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地獄に天使  作者: ふゆづき
冥界・人界編
42/47

不死戦争

 吐息も凍りそうな日の出前、ドットはいつも通り頬の冷たく濡れた感触で目を覚まし、もぞもぞとベッドから這い出て寝ぼけ眼もそのままにラウルの頭を撫でた。

「……ぉはょぅ……ぅぶっ」

 ラウルは今にも寝そうな彼の顔面を軽く一舐めして顔を洗わせ、身支度を整えにかかるドットを置き去りに玄関でちょこんと座り待つ。

 そうしているといつも通りぱたぱたと小さな足音が向かってくる。

「ラウル、おはよう」

「わふっ」

 小さな天使にも小声で返し、尻尾を振ればグラセルは微笑み一つ残し明けの明星が輝く空へと飛び去った。

「お待たせ」

 低い声だが、それ以前に足音が二つに増えていたのを形の良い耳はちゃんと捉えている。

「今日はリィンも一緒だ。行こう」

 よく油が差された蝶番は音を立てることも無く家の内外を隔て、ドットたちは冷えた大気に身を震わせた。

 明けの明星がようやく輝き出した頃というのもあり、人影はほとんど無く、見回りの警邏や逢瀬や密会等の帰りという者しかいない。

 いつもはドットの影かフードに入っているラウルも本来の、魔界狼としての姿でのびのびと歩き尻尾を振っている。

「いつもこの時間に散歩なんですか?」

「ああ。ラウルはこの時間しか街を歩けないんだ。ラウルはとても大きいし魔界の中でもかなり強い狼らしい。この大きさの時はそこにいるだけで気の強い軍馬でも怖がって一歩も動けなくなるし、グラセル母さんが居ないと気の優しい馬はラウルの気配だけで立ったまま死んでしまうとのことだ」

「もしかしてグラセル母さんが先に飛んで行ったのって……」

「ああ、ラウルの散歩のためだ」

 リィンは横を歩くラウルを見上げた……そう、見上げたのだ。

 本来の姿に戻ったラウルはとても大きく、国内で一番体格の良い馬より大きい。

「あと、散歩は静かな方が良い。昼間と違って夜は街を独り占めできて特別感も味わえるだろう」

「たしかに」

 ふとドットが歩みを止め、リィンの肩をつかんで制止したその時だった。

「誰と寝てんだこのクソ野郎!」

「うわっ」

 怒声と共に目の前の民家から服をつかみ裸で家を飛び出した男が転んだが、ラウルは素知らぬ顔で軽く踏みつけて進み、ドットも見ないふりだ。

「行くぞ」

「え、良いんですか?」

「ほっとけ。自業自得だ」

 ちらりとリィンが後ろに視線をやると、裸の男は必死に自分の頭や睾丸を守りながら逃げようとし、下着一枚な女は泣きながら夫に縋りつきその隙に男は逃げてしまった。

 視線を前に戻したが、音だけで何が起きたかは察しが付く。

「今日も平和だな」

「わふっ」

「あの、父上が若かった頃、この辺りはどんなだったんですか」

 そうだな、とドットは少し足を止めると目の前を横切る大通り、第一城壁通りへと目を向けた。

「問題と瓦礫の山だったし、エルイラーナは今でこそ大陸一つ治めるに近い国土を持っているが、昔は小さな都市国家の一つで、第一城壁通りまでしか確固たる領土というものは無かった。変わってないのは城と神殿の位置くらいだ」

 小さな円形の都市国家から発展、開発された首都は王城を山近くの北側に配し、北以外の方角にそれぞれ一か所の門がある。東西と南北に走る大通りが十字に交わるそこは大きな広場になっており、物流や商売の重要な拠点になっていた。

 手狭になると城壁の外に新たな区画と城壁が設けられ、中にあった城壁は崩され、使える物は建材として再利用、跡地は道路となる。それの繰り返しだ。

「フェジオの兄、アウルムのやったことは知っているだろう? 住人がいなくなった家や町はすぐに荒れてしまうから、俺が牢にぶち込まれた時には既にあちこち脆くなっていたし、そこに魔獣との戦で一度すべて無くなった」

 グラセルはお菓子のおまけ感覚で城門に止めを刺したし。

 今でこそ道は石畳で整備され、段差を付けることで歩道と車道が分けられ、車道には大型の馬車が余裕を持ってすれ違える程の広さがある。横断歩道もあり、色違いの煉瓦が用いられ書き直す手間が省かれている。

「その時、リィンはまだ生まれていなかったし、物心つく前にドーデアンとの戦があったから、その時はララナ母さんと一緒にトトーラの方に避難させたから余計わからないだろう」

 幸い、トトーラは元々遊牧民で移動する事に慣れていたため本隊を補足することは極めて難しく、交易に用いられる都市は各国との関係もあり鉄壁の要塞で戦い難い国であった。

「ドーデアン……グラセル母さんの怒りで壊滅に追い込まれたとか」

 そうだ、とドットはすぐ横の車道を指さした。

「この道はエルイラーナを恨む人間たちで連合軍を組織したドーデアンとの戦での負傷者や戦死者を、速やかに後方へ運ぶために整備されたんだ。疎開を拒んだ者、できなかった者……女子供に至るまで全員が関わった」

 朝一番の鐘が鳴ると馬車は歩みを止め、横断中の歩行者は慌てて歩道に上がり、見ていると車道に水が溢れ、馬糞などの汚物を一気に下水道に繋がっている排水溝へと押し流した。

 この時間になると人々、主に商人が商いの準備をしに出てくる。

「人間の縄張り争いは人間が決着を付けろと不干渉を宣言した天使や鬼たちだったが、なんだかんだと理由を付けては戦闘に関わらない土木工事などには手を貸してくれた」

「そうだったんですか?」

「ああ。食料が乏しいのに食事の席に招いてくれたとか、幼子が小さな花の指輪をくれたとか、そういう小さな理由で雇われてくれたんだ。特に鬼には子供のいる既婚者も多かったから、投石器で死体や病人が投げ込まれる中幼い子供を働かせたくなかったと」

 水が引くとまた鐘が鳴り、歩行者や馬車が往来を始める。

「グラセル母さんも畑や動植物の世話をしたり、その方法を教えたりと色々やっていたんだが、その色々の中に死者の声を聴き、心残りが無いようにその作業を必要に応じて代行するということがあった」

 獄卒としての仕事なのだがその時、グラセルは看取った女性の老人に頼まれてその家を片付け己の仕事に満足したばかりだったのだ。

「そんな時戦で投げ込まれた死体の一つが、グラセル母さんが仕事で掃除したばかりの家を直撃して破壊しただけじゃなく、思い切り汚したんだ。汚された物の中には母さんの服の他にラウルの毛皮があった」

「あ……そりゃ怒りますね」

「わうぅ」

 当然、死者は泣くしせっかく終わらせた仕事も台無しである。

 カンカンに腹を立てたグラセルはすぐに城壁に上ると矢を番え天高く放ち、放たれた矢は爆ぜて無数の光となって降り注ぎドーデアンの戦士たちの胸を違えず貫いた。

『おまえらに死という安寧などあると思うな。死ねない永久の苦痛の中、我グラセルの怒りを思い出せ!』

 城を包囲していた敵軍は原因不明の病に侵され壊滅状態に陥り、神の加護と動植物の助命嘆願がある者しかまともに動けなくなってしまっていた。

「これ幸いと襲ったんだが、投降した者を除いて動けなくなっていた者の急所をナイフで切っても突いても、何をどうしても死ななかった」

「え」

「首を切り落とそうが灰になるまで燃やそうが、奴らは生きていたんだ。それで俺たちは殺すのを諦めて、かき集めた灰や肉片を袋詰めにしてドーデアンへ運び投石器で投げ入れて送り返した。その後彼らは祖国でバケモノ扱いや不老不死の霊薬の材料扱いされたりしても死ねず、鏡を見せられてようやく死ねたらしい。だがそれでも不気味がられて墓ではなく辻に埋められたとのことだ」

 進むと道が交わる辻には必ず小さな広場が併設されており、そこは露店が出ていたり子供が遊ぶ公園になっていたりし、明確な区分が見て取れた。

「広場や公園もそうだが辻には必ず鏡があるだろう。便利というのもあるが鏡を魔除けや魔物封じとする、ドーデアンで最近生まれた風習がそのまま伝わって定着したんだ」

 またいずれの広場にも看板が立てられており、自然災害や火災の時などはそこが避難所になり、市街戦が予想される戦時には王城に逃げるようにと書かれている。

「市街戦や王城での籠城戦を覚悟するくらい、当時のドーデアンは数が多くて強かった」

「ドーデアンと戦ったことは知っていましたが、詩人が歌ってなかったから知りませんでした」

「内容があまりにも残酷すぎるため、従軍神官だけが歌えて、普通の詩人が歌えない詩の一つだ。あと、知っているのは当時を生きた者と歴史書くらいだな」

 道の所々には乗合馬車の停留所があり、そういう所は歩道が狭くなる形で設けられ足腰の弱った人やケガ人などが乗り降りしている姿が見られる。

 また馬が苦手という人物への配慮か、より効率的な物資の運搬のためか街中には水路も張り巡らされ船頭たちの舟歌も聞こえた。

「よくドーデアンを併呑できましたね」

「それだけグラセル母さんが恐れられたんだ。グラセル母さんも『次は更地にしてやる』と怒っていて、それを教えてやったら向こうの使者は真っ青になっていた」

 ドーデアンからしてみれば、嫌がらせ程度にいつも通り死体をちょっと投げ込んだら冥府の天使の怒りを買ってしまって全軍が壊滅し、送り返された兵士たちは何をどうしても死ねないバケモノにされていたのだから当然である。

「父上、その、グラセル母さんは鏡程度で死なせるほど優しい怒り方をするとは思えないんですが」

「その通りだ。肉体が元通りになるなら不死身の兵士として運用できたんだろうが戻らなかったし、肉体が破壊される苦痛がいつまでも続くらしいから死を懇願してた。さすがに俺たちの士気も下がってしまったし、フェジオがクエネル様と共に、可哀想だからもうやめてやれと言ってようやく止まったそうだが、死後の世界こそグラセル母さんの職場だからな」

「あ……赦したわけじゃないんですね」

「たぶんな。あの世の仕組みがどうなっているのかはわからないが……ラウル、彼らは安息を得られたか?」

 耳が横に伏せられ、ぴぃと鼻が鳴った……別の獄卒によるものか、まだ痛めつけられているらしい。

「そうか……生前の責め苦と死後の刑罰は別物なのか?」

「わん!」

 別物らしい。

「ありがとな。リィン、生前と死後の責め苦は全くの別物で、ドーデアンの兵士たちはあの世の法律で裁かれて地獄でも責められているらしい」

「え……えぇ……死後の安息くらいは信じたかったんですが」

「どうすれば死後の安寧が得られるかは隠竹殿に聞け。グラセル母さんには絶対に聞くな」

「どうしてですか?」

「グラセル母さんは天使だ、人間ではない。どれだけ人間に寄り添おうと努力してくれていても、やはり根本から違う。リィンは殺人についてどう思う」

「え……そりゃあ、悪い事では?」

「グラセル母さんは、なぜ多くの人間が殺人を悪い事と認識しているのかが理解できない。それというのも俺たち人間は必要なら何でも殺すし、必要でなくても奪う生き物というのを知っているからだ。法律だって、罰則が記されているだけで殺人を禁止していない。だから、罰則等による不利益を上回る利益が十分あるならやっても良いという結論になるそうだ」

「そんなこと、あるんですか?」

「ある。一度グラセル母さんにドーデアンとの戦に関して聞いてみろ。倫理観が人間とは全く違うから」

「は、はい」

 人間が守り、水の浄化と循環は天使が、水路の活用方法は鬼が考え発展した国の歴史をドットが語っていると、中央広場に到着した。

 広場は活気が満ち始めており、余裕たっぷりの顔をした商人と苦しい笑顔を何とか維持している商人が会話をしていたり、服の生地を選んだりしている男女、呼び込みをする売り子など、様々な景色が飛び交っていた。

「そろそろ帰るか」

 ラウルを怖がる者もいる、とドットが踵を返しかけた時、彼は目にも留まらぬ速さで包帯を巻き杖を突いた女性の背後を取る。

 犬が激しく吠える声と金属が落ちる音がし、それはやけに響き注目が集まった。

「リィン、ラウル、俺の後ろの女を守れ!」

「は、はい」

 鋭い声に駆け寄ったリィンは道に落ちている物が折れたナイフの刀身だと気付き短剣に手をかけた。

「手負いの女を狙うか、卑怯者!」

「うるせえっ」

 リィンの声に返ったのは怒声と常軌を逸した目であった。

「その女さえいなけりゃ、天使とかいうチビに偉そうに説教されたり殴られたりする事もなかったんだ!」

 折れたナイフを握る手は酷く震えている。

「そうか、おまえはグラセルに裁かれたのか」

 ドットが据わった目で言った時、ばさりと羽音がし、リィンが横目で見ればクエネルがいた。

「朝からうるさいぞ。彼女はもうおまえの妻ではない、失せろ」

 しかし、元夫は荒い息で折れたナイフを捨てて錆びてボロボロの剣を抜く。

「もう一度だけ警告する。剣を納め、去れ……ドット、やれ」

「了解」

 糸のように張り詰める空気の中男は狂乱もそのままにドットに向かうが、ドットは一瞬で元夫の懐に入り投げ飛ばして地面に叩きつけると武器を没収し手早く拘束すると警官へと引き渡した。

「お怪我はありませんか?」

「は、はい、ありがとうございます!」

「無事で良かった、良い一日を。クエネル様、リィン、怪我は?」

「無い」

「あ、ありません」

「どうした?」

 父譲りの目を少し泳がせたリィンは、

「本当に、足速かったんだなって」

「そういえば見せたこと無かったな」

 言うドットは女性を守っていた犬にじゃれつかれ、ラウルが短く吠えると犬は仕事を思い出したかのような顔をして女性の横へと戻った。

「どうすれば父上みたいに速くなれるんですか?」

 どう、とドットは首を傾げて考え込んでしまった。

「ドット、毎日グラセルと走り回っていたから、それで速くなったんじゃないか?」

 見かねたクエネルが言えばそれだ、とドットは手を打ち、クエネルは苦笑交じりに似たもの夫婦め、とその場を後にした。

「ラウルや馬に乗るのも良いが自分で走るのも良いぞ。リィンも走るか?」

「はい!」



 ドットとリィンが走って帰宅する頃、冥界では復帰した玖城が隠竹によって放り込まれた偽吟遊詩人こと大筒を無言で嬲り尽くしては再生させ、また蹂躙することをひたすらに繰り返していた。

「やべっ、もう、やめっ」

 切れ切れの悲鳴を聞き流しつつ、拷問器具へと改造されたろくろのペダルを踏み回転させる彼の手には設計図がある。

「これ慣れちゃうな」

 削れて肉片や血が飛んで、鬼によっては汚れると嫌がるかもしれない。透明な壁を付けてはいるけど汚れて視界不良になっているし、動力も川の流れを利用した水車にするのもありだろうか。

「いっそ里芋の皮むき器みたいに、川の中に設置するか?」

 要改良と書き込んだ時、隠竹がやってきた。

「玖城、実験はどうだ?」

「隠竹様! 機械化で作業は楽と言えば楽ですが、単純な自動化は変化が付け難いので一長一短です。水力を使おうにも場所が限られますし」

 鞭だって当たる箇所が限られてしまい、単調な痛みではいつかは慣れてしまうだろう。

「そうか……動力は天使から融通してもらうとしても、単純な機械化はすぐに限界がくるな。ならば今まで通り個人の技術と経験の蓄積が課題になるか」

「た、たしゅ……」

 隠竹が鞭を一閃すると、それはまだ無事だった内腿を鋭く打ち据え引き裂いた。

 悲鳴を上げるものたうち回る事すらできない大筒はびくびくと体を震わせ、涙と鼻水、血液などでぐちゃぐちゃの顔で話し始めた。

「う、嘘を広めて悪かった。落ちてきた天使を爆弾に」

 終わらぬ内に鞭が膝を粉砕し、叫び声が上がるかと思いきや隠竹は素早く剥き出しになった肝臓を吹き飛ばした。

「このくらいの出力や芸当ができる物が欲しいが……天使並みに賢くないと無理か……」

 式神でもある程度はできるが、天使程の賢さは持たない。

「天使……天使か……ん?」

 次の瞬間、隠竹の顔に浮かんだ笑みに玖城の背中を氷塊が滑り落ちた。

「玖城、俺たちは天使を手に入れるぞ」

「は、はい」

「至急グラセルを呼べ」

 呼び出しを受け文字通り飛んできたグラセルに隠竹は、

「大筒の頭の情報を全部抜いて、俺たちにわかる形で出力してほしいんだが、できるか?」

「お任せください!」

 肉片がこびり付いた頭蓋骨にぺたりと触れ、最早叫ぶ事すらできなくなった大筒の体が数度痙攣するとくたりと垂れ数秒もするとグラセルの手には巻物が現れた。

「どうぞ」

「ありがとう」

 受け取りその場で目を通すと隠竹の笑みはますます深まり、見ているグラセルは魔法で手を洗いつつ、お兄ちゃん嬉しそうだな、と暢気なものであった。

「グラセル、玖城、今まで以上に忙しくなるがこれを乗り越えれば俺たちの部署に人が増えるぞ」

「え、そうなんですか?」

「グラセル、天界のクローン天使事件があっただろう、あの事件で生まれたクローンの扱いはどうなっている」

「少しずつ社会の受け入れは進んでいますが、まだ難しいところもあります。今は名立たる天使たちの使用人として修業を積んで、そこから存在を許してくれる天使の下に奉公に出て、それからそのままそこで働くか独立するかという形になっています」

「そんな所に別世界の自分というモノが放り込まれたら?」

「大混乱です。天界でも、しばらくは隔離生活になるかと」

「なら冥界では?」

「あ……そういうことですか。冥界なら私のお家と森もありますし、安心して暮らせると思います」

 家族やお友達になれるかな、とグラセルが期待で胸を膨らませると同時刻、天界にいるミカエルはというと部下たちを前に、

「隠竹のことだ、こんな感じで異界から来た天使たちを己の配下にしようとする。なんとしてでも引き入れろ、うちも万年人手不足だ!」

 引き抜きたかったドットは既にグラセルの手中にあり冥界に取られてしまったため、二の舞は避けたい彼であった。



 朝食の匂いに釣られるようにして戻ってきたグラセルはまぐまぐと自身の分を綺麗に平らげ、片づけを済ませると庭に出る。

 そうして井戸から水を汲んでじょうろに移すと庭の花へと水遣りを始めた。

「グラセル母さん」

「リィン、どしたの?」

「その、母さんから見た対ドーデアンの戦、不死戦争を教えてほしいんですが……」

「いいよ。お花さんにお水あげるからちょっと待っててね」

 花への水遣りを終えたグラセルは居間に戻るとお茶と菓子を用意し、リィンへと語り始めた。

「んーとね、あれはリィンが私の背中で三回目のおねしょをした時だったよ。しかもおむつからいっぱい漏れてたの」

「え……その……ごめんなさい……」



 床を這いあちこちを冒険するようになったリィンはいつものように背中によじ登り、じっと日光浴を始める。

 ちょっと重いけど、温かくて……ん?

「ふ……ふえぇぇ……」

 この泣き方に臭い、感触は!

「ら……ララナ、ララナ!」

 背中をトイレ替わりにされ、泣きながら庭先で服とおむつと体、全部を洗っていた時、鳥たちが歌った。

『グラセル、なんかいっぱい来てるよ。門の人殺されちゃった』

『またお家燃やされちゃうのかな』

『あいつらうるさいからご飯が逃げちゃう……ご近所迷惑だよ!』

「あーあ。また縄張り争いだね」

 人間はどれだけ殺し合って奪い合えば気が済むんだろうね。

 言いつつパンの欠片を鳥に差し出すと、彼らはせっせと啄み水を飲んで大急ぎで飛び立っていった。

 近くに猫が来ていたから、誰だって食べられたくはない。

「人間もこのくらい正直に生きれば楽なのに」

 平等が良いって言うくせに、全く同じ面積と同じ質の土地を与えたとしても結局は隣の人の命まで奪うんだから。

 奪ったり殺したりするのはいけないことって自分で言ったのに手は血塗れ。嘘吐きばっかり。

 うんざりしちゃうんだから。

「グラセル様、ドーデアンが攻めて来たので対策会議を行います」

「わかった、今行くね」

 呼ばれた先の会議では天使や鬼、悪魔も何人か出席していたけど、単純な人間の縄張り争いってわかったから全員不干渉を宣言して退席した。残っているのは従軍神官にして魔界の天使であるニルハムさんと、法の天使としてフェジオを補佐しているクエネル、そしてドットの妻である私だけ。

「……人間だけでどうにかするのは厳しいな……」

 ドーデアンを主体とした連合軍の数は約五千。こちらの五倍の戦力だという。

 数だけなら逃げた方が良い。

「うんしょ……っと」

 お行儀が悪いけど、机に乗らなきゃ地図が見えない。

 敵はエルイラーナの門前に布陣して、攻城兵器まで持って来ているんだ。要求は……命もお金も全部寄こせ、ね。

 自分の命すら管理しきれていないのに他人のまで欲しがるの。

 布陣も人間にしてはよくできているけど、個人の武装には統一性が見られず、士気や練度にもばらつきがある。

 首都は籠城戦で耐え、その間にシラネとトトーラの方から軍を出して連中の背後から強襲するか、一撃離脱で削り続けるか、首都に夢中になっている連中の本国を灰にすれば勝ち目はあるけどフェジオはどうするんだろう。

 ちら、とクエネルを見ると『人間に気付かせろ。直接言えば法に引っかかる』と通信で言われちゃった。

「グラセル、人間にできる範囲で何かいい案はあるか?」

 フェジオに聞かれちゃった。ちゃんと答えないといけないけど、直接言っちゃダメなんだよね。

「あるけど、私のお話に付き合ってよ」

「お、お話?」

「うん。ねえフェジオ、軍隊って、戦士って何を守ってるの?」

「え、それは……国だ」

「国ってなに?」

 フェジオは眉根を寄せてじっと見てきた。

「……そうか、兵にとって国とは家族か」

 やっぱり、フェジオは賢い。

「そうだよ。で、兵隊はどうして戦うの? 痛いのも苦しいのも嫌なのに」

「戦争で失うものより得るものの方が多いと判断した、上からの命令があるから」

「そうだよね。でも兵隊は何のために戦うの?」

「……家族のため」

 もういいかな。いいよね。

「ねえフェジオ。私とララナの夫、ドットはすっごく強いけど、一人しかいないし、私たちみたいに飛べるわけじゃないよね」

「まさか、空き巣をやれと?」

 大正解!

「うん! あれだけの数の兵士を出しているから、お家の方は手薄になっていると思うの。別動隊出して、派手に燃やして片端から灰にしちゃえば良いと思う」

 あ、クエネルが頭を抱えた。

「グラセル、飽きて面倒になっただろ」

「うん、飽きちゃった! それに一人も逃さず焼き殺せとは言ってないから、ちゃんと手加減しているよ。私がエルイラーナ兵を率いて本気でやるなら、首都を空っぽにして明け渡してお城ごと丸焼きにしちゃうし、敵が空き巣に夢中になっている間に敵のお家に放火して回るんだから」

「え、ちょ、グラセル?」

「食べ物もお家も全部燃えちゃったら、仲が良い他所のお家に避難するよね。その際にあそこに行こうって誘導して、燃やすのを繰り返して、最後一か所に集めて全部燃やすの」

 都市国家の門扉は重たく頑丈に作られているから、開門にも焼け落ちるまでにも時間がかかる。城壁から飛び降りても大体死ぬし、生き延びても骨折するから治療と人手や物資が必要になる。

 それに最後はわざわざ燃やさなくても良い。難民の受け入れや支援にも限度があるし、ほっといても衛生と治安が悪化して疫病や内紛が発生して自動で数を減らしてくれる。

 そうして追い詰められた者たちを城壁の内に籠っている者や、連合軍にけしかけても良い。

「帰るお家と食べ物が無ければ戦争なんてできないよね」

 やりたい放題だよね!

「あとは……頑丈なお城を持つ国の兵士や民に噂を流すよ。派兵は口減らしの一環で、偉い人が城壁に隠した財宝を独り占めするためだって」

「おまえは悪魔か」

 もう、クエネルったら。

「私は天使だよ。どんなに強くて賢くても、生きていればみんないつかは私の職場に来るんだもん。現世の状況や死因の調査も冥界の仕事だもん」

 クエネルが机に伏せちゃった。眠いのかな。

「やっぱりそういう情報の蓄積は冥界には勝てないね。グラセルちゃん、後で共有して。魔界の動植物の最新情報と交換しよう」

「うん! で、フェジオはどうするの?」

「ちょっと考えさせてくれ……クエネル、グラセルの案を全部採用した場合後の外交に影響が出るだけじゃなく、国内が不安定になると思うんだが?」

「ああ、やり過ぎの一言に尽きる。今回グラセルは現在のエルイラーナ兵が確実に実行できる範囲での作戦立案を行ったが、外交に影響が出ると思うなら、出ない範囲でやるしかない……私にも制限が掛かっているから、フェジオたちに気付いてもらうしかないんだ。すまない」

「気付けるように足跡をたくさん残してくれているだろう? さて、どうするかな」

 わあ、クエネルと同じ顔で考えてる。

「グラセル、頼みたいことがあるんだが」

 ドットがすまなそうに言ってきたけど、ダメなものはダメって言わないと。

「魔獣も同格もいないし、人間の兵士として戦うことはできないよ」

「わかってる。だから俺の妻として、希望する非戦闘員をトトーラの方に逃がしてやることはできるか」

「それならできるよ。ドットは逃げないの?」

 綺麗な若葉色の目を見ると、澄んだ泉のように静かだった。

「逃げない。戦う」

「せっかく拷問から生き残って、リィンも生まれたのに、戦ったら死んじゃうかもしれないんだよ?」

「家を外敵から守るのが俺の仕事だ。それと俺は隠竹様たちから、妻子に恥をかかせるような男はダメだと学んだ。グラセル、死んだら迎えに来てくれ。それと、俺が死んだらララナとリィンを頼む」

 あ、本気で言ってる。

「ん、わかった。ドットが死んじゃったら、全部綺麗なまま回収して、残った家族のお世話をするね」

「ありがとう。グラセルに迎えてもらえるなら頑張れる。あと、これを返しておく」

 渡されたのは私の羽から作った、真っ白な剣。

「これは人間に使って良い物じゃない」

 持ってて良いのに……なんだか胸がもやもやする。

 じっとドットを見ていると、くしゃくしゃと頭を撫でられた。

「グラセルも、仕事頑張ってくれ」

「ん……わかった」

 家に帰るとララナがリィンのおむつを替えていた。

「ただいま」

「おかえりなさい。どうだったの?」

「ドーデアン連合軍と戦争することになって、戦力差が大き過ぎるから籠城戦が想定される。非戦闘員は疎開することになったよ」

「……そう……それでグラセルは?」

「私は疎開する非戦闘員を疎開先まで送り届けるのが仕事。私たちは強過ぎるからドットたちの味方はできない」

「強過ぎる?」

「うん……私は天使の中でも子供だけど、本気になったら三つ数える間に余裕でエルイラーナ以外の国や村を指先で潰すように全部滅ぼすことだってできる。隠竹さんやクエネルたちはそんな私を制圧、捕獲することができるくらいに強いよ」

 クエネルは守ることを一切考えなければまだ私に勝てる。

 言ったらちょっとララナの顔色が変わった。

「もしかして、グラセルは鬼や天使の軍団の中で弱い方?」

「そうだよ。私はまだ子供だし。ドーデアンを滅ぼすのは簡単だけど、私が守ってたんじゃエルイラーナの人たちは自分で戦うことを忘れて弱くなっちゃう。リィンだって、今は大人が守ってるけど大きくなったら守る側になるでしょ。でも大きくなっても赤ちゃんと同じ扱いするのは明らかに間違っているし、残酷なことだと思う。それと同じ」

「待って。あなたたちにとって今のエルイラーナは赤ん坊? それとも大人?」

「わかんない。本当は味方したいし、ドットもフェジオも、みんな助けたいよ。滅んじゃったら元も子もないし」

 本当は、ドットのためにあいつらみんなやっつけたいけど、それやったらミカエル父様も隠竹お兄ちゃんもまとめて怒られちゃう。

 こういう時はどうするんだっけ……ルールをすり抜けるしかないよね。法の穴を突くって言うんだっけ。

 私に課せられている法は「生者をむやみやたらに殺さない」と「人間の争いは極力人間だけで決着をつけさせる」だ。ただし、人間からこちらへの攻撃があった場合は自衛できるし、攻撃をする素振りがあれば先制攻撃もできる。

 あとは……。

「公務執行妨害に対し、天罰という形で罰が与えられる……人間がやらかさないとダメだし、そんな都合の良いことあるかな?」

 もう、面倒臭いなあ。食べもしないのにわざわざ殺さなくても、ほっとけば死ぬからそっちの方が楽なのに。

 わけわかんない。

 むすりとしながら魔法で馬と馬車を作り、疎開する人々を乗せてトトーラへ向かう。

 御者台には同僚の鬼も一緒だ。

「そんじゃ、行きますかね」

 鬼が魔法の馬に軽く鞭を入れると、馬は文句も言わずゆっくりと歩き出す。

「開門!」

 当然、門を開ければそこにはドーデアンの兵たちが居る。

「止まれ!」

 連合軍の制止も予想できていた事。

 今は、人間の声なんて聴きたくない気分なのに。

「……うるっさいなぁ……」

 ――武装選択・非殺傷兵器――

 馬も鳥も、虫すらも逃げ出す中御者台の鬼が瞬時に立ち上がり声を張り上げた。

「退け、死にたくなければ失せろ!!」

 鬼の怒声に人間たちの士気は粉砕され、転がるように逃げ惑い道を開け、馬車は悠々と進む。

「ふぅ……グラセルちゃん、殺す気だったろ」

 失礼な。ちゃんと決まりごとは守るんだから。

「ちょっとうちわで扇ぐだけだって」

「それ、台風うちわの試作機じゃなかったか?」

「てへ」

「可愛く笑っても誤魔化されねえからな。そんな物を天使の力で振り抜いたら壊れるし、地面が散弾になるぞ」

「人間以外が可哀想だからちゃんと手加減するって」

「何かあったのか?」

「うん……人間ってさ、食べもしないのに毎日無駄に殺して、その度にもうしない、もうやらないって言ってるのにまた殺し合いじゃない。嘘吐きだなって」

「そっか、グラセルちゃん嘘がわかるんだったな」

「うん」

「でも、ドットも人間だろう? なんで上手く付き合えているんだ?」

「ドットは嘘吐かないから。ちゃんと言えないものは言えないって言うし、わからないものはわからないって正直だもん」

 ガタゴトと音を立てて馬車はトトーラへ進む。

「本当は、ドットと一緒に戦いたいよ。できるならお家や家族を傷つける奴なんてみんな滅ぼしてやりたいもん。でもやっちゃダメだし」

「そういうことか……俺にも、女房と生まれたばかりの子供がいるんだ」

 馬車の中から赤ちゃんの泣き声と、あやす声が聞こえてきた。

 お腹が空いたんだね。

「家に残してきたけどやっぱ心配だし、種族が違うってわかっちゃいるが重ねちまう。城壁内には避難できないのもいるし、どうしたもんかってな」

「そういえば、鬼は課された法と種族の矜持や面子とどっちに重きが置かれるの?」

「それは鬼によるとしか……ただそうだな……いやそっか、その手があったな。グラセルちゃん、ありがとな」

「どうしたの?」

「最近は緩くなっているが鬼ってのは、上からの命令は絶対で、破れば連座制で一族が滅んでもおかしくないんだ。だが、当然対策もある。

 今回の命令で最も重要なのは、俺たち強い種族が直接戦わないということだ。また面子や矜持で重要なのは仁義を重んじ、報いること。グラセルちゃんは、少ないご飯を一緒に食べようって誘ってくれた人が危ないって時、どうする?」

「え、助けるよ」

「戦っちゃいけないのに、どうやって?」

「担いで逃げ……そういうこと」

「直接武器を振り回すだけが戦じゃない。小さな子供にとっては、いつも通り過ごすことすら戦いだ」

「でもそれ鬼にしかできないよね」

「天使は法の縛りがきついらしいもんな。でも、公務執行妨害などにおける反撃の火力は天使の方が上だろう? ってなわけで、城壁内の死者の誘導や御用聞きは任せた。俺は今から手紙書くから、お馬さんよろしく」

「うん、わかった」

 私が手綱を持つと鬼はさらさらと手紙を書いて、大あくびをしている冥界カラスに持たせる。

「じゃ、エルイラーナ城壁内で一番近い鬼によろしく」

「グエェェ」

 カラスは『へぇい』と面倒臭そうにばっさばっさと飛んで行った。

 冥界カラスはもうちょっとかわいい鳴き方だったはずなのに、あれはどこで覚えたんだろう。

 隠竹お兄ちゃんのカラスはいつもキリッとしていて真面目だし、玖城お兄ちゃんのカラスは甘えん坊な頑張り屋さんだ。

 書庫の神路さんのカラスたちはみんな体が大きくて大人しくて、本を読んでいる子が多かったな。

 しばらくするとトトーラの交易都市、ミトーが見えてきた。

「ララナ、もうすぐミトーだよ。お兄さんと連絡取るにはどうするの?」

「ミトーから専用の鷹を飛ばすの。一週間もあれば兄さんが来てくれるわ」

「一週間か……長いな」

「うん……この馬車くらいに高性能な物なんてないし、普通の馬は疲れるから」

「移動にも不慣れだと襲われやすいよね」

「う、うん」

「わかった。ラウル、ララナとリィンを守れ。それ以外はおまえが判断しろ。魔界チワワの群れの使用を許可する」

『かしこまりました』

 ラウルは少し大きい子犬程度の大きさで影から出るとリィンの側に行った。

「ラウルたちは自分で狩りができるし、お弁当も持っているからご飯に関しての心配は要らないからね」

「わ、わかったわ」

 初めて訪れた交易都市ミトーは色んな人や物で溢れていて、ドットたちと一緒に見てみたかった。

「それじゃあ、気を付けてね」

「ええ、グラセルも……ドットをお願いね」

「うん」

 その後、私たちは軽く冥界のお仕事をして『荷物』を馬車に積むと二人きりで首都に戻る。

 城壁内に戻る途中、やっぱり連合軍が居た。

「積み荷を全部寄こせ!」

「そんなに欲しいの?」

「ああ。荷物を渡せば命までは取らない」

「わかった。積み荷はあげるよ」

「箱はどちらか一方しか開けられない。よく考えろよ」

 魔法の馬と荷車を消すと、残ったのは豪華で大きな箱と粗末で小さな箱だけだったけど、連合軍の兵士が盗賊のように群がった。

「じゃ、私たちは通るよ」

 城門を通り、閉まったのを確認すると私は鬼を抱えて一気に飛んで城壁の上に着地し、下を見る。

 欲に駆られた人間たちは小さな箱には目もくれず大きな箱をこじ開けた。

「あーあ」

 開けちゃった。

 途端、黒い霧のようなものが彼らを取り巻き悲鳴が上がり、彼らは錯乱状態に陥り同士討ちを始めた。

「グラセル様、あれは……何があったんですか?」

「冥界で扱う荷物を人間が開けたからああなった。生きている人間の念ってさ、凄く強いんだよ。それが大切な誰かを守るなら良いんだけど、敵意や悪意が積み重なって呪いになると駆除対象になる。大きな箱はそういうのを詰め込んでいたんだ」

 人間の術師であっても単独では封印すらできず、ただ喰われるしかない。

「では、残ってるあの小箱は?」

「幸せの空き箱」

 当たり前の事に幸せがあるのにね。

「人間、おまえも覚えておけよ。温かい飯と安全な寝床に健康とか、そういうのって当たり前じゃないからな」

「は、はい」

 翌日、とうとうフェジオ率いるエルイラーナ軍と連合軍は衝突した。

 私は畑や温泉の管理など、いつもの仕事に加えて城壁内で多くの人を看取っては迷子にならないように誘導して送り出し、遺言に従って遺品を整理したり遺族が後を追ったりしないように見張ったりした。

 鬼たちは一緒にご飯食べたとか、小さい子が花冠をくれたとか、そういうことを理由にして小さい子供の仕事を手伝っている。

 たまに飛んでくる病人や死体から子供を守って……あーあ、せっかく作った道がドロドロ。

 まあしょうがないよね、戦争だもん。

 私の夫はちょっと怪我してるけど、まだ生きてるし、今だって元気に石を投げてる。

『グラセル様、お願いがございます。家の食料品が腐ってしまう前にご近所さんや前線の兵士たちなどに良いように分けて、軽くで良いので家を掃除してください。このままじゃ死に切れません』

「いいよ」

 上品な老婆の頼みを引き受け、ようやく掃除が終わろうかという時だった。

『グラセル様、ご報告がございます。ミトーにて魔獣の群れを確認しましたのでこれを殲滅しました』

「ありがとう、お疲れ様」

 ご褒美にラウルを撫でようと手を伸ばしたら突然何かが屋根を突き破り、埃が立った。

「うわっ……あ……」

『これは……同族でしょうに、なんと惨いことを……』

 私の服とラウルの毛皮、そして掃除したばかりのお家は飛び散った人間の死体の肉片や血液などの汚物でドロドロに汚れてしまった。

『こ、こんなの、あ……あんまりです!』

 老婆は顔を覆って泣き出した。

 思い出の詰まった家は修繕どころか建て直しを余儀なくされるだろう。

「公務執行妨害、現認――報復を開始する。ラウル、彼女を頼む」

『は、はい!』

 私は家を飛び出して城壁に飛び乗り弓矢を構えた。


 目標、ドーデアン連合軍兵士


 ロックオンした途端、一部の馬や犬が飼い主を連れて逃げ出したり、神や精霊が少数の人間を庇ったりした。


 加護と嘆願がある者を除外する――厄災の矢、発射


 空高く放った矢は爆ぜて雨のように戦場に降り注ぎ、連合軍の兵士たちの胸を貫いた。

「おまえらに死という安寧などあると思うな。死ねない永久(とこしえ)の苦痛の中、我グラセルの怒りを思い出せ!」

 厄災の矢そのものに殺傷能力は無い。ただ動けなくし、死と狂気を奪うだけだ。

 矢を受けた者はどんなに肉体を壊されようとも死ねず、傷が癒えることも無く、狂うこともできず、その苦痛が寿命を迎えるまで――生まれてから約百年経過するまで休みなく続く。

 同じ個所に受けた痛みは普通上書きの処理がされるが、これはそれを許さず追加の処理へと強制変更する。

 仮に切られた後に焼かれたなら、切られた苦痛と焼かれた苦痛を同時に味わい続けることになるのだ。

 矢の効果で動けなくなった連合軍をエルイラーナの兵たちが止めを刺しにかかる……が、血の雨が降り悲鳴が上がるだけで、内臓を零しても青白くなった手足は苦痛に跳ね回り暴れ続けている。

「こ、この、バケモノ!」

 一部の兵士は多少手間がかかっても首を切り落としたが、その首はしきりに殺してくれと訴え、首が無くなった死体は中身を零しながらのたうち回るのに忙しい。

「ダメだ、縛れ! 網や袋で捕獲しろ!」

 首を落としただけでは動き回るので手足を切り落とし、バラバラにされた人体は薪のように縛られて袋詰めにされ、人間たちはなんとか連合軍の兵士たちを死なせようと無駄な努力を始めた。

 燃やしたり水に沈めたり、薬品で溶かしたり、よく思いつくな。

「グラセル、あれから三日経つが全軍の士気が落ちてきている。さすがにやり過ぎじゃないか?」

「クエネル、あいつら私のお仕事を何度も邪魔したんだよ?」

 畑や牧場にまで死体が飛んできたし、ラウルから聞いたけどミトーの泉や井戸に毒を撒こうとしたもん。

 こっちは泉の神と井戸の神が怒ってラウルに防衛を依頼してことなきを得たけど、下手したら可愛いラウルや魔界チワワちゃんたちがお腹を壊していたよ。

「ミトーの水源だけじゃない、首都で私が管理している温泉まで襲ったんだよ。タルムがボコボコにしたけど」

 いくらクエネルの頼みだって聞かないんだから!

「本来の寿命まで苦しめばいいよ」

「ぐ、グラセル……あ、フェジオ」

「グラセル、ちょっと良いかい? もう何をどうしても殺せないってわかったから、一度奴らをドーデアンに帰してやることにしたよ」

「ん、わかった」

「それで頼みがある。向こうが使者を立て、降伏したならあの矢の効果を消してくれないか」

「なんで?」

 フェジオの目が丸くなった。

「人間は死にたくないんでしょ? だから安全な場所を奪ったり他人を殺したりする。お腹が空くから他人の食糧を奪う。あれの効果は年老いても空腹でも、それこそ灰になっても正気を保ったままで本来の寿命を迎えるまで死ねない。人間の理想なんじゃないの?」

 代償は行動不能と苦痛だけど。

「グラセル、死ねないのと死なないのは全然違うぞ。それは地獄の責め苦よりキツイと思う。もうその辺で勘弁してやれ。拷問なら地獄でもっと色々できるだろう?」

「人間の、エルイラーナの王としてお願いします。どうか怒りを解いて、連合軍の兵士たちを苦痛から解放してやってください」

「……わかった。向こうがちゃんと降参したらやめるね」

「ありがとうございます」

 荷物を投げ入れたドットたちが戻ってきて一週間後、病人のように真っ青な顔をして窶れた男たちがフェジオの前で跪いていた。

 ドーデアンの王とそれに従った小さな国々の王たちだ。

「こ、降伏します。命も何もかも差し出しますので、グラセルと名乗った少女の怒りを解いてください!」

 ごちっ、と額を床に打ち付ける音がして血が流れている。

 床が汚れちゃうのに。自分が掃除しないから別にいいやとか思ってない?

「だそうです、グラセル様。敵とはいえ憐れなので、そのお怒りを解いてはくれませんか」

「わかった。死ねない者の側に鏡を持っていけ、それで終わる。だが、次があったら更地にしてやる」

「は、はいぃっ」

 すぐに鷹が飛んで行って、私は放った矢に条件を一つ付け加えた。

 鏡が近づいたら効果終了、と。

 一日以内に矢の効果が鏡によって全部終わった反応があり、小さく息が漏れた。

 政治に関しては私の仕事じゃないから知らない。

 でもドットの仕事は終わりだよね。返してもらうんだから。

「ドット、大丈夫?」

「あ、グラセル……ただいま。弓矢、助かった、ありがとう。あと、グラセルが無事で良かった」

 ドットのお腹は包帯がぐるぐる巻きで、観察すると内臓にまで傷が届いているし熱もあって苦しそう。

「ドットが生きてて良かった。治癒の魔法は受けたの?」

「いや、順番待ちだ。癒し手が足りないんだ」

「そっか、そうだよね。人間の治癒魔法使いは一日に五回使えれば凄い方だったもんね」

 じゃあしょうがない、私が魔法を使えばいいよね。

「ねえドット、私と取引しない?」

「とり、ひき?」

「うん。これを差し出すからあれやってっていうやつ」

 ドットは数呼吸置いてから頷いてくれた。

「わかった。そうだな……今回の戦で手傷を負ったエルイラーナの、動植物を含む民をできる限り治してやってくれ。代価は……俺がグラセルの望むことをする」

「うん、良いよ、契約成立ね。ドットが治ったら色々やってもらうんだから。でもドット、こういう契約でなんでもしますなんて答えちゃダメなんだからね」

 本当に危ないんだから。

「グラセルなら良い」

「もう……それ言われちゃ何も言い返せないじゃない。じゃ、始めるね」

 光と風の支配権を握り、掌に集めた癒しの魔法をタンポポの綿毛を飛ばすように散らせば傷ついた命たちに向かい、触れると爆ぜて傷を覆い癒した。

「しばらく体が熱くて怠いと思うけど、ちゃんと綺麗なお水飲んでゆっくり休んでね。シズンさんも、お茶飲んで休んで」

「ありがとうございます。後学のため、今の魔法を教えてください」

「良いけど、今のをそのままやると死んじゃうから、もっと簡単なのにするね」



「……それでね、ドットが元気になって、ララナとリィンたちが戻ってくるまでずーっと抱っことなでなでしてもらってたの!」

「は、はぁ……グラセル母さん、父上が傷を負った時、怒らなかったんですか?」

「怒るっていうよりも、悲しいのが大きいな」

 すっかり空になったカップに温かいお茶が注がれた。

「ドットは死んだら全部私の物になるから、そりゃあ寿命まで頑張って生き抜いた方が良いよ。でもお仕事とか事故で死んじゃったらしょうがないから、そこは許してあげる」

 でもね、とその先の顔をリィンは直視できなかった。

「精神や魂に傷を残すような、嬲り殺しは必ず報復するよ。ドットは将来私の財産になるんだから、それを損なう行為は絶対に許さない。地の果ての向こう側まで追いかけて、何兆年かけてでも滅ぼしてやる」

「そこまでだ」

 ぽすり、とグラセルの頭に武骨な手が乗った。

「あ、ドット」

「殺気が漏れていたぞ」

 ようやく色が戻った視界にリィンはぜいぜいと肩で荒い呼吸を繰り返し、滝のように流れる冷や汗や脂汗を拭う。

「え……あぁっ、リィン、ごめんよ!」

 どうしよう、と慌てるグラセルをドットが抱いて押さえる間、タルムが呆れ顔でリィンを抱き上げベッドへと運んでやった。

「タルムさん」

「ん?」

「死ぬかと思いました……父上はなんで平気なんですか」

「ドットは慣れてるから」

「うぅ……」

「そんなことより、天使の倫理観に関して知ろうとしたのか?」

「はい。父上が、グラセル母さんの倫理観は人間とは全く違うって」

 まったく、とタルムは嘆息する。

「聞くなら隠竹か私にしておきなさい。良いか、天使に限らず竜族も鬼も、人間とは根本的に違う種族だから違う理屈で動くのは当たり前だ。特に仕事中の天使は法で動く。そこに情けは無い」

 例えば、とタルムは口を開いた。

「深い川の渡し船に天使の船頭がいたとする。渡し賃は前払い制だ。

 ある日一人の女性を向こう岸に渡した後、子供が泣きながらやってきて対岸に母親がいる、はぐれてしまったと訴えた。

 人間や鬼なら憐れんで渡してやることもあるだろうが、仕事をしている天使は確実に子供にも渡し賃を請求する。そういう生き物だ」

「渡して対岸にいる親に料金を請求するということは?」

「無い。前払い制という制度が変わらない限り絶対に無い。人間と倫理観が近いのが鬼と悪魔だが、鬼は騙されたりしたら必ず命を奪うし、悪魔は白紙の念書を作り、我等竜族は倍の料金を吹っ掛ける」

 そういう意味では天使は平等ともいえる。

「よいか、人外と契約する際は、必ず法の天使を味方につけろ。でないととんでもない目に遭うぞ」

「は、はい」

 頷くリィンだがグラセルは涙目で訴える。

「タルム、私たちそこまで外道じゃないと思うんだけど」


 す、と差し出されたのは鏡だった。

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