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地獄に天使  作者: ふゆづき
天界編
13/47

初めてのお使い(後編)

 試合当日、グラセルは夜明け前から体を温め装備を点検し、弁当の一部を用意して装備を身に着けると朝食をたっぷり食べた。

「グラセル、どうにも嫌な予感がするからこれを首から下げておけ」

 ミカエルがグラセルの首に下げたのは先日脱皮したミルドレットの鱗で作られたペンダントだった。

「こいつは服の下に隠しておけ」

「はい」

 言われた通り服の下に隠し、グラセルはミカエルを見上げた。

「上位者ミカエルがグラセルに命じる。試合中は試合の規則に則り対戦相手を打ち負かせ。重ねて命じる。私とルキフェル、グランマーク以外の上位者命令を私の許しがあるまで絶対に聞くな。重ねて命じる。死力を尽くして衣を守り抜け」

 グラセルが無機質な声を発した。

「グラセル、命令を受諾しました。これより任務を開始します」

 よろしい、とミカエルはうなずく。

「会場まで送る。ついて来い」

「はい」

 ミカエルはミルドレットを肩に乗せてグラセルを連れて飛び立った。

 賑わう会場に現れた天使長の姿に会場は更に沸き立つ。

「ほら、行って来い!」

「はい!」

 グラセルを見送ってミカエルは観客席へ向かうと、一部だけがらんとした空間があったのでそこに向かった。

 どう見ても堅気には見えないガラの悪い男が逆三角の黒いサングラス越しにミカエルを認めると陽気に笑って片手を挙げた。

「ようミカエル、休みを取るなんて珍しいな」

「おまえもな。フレメルが出場するのか?」

 おうよ、と答えるインフェルの隣には年季の入った重厚な剣が置かれていた。

 周りには同級生の保護者たちが良い所が空いていると言って集まってくる。

「なんだ、おまえも武装してきたのか」

「おう……つっても、剣だけだし、おまえも似たようなもんだろ」

 うなずきつつ、ミカエルは思念による秘匿通信を試みた。

『グラセルが桃の神木が所有する神授の衣を探しているのは知っているな?』

『ああ。まさか、今回の大会の景品がそうなのか?』

『そのまさかだ。同時期に冥界の方でも同じ力を持つ衣が無くなって、表面化はしていないが騒ぎになっている。それ以前に冥界の雪原の主の衣も盗み出されたという。衣続きで偶然とは思えん』

『なるほどなあ。うちの息子、棄権させるか?』

『いや、このままでいい。グラセルには衣を守れと命じてある。勝とうが敗けようが衣が無事ならそれでいい』

『というと?』

『どんなに温厚で慈悲深い神であっても、盗難に遭ったりした上、他人の手垢が付いた物を渡されるという事を許容すると思うか?』

 思えねえな、とインフェルはその時を思ったのかげんなりする。

『桃の木に関してはグラセルが無事返却するなら問題は無かろう。だが問題は冥府の方だ』

『下手すりゃ衣が戻るまで天界から人材を派遣してお手伝いか』

『その通りだ……うん?』

 二人の思考領域にミカエルに宛てた極秘通信が届いた。

『冥界から?』

『一度通信切るぜ。終わったら教えてくれ』

 インフェルとの通信が切断され、ミカエルは文書形式のそれに目を通しぎょっとした顔をした。

 まさか既に衣が最悪な形で失われており、代用品の確保に霊薬で若返った隠竹(おにたけ)が来ているとは。

 これでグラセルの勝利は消えた。

『インフェル、最悪の報せだ』

『おん?』

『冥府の鬼の中でも屈指の実力者が若返って参戦している』

『敵の名前は』

『隠竹』

 げえ、とインフェルが呻く。

「おまえ、知っているのか?」

 インフェルはうなずいて顔から首にかけての大きな火傷の痕を武骨な指でなぞった。

「この古傷、隠竹っていう鬼にやられたんだよ。クッソ強かった。頭は良いし腕は立つし、火の扱いに長けているし……おまえの鬼バージョンと戦ってるみたいだった。あいつの方に停戦命令が無ければこっちがやられてた」

「おまえも交戦していたか」

「ミカエルも?」

「大戦中ほんの少し戦った程度だ。追撃戦を行ったが殿(しんがり)が奴で、追撃を諦めざるを得ない程強かった。それにグランマークの千里眼ですら察知して妨害してみせたぞ」

 どうするよ、とインフェルとミカエルが難しい顔で見下ろす戦場では、多過ぎる参加者を(ふるい)にかけるためバトルロワイアルが行われている。

 天使たちの飛行が禁じられる中、クエネルとウィネルが背中を合わせて戦い、フレメルが大剣を振り回し、グラセルは開始早々に飴を空高くへ放り投げると身軽に動き回って殴ったり蹴ったりして周囲の者を片端から場外へ叩き落していた。

 半分程度に減ったその時、それまで回避に徹していた一つの小柄な影が会場の上空へと躍り出て太刀を振り上げた。

「ジン、盾貸して!」

 グラセルは咄嗟にジンの大盾を奪い頭上からの攻撃に備えるように構えた。

 すると、ウィネルとクエネル、フレメルも滑り込んできていつかのように障壁を展開する。

 直後、閃光と爆音が会場を満たしグラセルたちが障壁を解くと戦場にはほんの数名しか残ってはいなかった。

「舞台が、真っ二つ」

 周りを見たウィネルが青い顔で言い、盾を返しつつ、グラセルが痺れた両手を擦り合わせて呻いた。

「ジン、ありがとう。まともに受けてたら入院だったよ」

 軽い足音を立ててそれを成した少年が太刀を肩に担ぐようにして会場の中央に降り立った。

「あの人、強い」

 落ちて来た飴を手に戻しつつ呟かれたそれを聞いたジンが言った。

「みんなごめんね、僕、棄権するよ」

 みんな頑張ってね。

 ジンは自分から場外へと降りて篩分けの試合は終了し、それを見ていた保護者たちは思案顔だった。

「燃料にはまだ余裕があるから大丈夫だろうが、火力も技術も違い過ぎるな」

「まあ、いい経験だろう。ミカエル、そっちの補給はどうなってる」

 そこは大丈夫だ、とミカエルは言う。

「使用人に弁当を作らせた」

「へえ、グラセルが狩りをしてるのを見かけるが美味いのか?」

「ああ、毎日のように新鮮な食材を持って来るからな。最近は生け捕りを覚えて、ぎりぎりまで鮮度を最高の状態に保つことを心掛けている」

 狩りをしたり山菜を採ったり、毎日これでもかと運動しているのだ。

「そういや、ちび共がサバイバル訓練の時に食ったグラセルの班の飯、美味かったらしいぞ」

「野外だし、なんでも美味く感じられるんじゃないか?」

「フレメルが言うには店に並んでもおかしくない味だったと」

 青い目が丸くなる。

「後で作ってもらうか」

 保護者の所に戻ってそれを聞いていたジンはそっと己の保護者を見上げ、会場に視線を戻して小さく微笑む。

 ウィネルたちにレシピを聞いておいて良かった。

 トーナメント表が組まれ、残っていたのが十七人だったため一人がシードとなった。

「三位決定戦入れて全部で十七試合だね」

「うん。シードは……隠竹? お兄ちゃんと同じ名前だ」

 よくある名前なのかな、とグラセルが首を傾げていると選手は速やかに控室に入るよう放送が流れた。

 そうして始まったトーナメントの第一試合はウィネル対グラセルだった。

「父様、森のフィールドのカメラとかどうなってるの?」

 ジンに問われたナガルはそっと苦笑した。

「千里眼を持つ天使がカメラ代わりになっているんだよ。今回の当番はグランマークだったはず。彼は過去現在未来、あらゆるものを見通す目を持っていたから。でも、過去を見る目は冥府へ貸し出し中だって」

 ねえミカエル、と話しを振られた彼はうなずいた。

「眼球ごと持って行くなんて聞いてない! って血の涙を流していた。あれから何年も経つのにまだ目隠しだ」

 そりゃそうだろ、とインフェルは苦く笑って中継映像に視線を向ける。

 その頃闘技場の地下の一室より、何とも情けない声が響いていた。

「動けないよぉ、つまんないよぉ、お蕎麦の具になるなんて聞いてないよぉ……ふえぇ……」

 泣き言の主はすっかり退屈しているグランマークだが、その身体には無数のコードが突き刺さり機械に接続されていた。

「先生、大人が子供のふりしてもかわいくもなんともないっすよ」

「ちぇー……ジール君はいいな、動き回れて。身体交換しない?」

「死んでも嫌です」

「だよねー」

「ほら、教え子が戦いますよ」

「うん、見てるよ。どっちも頑張れー」


 よりによって森を再現され、互いに索敵から始めなければならずウィネルは苦く笑う。

「グラセルに超有利じゃない」

 負ける気は無いけど、と彼は行動を開始した。

 一方、グラセルも行動を開始していた。

 姿を森に溶け込みやすいこげ茶と黒のトラ模様をした猫の姿に変え、大気の臭いを嗅いだり音に耳を澄ませたりし、そっと移動を続ける。

 この森は再現されたものだから純粋に自分の技量と運で戦わなければならないが、生存競争なら自分だって負けない。


 焦らずに仕留めればいい。


 奇しくも二人の思考は一致していた。

 しばらくして臭いと姿を見つけたグラセルは音もなく猫からムササビへと姿を変えて素早く木に登り、ウィネルの無防備な背後目がけて飛んだ。

 その背中が間近に迫った時、グラセルは己の失敗を悟った。

 生き物の気配がしない!

 罠に気づいたが、もう止まれない。

「捕まえた!」

 小さな体は水と風の幻影をすり抜け、草のマントの下でじっと獲物を待ち続けていた狩人の分厚い皮手袋に包まれた手に捕獲されてしまった。

 胴体をわしづかみにされ苦しさからもがき、全力で噛みついてもびくともしない。

「ごめんね」

 ぐ、と手に力が込められた時、グラセルはまた姿を変えた。

 トカゲになり、驚いているウィネルの顔目がけて目から血液を飛ばした。

「うわぁっ」

 思わず手を離してしまい、自由になったグラセルはすぐさま元の姿に戻り飴を振り上げ、頭目がけて振り下ろせば手応えがあった。

 頭から大量の血を流したウィネルが地面に倒れる。

「ふう、危なかった……医務室で休んでて」

 見ていたクエネルとフレメルは苦く笑い、保護者一同は呆気にとられた。

「ミカエル、グラセルは獣の集合体か?」

「さあな。次は……クエネルとグラセルか」

「おいおい、もう一試合ずつどこに行った」

「隠竹はシードだから当然決勝に来る。となるとグラセルとフレメルとクエネルで準決勝戦への参加争いになる。他じゃあほとんど話にならん」

「あのアロンってのは? 上級生で上限ぎりぎりの参加だが」

 ミカエルはアロンを一瞥すると言った。

「フレメルに負ける」

「うちの息子がグラセルに負けるのはともかく、理由を聞いても?」

 アロンの太刀筋とフレメルの太刀筋を見て、ミカエルは言う。

「アロンは小手先の技と武具の性能に頼り過ぎていて中身が追いついていない。対するフレメルは基礎能力をしっかり向上させ、その上で武具を己より少し上の性能にしている。どちらがより上手く武具を使いこなし戦えるかと言ったらフレメルだ」

 だよな! とインフェルは子供のような笑みでうなずき得意気に口を開く。

「俺の息子は超頑張り屋でな、毎日父上みたいになるんだって勉強や筋トレやって稽古してくれって来るんだ。おまえの所はどうだ」

「私の所は……最初が悪過ぎたからそのような親子の触れ合いにはあまり恵まれていない。むしろ、使用人と仲良くなって一緒に料理や裁縫をやったり、英知の森に戻って遊んだりしている」

 どんよりと煤けた背中をインフェルは力強く叩いて親指を立てる。

「気分転換におまえも砂漠や森でキャンプの一つでもやったらどうだ? それなら親子の触れ合いってもんができるだろ」

 食料調達に励むもよし、ひたすらに戦闘訓練をやるのもよし。

 いいことづくめだとインフェルは豪快に笑う。

「キャンプか……どこかいい場所はあったかな」

 考えていると、インフェルとは反対の方から声が上がった。

「あ、クエネルが勝った! 手ぇ振ってる! うちの子かわいい!」

 レックスの手の中では高級魔石でできた記録媒体が光っている。

「レックス、あのハンマーの子、レックスの倅だったか?」

「そうだよ。うちの子なの。凛々しくて品があって、立派な大人になろうと頑張ってるんだけど、まだまだ子供でね……そんな所もかわいいんだ」

 デレデレと顔が溶けている様は、とても冷酷無比の法の番人の一人とは思えない。

「次の対戦ではうちのグラセルとクエネルが戦う事になるが」

「いいよ。勝っても負けてもどっちでもいいんだ」

 え、とその場の保護者たちの目が点になった。

「あ、あの、レックスさん、クエネル負けちゃってもいいってなんでですか?」

 ジンが恐る恐る声をかけるとレックスはいつかのように穏やかに笑って言った。

「ああ、キミはクエネルと一緒にいた大楯の子だね。負けてもいいっていうのはね、勝ったら全力で褒めて祝う。負けたら全力で慰めて稽古を手伝う。どっちに転んでも私にはおいしいからだよ」

 息子とも共通の話題もできる。

 そう言って次の試合に向けて記録媒体を大急ぎで取り換える彼にミカエルは問う。

「それ、どれだけあるんだ?」

「百枚は超えたよ。みんな印刷してアルバムに保存してあるし、部屋にも飾ってあるんだ」

「きっかけはなんだったんだ?」

「育児記録だよ。最初は実験動物を飼うような気分で体温や身長、体重とか色々記録を付けていたんだ」

「へ?」

 この子煩悩で親バカの頂点に君臨しているような彼が子育てを実験動物の飼育感覚で開始した? 何かの冗談ではないか。

 それを見たレックスは、当時の自分はとてももったいない事をしてしまったと心底悔いて懺悔するように言う。

「不幸中の幸いは顔色とかも比較できるように写真を撮ったりしていた事だった。今ならもっとかわいい瞬間を写真に収められて、アルバムをもっと厚くできたのに」

「記憶を転写して印刷すればいいんじゃないか?」

 もうやったよ、とレックスはさらりと言う。

「過去を見られる千里眼持ちに頼んだりしたけどね、全員に拒否されたよ。いろんな意味で本当に、私は馬鹿だったと思う。いつも通り飼育していたある日クエネルにおやつをあげたら、いつもみたいにすぐに食べなくて手に持ったおやつをじっと見ていたんだ。だからどうしたんだろうって見ていたらにっこり笑って『パパにもあげる、半分こしよう』って、もうすっごくかわいくて! それどこで覚えたのって。思わずきゅんと来たよ! 相手赤ちゃんだったけど」

「そ、そうか」

 一方、医務室ではウィネルがエアに愚痴を言っていた。

「グラセルに勝ったと思ったのに、頑張ったのに、なぁんでトカゲが目から血ぃ吹くのぉ?」

 頭に包帯を巻いて完全に駄々っ子と化した涙目の我が子にエアは小刻みに肩を揺らす。

「暑い所を探せばそういうトカゲさんも一匹はいるんじゃないかな」

 控えめなノックの音に顔を向けて入室を促せばクエネルがそっと部屋に入ってきた。

「エアさんこんにちは。ウィネル、具合はどう?」

「あ、クエネル。見ての通りだよ。さっきの試合見てたよね!」

「ああ、見てた」

 途端、ウィネルは素早くクエネルにつかみかかった。

「絶対、絶対にグラセルにぎゃふんって言わせてよね! 敵討ちやって!」

「わかった、わかったから落ち着け! おまえの頭がまた噴水になるぞ」

 同時刻グラセルは選手控室でころりと横になって微睡んでいた。

「おチビちゃん、お友達の試合、見なくていいのか?」

 人を馬鹿にしきった声に目を向けるとやや大人びた顔をした少年がグラセルの顔を覗き込んでいた。

「結果がわかってるからいい。私はフレメルと戦うことになる」

「あ?」

 途端、少年の顔が歪んだ。

「むかついたんなら私の対戦相手に出てきなよ」

 ブザーが鳴り、グラセルは飴を手に立ち上がり会場に向かった。

「あのクソガキ」

「誰の事だ?」

 少年が振り向くとそこには据わった目をしたフレメルと最高に機嫌が悪い隠竹がいた。

「さっきのなよっちいガキだよ」

 隠竹は鼻で笑い、フレメルは黙って椅子に腰かけてモニターを見る。

「なあ、隠竹って言ったか」

「なんだ?」

「グラセルはおまえを強いって言ってた。おまえから見てグラセルは強いか?」

 隠竹は考えるようにクエネルとの試合開始の合図を待つグラセルを見た。

「弱い。だがこの先はわからん」

「そうか。ありがとう」

「何がだ」

「オレはもっと先を目指せる」

 そうして試合開始一分前になった。

「ウィネルをやった時のようにはいかないからな。覚悟しろ」

 言ってクエネルはハンマーを構えた。

「うん。ねえクエネル」

「ん?」

「病院送りになったらごめんね」

「それはおまえの方だ!」

 合図と同時にハンマーが炎を纏い、グラセルの武器とぶつかり合う。火花と星屑を散らしながら激しく打ち合う事数分、グラセルは勝負に出た。

 飴が輝き始め、それを見たクエネルはさせるかと一歩踏み込む。

 あの飴は斧やハンマーに分類される……自分もハンマーを使っているからこそわかる。

 この距離、この速度、そして武器の間合い……あの空爆は間に合わず、グラセルの攻撃はどうしても重く遅くなるから反撃も防御もできないだろう。

 そんなことはクエネルの突進を見たグラセルも即座にわかった。

 空爆は間に合わない。なら、防御と同時に攻撃するまで。

 グラセルは上に振り抜くと見せて強引に軌道を変え、輝く飴を大槌のように地面へと振り下ろした。

 会場が光りで満たされ、ずずん、という地響きにも似た音に会場地下にいたジールとグランマークは顔を上げる。

「先生、グラセルですか?」

「うん。あの流星群を地上で爆発させた。会場に小さなクレーターができてるよ。復旧に少し時間がかかるかも」

 短いアラートに端末に目を落とすとクエネルの戦闘不能の報せだった。

「先生、クエネルが医務室送りです」

「うん。次はフレメルとグラセルだけど……あ、これどうしよう」

「どうしたんですか?」

「第二ブロックのアロンは規則のぎりぎりを攻めてきたよ。規則的には良いけど倫理的にはアウトみたいな」

「紳士協定に違反……毒や仕込みですか」

「毒は無いけど仕込みと、試合前の挑発。超下品だったり弱みを囁いたりね」

 会場の機材に繋がれたグランマークは唸ってあれこれと考えていたが、やがて思考を放棄した。

「大会のルールには触れてないから、なるようにしかならないよね。早く終わんないかな」

 ごろりと寝返りを打った途端、鳴り響くアラートにジールは目くじらを立てる。

「先生、三番ケーブルまた抜けたじゃないですか! じっとしててくださいってさっきも言ったでしょう!」

「だってそれキモイんだもん。しょっちゅうこっちの情報抜こうとするし」

 グランマークの背中に半ばまで刺していた端子を慌てて引っこ抜けば痛いと苦情が飛んできた。

「そういう事は早く言ってくださいって」

「大丈夫、向こうには超お下品でばっちいグロ画像を送りつけておいたから。今頃容量超過でパンクしてるんじゃないかな」

「なんでそんなもん持ってるんです?」

「とりあえず嫌がらせになりそうな物だったから集めてた」

 ジールはもう何も言う気が起きず、黙って対侵入者用のウイルスコードが入った箱、通称カウンターキューブを手にした。

「あれ、焼いちゃうの?」

「ええ。いっぺん痛い目見りゃいいんですよ」

「それじゃ無駄だからやめておきな。こっちで対処するから三番にシールドキューブ入れて刺して」

「刺しました」

 グランマークとジールが電子戦を行う間に地上では会場の修理を行うため腕試しは休憩時間が取られていた。

「控室にいなくていいのか?」

 ミカエルが言えば彼の膝に乗ったグラセルは言う。

「うるさいのがいるからあそこヤダ」

「うるさいの?」

 時を同じく戻ってきたフレメルもうんざりした顔つきで言った。

「アロンって奴。マジウザイ。グラセルかオレと戦うことになるけど……グラセル、オレが奴と戦った時にやってほしい事とかあるか」

「股座か下腹の辺り……急所を思い切り蹴っておいて。ボロボロならなんでもいいよ」

「わかった。おまえが戦う時は……思い切り噛みついてやれ」

 わかった、とグラセルはうなずいた。

「それはそうと、ちょうどいいから腹ごしらえしておけ」

 ご飯? とグラセルがパッと起きて目を輝かせる。

「ルプゥたちが作ってくれた」

 空間を自宅に繋げ、用意されていた魔法のバスケットを取るとたくさんの食べ物が詰まっている。

「おしぼりで手を拭いたら食べて良いぞ」

「はい……いただきます! クエネルやフレメルもどうぞ」

 お、どれ、と子供たちが向かう。

「あ、この匂い……グラセル、このサンドイッチとハンバーガーを交換してくれ」

「ドライフルーツとこれ」

 グラセルと弁当などを交換したクエネルとフレメルはそれぞれ半分父親に渡すと夢中になってサンドイッチを食べる。

「どうしたんだ?」

「父上、これですよ。訓練で食べたの」

 木の実を集めて磨り潰して焼き上げたパンと、狩った獣の肉に、塩と油から作ったタレ。

「作れたのか」

「うん。一昨日お店で材料見つけたから仕込みやって、ノルルたちに教えたの」

 一方、食べた親たちは唸る。

「これを、こんな豪華な物をサバイバル訓練で?」

「俺たちの時はどうだったよ」

「サトウキビを噛んで耐えてた」

 動物が食べていたから自分も大丈夫と思って食べた木の実には毒があってリタイアしたという声もちらほら。

「グラセル、他のパンはどうだった?」

 クエネルが言うとグラセルは真剣な顔で言った。

「色々やったけど、黒パンは固すぎてダメだった。普通の白パンも柔らかすぎてダメ。ライ麦パンも軽く焼かないとダメだけど一番相性が良いんじゃないかな。黒パンを除いて、みんな水っぽくなりやすいからパンは軽く焼かないとダメだった」

「そっか、木の実パンは元々ピザの生地みたいに薄く延ばして焼いていたから問題にならなかっただけかな。となるとパン自体の水分が問題になるのかな」

「パンにマスタードやバターを薄く塗ればいいんじゃないか?」

 小さな頭を寄せ集める子供たちと同じように大人たちも額を集める。

「ミカエル、学校には文化祭があるよね? それで飲食店を出してグラセルにあのメニュー入れるように言ってくれないかな」

「別に構わないがおまえの本命はクエネルの仕事姿だろう」

「もちろんさ」

 あの子なら何着ても似合う。

 食べ終わって片づけを終え、軽い午睡とストレッチを済ませる頃になるとようやく会場の修理が終わった。

「それじゃあ頑張ってね」

「グラセル、アロンには気を付けろ」

「うん」

 試合開始直前のブザーが鳴り、フレメルとグラセルは揃って会場に降りた。

「手加減なんてしないからな。勝ったらおまえの分も戦う」

「うん。いざ、尋常に勝負!」

 並ぶと二人は対照的だった。

 神鉄製の軽鎧を身に着けたフレメルの第一印象は生真面目な少年兵となるだろう。年の割に背も高く、その将来を期待させる。

 対するグラセルは非常に小柄で幼く、服装も使用人の服を魔改造したジョークメイル。お嬢ちゃんはお家に帰ろうね、とつまみ出されてもおかしくはない。

 合図と同時に飴と大剣がぶつかり合い火花を散らし、直したばかりの会場がまた激しく耕される。

 地面は割れ砕け、星が降り、炎が舞う。

 小柄な体躯から繰り出されるとは思えない威力の拳が大きな岩を砕いた。

「利き手とは逆、しかも溜め無しであれかよ」

 まともに受けるのは命取りだとフレメルは大剣を握り直す。

 だからなんだ、勝つのはオレだ。

 相手を肉片に変えるべく全力で振られた飴と大剣が衝突して弾け、あらぬ方向へと飛んで行ったが二人は目もくれずに拳を繰り出した。

「勝負あったね」

「ああ」

 ウィネルとクエネルが気の毒そうに言う。

 フレメルは古今東西の武術、武道の動きには通じていたが、野生の動きには通じていなかったようだ。

 動きが読めずバランスを崩されて地面へと引き倒され抱えられ、何発もの素早く強烈な蹴りや拳が叩き込まれ鎧が砕けた。

「この野郎!」

 フレメルも負けじと蹴り飛ばして体勢を整えるが反撃までの時間はグラセルの方が短かった。

「ミギャアアァッッ」

 猫のような声と共に、猫の手グローブの鉄拳がまともに叩き込まれてしまい、どうにか防御し受け身を取ったもののフレメルは闘技場の壁に埋まった。

「オレの息子が!」

 叫ぶインフェルの隣ではミカエルが頬杖を突いていた。

「席は取っておく」

「おう!」

 インフェルはその体躯からは信じられないような俊敏さを発揮して医務室へとすっ飛んで行った。

「次はグラセルとアロンか」

 そうしている間に渋々控室に戻ったグラセルは装備を直して飴をボロ布で磨き、次の出番を待った。

「……お腹空いたな」

 ぽつりと言うと余計にお腹が空くような気がして、ころりと横になる。さっき食べたばかりなのに。

 きゅうきゅうと鳴く腹を抱え、機嫌は急降下だ。

「なんだ、チビが残ったのか」

 その声にまたかという顔で目を向けるとアロンが高慢そうな顔で笑っていた。

「なあ、おまえ本当はクエネルとフレメルをどうやって倒したんだ。キスでもしたのか」

 空腹もあってか、やけに腹が立ったグラセルは言い返す。

「じゃあ、アンタにはパンツでも見せれば良いわけ?」

「それも良いな。おまえチビだけど顔カワイイし、試合が終わったらゆっくり食ってやるよ」

「勝てたらね。私が勝ったらアンタがご飯ね」

「勝てたらな」

 鼻で笑い、アロンは会場へと消えた。

 グラセルは空っぽの腹を撫でる。

「……よくも馬鹿にしたな……よくも、何度もチビって言ったな」

 くうくうと腹が切なく鳴ったが、それは肉食獣の唸り声に等しかった。

 会場に現れた彼を見た保護者たちと、ウィネルたちは眉を顰める。

「おい、なんか……ヤバくないか?」

 言ったフレメルの視界には、表情の抜け落ちたグラセルが飴を軽く引きずっていた。

「え、どうしたんだろう。あんなグラセル初めて見るよ。怒ってるようにも見えるけど、クエネルはどう?」

「怒り以上に殺意を超えた何かが……父上はどうですか」

 うん? とレックスはのんびりとグラセルを見る。

「完全に捕食者の目だね。あの子、お腹が空いて怒りっぽくなってるよ」

「さっき食べたばかりだろ」

 燃料もちゃんと補充したじゃないかとミカエルが空中にパネルを開きグラセルの様子を可視化する。

 肉体へのダメージはほぼ皆無に等しい。だが、燃料がもう残り二割しかない。

「嘘だろ」

「まずいね、捕食コードが発動している」

「運営に行ってくる!」

 すぐに走って消えたミカエルを見送り、子供たちはそれぞれの保護者を見上げる。

「父上、捕食って?」

「文字通りだけど、見てればわかるよ」

 エアはウィネルの頭に手を伸ばしかけ、そっと頬を撫でた。

 会場では対峙したアロンもさすがにグラセルの異変に気づき、体の芯から来る震えと湧き上がる何かに歯を食いしばる。

 冷静さを欠いた敵なら自分より強くたって問題にはならない。今までだってそうだった。次だってうまくやれるに決まってる。

 そんな思い上がりは開始の合図と共に吹き飛んだ。

 予備動作無しで飛んできた飴を勘で避けたが、衝撃波で吹っ飛ばされた。

「嘘だろ」

 今までの戦いから会場が強化されたのだが、光の速さを超えた飴は十枚の障壁を破って会場の石壁に柄まで突き刺さっていた。

 観客も言葉を失う中、何かを踏み割るような音にアロンの意識は戻され口が自然と開く。

 大地を踏み割ったグラセルがグローブの爪を剥き出しにし、口を大きく開けて肉食獣のような牙を覗かせながら飛びかかって来ていた。

 アロンはこの日、生まれて初めて本能的な恐怖というものを知った。

 会場に少年の悲鳴と餓えた獣の咆哮が響き、アロンは武器を捨てこそしなかったが必死に逃げ回っていた。

 短い咆哮と共に爪が振るわれ、盾で防ぐ。

 猫の爪程度なら傷一つ付かないはずだが、盾に施されている防御障壁をあっさり引き裂き、腕も盾ごと深々と裂かれて血が吹き出す。

 飛び散る赤には目もくれず、おまえの血肉をよこせと言う鏡の目と目が合った。

 剣は折られ神の一撃すら防ぐはずの神鋼の盾が紙切れのように裂かれる……守りは無くなった。

「あ、あぁ……」

 引き延ばされる時間の中、己の首に迫る歯に武具をすべて破壊されたアロンは立ち尽くし、その生温かい吐息を感じた時だった。

「この、たわけ!」

 闘技場に乱入した何者かがグラセルに体当たりをするようにして吹っ飛ばし、引き離した。

「グラセル、直ちに停止しろ!」

 光の鎖が小さな体に巻き付いて一気に締め上げ、グラセルは芋虫のように転がった。

「あ、ミカエル様」

 鎖を振り解こうと暴れるのをどうにか制しつつ、ミカエルはへたり込んでいるアロンに鋭い目を向けた。

「邪魔だ、喰われたいのか!」

 一喝され、そこで初めて降参の二文字を思い出した彼は叫んだ。

「こ、降参します!」

『降参を受理。勝者、グラセル』

 命令の鎖に縛られているグラセルは地面に転がったままとても不満そうに唸り、猿轡のように噛まされた鎖にガチガチと牙を立てている。

「同族を喰うんじゃない。いくら規則に書かれていなくても、守らなければならない社会的規範や倫理というものがあるだろう」

 ミカエルの説教に対し、グラセルはばっと顔を上げると叫んだ。

「だってあいつ私を試合の後でゆっくり食べるって言ったもん! クエネルとフレメルをチューして倒したのかって言ったもん! 何度もチビって言ったもん!」

 猿轡を噛まされてなお叫ばれたそれにミカエルは己の耳を疑った。

「……は?」

 オイ、と湿度と殺意の高い眼差しがいくつもアロンに向けられた。

「試合前に、ちょっと挑発しました! ごめんなさい!」

「二度とやるな。グラセル、おまえはこっちだ」

 鎖こそ消えたが、グラセルは大人しく抱えられるまま言った。

「さっき食べたのに、お腹空いた。……父様」

「なんだ?」

「……私、不良品なの? どこか壊れてるの?」

「そんなことは無い。原因に関しては見当が付いたから気にするな」

 ミカエルは壁に刺さった飴を回収し、控室に向かう。

「追加の食事を頼んだがまだ少し時間がかかる。控室に着いたらまずその汚れを落としてこい」

「はい」

 控室に備えられた共同浴場は貸し切り状態で、文字通り羽を伸ばしても怒られることは無い。すっかり気を良くしたグラセルは鼻歌交じりに脱衣場に設けられた魔法の洗濯乾燥機に衣類を入れるとスイッチを押してタオル一枚で浴場に消えた。

 体をしっかり洗って湯船に身を浸し、周りを見て誰もいないのを確認し思い切って翼を伸ばす。

「あったかい」

 心身の疲れも湯に溶けていくようで心地良く、湯船の縁にうつ伏せに寄りかかっていると、背後からいきなりお湯をかけられグラセルは慌てて翼をしまい込もうとしたが誰かにつかまれてしまいしまえなかった。

「今しまうから放して!」

 じたばたと暴れて振り解き、翼をしまいながら振り解くと隠竹を幼くしたような鬼の少年がいた。

 少年はけらけら笑っている。

「悪いな、天使の羽なんてそうそう触れないから」

「もう……いつからいたの?」

「最初から。誰もいなかったから湯船に潜ってた」

「そうだったの」

「あときょろきょろしてた時死角を取ってた」

「負けたよ。じゃあ、もう上がるから」

 試合でまた会おうね。

 言って背を向けた矢先、冷たい手が背中に触れた。

「ふきゃあっ」

「ここのどこにどうやってしまってんだ。なあなあ、もう一回出して見せてくれよ!」

「知らないってば!」

 慌てて逃げて湯船から上がり、上がり湯を被るとグラセルは体を拭くのも忘れて風呂嫌いの猫のように逃げ出そうとし、一瞬の浮遊感を味わった。

 びたんと音を立ててグラセルは派手に転んだ。

「うぅ」

「大丈夫か」

 聞くが、声は完全に震えていた。

「けほっ、けほっ」

 体を起こすと白い体は見事に赤くなっていた。

「まあ、その……悪かったな」

「もう、笑いたければ笑いなよ。そんなに羽が見たいなら見れば?」

 ヤケクソ気味に翼を出し、シャワーの湯を被ると体の方を拭くが、翼からはお湯が滴っている。

 その間も少年はぺたぺたと無遠慮に背中、特に翼の付け根の辺りを撫で回すと、時折翼がピクリと跳ねる。

「真っ白だな。根元はこうなってたのか」

「……泥んこになってないから白くて当たり前じゃないの。それより、湯船に入ってた方が良いんじゃないの?」

 ん? とどこか楽しむような顔の少年目がけてグラセルは翼を羽ばたかせて水滴を飛ばし、ついでとばかりに少年を湯船へと吹っ飛ばした。

「ふんだ」

 ドボンと音を立てて水柱が立った。

「ぶはぁっ」

「さっきのお返しだよ。じゃあね」

 大方の水分を飛ばしたグラセルは急ぎ足で浴場から出ると丁寧に翼を拭いて乾燥済みの服を着こみ、備え付けのドライヤーで髪と翼を乾かした。

 羽がふわふわになったのを確認し、しっかりと背中にしまって抜け落ちた羽を集めて片端から燃やす。

「これでよし」

 足取りも軽く控室に戻ると食事が並んでいた。

「遅かったな。いつもは烏の行水なのに」

「意地悪されたからやり返してたの」

 ミカエルはニヤリと笑った。

「そうか。勝ったか?」

「負け……だと思う」

「どうした?」

「あのお兄ちゃん、避けなかったもん」

「そうか、そうだろうな」

 笑って食べるよう勧めるミカエルにグラセルは知ってるのかと問えば彼は意地悪く笑った。

「まだ内緒だ」

 ふうん、とグラセルは目の前の食事に集中した。

 大食漢の大人二人分の食事を完食し、ようやく空腹が落ち着いたグラセルはミカエルの膝を枕に眠っていた。

「さて、おまえの出番が無ければいいんだがな」

 言ってミルドレットの口元に干し肉をやるミカエルの目にはグラセルの体の中を巡り始める力が見えていた。

 小さな体に膨大な力が巡り、馴染始めるのだがその流れの下にもう一つ巧妙に隠された流れがあった。

 あと十分すれば試合が始まるが、力は五分もあれば馴染むから問題は無い。

 これからは燃費や節約を教えていかなければならないだろう。

 そう考えていると、グランマークから秘匿通信が届いた。

『変なのが会場に入り込んだ。気を付けて』

『情報は?』

『かなり強力な認識阻害を使っているから、情報は冥界に属する男性って事しか取れなかった。そちらの状況はどう?』

『隠竹がグラセルに守りの呪いをかけ、グラセルの羽を手に入れた』

『そっか……グラセルの羽なら、精神を汚染するような術式の大半は防げるね。実験では神の初級術式すら弾いたよ』

『そんな効果があったのか。というか、グラセルは神に破壊されたりしないよな』

『それは無いよ。むしろその羽の防御を破る方法を考えるのに夢中だった。効果がわかったのは偶然で、私も数枚もらったよ。千里眼持ちにとっては必須のお守りだ。なにせ話術や詐術も直感で弾けるようになるし、嘘や誤魔化しも見抜けるようになるから』

『便利だな』

『それに限らず、自分の精神や認識の中に潜り込んでくる洗脳や妨害系の魔法や話術などに凄まじい拒否反応を示すんだ。寄生虫の類も弾いた。おかげで今回は偽の情報をつかまされずに済んだよ』

 グラセルが起きたら羽をもらっておきなよ。

 言って、グランマークは通信を切った。

 数分後、すっきりと目を覚ましたグラセルは羽を一枚よこせと言うミカエルに言われて翼を出した。

「優しく抜いてね? 痛いの嫌だからね?」

「わかったからじっとしてろ」

 ミカエルは羽の中でも特に力の強い羽を引き抜いた。

「いったぁっ!」

 しきりに引き抜かれた羽があった所を擦り、涙目で睨むグラセルにミカエルも自分の羽を引き抜くとそれをグラセルの中、心臓の辺りへと埋め込んだ。

「何したの?」

「お守りだ」

 自分の羽にどんな効果が有るか知らんが、とりあえず何かの役には立つだろう。

「私は観客席の方にいるから、全力で戦って来い」

「はい!」

 会場は決勝戦というのもあってか荘厳な雰囲気の舞台になっていたのだが、グラセルにはなんかゴツゴツしててすごい庭くらいにしか思えなかった。

「あ、さっきのお兄ちゃん」

「よう、羽はちゃんとしまったか」

「見ればわかるでしょ。お兄ちゃんは鬼でしょ? 角とか生えてるか頭見せてよ」

「生えてねえよ。というか、鬼がみんな角生えてると思ったら大間違いだからな」

「え、そうなの?」

「そうなの。むしろ角生えてる奴は比較的若い鬼で、オシャレで着けたり生やしたりしている奴もいるからな」

「おしゃれ? トナカイさんの角とかもあるのかな」

 お兄ちゃんもオシャレで生やしたりするのかな。今度会った時、この前拾ったヘラジカさんやトナカイさんの角でもあげようか。

「俺は着けないからな」

「大丈夫。二番目に大きな角あげるから」

「要らねえよ!」

「え、トナカイさんじゃダメ?」

「そっちじゃねえ」

「じゃあエルクさんね」

 そうじゃない、と思いつつも隠竹は思い出す。

 そういえば、グラセルは抜け落ちた鹿の角を集めて鳥の巣のような物を桃の木の横に設置して遊んでいたような。

「おい、そろそろ始まるぞ」

「うん。頭なでなでさせてね」

「やれるもんならやってみろ」

 グラセルの頭上に光輪が現れて光を散らし、笑みを消して小さな手で飴を握り締める。それを見た隠竹は益々楽しそうな笑みを浮かべると、合図と共に向かって来るグラセルの攻撃を太刀も抜かずに片手で払った。

 飴の丸い部分だけでなく柄まで余すことなく使いこなし攻めるのだが、隠竹は笑みすら浮かべて攻撃を流し、星屑の爆撃が直撃してもそよ風でも吹いたのかと笑って立ち続け、いとも簡単に間合いを詰めるとグラセルの額を指先で弾いて数メートル吹っ飛ばした。

 すぐさま受け身を取って体勢を立て直すが、グラセルの眼前では隠竹が蹴りを放とうとしており咄嗟に飴を盾にするが砕かれ、また吹き飛ばされ今度は闘技場の壁に叩きつけられた。

「よく防いだな」

 返答は投石だった。

 銃弾のように飛んでくる石を木の葉のように躱し、グラセルの変則的な攻撃を余裕すら持って流し、時々返す。

 その様子を観客席で見ていたウィネルとクエネルは我が目を疑った。

「父上、グラセルは父上と同じ初期型で強いんですよね?」

 レックスはグラセルを見て少し考えると状況によると言った。

「初期設定が済んでいない状態でもクエネルと同じ第三世代の天使なら戦闘経験次第で身体能力のみの行使で勝てる」

 でも、と分析を続けながら紫水晶の目が細くなった。

「グラセルは生存競争には長けていても戦争の経験は無いし各種族との戦闘の経験も浅いかほぼ無い。初期設定が済んでいても各種制限を解除してないから弱いよ。あと初期型と言っても色々だよ。グラセルは戦闘指揮官として製造された子だけど少し特殊みたいだね」

「特殊?」

「あの子は本来味方の士気を鼓舞して高め、補給兵站といった後方支援を得意とする子で、守るには向いていても直接戦ったり攻めたりするのはあまり得意じゃないんだ。なんでも人並みにできて強そうに見えるけど、それは育った環境が個としての強さを求めてあの子がそれに適応した結果だよ」

 グラセルの頭上から光輪が儚く消えたのを見たエアはウィネルを抱き直しながら言う。

「グラセルの残存燃料は四割を切り肉体は中破、慣れない全力戦闘に戦術思考と肉体の齟齬(そご)が生じエラーを吐いて出力が低下中。頭の中はエラーで溢れて機能停止寸前じゃないかな。そこらの幼体なら泣いて逃げ出しているところをとてもよくやっていると思う」

 グローブの爪は出してあるため、掠りでもすれば良いのだが隠竹はするりと避け、グラセルの手首をつかんだ。

「……詰んだな」

 インフェルはぽつりと言う。

 手をつかまれたグラセルはすぐさま蹴りを叩き込もうとするが、隠竹はそれより速く投げ飛ばし強かに地面に叩きつけた。

 グラセルが叩きつけられた大地は放射線状に亀裂を走らせてすり鉢状に砕けた。

 つかまれた手首と肘、肩が鈍い音を立てて砕け、中の筋なども切れてしまったのか激痛が走る。

 受け身すら取れなかったためか、咳き込み吐き出される吐息には血飛沫が混ざっていた。

「まだやるか?」

 何かが聞こえ、霞む視界の中グラセルの意識は闇に飲まれた。

 くたりと動かなくなったグラセルを隠竹は黙って見下ろす。

『グラセル、戦闘不能。勝者、隠竹』

 大歓声の中グラセルは担架に乗せられて医務室へと運ばれて行った。

「グラセルが負けるなんて」

 信じられない、とウィネルは医務室に繋がる通路を見た。

「太刀も使ってない……あしらわれたって感じだな」

 一部の攻撃だって、あれはわざと受けてやったんだろうとフレメルは言う。

「そうだ、あれはどの程度実力を出せばいいか確認するためにわざと受けたんだ。よく覚えておけよ。鬼は陸戦最強の種族って言われている。本気になった鬼とは絶対にまともに戦うな。正面から戦うのは無謀の極みだ」

「父上?」

 インフェルは己の火傷痕を指さした。

「昔、古い鬼と正面からやりあって、左腕と肩と胸、顔の左半分を鬼火で焼かれたんだ。だいぶ薄れはしたがまだ治ってない。こうなりたくないならやめておけ」

 うなずいたフレメルはそっと医務室に繋がる扉を見、当のグラセルは砕けた腕の骨などの治療を受け、あまりの痛みに泣いていた。

 頭蓋にもひびが入り、右腕は骨が砕かれ、筋や腱なども伸びて断裂してしまったため再生促進剤を打っても再生に時間がかかり、肋骨も折れて内臓を傷つけており満身創痍だった。

「折れた骨と内臓の再生は三十分もあれば終わります。ですが砕けた方の腕は四日です。一週間は激しい運動を控えて安静にしてください。でないと変な癖がついてしまって、最悪腕を切断して一から生やすことになります」

「は、はい」

 遅まきながら痛み止めと解熱剤が効いてきたため、やや大人しくなったもののグラセルはミカエルに引っ付いていた。

「負けちゃった……どうしよう」

「あの衣なら心配いらん」

「う?」

「上位者ミカエルがグラセルに命じる。三つの命の内最初と最後の命令を取り消す」

「命令を受諾しました……いいの?」

 グローブと髪飾りとブーツ以外使い物にならなくなった防具をしまい、グラセルに新しい服を着せつつミカエルはうなずく。

「状況が大きく変わった。それにグラセルが出る試合は終わりだから。これからフレメルとアロンの三位決定戦が始まる。見るか?」

「見る!」

 フレメルはグラセルに負け、大剣と脛当て以外の武具は全損した。運営から防具を借りる事もできるが、それを見たフレメルはいらないと言って大剣一本で会場に立った。

 アロンもグラセルと戦い降参したが、武具は全損で運営からの貸し出しとなる。

「オレがグラセルにキスされた程度で勝ちを譲ると思ってんのか」

 舐めやがって、と大剣の柄に置いた手に力が籠り彼は大剣に言う。

「おまえもグラセルを覚えているだろ? ちょい本気出せ」

 その声に応えるように大剣がほんのり熱を帯びた。

 そして、借り物ではあるがきちんと武具を身に着けたアロンがやって来てフレメルを鼻で笑う。

「チビで装備できる武具が無かったか?」

 フレメルの目が険しくなるが、黙って抜き身の大剣を角材か何かのように右肩に担いだ。

「舐めてんのか」

 しかし眼光は鋭いままフレメルは沈黙を保っている。

「グラセル、今のフレメルをどう思う」

「お家燃やした父様十歩手前」

 がくりと肩を落としたミカエルは膝の上のグラセルを撫でて言う。

「そうじゃなくて……この後の展開を読めるか」

「絶対にフレメルが勝つよ。フレメル頭良いもん。次私とフレメルが戦ったら、たぶん物凄く苦戦すると思う。下手したら負けちゃう」

「そんなにか」

「うん。私はフレメルの前で隠竹お兄ちゃんに負けたから、絶対にそのやり方見て覚えてる」

 試合開始前の待機時間だが、クエネルは声を張り上げる。

「フレメル、私の分もやっちまえ!」

 その声にフレメルは左手を振って答えた。

「それにフレメルは頑張り屋さんで負けず嫌いでとても優しいから、ああ言われて勝ちに行かないわけがないもん」

 試合開始の合図と共にフレメルの全身から力が爆風のように噴出し、それを推進力に変えた彼は光速を超えた一撃を放った。

 しかしアロンは寸での所で回避し、彼の身代わりになった岩は溶けた断面を衆目に曝し血液のように溶岩を垂らした。

「げ」

 まだ体躯に似合わぬ大剣を軽々と音速を超える速度で振り回し、時に光速をも超える太刀筋をアロンは授業で習った事などの知識を総動員し、反射の域で使い続けることを強いられた。

 消耗が激しいが武具に薄い障壁を何重にも展開し、フレメルを捉えようとするが鎧を着ておらず身軽なフレメルは速度を武器として向かって来る。

「このっ」

 魔法で弾幕を張るが、光の弾丸は盾にされた大剣が発する熱と力の奔流によって弾道を歪められ、フレメルに傷ひとつ付けられなかった。

 大剣の柄を左手で逆手に持ち右手を刀身の峰に添え、杖術のように繰り出された下から上への切り上げをアロンは後ろへと軽く跳んで回避する。

 がら空きになった細い胴を狙うべく前に踏み込むが、フレメルは剣の自重と自らの体重を利用して強引に大剣を地面へと突き立て地を蹴った。

 胴体を両断すべく放たれた一撃は空を切り、フレメルは大剣を足場にして跳び、全身をバネにした蹴りを上半身に見舞う。

 フレメルを乗せたままガリガリと体の背面を擦ったアロンは反撃すべくフレメルを睨むが、フレメルの手には大剣とは違う細身の剣が陽炎を纏って握られており、首に添えられたそれはアロンの皮膚をじりじりと焼いた。

「オレの勝ちだ」

 アロンは大人しく武器を手放して言った。

「あ、ああ、降参だ」

 フレメルの勝利が放送で宣言され、彼は大剣に細身の剣を戻し鞘に納めて背負う。

「勝ったぞ」

 言って彼は小さく手を振った。

 見ていたインフェルを除く保護者や子供たちは目を丸くしている。

「もうあれができるのか」

「フレメル凄い! 隼さんみたい!」

 きゃっきゃと声を上げるグラセルを抱いたままミカエルは驚きに目を丸くする。

 あの力の噴射による急激な加速は学校の高等技能に分類されていたはず。

「インフェル、フレメルに教えたのか?」

「いや。あの戦い方の元になったのはグラセルだな。フレメルとの戦いで空爆して、その時の爆風で加速していただろう。だがフレメルの武装には空爆できるだけの物は無い。だから自分ができる範囲で真似したんだ」

 あの軽業のような動きも、グラセルや隠竹から取り入れていた。

「隼みたいか。フレメルに伝えておく」

 表彰式と景品授与の準備のため少々時間がかかることになり、インフェルたちの所に戻ってきたフレメルは誇らしげな顔だった。

「よくやった。あと、グラセルがおまえの戦い方を見て凄い、隼みたいと言っていたぞ」

「隼?」

「ああ、あいつらは頭が良い。上空から獲物を見つけると一気に急降下して獲物を仕留める姿は見事だぞ」

「なら今度は隼を見て俺みたいって言わせないとな!」

「その意気だ」

 フレメルを隼と言った当人は「おかえり、凄かったね!」と言って笑っている。

「ただいま。おまえのおかげで勝てた。ありがとう」

「どういたしまして。勝ったのはフレメルが強かったからだよ」

 その時表彰式の準備が終わり、優勝者の隠竹と準優勝のグラセル、三位のフレメルは表彰台に立つことになった。

 隠竹は神授の衣を、グラセルは黄金の大杯を、フレメルは白銀の杯をそれぞれ受け取った。

 ただ、黄金の大杯は傷ついた今のグラセルでは持てないためミカエルが代わりに持っていた。

 授与式と閉会式を終えたグラセルは隠竹に近づいた。

 本来なら負けた自分が隠竹の景品をどうこうする権利は無いが、何もしないで諦めるわけにはいかなかった。

「隠竹さん」

 桐箱に納められた衣を持った隠竹が振り向いた。

「なんだ?」

「その衣なんだけど、元の持ち主さんが探しているの」

「知ってる。神に至った桃の木だろう?」

「知ってるの?」

「ああ……おまえに使者が来たぞ」

 森からの伝令を担うカラスがやって来てミカエルが持つ大杯にとまった。

『桃の神木様からの言伝だ。頑張ってくれたのにごめんなさい。衣は冥界に貸し出すことになったので、鬼の隠竹さんが持っている場合はそのまま彼に持たせてください。お礼は後程いたしますので別に使者を送ります……以上だ。確かに伝えたぞ』

 カラスは飛び去ってしまい、グラセルは自分の仕事が終わった事を理解した。

「衣に関することか?」

「うん。その衣、貸す事になったからもういいよって」

「貸す事になった?」

 隠竹の目が丸くなると同時にレンが駆け寄って耳打ちした。

「伝令。オデム様が桃の神木に衣を冥界に貸してくれるよう正式に協力要請を行い、彼女はこれを受諾。衣はそのままオデム様の所に持って来るようにとのこと」

「わかった」

 ということは、今回のこの大会を各地の神々が観戦していたということだ。

 蔵度が失脚程度で済むことはまず無くなった。

 問題は誰が何のために衣を盗み出したのか、だ。

「隠竹さん?」

「なんだ?」

「難しいお顔してるけど大丈夫?」

「大丈夫だ。ちょっとおまえの親父とお話がある」

 ミカエルは大杯を館へと転送してかがんだ。

「隠竹、衣の件か?」

 そうだ、と隠竹がうなずいた。

「父様、あっち行ってた方が良い?」

 ミカエルは少し考えると首を横に振った。

「いや、私の傍から離れるな」

 わかった、とグラセルは痛み止めや熱でふらつく体をミカエルに預ける。

「そこまで酷かったか?」

「鬼の闘気が攻撃に乗っていたぞ。初期型のグラセルでなければあのデコピンで頭部が吹き飛ばされている」

 そのグラセルもスライムのように薄く柔らかく、耐衝撃に特化した障壁を体表に纏い、更に体の代謝を上げて傷の再生能力等を向上させて戦ってこれである。

 疲れた、お腹空いた、あちこち痛いと無意識に思念で訴えるグラセルにはもう戦う力が無い。

「一度私の館に行くぞ。防音ならしっかりしている。グラセルも休ませたい」

 グラセルを抱き上げようとした時、背後に迫った気配にミカエルは予期していたように障壁を展開して盾で殴るように横に薙いだ。

 それを避けたのは四枚の翼を持つ天使だった。

「……元法務のトロウか」

 先日レックスとハカムにより汚職で捕縛され地獄で罰を受けていたはず。

「ええ、いかにも」

「隠竹、脱獄されているぞ」

「すまない、担当者を締め上げておく……と言いたいが、もう締め上げていた。それにしても、こいつの舌は油でできているのか?」

「だろうな。担当できる者も限られただろう」

「ああ、選抜が大変だった」

 知るかボケと一蹴できる者、話を聴いていない者、洗脳に強い拒否感を持つ者などでなければ務まらず、要注意人物に指定されていたが担当できる者の配置が弄られてしまったのかこうして出てきてしまっている。

「グラセル坊やは負けたがよく頑張りました。君の力は素晴らしい。是非とも、私の下で働いてほしいのですが、やってくれますよね」

 独特の喋り方にグラセルは胸の中をかき回されるような、かつてない不快感に顔を歪めた。

「気持ち悪い……絶対に嫌だ!」

 体のあちこちは痛いし武具も無いけれど、できる抵抗は全力でやらなければ。

 まだ比較的無事な左手に武器庫でもらった片手剣を体の内側から呼び出そうとすると、手のひらに静電気が走ったような痛みを感じた。

「え、うそ」

 にたりとトロウが笑う。

「武器に呼び出しを拒否されたようですね」

 聞いていたミカエルは馬鹿にしたように笑う。

「なるほど、それがおまえの武器か。単語の発音や区切り方、落としてから持ち上げる……烏合の衆と化した民衆や、強烈な劣等感や後ろめたい事、何かに守られたい、縋りたいという弱さを持つ者などは簡単に転がせるな。その舌を正しく使う気が無いのなら結婚詐欺師なんかがお似合いじゃないか?」

 ほぼ確実に恋愛や婚姻を司る女神の怒りを買い、騙された者たちがこぞって新月を指折り待つだろうが。

「やはりあなたには効きませんか」

「当然だ。幼い子供一人口説き落とせない話術に誰が釣られるか」

「でしょうね。ではこれはいかがでしょう」

 トロウは息を吸い言った。

「上位者トロウが命じる。グラセル、我が軍門に来い」

 グラセルは小さな口を開いた。

「命令を受諾しました」

 とことこと歩み寄るとトロウは勝ち誇ったような笑みを浮かべ、表情を凍り付かせた。

 ミカエルの姿が消え、自分の心臓と喉笛が抉られていた。

「いつの間に」

 声は出ず、口だけでそう言うトロウに魔法で手を洗いつつミカエルは笑う。

「賢いだろう?」

 猫にするように顎下をくすぐられたグラセルは笑って手にじゃれ付く。上位者による命令がまったく効いてない。

「なぜだ、転移魔法は完璧に阻害していたはず」

「歩いただけだ」

 再生したばかりの喉で血を吐きながら言うトロウを駆け付けた警察が捕縛し、厳重に縛り上げ猿轡を噛ませて箱に詰めて持って行った。

「天使長、お疲れ様です」

「よくやった。後は箱詰めのままグランマークに引き渡せ。トロウの言葉は聞くだけ無駄だ」

「は!」

 こうして、警察署の地下でトロウを受け取ったグランマークはジールが捕縛した蔵度の隣に並べてため息を吐く。

「あーあ。地獄の鬼ともあろう者がなぁんでこんなのに引っかかるかな」

 神授の衣を盗んでもすぐに足がついて、おまけに神罰までついてくるのだから、本当に頭が良く金を持っている奴はほとんど誰も買い取りやしないのに。

「ねえトロウ、そんなに地獄が嫌だった?」

「あ、当たり前だ! 誰が尻に溶けた銅を流し込まれて喜ぶんだ!」

 うん? とグランマークは地獄の刑罰とトロウの罪状を思い出す。

 トロウは汚職の罪で地獄へ叩き落されたはず。だが尻に溶けた銅を流し込まれたという事は……。

「ああそうか、キミは盗みや詐欺の他にも色々とやっていたんだね」

 冥府の役人と貸し出した自分の眼球はとても良い仕事をやってくれたようだ。

「さて、盗賊を唆してまで脱獄したんだから、後は神罰が下るまでスリルたっぷりな自由を楽しめば良かったのに。何でこっちに来たのかな」

 教えてよ、とグランマークがトロウの頭に手を伸ばされる。

 トロウは必死に叫び首を横に振って逃れようとするが、グランマークの氷のように冷たい手がその頭をわしづかみにした。


 後日、報告書を手にしたミカエルはアホらしいと息を吐いてファイルを閉じた。

「父様、衣届いた? お兄ちゃん怒られたりしてない?」

「ああ、無事届いた。隠竹も肩の荷が下りたと」

 良かった、と笑うグラセルにミカエルが微笑む。

「あの衣がオデム様に貸し出され、オデム様と桃の神木のお付き合いが始まったそうだ。桃の神木もオデム様の心根の優しさや誠実さに心打たれたと。そう遠くない内にご結婚なさるかもしれないぞ」

「結婚……幸せ?」

「ああ。おまえが一生懸命飛び回って衣を探して、私やグランマークに協力を要請した事がオデム様にも伝わったんだ。それで、幼い天使があんなに一生懸命に尽くす相手は誰だろうと興味を持たれたと」

 そうして調べてみたら美しく穏やかで、自らの実で他者の喉を潤す心優しい女神であった。

 もちろん、女神であるため優しいだけではないのだが。

「よくやったな」

 もっと褒めて、と飛び込んできた幼子を抱き止め、彼は満足するまで撫でてやるのだった。


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