グラセルの家出
森での一件から都市部での暮らしを強いられるようになったグラセルは一応の養い親であるミカエルの館にいた。
「父様、学校から音読の宿題が出てて……」
「忙しいから後にしてくれ」
「あ……はい。何時なら良いですか」
今日は無理だという一言に表面上はうなずきつつ、グラセルは今日もの間違いでしょこの大ウソつき、と内心毒づいた。
このような調子で家主とろくに顔を合わせぬままに数日が過ぎ、グラセルに発生していた問題は放置されていた。
「くしゅんっ、くしゅんっ」
館の持ち主がグランマークのように大地と水の扱いに長けた天使なら良かったのだが、ミカエルは火の扱いを最も得意とし、火の力を最も心地良いと感じる感性の持ち主だったのが災いした。
相性の悪い場所へと放り込まれたグラセルは環境に上手く適応できず、更に防犯装置への登録もされないままであったため館の敷地内に一歩でも足を踏み入れれば全身が鉛のように重くなっていた。
環境との相性でろくに休めず、防犯装置には睨まれ、学校から下された処罰の術式と防犯装置の術式が干渉し合った結果、都市にいる間のグラセルの力は非力な人間と同じくらいにまで抑えられてしまっていた。
ふらふらする体を引きずるようにして学校に徒歩で向かい、教室に顔を出すとウィネルとクエネルが大丈夫かと声をかける。
「酷い熱。保健室行こう」
「隈も酷いな……眠れてないのか?」
「わかんない……怠い……眠い……」
ウィネルが目を吊り上げた。
「元気なら怠かったり眠かったりするわけないでしょ」
「宿題も全然できてないし、どう見てもおかしいぞ。ウィネル、保健室に連れて行くから手伝ってくれ」
「うん」
二人によって早々に保健室へと担ぎ込まれたグラセルは早退の選択肢に顔色を更に悪くした。
「げ、元気になったから、教室に戻るね!」
「そんな身体でどこに行くの!」
「教室だよ。無性に勉強したくなって」
肩をつかんでいたウィネルが目を吊り上げた。
「鏡見て、どう見ても病人でしょ!」
ぐりん、と顔が鏡に向けられすぐに戻された。
「ダイジョウブ、モンダイナイ」
「グラセル!」
更に毛を逆立てるウィネルと逃げを打つグラセルを見ていたクエネルが口を開いた。
「ウィネル、グラセルを教室に連れて行ってやってくれ」
「わかった。机くっつけよう。辛かったら寄りかかって良いからね」
「ありがとう」
「私は後から戻る」
クエネルはふらふらしているグラセルをウィネルに任せ、グランマークを探し始めた。
「やあ、誰かお探しかな」
「先生を探していました。グラセルの事ですが」
「ああ、家に帰るのを全力で拒否していたね」
「ミカエル様とグラセルの間に何があったんですか」
あれは普通の嫌がり方ではない。
「うん……残念だけどキミは知らない方が良い」
「わかりました。では、私たちでグラセルにしてやれる事はありますか」
「無いよ。愚痴でも聞いてやりながらいつも通り過ごしなさい」
「……わかり、ました」
悄然と肩を落として去る小さな背を見送り、グランマークは思考を走らせた。
グラセルが提出した書類はミカエルが書いたとされているが、筆跡が微妙に異なっていたし、使者が飛んだ日とグラセルが館に行ったとされるその日、ミカエルは職場の執務室で再生中だった。
筆跡の違いも誤差の範囲で収まり、事前に書いていた物を持って行ったのではと言われてしまい、取り下げて改めて書いたものを提出するという案は却下されてしまったとミカエルも頭を抱えていた。
アリバイに関しては使者が飛んだ日は執務室の机の傍で倒れており過労死が確認されている。
グラセルが学校に行った日は、過労死から再生して時計を見て慌てて立ち上がった際に蹴倒した椅子に躓いて転び、棚の上に置いてあった置物が落ちて頭を直撃。気絶して医務室に担ぎ込まれた姿を複数の部下が見ている。
ではグラセルの書類を書いたり、汚いと言って風呂に叩き込んで芋のように乱暴に洗ったりしたのは誰か。
「ちょっとまずいな」
学校の書類も一応は公文書にして契約書だ。これにより学校の敷地内にいる限り教職員の権限は保護者のそれに優越し、子供たちに対しての命令権を有する事になっている。またこの契約を破棄、改変するには上級天使二名の承認を得る必要がある。
近場の上級天使というと自分くらいだが教職なので除外されてしまう。
ミカエルもグラセルの保護者であるため除外されるので、人を集めなくては。
有名どころの天使は全員遠方にてせっせと働いており手が離せそうにない。同じ上級天使で千里眼持ちのヤムとマクールも教職だし有給を取って優雅に海底散歩……あ、気づかれた。
水中ではド派手で際どい水着姿の二人が笑って手を振っていた。今日は女の子の気分だったらしく、自慢らしい豊満な胸部を見せつけるようにポーズを取っている。
水圧で潰れた胸なんてどうでもいいし、のんきに手を振ってる場合じゃないんだって!
思念で通信を入れようにも環境が悪すぎて繋がらず、それどころかバカンス中に仕事を思い出したくないと通信機を机の引き出しの中に入れて行きやがった。
しょっぱい顔になるのが自分でもわかり、二人は水中で大笑いしている……覚えておくからな。
ハンドサインを読み解けば『やーい羨ましいだろー!』である。
こちらもハンドサインで帰ったら覚えておけと伝えると舌を出して泳ぎ去った。
「グランマークの顔超笑えたね! でも良かったのかな」
考える素振りを見せるヤムにマクールは良いんじゃないの、と軽く手を振った。
「本気を出さないって事はそこまでヤバくはないか、グラセルちゃんの成長に必要な事が関わってるんじゃないの?」
その教職員という縛りを超え、戦時中並みの本気を出すという事など考えもしなかった天使は頭を抱えていた。
「学校から宿題が出されるっていう意味も……いや、待てよ」
千里眼で覗き見るとグラセルはぼうっとした頭でウィネルとクエネルに愚痴を言っている。
『昨日も宿題が有るって言ったのに、あの変な鳥、忙しいから今日は無理って……今日もの間違いじゃん。大ウソつき!』
しかしミカエルは昨日中央で夜通し書類を裁いていた。これが意味する事はただ一つだ。
早々に理由をつけてグラセルを寮に戻す必要があるが、教員として打てる手は限られている。こんな時に過去を見る目があればとも思うが自ら手放した力だ、虫が良いにも程がある。
ほんの少しだけ未来を見てみようかと思ったが、途端胸の内に冷たい風が吹き抜けて息が詰まった。
自分はなんて臆病なのか。
そう思った時、古い戦友から久しく無かった便りを受け取った。
『グラセルの守りは任せろ』
短いそれにグランマークはゆっくりと微笑む。
「そうか、キミはそこにいたのか」
なら安心だ、とグランマークはいつも通りの仕事にかかった。
その日の夕方もグラセルは徒歩でミカエルの館に戻ったのだが、下校して自宅の門を通る頃には日はとっぷりと暮れてしまって星が瞬いていた。
夜風に乗って使用人たちの声が届く。
「あの子、いつまでいるつもりなのかしら」
「今月いっぱいだって。罰だっていうけど、何やらかしたんだか」
ミカエル様に迷惑かけるなんて。
ぎり、と歯を食いしばる。
「好きで、こうなったんじゃない」
そんなに迷惑なら消えてやる。
ふらふらする体を引きずるようにして与えられた物置小屋同然の自室に戻ると、人狼族の女性使用人がいた。
茶色の耳と赤い尻尾を揺らしながら振り返る彼女の顔は浮かない。
「グラセル様、おかえりなさいませ」
「ルプゥ、ただいま……また怒られちゃうよ?」
良いんです、と老いた彼女は言う。
「私が先輩たちに比べて無能なのは本当ですから。それより、お食事にしましょう。粗末ではありますが持ってまいりました」
彼女はそっと服の下から包みを取り出した。
「どうぞ」
「ルプゥ、これはあなたのご飯じゃ」
「グラセル様」
受け取れないとグラセルは首を振る。
「私は天使だし、一日くらい食べなくても大丈夫だけど、ルプゥはもう何日も食べてない。死んじゃうよ」
「グラセル様……遠い昔に受けたご恩を、この年寄りに返させてはいただけませんか」
「恩? 私は何もやってないよ」
ルプゥはそっとグラセルの頬に触れて伝う涙を拭った。
「大昔、天使と人狼族が争った時、私は村を焼け出されて今で言う英知の森に逃げ込みました。獣に追われたり手傷を負ったりして泣くばかりだった小娘を、あなたはその身の内に匿ってくださった」
「あ、あれは……狼さんたちがやっていたから」
「ええ、真似しただけだったのでしょう。当時のあなたには今のような自我は無いように見えましたから。ですがあなたに匿われ、森の外に出される頃には戦が終わるくらい長い時が流れた後でした。グランマーク様に保護され、同じ人狼族に会っても、誰一人として私を知らなかった」
老いて細くなり、水仕事に荒れた手がそっとグラセルの髪を梳く。
「ですが、それで良かったのですよ。誰も私を憐れむ事は無かった。それに、あなたが無意識に大地の力を注いでいてくださったおかげで怪我が治って植物とお話しができるようにもなっていましたから」
植物と話せたおかげで孤独を知ることは無く、自分の尊厳を守れ、伴侶を始めとする家族に恵まれた。
「グラセル様、どうかこの年寄りに、ご恩を返させてください」
グラセルは悩んだ。
大地が言っていた。もうルプゥは何日も水だけで過ごしている。このまま食べなかったら死んでしまう。
それに自分は不思議といくら食べてもお腹が空いている。食欲に任せたらダメだ。
悩みに悩んだグラセルはルプゥの包みを受け取り、中に入っていたパンをちぎって分け、大きい方を渡した。
自分の方はちぎる際にわざと握り潰して、多少大きさを誤魔化す。どうか小さくてもしょうがないと思ってくれますように。
「一緒に食べよう」
ルプゥはしょうがないと言いたげに苦笑してうなずいた。
「お優しいお方ですね」
「ルプゥ程じゃないよ」
食べ終え、ルプゥがしっかりと自分の寝床に戻ったのを確認してからそっと館を抜け出す。
あのままではルプゥが餓死してしまう。ご飯を食べて、と大地に伝言を頼んだから自分の分を取って置くという事はしないだろう。
重たい体を引きずるようにして照明に彩られた夜道を歩き、学校に一番近い森に向かう。
あそこからなら楽に通えるし、なんとかなるだろう。
明日は座学だけだから、実技より楽なはずだ。
そこまで思い、頭に強い衝撃を受けて彼の意識は途絶えた。
石畳に倒れ伏した子供を前に棍棒を手にした天使がニヤリと笑う。
「どこかの使用人のガキみたいだな」
「こんな遅くに歩いているなんて、お家に届けてやらないとな」
二人の天使は意識の無いグラセルを縛り上げて袋に詰めると薄暗い路地へ消えた。
冷えた空気に身震いし、グラセルが目を覚ますとそこは石造りの狭く薄汚い個室だった。出入口の方は鉄格子になっており通路側から部屋は丸見えだ。
「起きたの?」
声の主に顔を向けると、通路を挟んだ向こう側の部屋に怠そうな顔をした獣人の子供がいた。
「ここはどこ?」
「ヒトを売り買いする所。ここは商品を保管しておくんだって」
商品とは言わずもがな、個室に入れられている者である。
「あんた綺麗だから、高値で売れるんだろうね。大事にされると良いね」
「え、大事に? 売られる?」
「知らねえの? オレたちは店に並べられている野菜みたいに買われるんだよ。買った奴が買い取った物を大事にするかは運次第だ。あんたみたいに綺麗な奴は愛玩用に手元に置かれたり、わざと痛めつけられたりと落差が激しいらしい。良かったな。マシか最悪かの確率はわかりやすく半分だぞ」
鏡の目をぱちくりさせていると、通路を何人もの人が品定めをしながら通り、数字を言って部屋から人を連れ出したりその場で数字を言い合ったりしていた。
グラセルの部屋の前でも何人かの男が数字を言い合い、一番大きな数字を言った男が勝ち誇ったような顔をして何かを書いた紙と鍵を交換し、部屋の戸を開けてグラセルの手を引いた。
細い腕を容赦なく握り締める力に顔を歪める。
「痛いっ」
「口答えするな」
柔らかな頬を平手打ちされ、頬が熱を持った。
普段なら楽に振り解けるのにそれもできず、無抵抗に男の屋敷へと引きずられてしまった。
「レン、新しい使用人だ。望み通り漂白されていない奴を買って来たぞ」
きっちり仕込めよ。そう言い残して去った男の背を見送り、レンと呼ばれた青年はグラセルの頬と腕を見て微かに顔をしかめた。
「私はレン。サガオ様所有の館の使用人をやっている。おまえの名は?」
「グラセル、です」
「わかった。これからおまえを使用人として仕込む。それ以上酷い目に遭いたくないなら私の言う事をきっちり聞いて覚えろ」
「は、はい」
まずは服だ、と使用人用の衣服が保管されている部屋に行く途中、ぼんやりした様子の人間や獣人が何人も人形のように立っていた。
ある者は綺麗な服を着て棒立ちしていたり、ある者はひたすらに機織り機で布を作っていたり、糸車を動かしていたり……それらは皆一様に表情が無かった。
「レンさん」
「見ないでやれ。あれは精神が無理矢理漂白された魂だ。一歩間違えれば、私もおまえもああなっていた。これからだって、ヘマをすればああなる可能性が高い」
使用人用の服を着たグラセルはレンについて回り、せっせと掃除や洗濯などの家事を覚えた。
「レン様、お掃除とお洗濯、お庭のお手入れ、終わりました」
わかった、とレンはグラセルの仕事をチェックしていく。
高い所はどうしようもないが、手の届く範囲はきっちり掃除が行き届いている。洗濯物もシワを伸ばされてちゃんと干され風に揺れていた。
そして庭は植物たちが以前よりも生命力に溢れている。
「サガオ様の目に狂いは無かったな。おまえにはこれから庭を専門に任せる」
「はい!」
それから、グラセルは雨の日やサガオやレンに連れ回される日以外は鼻歌交じりに庭の手入れをしていた。
その頃、学校ではグラセルが来ないとウィネルとクエネルが不安そうな顏をしていた。
「なあ、グラセル知らねえか?」
「今日も見てないよ」
「ああ……休むような奴じゃないのに」
そうか、とフレメルはつまらないという顔で自分の机に向かって手紙を書き、魔法の鷹を飛ばした。
不安に駆られたウィネルとクエネルはグランマークを探し、中庭で枯れかけた植木鉢を手にした彼を見つけた。
「グランマーク先生」
「あ、二人ともどうしたんだい。顔色が悪いよ」
「グラセルが学校に何日も来ないんです」
え、とグランマークは一先ず植木鉢を地面に置いた。
「詳しく教えてくれるかな」
「グラセル、罰でミカエル様の館から学校に通う事になったじゃないですか。それからずっと具合が悪そうで、四日前から学校に来てないんです。ヤスミン先生に聞いても何も連絡を受けてないって」
「不登校になるような奴でもありません。先生、グラセルは今どうしているんですか」
「ちょっと待ってね……探すのに時間がかかるかも」
現在を見通す千里眼の視野を広げると、植木鉢の植物が息を吹き返して若芽を出しているのを見た彼は口元をほころばせた。
「意外と早く見つかりそうだよ」
一方、グラセルはレンに使用人の仕事を教えてもらいつつ、時間ができると庭で植物たちに請われるまま歌と踊りを披露していた。
『愛し子……私たちの愛し子』
植物たちは喜びに震えてざわめき、風はその喜びと歌声を方々へと運んだ。
歌い終わった後、サガオはでっぷりとした腹を揺らしながらグラセルにその歌と踊りはどこの誰に教わったと青い顔で問う。
「冥府の獄卒さんとお店のお姉さんが踊っているのを見て覚えました」
ウソは言ってない。
「獄卒か……ふん、まあいい。三日後客が来るから、おまえは客人の前で踊れ。服は用意した物を着るように」
「かしこまりました」
グラセルは教わった通りに答え、レンに連れられて使用人用の部屋で服を確認する。
箱に入っていた服を取り出すと布地が極めて薄く面積も小さく、裾に小さな鈴が縫い付けられていた。
「スケスケ!」
「ぷっ……ごほん! ああ、そうだな。それはサガオ様とか、他の人の前で絶対に言うなよ。当日はサガオ様の大切なお客様が何人もお見えになる。とっておきの舞いがあるのならそれを。無いのなら一番慣れているのを舞うように」
「はい」
衣装を着て何度か踊り、当日を迎えた彼は思いついてしまった。
「とっておきを組み合わせたら、最高だよね」
向こう側が透けて見える程薄い布に小さな鈴がいくつか縫い付けられた、淫靡な踊り子の服を着たグラセルは舞台に立ち一礼すると舞い始めた。
観客はサガオとレン、そして客人と客人が連れてきている人形で合計三十人程だった。
注目を浴びる中グラセルは息を吸って歌い、鈴の音を響かせながら軽やかにステップを踏む。
力ある言葉と声、舞いによる美しい旋律は世界を隔てる境界を越えて力ある者に届いた。
「……ほう?」
鳥の囀りを肴に朱塗りの杯を傾けていた原初より生きる鬼はニヤと牙を剥き、戯れに空に浮かぶ雲に穴を開けていた竜は顔を上げる。
「あら」
そして魔界の王は嬉々として外に出て翼を広げた。
「これは行かないと!」
その舞台はグラセルの舞いによって変化が現れていた。
「ア……アァ……」
「カエ、シテ」
「ママ……ドコ……」
漂白されたはずの人形が言葉を発し、どれだけその身を砕かれようとも涙を流してグラセルに近づこうとしていた。
しかしグラセルは体の中を通る力の激流に半ば意識を飛ばしており、その高揚感の中ずっと歌い舞っていた。
風がグラセルの歌を方々へと運び、動植物たちが歓喜し、その声をまた風が運んでグラセルへと届ける。
恋焦がれた森の空気にグラセルは喜びのままにそれを形にする。
知らずに縁のある、天界、冥界、竜界、魔界の四つの世界の力を束ねた彼は一種の催眠状態にあり自らにかけられていた枷のほとんどを吹き飛ばしてしまった。
一瞬光の鎖が現れたもののそれはすぐに砕け散り、背中に純白に輝ける翼と頭上には光輪が現れ、彼は光を衣として纏った。
「初期型の天使だと!? サガオ、どういう事だ!」
「知らん、私は知らん!」
レンが止めに入ろうとした時、その肩に大きな手が置かれた。
「ご苦労だったな、レン」
「隠竹様! なぜこちらに」
突入はまだ先だったはずと訴える目に隠竹はニヤリと口を歪めた。
「天使、それも初期型の誘拐事件が発生した上、供物の形を取っているとはいえ各界の境界に予定外の穴が開いたともなれば上も焦るさ。まさかあの初期型が悪用されたのかってな」
「穴?」
朱塗りの杯を手にした隠竹はグラセルを示す。
「俺たち鬼がほんの少し手伝ったとはいえ、舞台は歌や舞を神々へ奉納するために人の子が生み出した装置だ。人の子にできる事がどうして天使にできないと言える」
またグラセルにとっての上位者や好意を抱いている者の大半は別の世界にいたり大自然に生きる者だったりするため繋がりやすい。
「天使のお友達にも力が届きかけていたようだが、学校の守りによってちょっと調子が良いくらいで済んでいるようだな」
「隠竹様、すぐに穴を塞がなくては」
すると、涼やかな女性の声と共に強烈な圧迫感を持った気配がレンの喉を締め上げた。
「別にいいんじゃない? あれを今無理に塞き止めたら爆発するわよ」
それにしてもグラセルちゃん酔っ払ってるわね、とステラは楽しそうに口を開く。
「なんか色々弾けちゃってるみたいだけど、天使的にはあれはどうなの?」
「完全に酔っ払ってるね。寝るのを待つしかないよ」
魔王はのんきにうちの子がかわいいなどと言ってにこにこ笑っている。
「あ、あの、ルキフェル様、止めるまではいかずともブレーキくらいかけては」
「クソ親父の庭がどうなろうが知らないもん」
「ル、ルキフェル様」
「ほらほら、グラセルの発表会が終わるよ」
レンが改めて周りを見ると、サガオとその客人たちは一人残らず捕縛されており、人形にされていた魂たちは徐々にその輪郭を失い光の玉、魂の形になっていく。
「カエレル」
「アリガトウ」
魂たちは獄卒が持つ虫籠のような容器の中に吸い込まれるようにして入っていき、全部が収まった。
その頃になるとグラセルは気が済んだのか疲れたのか、舞台の上で一礼して下がり、観客席にいるルキフェルたちの所へと小走りに向かった。
「父様!」
真っ先にルキフェルの胸に飛び込むと、途端に静かになった。
「電池切れか?」
「そりゃそうよ。あれだけの力を束ねれば疲れるわ」
「余程お腹が空いていたんだね。集まっていた力のほとんどを食べちゃったよ」
光輪こそ消えたものの光の衣は維持されており翼も出しっ放しで幸せそうに夢の中にいる子供の剥き出しの背に触れ、ルキフェルは苦笑する。
「火の力がほとんど無いね。ミカエルはバランスの良い食事を教えなかったのかな」
桃の木に養育を丸投げしたが、彼女は天使ではなく大地に生きる者だ。大地と水の力をその実を介して与えることはできても他の力を与えることはどうしてもできない。
隠竹もステラも当然できない。
「ねえ、天使ってあたしたちが食べているような普通のご飯じゃダメなの?」
「ダメっていう事は無い。私たち天使の燃料は万物の生命力でね、地震や水害などを起こすくらいに溢れている自然の力を食べているんだ。普通の食事でも良いんだけど、それは他人がたくさんの気を込めて作った場合だよ。自分で料理して食べるってなると、ほとんど意味が無いから一手間加えなきゃならないんだ」
「そうか、気が主食なのか」
「それにもバランスっていうものがあってね。どれ、少し調整しようか」
ルキフェルはグラセルの翼をしまってやり、光の衣を消して自分のマントで包んでやる。
「よしよし、寒かったね」
マントの中で身動ぎするグラセルを撫でる。
「ん……んぅ……」
「大丈夫、痛くも怖くもないよ」
良い子だね、とグラセルを抱き直した彼はそっと空中に炎のように煌めく魔石と空色に煌めく魔石を浮かべ、そこから糸を引っ張り出すようにして一筋の光を引いてグラセルへと触れさせた。
すると、魔石は徐々に生命力に満ちた新緑に煌めくようになった。
「魔界の炎と大気が入っていたのにもう入れ替わったの?」
「そうだよ」
力を入れ換え、新緑に煌めく魔石は二つになった。
「グラセルちゃんはどんな状態だったの?」
「栄養失調だよ。具体的には、内部の力の種類が偏り過ぎて機能不全を起こして緊急停止寸前」
しかし参ったな、とルキフェルは思考を巡らせる。
「ミカエルは今のところ難しいし、他に任せられる奴は……あ、グランマーク、いるんだろ?」
「ええ、お呼びで?」
「この子に食事の仕方を教えてやってちょうだい。伸ばし方はおまえに任せる」
「わかった。グラセルをこちらへ」
グラセルを受け取り、グランマークは小声で言う。
「ミカエルの偽物が出ている」
「了解」
グランマークを見送り、ルキフェルは腹の内で馬鹿だと笑う。
あのミカエルに化けて悪さをするなど、なんて命知らずな。大昔の自分でさえ逃げ切って許してもらうのに割と苦労したのに。
「魔王様が悪い顔してるぅ」
「きゃあこわぁい」
ステラと隠竹が揃ってふざけ、彼は笑う。
「そりゃ魔王様ですし悪い顔にもなるさ。それじゃそろそろ帰るよ」
「そうね。また冥府で飲みましょ。日時を教えてくれれば竜界の良いお酒持って行くわ」
「魔界はお酒だけはなかなか良い物になったから持って行くよ。隠竹、幹事よろしく」
「この間やっただろう!」
「冥界事情は隠竹が一番詳しいし、おつまみもいっぱい持って行くわ」
「ぐ……わかった。一番良いのを期待している」
三人がそれぞれの世界に帰った頃、グラセルはグランマークの腕の中で目を覚ました。
「おはよう」
「おはようございます……あれ」
周りをきょろきょろ見るグラセルを撫で、彼はゆっくり言う。
「誘拐されて売り飛ばされるなんて災難だったね。もうすぐお家に帰れるよ」
途端、グラセルの目が丸くなりじたばたともがき暴れ出したがグランマークはそれを軽く押さえ込む。
「こら、落ちちゃうよ」
「あのお家ヤダ!」
「どうして嫌なのか教えてくれるかい?」
「あのお家いると苦しいし、ルプゥおばあちゃんがご飯食べなくて死んじゃう!」
「ルプゥが?」
「うん。あのお家では私にご飯が出されなくて、それを見たルプゥおばあちゃんが自分のご飯を私にくれるようになったの。でも、おばあちゃんも他の人にいじめられててご飯が少ないの」
「……ちょっと、記憶を読むよ」
グラセルの言うルプゥは、確かに己が昔森で保護してミカエルに渡した人狼族の娘だった。
使用人からの冷たい眼差し、冷えて薄汚れた食事……悪意が溢れている。
ミカエルが多忙で何百年も家に帰れていないにしても、これは異常だった。
「グラセル、これから大急ぎで頼みたい事があるんだけどいいかな」
「なに?」
「詳しくは私の家で。その時に教える事もある」
グランマークは速度を上げ、急いで自宅に向かった。
森の中の小さな一軒家の隣に泉と小川があり、彼はその一軒家のドアを迷うことなく開けた。
「我が家へようこそ。まずはその布切れから着替えようか」
「はい」
グラセルがいつもの服に着替える間にグランマークはテーブルに木の実とパンと魔石を並べた。
「終わったかい? 駆け足でごめんね、グラセルにはこの三つの内どれが一番美味しそうに見える?」
テーブルの上を見たグラセルの目が泳いだ。
「あれ、え?」
目は不安そうに木の実と魔石を往復している。
散々に悩んだ末、グラセルは魔石を指差した。
「先生」
「ん?」
「石って食べられるんですか?」
「歯が欠けるし口の中血だらけになるからやめておきなさい。この石は魔石といってね、何かしらの力や物をしまっておける物なんだ。今この石の中には私たち天使のご飯が入っている」
「ご飯」
本当に? とグラセルの困惑顔が向けられた。
「パンや木の実とは違うご飯で、自然界の力だよ。ついておいで」
グラセルはグランマークに続いて家の外に出て、泉のある所まで歩いた。
「ここは水の力が強すぎて、昔はよく水が暴れて辺りを沼地にしたり周辺の集落を押し流したりしたんだよ。それで植物と大地がやり過ぎだって怒って地震や地割れが起きたり、樹海になったりと酷いものだった。そこで、私はここに家を建てて水の力と大地の力を継続的に食べることにした」
「力を食べる?」
「見ててごらん」
グランマークの手が丸い果実を受け取るように伸ばされると、グラセルの目には大地と泉から光の粒が集まり一つの球体を成すように見えた。
「自分の力をほんの少し使って大地と泉に伸ばして呼び水にして、目的の力を吸い上げる。慣れると呼吸するだけで力を食べる事ができるんだ。やってごらん」
グラセルはそっと拙い手つきで力を大地と泉に伸ばし、まるで壊れ物を扱うかのようにほんの少し力を吸い上げる。
ブドウ一粒程度の大きさになったそれをグランマークは食べるよう促す。
「呼び水に使った自分の力を中に戻す際に巻き込むようにして……そうそう、できたね」
「木の実じゃないのに」
「木の実も良いけど、それじゃあ一度も満腹になった事が無いんじゃないかな」
うん、とグラセルはうなずく。
「食べ過ぎちゃうと、森が死んじゃう」
「それで良いんだよ。さあ、仕事を頼むね」
「はい」
「これから私と一緒にミカエルの家に行ってルプゥとお話しして、ルプゥを買い物に付き合ってほしいと言って館の外へと連れ出す事。これ、そのための資金とお手紙ね」
「はい」
グランマークは家から小包を取って来るとじゃあ行こうか、とグラセルを連れてミカエルの館へと飛んだ。
大きな館が見えてきて、グラセルはぎゅっとグランマークの服の裾をつかんだ。
「大丈夫だよ。さあ、入ろうか」
グランマークはずんずんと館の中へ入り、手を引かれるグラセルはグランマークを不思議そうな顔で見上げた。
「どうかしたかい?」
「体、重くない」
「良かったね」
すると、使用人の一人が二人を見つけて慌ててやってきた。
「グランマーク様! お越しになる時は事前にご連絡くださいとあれ程申し上げたではありませんか」
「気にしないで。こっちも急ぎだから。ミカエルいるよね」
「はい」
「この小包、手に入り次第館に届けるようにとミカエルに頼まれちゃってさ。もう千里眼使っても中々見つからないし超大変だったよ」
なんでこんな物が必要なんだろうね、と半ば愚痴をこぼすグランマークが持つ小包に鏡の目が向けられる。
「これは大人のオモチャだからダメだよ」
「いくつになったらいいの?」
「さあ、どうだろうね」
くしゃくしゃと頭を撫でてやり、グランマークは我が物顔でミカエルの部屋に向かいノックも無しにドアを開け放つ。
大事な物のはずなのに放り出された箱は慌ててグラセルが受け止めたが、グランマークは気にも留めない。
「やあミカちゃん久しぶり! 超会いたかったよ! 再会のチューしないの? やってほしいって催促?」
もうしょうがないな、と彼は目を点にしているミカエルに素早く距離を詰める。
「あ、グラセル、ルプゥによろしく!」
「え、この箱は?」
「ルプゥに預けておいてくれればいいよ。これから超大事な大人のお話だから」
「は、はい」
グラセルは目を白黒させながらもパタパタと走り去り、ルプゥを探し回った。
大地の声を頼りにルプゥを探すと、彼女はグラセルの物置小屋にいた。
「ルプゥ」
「あ、グラセル様! 何日もどこへ行っていたのですか」
「ご、ごめんなさい。あと、これ……え?」
ガタゴトと小包が動き、バリバリと小包を破壊しながら出てきたのはグランマークだった。
「ふう、箱詰め天使ってないわぁ……あ、ルプゥ、久しぶり」
「お、お久しぶりでございます。あの、これは一体」
「話は後。ルプゥ、大至急貴重品を始めとする私物をまとめて。グラセル、作戦変更。ルプゥの準備ができたら急いで私の家に帰るよ」
「は、はい」
ルプゥは物置小屋の隅にある粗末な麻袋を手にした。
「これで全部です」
「本当に、それで全部?」
はい、と彼女はうなずいた。
「ここ五年程、色々ございまして。身分証などはここに埋めて隠していたんです」
「……そっか……」
「先生、おばあちゃん、早くしないと」
天使二人に連れられ、ルプゥはグランマークの家に行く事になった。
「上手く行って良かった。お茶もご飯も好きに食べて」
良い香りのするミルクティーと薄い粥に口を付け、ルプゥはほっとした顔をしたが疑念は晴れない。
「あの、何がどうなっているんですか」
「簡単に言うとね、館にいたミカエルは偽物だったんだ。ミカエルの家から財産を盗んだりしていて、信用を傷つけられたのと一番大事な物に手を付けられたからこうやって策を練ったんだ」
本来の作戦なら、小包にミカエルが霊体で入りグランマークが最重要機密とか言って偽ミカエルへ配達し、小包からミカエルが出て偽ミカエルと交戦し撃破。
グラセルとルプゥが館内に残っている場合はグランマークが帰る際に二人を回収して巻き込まれる前に館から脱出という流れだった。
「でも、箱に入っていたのは先生だったよ?」
「あれね、霊体というのは一番無防備な状態だから自分と同等の力を持っていた場合は危ないって言ってミカエルが私に化けて、私がウサギに化けて箱詰めになったんだ。だからルプゥに預けておいてって放り出したでしょ」
それにしても、とグランマークは茶を一口飲んだ。
「ミカエルの怒りは凄かったよ。あんな風に怒ったの初めて見た」
「どんな風に怒ったの」
「普段の怒り方は爆弾みたいなものでね、一瞬の火力は凄いけど後にはほとんど残らないんだ。でも、今回は静か過ぎた。例えるなら煮え滾った溶岩かな。水をかけても水蒸気で火傷したりしてただでは済まないし、表面が冷えても中はまだ熱々だし」
「先生、大事な物って?」
「キミだよ、グラセル」
「え」
「大昔キミが桃の木さんに預けられたのは、仕事が忙し過ぎてギスギスした状況でキミに八つ当たりしかけたからだよ。このままじゃグラセルに八つ当たりしまくって虐め殺してしまうから預けたって、かなり落ち込んでた」
二対の目がグランマークに向けられた。
「ルキフェルが人の子に知恵を与えて魔界に行ってから、ミカエルの仕事は物凄く増えたんだ。大戦の戦後処理と緩衝地帯の管理に天界の整備、みんな忙しくてピリピリしてた。キミは大人しく良い子にしていたんだけど、やっぱり失敗もあった」
預けた後、ミカエルは何度も過労死したり忙しさから仲間内で発生する乱闘を鎮圧したりしながら何度も英知の森の方を見ていた。
「何度も予定を組み直して森に行こうとしていたけど、嫌がらせのように仕事が入って結局行けずじまい。学校に行く前に使者が来ただろう? 本当はミカエルが迎えに行くはずだったんだ」
でも使者が飛んでも彼は動けなかった。
「……始まったね。良い機会だから、キミの保護者の割と本気な怒りを見ておきなさい」
グランマークが机に水晶玉を置き、軽く息を吹きかけると水晶玉は空中に映像を映し始めた。
激しいスキンシップやどうでもいい事や熱烈な愛を軽い調子で説かれたりしていくらか疲れた様子の彼は言った。
「それで、グランマーク。延々と喋ってもうすぐ夜だがこのままベッドに行くつもりか?」
「もちろんだよ。私の夢は、温かいふかふかのベッドで、仕事を忘れてゆっくり眠る事だからね」
がっしりとミカエルの手をつかんだグランマークの手からバキバキと骨が折れる音がし、ミカエルは顔を歪めて文句を言おうと顔を上げ、凍り付いた。
グランマークの姿が段々と炎に舐め取られるようにして消え、それは六枚の翼と光輪を出し、輝く鎧を身に纏ったミカエルへ変じたからだ。
「私のベッドは最高だっただろう?」
偽ミカエルの姿が黒い翼を持つ天使へ変わり、それは自分の腕を切り落としてドアへ走ったが、館全体が白に近い金色の炎で燃え盛っていた。
「ウソだろ」
呆然と呟く一方、館の外では夕飯の食材を持った子供が凍り付いたように立ち尽くす母親の手を引いた。
「ママ、天使様のお家が燃えているよ」
「よぉくごらん。あれがミカエル様の怒りだよ。真っ白な炎が竜巻になっているでしょ。ああなると、もう燃え尽きるのを待つしかないよ」
子供は強張った母親の顔を見上げ、炎の柱へと目を移しそれを脳裏へと焼き付けたのだった。
外の様子など気に掛けるどころではない天使はどうにか逃れようと必死に走るが、そんな彼をミカエルは高笑いして悠然と歩いて追いかける。
「天使なのに、鬼ごっこか……ははは……」
天使は熱さに耐えながら必死に館の中を走り、棚を倒したりしてドアを塞いだり、部屋の壁をぶち抜いて逃げて生存を図った。
「隠れ鬼か、どっちでもいいぞ」
声に怯えて窓を破ろうにも破れず、不思議と館の外に通じる壁やドアは壊せない。
「そら、四階が焼け落ちるぞ!」
四階建ての館が三階になり、館は段々ただの箱に近くなる。
風呂や台所に逃げ込んでも水道の蛇口は溶け落ちていた。
水は一滴も出ない。
「三階が落ちるなぁ」
轟音を立てて二階建てになった。
贅を凝らして作られた一級品の建材も家具も調度品も、すべてが燃え尽きていく。
「そうだ、魔石!」
水の魔石なら一つや二つ保管しているかもしれない。
天使は館の水道室に向かい、熱から守られている大きな水の魔石を目にして希望を持った。
これを解放することができれば、この炎とあのイカレ天使から逃げられる!
既に一部が溶岩になっている床にも気づかず、天使は水の魔石を解放し冷たい水を一身に浴びだ。
「阿呆が」
声が聞こえた矢先、爆音が轟いた。
人間ならとうの昔に死ねているのだろうが、天使の高い耐久力と再生能力、生物が棲めないような環境でも活動できる能力などが完全に裏目に出ていた。
全身の皮膚が溶けても必死に逃げ回るが、出口がわからない。
とうとう炭化した足が崩れて壁に倒れ込み、天使の背中側を焼き始め悲鳴が上がった。
対する家主は無傷で炎の床を歩き、笑みすら浮かべて天使の背後にある灼熱の壁に手をついた。
「もう逃げないのか。私はまだ追い足りないんだが」
「た、たすけて……じしゅ、しますから……」
「その必要は無いぞ。そんなにグラセルが欲しかったか。あぁ?」
詠唱を始めとする予備動作も無く放たれた炎の針が天使をハリネズミにして体を焼き、絶叫が響いた。
「研究所から逃げ出した私のクローン天使だったか。脱走後欲を出さず、大人しく私の帰宅を待っていれば良かったものを」
炎が収まる頃、そこにはミカエルと水の魔石と魔石の制御術式が刻まれた土台以外跡形も無かった。
ミカエルの手には小さな魔石があり、中に揺らめく光はミカエルに怯えているようにか細く震えている。
「楽に死ねると思うなよ」
光は一層身を縮こまらせた。
そして、ミカエルは空中に目をやりじゃんけんをするように指を曲げたり伸ばしたりした。
千里眼で見ていたグランマークは乾いた笑みを浮かべて見るのを止め、部屋の中で身を寄せ合っていたグラセルとルプゥに目をやる。
「先生、お家にいた他の人たちどうしちゃったの?」
「みんな、焼け死んでしまわれたのですか」
「大丈夫。ルプゥ以外はみんな自動人形の作り物だったんだ」
「そっか。でも、お人形さんが意地悪するの?」
「あのお人形は特別製でね、館の主人の性格なんかを映すんだよ。本物のミカエルがあの館にちゃんと主として滞在できていた頃はあのお人形さんたち、本当に生真面目で完璧な使用人だったんだ」
「ええ、意地悪をされるようになったのはここ最近でしたから。ですが、人形であっても私にとっては大切な先達でした」
ルプゥはそっとグラセルの頭を撫でる。
「年を取ったからもう働けないのかと心配でした」
「それなんだけど、ミカエルが言っていたよ。ルプゥはよく働いてくれているから、一生面倒を看るつもりだって。あと、グラセルに色々教えてやってほしいって」
ルプゥはグラセルを見下ろす。
「色々教えてほしいとのことですが、よろしいですか」
「はい、先生」
「おばあちゃんのままでいいですよ」
その後、グラセルとルプゥはミカエルの館が再建されるまでの間グランマークの家に住むことになった。
そこで、グラセルは初めてバランスの良い食事や家庭料理、満腹というものを知ったのだった。
ベッドをルプゥとグラセルに譲ったグランマークは夜こっそりと物置小屋に向かう。
今朝完成した、何年も研究して肌触りや寝心地を追求した、今の所最高のベッドがここに保管してあるのだ。
鼻歌を歌うような気分で物置小屋を開けると、そこには見慣れた姿が。
「これから就寝か」
「ミカエル、なんでここに。しかもそれ私のベッド!」
慌てて引きずり下ろしにかかるがどういうわけかびくともしない。
「仕事だ。このベッドを温めるという重要な案件だ」
なにが仕事だこの野郎、無駄に高性能な飛行能力の無駄遣いしやがって!
びきりとグランマークの額に青筋が浮かび、腕の筋肉が鋼のように硬くなった。
「そう、お疲れ様。私の、ベッドを温めてくれてどうもありがとう。キミの役目は終わったよ」
「私の仕事は朝日が昇るまでだ」
「ベッドの持ち主である私がもういいと言っているんだ。さあ出て。というか、なんでここに!」
両者一歩も譲らず、グランマークの筋肉が更に膨れ上がり血管が浮いた。ミカエルもうつ伏せにベッドにしがみ付き体をぷるぷると震わせている。
「ここに寝心地の良いベッドがあるからだ。私の家は燃えたからな」
「燃やしたの間違いでしょう。しかもなんですアレ。私あんなにハイテンションでもなければキス魔でもないんですけど。いつあんたと大人の関係になったんですか。グラセルの純真無垢な目とルプゥの気遣いが超痛かったんですけど!」
「とりあえずひと眠りして落ち着けよ」
ほら、と示された先には乾草の山。
「家主は私でしょうが。あんたはあっち!」
飛行能力を妨害し、一瞬の隙を突いてグランマークは猫か何かのようにミカエルをつかみ上げると乾草の上へ捨てた。
「おやすみ!」
「待て、待て」
大きめに作られているとはいえ、一人用のベッドを大人二人がドタバタと奪い合うという醜い争いは遅くまで続いた。
「それで、グラセルの養育だけど私に権限を譲渡するかい?」
養育できないなら私がやるよ。
そう言うグランマークは巨大なニシキヘビになってミカエルに巻き付いていた。
ちろちろと頬や首筋をくすぐる舌にミカエルは目を細める。
「いや、大丈夫だ。私が週休と定時上がり、有給と長期休暇を取れるだけの体制が整った」
「ふぅん、おめでとう。でもルキフェル兄様は割と怒ってるから、何か仕掛けてくるかもね」
「予想ができないな。ところでこれ、解いてくれないか」
「ヤダ。ベッドから出て」
「断る。というか、これじゃあ寝返りもできん」
「良かったね。そのまま寝れば?」
その日、明け方までミカエルは首筋やこめかみ、耳の中を舌先でくすぐられ続けて眠るどころではなかった。