼の群れがどこを根城にしているのかを探す日々が続いた。しかし探しても探しても見つからなくて。また少ない獲物だけで洞窟へ戻る。
こうなったら群れを統率するものだけでも倒すしかないのか。
『無事だったのね。今日はどうだった?』番が速足で俺のところまできて、目を合わし嬉しそうに話しかけてくる。
『ごめん、まだ見つかってないんだ。』
『それを聞いたのではないけど、大丈夫よ。私たちが遠出をして、美味しいキノコをたくさん採ってきて来るから。』
『だが…。』何も言えない。狼たちの居場所が見つかってないのは事実。
結局、俺たちは細い骨族の主張を聞くしかなくなった。彼らだけで遠出をさせるなんて心苦しい。
次の日の朝、俺たちはいつものように出かけた。だがこの時期になると暖かい昼間でしか出かけることのない細い骨族も一緒で、幾人か赤子たちと洞窟の火種を守るために残った。炎があればいかなる猛獣でも滅多には襲ってこないのである。
俺たちの子は赤子ではないけど、遠くへ出かけるような体格にまでは成長していないので居残り組である。
『ママとパパ、行ってくるね。』
『うん、待ってるから。』男の子、俺たちの子は笑顔で返事をした。外へ出るとまた雪が降っていた。
さて今日はどうなるか。
心配だけど気がめいって狩りに集中できなかったら本末転倒だ。俺たちは順調…、ではないけど、いつものように獲物を狩った。そして戻る道、俺たちは発見してしまった。狼の根城である。子狼と数頭のメス狼だけが残っており、大人たちは見えない。
悪い予感がした。しかしここで見つかったのは僥倖だった。待ち伏せをするか、それとも子狼とメス狼を殺して帰るかを話し合った。奴らとの距離は遠いが、彼らは匂いに敏感だ。とは言え、知っててどうにかできる数じゃないだろう、俺たち太い骨族は強いのだ。狼くらいは三人ほど集まったら素手でもやれる。今は槍持っている。先端に鋭い石を括り付けてある槍。だから話し合う余裕があった。
『あいつらを全部殺したら狼はきっと憤慨し、俺たちを狙いに来るはずだ。それは危険ではないのか。』
『それを逆に待ち伏せするのはどうだ。正面から殺しあうよりはましなはずだ。」
『狼が戻るまでここで待つというのはどうだ。』
『数がわからないのにそんなことはできない。肌も冷えてきている。』
『やはりここにいる狼はすべて殺したほうが後々のために数を減らせることにつながるのではないか。たとえそれが奴らを怒り狂わせることになるとしても。』そう言ったのは俺だ。番を危険な目に合わせたくない。そのためにはより多くを狩らなくてはいけない。狼とは競合してしまう。
仕方がないことだ。愛する者のために、何かを選ばないといけない。俺は、番を不幸にしたいとは思わない。
『やはりそれしか方法がないか。』
反対していた人も意を決したようだった。
あっという間だった。俺たちは一匹残らず殺しつくした。これだけでもかなりの量である。今夜はお腹一杯狼の肉が食えそうだ。
だけど、ああ。
やはりそうだったかと。
洞窟に戻っている途中、血の匂いがした。俺は思わず走った。細い骨族のように長くは走れないが、それでも走った。俺の番、愛しい俺の番が、狼たちに追われている。
遠い丘の向こう、彼女の姿が見えた。槍を握って走った。皆も何事かとついてきて始めている。だけど俺が走り始めるのが早かったからか、少し距離が空いたけどかまうものか。彼女のためならなんだってできる。
徐々に距離が近づくにつれ、恐怖に満ちていた彼女の顔が目に入った。
怖い思いをしたのか。彼女以外の細い骨族の人たちがどうなったかは知らない。今は彼女が危険であること、そして俺だけが彼女を守れること。今を動くために考えるのはそれだけでいい。
そして俺は彼女に襲い掛かってくる狼の一匹の腹に向かって槍を突き出した。鋭い石が奴の腹に食い込む。
もう一匹が俺の後ろから俺の喉に牙を立てに飛び込むのがわかる。
槍を抜こうとするが間に合わないので。肩を噛まれるけど気にすることなく腰から解体するために使う鋭い石を使って奴の頭を叩き潰した。
番は悲鳴を上げてどうにかできないのかと近くから石を掴んで握ろうとしていた。それを投げて注意でも引こうというのか。
俺は吠えた。狼たちは俺を早めに処理しないと危険だと判断したのだろう、彼女には目もくれずに俺に次々と襲い掛かってきた。俺は鋭い石を握りしめ、奴らの数をできるだけ減らせるように必死に奴らと戦った。
気が付くと俺の仲間たちが来て、奴らは蹴散らされ始めた。やがて逃げていく狼たち。群れを統率していた狡猾な奴もこの戦いで死んだようだ。奴は喉のところだけ白い毛が生えているので見ればわかるのである。
しかし。
俺はもう。
牙と爪のいくつかは骨まで届いていた。太い血管も傷つけられ、体の中から急激に熱が失われていくのを感じた。
罰が当たったのか。狼たちの番と子を殺してしまったから、こんなことになってしまったのか。よくわからない。よくわからないけど、それが事実だとしたら、幾分か安心できる気がした。
立っていられず座り込み、それも出来なくて横になった。
番が俺に近づいてきて、彼女に抱きしめられる。
血がついてしまうぞ。乾いたら冷たくなるかもしれない。頭も爪でえぐられ、目の前は真っ赤。
真っ赤な色以外は何も見えなくて、彼女の顔がみたいんだけど、最後に彼女の顔がみたいのに見れなくてもどかしい。
暖かい水が俺の頬に当たる。ああ、泣いているのか。すまない。君ともっと多くの季節を見たかった。俺たちの子が大きくなる様を見たかった。
一緒に喉を鳴らして歌った日々を思い出す。
彼女は細い骨族の言葉で言っていた。
「あなたのいない世界は嫌なの。」
ごめん。
彼女の手を握った。
「愛している。」俺は伝わるかどうかわからないけど、太い骨族の言葉で彼女にそう言って。
それが俺の最後の言葉となった。
それから百年が過ぎて、千年が過ぎて、一万年が過ぎて…。
そして現代。
とある中年女性の古生物学者が科学を題材にしたドキュメンタリー番組でカメラに向かって話しをしていた。
「この旅発見したネアンデルタール人の骨には無数の切り傷が刻まれており、近くで発見された狼の骨の数から推測するに狼から一人で戦っていたのだと思われます。」
古生物学者は発掘された現場が3Dイメージとなっていて、その中で話している。男性の骨の隣にもう一つの骨が見られる。
「しかしこれを見てください。彼が発見された場所には、後から埋葬されたであろう、ホモサピエンス女性の遺骨も見つかっております。そしてこのように、抱きしめているんですね。」
骨だけだった二人は肉がついて生前の姿らしきものが再現される。
「彼は彼女ととても親密な関係だったのでしょう。今のような結婚制度はないにせよ、まるで番のように愛し合っていたのかもしれません。もしかしたら女性を狼たちから守りながら死んでいったのでしょうか。」
再現された二人が抱きしめあう映像に代わってから、彼らを祝福するようにたくさんのホモサピエンスとネアンデルタール人が二人を囲って二人に笑顔を向けていた。
「そして近くにはホモサピエンスとネアンデルタール人の骨が近くの谷からたくさん発見されており、これを見ると二つの異なる種族が一つの場所に集まって生活していることがわかりますよね。一般的にネアンデルタール人はホモサピエンスとの生存競争で負けたというように思われがちですが、実は二つの人間種は過去にこのような形で平和に互いを支えながら生きていたということができるのではないでしょうか。この時期のホモサピエンスはユーラシア大陸を旅していて、ネアンデルタール人は一つの場所にとどまるようにしていまし。ネアンデルタール人は現代では残っておりませんが、彼らの遺伝子は今でも人類の中で一部残っていることから、ホモサピエンスとネアンデルタール人の関係が親密であったことを示唆していると言えるでしょう。だけどどうやってホモサピエンスがネアンデルタール人の住処と接触して違う体の構造をしていながらも一緒に生活をすることができたのか、役割分担はどのように行われていたのかは、未だに謎のままです。」