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地獄に天使  作者: ふゆづき
天界編
1/41

森の子

森の子


 世界がまだ大きな渦の中にあり、混ざり合っていた頃の事。

「ああ、忙しい! もう一人自分がいればいいのに!」

 作ったばかりの兵器たちを抱え、どたばたと走り回るのは後に人間から神と呼ばれる存在だった。

 多くの種が存在すれば相性の良い悪いが出るようになり、反発することもままあるのだが、力を有する存在同士によるそれはそれ以外の存在からしてみれば傍迷惑以外の何物でもなかった。

「今までのやり方じゃ追いつかない……なら、性能を下げて生産効率を上げるしかないかな」

 のんびりと人形を作って穏やかに暮らしていたかったのに、本当は手抜き突貫工事な作品なんて作りたくなかったのに。

 寝ないで走り回っていた彼は抱えていた兵器が自分の庭に落ちた事にも気づかず、後に人間たちに天使と呼ばれる兵器たちを駆使してどうにか嵐をやり過ごしたのだった。

「こんなのがいつまでも続いたら身がもたないし……どうするかな」

 考えていた彼はふと思いついた。

 顔を合わせれば殴り合いばかりするのだから、緩衝地帯を設けて直接会わなければいいじゃないか。

 モノを作る事が得意な彼は思いついた事を他の存在へと伝え、同じく争う事に疲れていた者たちから賛同を得ていくつかの決まり事ができ、残る一つの問題は誰がその緩衝地帯を管理するのかという事だった。

 アイツが管理するのなら全部ぶち壊してやる、面倒事はごめんだ等々、古くから存在する竜族や妖精族等は早々に己の領域へと姿を消したが隙あらばと目を光らせている。

 発案者は頭を抱え、己が創造したモノの中から管理者を選ぶことにした。

 自らの意思を持って動き回れるモノとなると限られてくる。

 一番良いのは己が兵士として動かしていた兵器だが、これでは反発は免れない。

 自らの意思と自由に動く肉体を持ち、かつ他者に利用されにくいだけの知恵を持ったモノはないか。

 その条件をほとんど満たすモノはあるにはあったのだが、致命的に何かしらが欠けていた。

「どうしたもんかな」

 悩む創造主を見ていた天使が言う。

「父上、欠けているのなら埋めてしまえばよろしいかと」

「ルキフェル?」

「重要なのは他の思惑に利用されないだけの知恵と、それを実行しうる手足です。私に知恵の木の実をお与えください。必ずや成し遂げてみせましょう」

「でもな……これだけ探したんだぞ?」

 机には不適格とされたモノたちの情報が山積みになっており、紙の黄ばみやシミを見たルキフェルは微かに目を細める。

「父上、生物を相手に古い情報はほとんど役に立たないとあれ程申し上げたではありませんか」

「そうだったか?」

「……もういいです。木の実は持って行きますね」

 彼はひょい、と軽い動作でソフトボール程度の大きさの木の実を手にした。

「あ、コラ待て!」

 ルキフェルは流れるように身を躱し知恵の木の実を手にしてどこかおもしろそうに笑う。

「どれ程頑張っても軟膏みたいにケチはどこにでも付きますよ。私が勝手にやった事にしておけば、たとえ失敗してもダメージは最小限で済むでしょう」

 それに、と彼は笑みを深める。

「イタズラして親に怒られてふて腐れて家出する……なんとも子供らしい行いではありませんか。一度やってみたかったんですよ」

 久しぶりに見た笑みにふと創造主は思う。

 そういえば、こいつはいつも優等生として振る舞い癖の強い弟や妹たちをまとめ上げていた。やってみたいことの一つや二つはあったのかもしれない。

「は……ははは! なるほど、子供のイタズラか。良い、許す。おまえの初めてのイタズラだ、なんでもやってみろ!」

「では早速」

 にまりとするが、ルキフェルは大人しく部屋を出て行った。

「ん? まあいいか……いっ!」

 散らかった部屋を片付けるべく一歩を踏み出すと、そこには良い感じに尖った石が。

 戦場で用いられるまきびしでないだけマシだと己に言い聞かせ、彼はせっせと仕事部屋を片付けて私室に戻るが……。


「あぁんのクソガキャアァッ」


 イタズラして良いと言ったが前言撤回だ!

 私室に戻ればティッシュは全部引き抜いて床に散らかされ、畳んでおいた洗濯物は何かに体当たりされたかのように散らばり、壁紙には超大作が描かれ……庭を見ればきちんと手入れしたはずのそこは雑草がのびのびと育つ樹海と化していた。

「あの短時間でどうやったんだ」

 まあ最高傑作だし、やってやれないことはないだろうが、これはあんまりだ。

 出発の準備をしているだろうルキフェルの部屋に向かう途中、ミカエルと会った。

「父上、先程からいかがなされました」

 ルキフェルと並ぶ性能を持ち、かつ生真面目なこいつなら信用できる。

「ルキフェルを見なかったか?」

「ルキフェルを? 先程裏庭を歩いていましたが、どうかしましたか」

「イタズラが酷くてな。少し灸を据えてやろうかと」

「お供します」

 裏庭に行くと、池を覗き込む奴の後ろ姿が。

「ルキフェル、イタズラして良いと言ったがやり過ぎだろう」

 反応が無いのに腹を立てて近寄ると、地面が無くなった。

「は」

 一瞬の浮遊感の後、衝撃が全身を襲う。

「いてて……落とし穴?」

 影が差し頭上を見るとミカエルの顔があったが、その笑い方には覚えがある。

「ルキフェルか!」

「はぁいそうですよ父上。私に間違えられたと知ったら彼泣いちゃいますって」

 ミカエルの姿が揺らいだと思ったら現れたのは性質の悪すぎるイタズラ小僧の顔だった。

「探索の準備が終わりましたので、しばらくお会いできないのが残念です」

「行ってきますくらい静かにできんのか」

「そりゃ無理ですね」

 落とし穴から出る頃にはルキフェルの姿はなく、彼はまったく、と服の泥を叩き落とす。

「父上、そのお姿はどうされたのですか?」

 振り向けばミカエルが心配顔で立っていた。

 まさかという不安が過る。

「……おまえ、ちょっと笑ってみろ」

「は、はあ……こう、ですか?」

 戸惑いつつぎこちない笑みをどうにか作る顔を見て本物だと確信した。

「ああ、すまなかったな、もういいぞ。ついさっきおまえに化けたルキフェルにすっかり遊ばれてな」

「今なら追いつけますが、報復しますか」

「いや、風呂に入るから着替えの用意を。その後緩衝地帯の整備と調整を行うからその準備も頼む」

「かしこまりました」

 しかし、脱衣場で会ったミカエルはとても戸惑った顔をしていた。

「どうかしたのか?」

「いえ、その……なんでもありません」

 着替えを置き、次の仕事に向かった彼を見送る……嫌な予感しかしない。

 一先ず汚れを洗い落とし、新しい服を着て私室に戻るがパッと見ただけでは異常は見られない。

「まさか」

 がら、と箪笥を開けるとそこには際どい女物の下着や服がぎっちり詰まっていた。しかも全部使用感がある。


 ねえー、ここに干しておいた服知らない?

 え、さっきまであったけど……飛ばされたのかな。


 娘たちの声が聞こえる。

「やられた」

 ため息交じりに椅子に腰を下ろすと、椅子から不自然なケーブルが伸びているのが見え、それを辿ると廊下の壁に行きついた。

 壁には黄色と黒の縞模様で装飾されたプレートに赤く丸いボタン。そして、『絶対に押すな』と書かれた紙切れが貼ってあった。

 さっきまであんな物は無かったはず。

「おい、まさか」

 そこに大の悪戯好きな天使が通りかかった。

「フンフン……ん?」

 きらり、とその目が光った。

「押すな?」

 音読し、天使は躊躇なくそれを押した。

 爆発音にミカエルが駆けつけると、ボロボロの私室に倒れ伏した創造主がいた。

「う、うぅ……」

「父上! おい、ラファエルかサリエルを呼んで来い!」

 駆け寄り怪我を確かめると大した事は無さそうだが、慎重に楽な姿勢に寝かせて救護を待つ。

「父上、すぐに救護が来ますからしっかり。誰にやられたんですか」

「ミカエルか……ルキフェルの、イタズラ……」

 言って気を失った創造主を駆け付けたラファエルとサリエルに引き渡す。

「ミカエル、顔が怖いんだけど」

 ラファエルがそろりと伺うように目を向けると、ミカエルは無表情のまま言った。

「父上を頼む。ちょっと用事ができた」

「……気を付けてね」

 サリエルの静かな声にうなずき、ミカエルは翼を広げたのだった。


***


 創造主が緩衝地帯の整備と、管理の補佐を行う予定の者たちとより高度な仕組みを作り始める一方、ルキフェルは木の実を片手に創造主の領域を歩き回っていた。

 いくつかのモノと出会ったが、どれも不適格だった。しかし自分を創造した父なのだ、必ず適格者を創造しているはず。

 そうして長い時が流れ、管理者不在のまま緩衝地帯がゆっくりと回り始め、食物連鎖や環境の循環機能テストを兼ねた、半ば冗談で放たれた巨大な動物たちの天下になっているらしい。

「さすがに歩き疲れたな」

 手紙で散々せっつかれているため急がないと。

 彼が近くの岩に腰を下ろした時、ふわふわと霊体の天使が漂ってきた。

「あれ、キミは……そうか、欠員はキミだったのか」

 大戦中に兵力が補充されたものの書類と実数が一つ合わず問題になった事があった。

「千里眼持ちの奴ら、やっぱり隠していたな」

 創造主に忘れられ、一部の天使たちから隠されたソレはまだ名前も形も無くまっさらに近かった。

『ナンダロウ……イイニオイ……キレイ……』

 どうやら木の実の匂いに惹かれてやってきたようで、とりあえず口に入れてみようかという駄々洩れの思考にルキフェルは苦笑する。

「おやおや、キミが釣れてしまったか。これはキミのじゃないよ。そう、良い子だね」

 諦めたというよりは撫でる手に関心を移したソレに彼は笑みを深めた。

『アタタカイ……キモチイイ……』

「のんきだねえ」

 こんなにのんびり屋さんのまま兵士になったら、あっという間に頭からバリバリと食べられてしまうだろうに。

 大戦中どこで何をしていたのか、記録を見ていると様々な事がわかった。

「動植物や他種族の保護をしていたのか……ん、これは……」

 自分たちの平時の姿に限りなく近い、人間と名付けられた生物を見つけルキフェルはこれだと確信した。

 他者を気遣え、好奇心があり、器用な両の手を持ち、どこまでも歩ける両足、そして環境に応じて外装を変えられる生物。あとはここに少し細工を施してやればいい。

「父上、あなたの目は節穴だったな」

 父は弱いという一点で弾いたのだろう。

 根本的に間違えている。

『ドウシタノ』

「キミのおかげで探し物が見つかりそうなんだ。ありがとう」

 撫でてやるともっと撫でてという思念が伝わってくる。

 父の作品にしては随分と懐こい子のようだ。

 そんなことを思いながら相手をしていると、小さな二足歩行の足音が聞え顔を向けると、目当ての人間の娘が立っていた。

 とても簡素な布の服を着せられてはいるが、それ以上の物を作ったり修理したりという知恵はまだ無いように見える……好都合だ。

 まだ何も知らない彼女に微笑みかけ木の実を見せて揺らしてみると、彼女は目で追って手を伸ばした。

 やはり人間がふさわしい。

「ついておいで」

 木の実を手にゆっくりと歩き出すと、娘も追ってきた。

「キミと同じで、好奇心が強いみたいだね」

 すると、霊体の天使は好奇心、と不器用に繰り返した。最低限の言葉しか与えられておらず、ルキフェルとの会話で高速学習しているようだった。

「あれはなんだろうって、何かに興味を持って調べてみようという大切な心だよ。あらゆるモノはその心で在り方を決めるんだ。心が空っぽなら空っぽな存在に、心が綺麗なら綺麗に、そんな具合にね。キミも自分の心を大切になさい」

 娘のために休み休み歩き、彼は知恵の木まで来ると娘の前で知恵の木の実を食べてみせる。

『ナニシテイルノ』

「おや、キミは食べるという行為を知らなかったのか」

 ルキフェルは一先ず娘を元の住処に帰してやり、創造主に適格者が見つかったと報告した。

「ルキフェル、まさかソレではあるまいな」

 じっとりとした視線の先では何も知らぬ、形すらない幼子がルキフェルの腕の中でうとうとしていた。

「それもおもしろそうですが適格者は別です。この子は欠員ですよ」

「欠員?」

 何の事だと眉根を寄せてミカエルを見るが、彼も知らないと言う。

「ミカエルは幼かったから知らなくて当然です。大戦中、私の隊に人員の補充がされた時、書類と実数が違うと報告した時父上はこう仰いました。おまえの数え間違いじゃないかと」

「げっ」

「実際は父上が落としただけでしょうが」

 そんな事あったかな、と視線を明後日の方に向ける創造主に対しルキフェルは言う。

「ほーらキミを落っことした上に忘れたクソ親父ですよー」

 くそおやじ? と目を覚ました幼子はのんきに繰り返す。

「すまなかった」

「まあ水に流しましょう。話しを戻しますが、適格者は人間です。そこで父上にやっていただきたいことがあります」

「言ってみろ」

「人間に生命の木の実と知恵の木の実を食べるなと命じてください」

「おまえが命じれば十分だろ」

「いえ。私は一兵士に過ぎません。私ではダメなのです。力ある創造主たる父上の命に背く程の好奇心と、知恵が合わされば管理者として完成します」

「そういうことか。わかった。ただし、生命の木への道は最初から閉ざすぞ」

「はい」

 これで人間の寿命は二百年にも満たず、世代交代の期間が短ければ手を出す機会もできる事も限られる。

 高速で回転する車輪に誰が好んで手を突っ込むものか。

 創造主はすぐに人間に生命の木と知恵の木の実を食べるな、食べたら死ぬと告げた。

 言われた事を守るべく、人間は木から遠ざかり大人しくしていたが、あの娘はどこかつまらなそうな顔をしていた。

 それを見たルキフェルは楽しそうに目を輝かせ、桃の木から実を一つもらい幼い天使にそれを与えれば桃の形や手触り、匂いが気に入ったのか上機嫌にそれを抱いて撫でて漂い始めた。

 全身で楽しむ様子を見た娘が羨ましそうにしているのを確認し、ルキフェルは大地へと降り立った。

「あ……」

「こんにちは。言葉を教えてもらったんだってね」

「はい」

「私はルキフェル。創造主の使いの一人だよ。今日はキミたち人の子に贈り物をしに来たんだ。ついておいで」

 すると、桃を抱いた幼子までついて来た。

「見ているのは良いけど、邪魔をしないでおくれよ」

『ジャマ?』

 邪魔という言葉も行為も知らないのなら別の仕事を与えればいい。

「その桃さん、撫でてあげて」

 うん、と幼子は元気に返事をして道中ずっと桃を撫でていた。

 二人を知恵の木まで導くと、振り返って彼は言う。

「私の贈り物はこの木の実だよ」

「でも、ダメって言われた。食べたら死ぬって」

「私は死ななかったじゃないか」

 ルキフェルは知恵の木の実を一つもいで手にして言う。

「どうする、キミがこの木の実を諦めるなら、この実はあの子が食べちゃうけど……まだダメだよ」

 ふよふよと漂っている幼子は器用に桃を抱いて撫でながら知恵の木の実を確かめるように触ったり匂いを嗅いだりと忙しい。

「う……」

 今まで散々歩かされてすっかりお腹が空いているのだろう、娘の腹が食事をよこせとひっきりなしに鳴いていた。

 娘を心配して後からやってきた少年も、空腹を抱えて随分と疲れた顔をしていた。

 二人とも頑張るなあ、とルキフェルは空腹の二人の目の前で瑞々しい実に白い歯を立てて食べてみせた。

「あ」

「創造主だって真に万能というわけではないよ。バレなければ怒られないんだ」

 実を食べ、果汁に濡れた手を舐めていると娘は少年を見て知恵の木の実を一つもぎ、一口食べてしばらくしてから少年に与えた。

 幼い天使はルキフェルの横に来るとじっとその様子を見ていた。

「よく見ておきなさい。あれが助け合いというものだよ」

『タスケアイ?』

「そう。娘が一口食べて、しばらくしてから少年にあげただろう。あれは毒味をしたんだ。本当に食べたら死ぬのか、自分で確かめたんだよ。勇気と思い遣りのある、尊い行いだ」

 しかし、これからそれをぶち壊さなければならない。

 こっそりと創造主に連絡を入れつつ彼は幼い天使を抱えて言う。

「そうそう、忘れていた。言いつけを破った悪い子にはきつーいオシオキが待っているんだった。じゃあね、上手く逃げなよ」

 ルキフェルが霧のように姿を消した直後、木の実を食べた事がばれた人間は様々な制約を課され緩衝地帯へと放り出され、多少の歪みはあっても子々孫々に至るまでそれを忘れなかったという。

「これで一つ賢くなったね!」

 これで人間は悪知恵というものを知ったとルキフェルは大笑いしており、手口を知った創造主は言う。

「おまえは悪魔か」

「悪魔よりも狡猾に、と作ったのは父上でしょう。知恵の木も生命の木も周りがそう言っただけで、実を食べても頭が良くなったりしないくせに」

 下手に使命を教え装備を与えて送り出すと中立地帯ではなくなってしまうと言われ、創造主は唸る。

「これで後は程良く放置するだけで良いかと……おや」

 目尻の涙を拭っていると、桃を撫でていた幼子がきちんと姿を取れるようになっているのを見て瞬く。

「そうか、キミは大地と共に在り、生命と共に歩むモノになったんだね」

「う?」

 白に近い金の髪を揺らし、鏡のような目を持つ一歳児くらいの美しい子供はルキフェルを見上げた。

 まだ新しい姿に慣れないのか、幼子はふらふらしてべしゃりと顔面から転んだ。しかし手の桃は無事で、硬い地面はその身を砂に変えて柔らかい草を生やし幼子の身を守っていた。

「キミは器用だね。キミには今回助けられたよ、ありがとう」

 顔面の砂を取ってやると鏡のような目が現れ、状況がまったく理解できていない事を伝えてきた。

 まだわからないか、と彼は微笑を浮かべて言葉を紡ぐ。

「先達として、キミに贈り物を。キミの名はグラセル。キミに大地と水、流転する生命の祝福がありますように。その危難にはあらゆる英知が集まりますように」

「ぐ、ら、せ……る」

「そう、キミの名前だよ」

 名付けられたばかりの幼子は何度か確かめるように名を口にし、顔を上げてにっこり笑った。

「あぃ、ぁと」

「どういたしまして」

 よしよし、と頭を撫でつつルキフェルは言う。

「父上、この子を連れて行っても?」

「たわけ。おまえはこれから罰の時間だろうが」

「罰? はて、何の事でしょう」

「忘れたとは言わせんぞ。椅子に脱出装置まで仕込みおって!」

 これ見よがしに絶対に押すなと書かれたスイッチまで用意し、イタズラ好きな天使の目に付く所に配置までされていた。

「おかげで頭から天井に突っ込んだわ!」

「貴重な体験じゃありませんか」

 数分後、創造主対被造物の激戦が眼前で繰り広げられる中、グラセルはぺたりと地面に座り込んで綺麗、凄いと目を輝かせていた。

 すると空に白線を引きながら現れたミカエルに興味を移し、きゃあきゃあと声を上げている。

「父上、何事ですか。ルキフェル、貴様父上になんてことを!」

「ミカエル、手を出すな!」

「しかし」

「そこにいる天使の幼体を守れ」

「かしこまりました」

 ミカエルはのんきすぎるグラセルの傍に降り立つと、流れ弾を盾で弾いた。

 後ろではきゃあきゃあと喜んでいる。

「のんきにも程があるぞ」

 そうしている内にじゃれ合いが終わったのか両者が離れた。

「あばよクソ親父!」

 そんな捨て台詞を吐いて姿を消したルキフェルに半ば呆れながらミカエルは言う。

「追撃しますか」

「構うな、捨て置け」

「は。この子はどうしますか」

 創造主は変わらず桃を抱いたままの、文字通り右も左もわからないグラセルを見る。

「これだけの戦いの中泣きもせず笑って見物していたんです。胆が太いというか、究極ののんびり屋というか……少なくとも攻撃には向かないかと」

「ああ、先程ルキフェルに名付けられたばかりの幼子だ、まだ何もできん。必要なのは教育だ」

「では培養器を用意します」

「ちょっと待て」

 創造主はずっと桃を撫でているグラセルをじっと見た。

「ところでグラセルよ、その桃はどうした」

「ルキ、フェル……もらった!」

 たどたどしく答えるグラセルの手には瑞々しい桃が抱かれているのだが、普通の桃とは違い力を有する桃だった。

「あそこの桃の木と同じ波長ですね」

 ミカエルが事情を聴こうと近寄って見上げる。桃の木は千年以上生きているのかとても大きくて力強い生命力を宿している。

「グラセルが持っている桃に関して聞きたいことがあるんだが」

 すると、桃の木の力が集まり人の形を取り、ふわりと桃色の髪をした美女が現れた。

「ごきげんよう。グラセルが抱いている桃は確かに私の子ですよ。ただ、グラセルは食べるという事も知らないようです」

「な、本当か?」

「はい。グラセルは私が母の枝に下がっていた時からこの森にいますが、何かを食べている姿を見た事は一度もございません。もしかしたら形が無かったからかもしれません。ですが好奇心が強いので気に入ったモノや気になるモノがあると傍に居る事を優先する傾向があります」

 好奇心が強い……もしかしたら捕食したかったのかもしれない。

「わかった。預ける事もあるかもしれないが、その時は世話を頼めるか」

「はい。私に可能な限りですが」

「助かる」

 ミカエルは創造主への報告を済ませ、未だに桃を抱いて撫でているグラセルを抱えて創造主と共に一度館に戻った。

「ミカエル、培養器は当分使わなくて良い」

「理由を伺っても?」

「これから管理者の育児を手伝ったり、相談に乗ったりする事もあるだろう。グラセルを育てる経験は無駄にはならないはずだ」

「……かしこまりました」

 ミカエルはうなずいてグラセルに青い目を向けた。

「これからおまえに体の動かし方や言葉を教える。ちゃんと言う事を聞くように」

「う?」

「ミカエル、それで聞いたら誰も苦労せんよ」

「は、そうですか」

 そうだとも。創造主は言う。

「グラセルの顔を見ろ。高速学習中とはいえおまえの意図なんてまったく理解していないぞ」

「ぐ……はい」

 一先ず、ミカエルはグラセルに桃の食べ方を教えてやり、桃の味を気に入った様子を見て以来動物に芸を仕込むように桃を報酬に色々教え、また千里眼を持つ天使たちが幼子に目を配り、使用人たちも高い所から落ちたり変な物を口に入れたりしないよう常に気を配り続けた。

 そうしていると、グラセルは二歳児程度に育った。

「これから仕事だから、これで遊んで待っててくれ」

「ぁい!」

 そうしてミカエルの執務室でグラセルに渡されたのは空気を入れてから潰すと音が鳴る丈夫な風船だった。

 いってらっしゃいの一言がまだ言えないため全身で表現し、風船で遊び始めたのを見てからミカエルは部屋を後にした。

 グラセルは風船を膨らまして潰し、間抜けな放屁のような音と顔に吹き付ける風にけらけら笑っている。

 飽きもせず空気を入れては潰して音を鳴らして遊んでいると、千里眼を持つ天使、ヤムがやってきた。

「グラセルちゃん、リンゴのジュース作るよ。おいで」

「いく!」

 膨らましたばかりの風船をその辺に放り、幼い頭の中身はリンゴに占拠された。

 その直前、ミカエルが部下数名を連れて部屋に戻るべく廊下を歩いていた。

 ヤムを追う幼子から視線をミカエルの背中に戻しつつ、藤色の目をした天使が問う。

「さっきの子、ミカエルが育てているんですか?」

「ああ、グラセルといって、先日私の養子になった。培養器を使おうとも思ったんだが、父上からこれから管理者の育児などを手伝ったりする事もあるだろうからと止められてしまった」

「それで養子、ですか。新兵の教導より難しそうですね」

 ミカエルは深々とうなずく。

「言葉があまり通じないし、予想外の事をするからな」

 ふと藤色の目に黄色い花のような模様が一瞬浮かんで消え、彼はそっと口元を押さえた。

「どうかしたか」

「いえ、ちょっとくしゃみが出そうで」

 それじゃあ会議を始めようと着席した時、大きな放屁の音がした。

 気まずい沈黙の中、ミカエルは尻の下から潰れた風船を取り出す。

「ぶっ、ははははっ」

 廊下にいた時から無気味な沈黙を保っていた大柄な戦士のメルクネールが真っ先に大笑いし、藤色の目を持つ彼も肩を震わせている。その様子にミカエルははっとする。

 そうだ、こいつらの能力は……。

「おまえら、千里眼で見てたな!」

 廊下にいた時から妙に震えたりしていたのはそのせいだったかと言えば彼らは目尻に涙を浮かべながらどうにかうなずく。

「いや、まさかあんたが、あんなのにかかるとは思わなかった」

 まだ笑いの発作が収まらないのか、メルクネールは笑い転げている。

 現在と未来を見通す彼の視界にはヤムからリンゴやキイチゴなどをもらって手や口の周りをべたべたにしている幼子の姿があった。

 厨房でジャムを作っていたマクールに手や口を拭いてもらうと、今度は強面の大柄な天使インフェルからクレヨンとスケッチブックをもらって遊び始めた。

「お、お絵かきを始めたぞ……ふ、はははっ」

 手を動かした通りに線ができるのがおもしろいのか丸などを適当に描き、先程食べた果物らしき物を描いている。

「楽しそうだな」

 ぽつりと零されたそれに藤色が向けられる。

「メルクネール?」

「いや、なんでもない」

 その一週間後、メルクネールは引継ぎを完全に済ませて姿を消してしまった。

「太平の世に兵は不要」

 私物が始末された彼の机にはそう書かれた一枚の紙切れがあるばかりであったという。

 同じように次々姿を消す千里眼持ちに危機感を覚えたミカエルは千里眼を統括する天使グランマークに念を押す。

「おまえは消えるなよ?」

「え、ヤダ……わ、わかった、わかったって。ただ、未来視は閉じるし、過去視の力は冥府へ貸し出したよ」

「では実体を持ったまま私の配下に留まるんだな?」

「そうだよ」

 言って、目に血の滲んだ包帯を巻いているグランマークにミカエルは問う。

「なぜ千里眼持ちがこうも消えるんだ? 特に未来視」

 未来視の力が無くとも、情報を入力しての予測演算能力で予知に近い事ができるため、新制度を考える際の問題点や改良点の洗い出しにとても役に立ってくれただろうに。

「個人の理由はわからないけど、予想ならできるよ」

 促され、白い手が目に巻かれた包帯に触れた。

「つまらなくなったんだよ」

「つまらない?」

「うん。これから何が起きるのか、全部見えていて、避けられない。せっかく親しい友達ができても、どんなふうに別れるのか全部見えちゃうんだ。もちろん未来はいくらでも変化するけどさ、その変化した先まで見えてしまう……これほどつまらないものはないよ」

「それは」

「わかってる。私たちはそういうふうに創られた。でも、どうして私たちに心なんて持たせたんだろうね」

 どうして、道具に心なんて持たせたのか。

 それはかつて、ミカエルが幼い日に兄に問うた事だった。

「私も、同じ事を兄上に聞いた事がある。その時は兄上もわからないと言っていた。でも、兄上が父上にイタズラをしかけまくった時や殴り合っている時、父上は嬉しそうだった。対等に話したり遊んだりできる家族というものが欲しかったのかもしれない」

「かぞく」

「ああ。もしかしたら、な」

 翌日からミカエルは大忙しだった。

 できる限りの無駄を省いたが、それでも今後の方針の決定や調整に追われ、それを支える使用人たちも大忙しだった。

「こんな時に兄上がいれば」

 ルキフェルの不在は大きく、ベリアルなどの主だった者もルキフェルについて行ってしまい、彼らが担うはずだった業務のほとんどはミカエルにのしかかった。

 残された者のほとんどが過重労働で疲れ、精神的に張り詰めつつあるが急がなければならない仕事ばかりで育児どころではなかった。

 グラセルもなんとなくそれが理解できているのか、大人の顔色を窺うように不安そうな顏をして部屋の隅で毛布や枕を抱いて息を潜めるように過ごしている。当然よろしくない状況だ。

 そんな中、グラセルの背に小さな翼がはみ出ているのが見えた。

 みっともないからしまえ。

 口から出かけたそれは怒声になりそうで慌てて口を閉じ、激しく脈打つ胸を押さえて自問する。

 幼い頃、自分は構わず出したままだった。幼い内はしまってもしまいきれなかったり、出てしまったりする事も多々ある。それに怒鳴るような事か?

 視線を感じてそちらに顔を向けると、目に涙をいっぱいに溜めて怯えた幼い顔があった。

「ごめ、なさ……」

 小さく言ってクッションを抱き、必死に首をすくめて身を小さくしている。

「ミカエル」

 いつの間にか、部屋の出入り口にマクールが心配そうな顔で立っていた。

「顔色が悪いよ」

 グランマークたちと同じく千里眼を持つ彼の事だ、見ていたのだろう。

「……いや……グラセル、おまえは何も悪くない。悪いのは私だ」

 このままでは八つ当たりの的にしてしまう。

 ミカエルはグラセルを抱き上げたが、小さい体をより小さくして身を固くし、時折しゃくり上げている。

 頭を庇うように掲げられた腕の隙間からは濡れた瞼が見えた。

「どこへ、何をしに?」

 微かな衣擦れの音と硬い声、そして微かな殺気が背に刺さる……明らかに警告だ。

 私はそれだけの事をやった。

「グラセルを英知の森の桃の木に預けに行く」

 やや間があり、マクールは殺気を引っ込めてうなずいた。

「ちゃんと、忘れずに、自分で、迎えに行ってあげなよ。ろくにお世話もできていないのに、グラセルはキミの事が大好きなんだから」

「ああ」

 だが今はもう誰かに預けた方が良い。ミカエルはすぐさまグラセルを抱えて飛び桃の木に預けることにした。

 突然の空からの来訪者に桃の木は驚きの目を向けたが、腕に抱いた幼子の姿に納得したようにうなずいた。

「すまないが、しばらくグラセルを預かってくれないか」

「わかりました、お預かりします……おいで」

 グラセルは戸惑い顔で桃の木とミカエルの顔を交互に見て、ぽろぽろと大粒の涙を零してミカエルの方に小さな手を伸ばし何かを言いかけ、結局何も言わず手を下ろしてしまった。

 敵の槍が刺さったわけでもないのに胸に走る痛みを強引に無視し、ミカエルはそっとグラセルから距離を取り口を開く。

「それでは、桃の木さんの言う事をちゃんと聞いて、良い子にして待っているように」

 涙は流れたままだったが、グラセルは小さくうなずいた。

「はい。行ってらっしゃい!」

 お仕事頑張ってください。

 創造主の館に戻る途中、ミカエルは幼子の姿を思い出し大丈夫かと不安になりかけ、いいやここに外敵はいない、居ても始末すればいいだけだと己に言い聞かせるのだった。

 武力制圧した国や一族、種族はかなりの数に上り、当然火種もそこかしこに残り燻っている。

 国内の安定化を図るために、やるべき事を速やかにやらねば迎えにも行ってやれない。

 急がなければ。

 そうして長い時が流れ、人間の二歳児程度の姿だったグラセルは三歳児くらいに育っていた。

「お迎え、来ないね」

「そうね、きっと……お仕事頑張ってるんだよ」

 グラセルを抱いてもう何度目かわからない苦しい言葉を言う桃の木はどうしたものかと頭を抱えていた。

 預けても一晩程度だと思っていたのだが、これが間違いだった。

 あれから何百という冬をやり過ごして春を数えたが、ミカエルは一向に迎えに来る気配が無いのだ。

 やはりこの子はこの森に捨てられてしまったのだろうか。

 気の毒に思ったスギやヒノキなど、自分と同じかそれ以上の力を持つ植物の化身や森に生きる動物によりグラセルは大地に生きる者としての知恵を得たが、それが天使として正しいかと問われれば明らかに違う。

 自分たち植物は大地に根を張り動かないが、この子は二本の脚で大地を踏みしめて風のように軽やかに駆け、真っ白な翼で森の誰よりも速く遠くに飛べるのだから。

 だが、それだけの力を持っても、歳月を重ねても、天使のこの子はまだまだ子供だ。

 サクサクと草を踏む音がし、グラセルが期待を込めて振り向くがそれはすぐに歪んだ。

 立っていたのは輝きを纏う天使ではなく、身長が二メートル近い大柄な男で、長い黒髪をうなじでまとめた美丈夫だった。

「父様じゃない」

 すぐさま桃の木の胸に顔を埋めてしゃくりあげ始めた。

「……なんか、すまないな。私は冥府の獄卒で隠竹という。貴女の桃を一つ譲っていただきたいのだが、何かあったのか?」

「え、ええ、ちょっと問題が……」

「お迎え、来ない」

 ぐしぐしと桃の木の胸元を濡らす様を見た隠竹は苦笑する。

「保護者は誰ですか」

「ミカエルという天使です」

「ミカエル……ああ、つい先日新制度が発足して、天使をまとめる天使長になり、政治家としての仕事もこなさなければならず寝る間も無いとか」

「では……」

 隠竹は気まずそうな顔で首を小さく振った。

 最低百年は迎えが来そうにない。

「とりあえず、このおにぎり食べるか?」

「う? いただきます」

 どうにか気を逸らすことはできたらしい。

「おいしいか?」

「うん!」

 わしわしと頭を撫でられ、名前を聞かれたグラセルは素直に答える。

「まずは身だしなみを整えような」

 桃の木に泉の場所を聞き、隠竹は野生生活ですっかり汚れていたグラセルを洗って綺麗にしてやり鬼火で乾かしにかかる。

「綺麗」

 青白く揺れる鬼火にグラセルの目は輝き、伸ばされた小さな手を隠竹はそっと押さえた。

「触ると酷い目に遭うぞ。これは鬼火と言ってな、普通の火と違ってそう簡単に消えないんだ」

「ひ? おにび?」

「普通の火を熾すから、よく見ておけ」

 隠竹は人間がやるように火を熾し、普通の火を見せてやる。

 橙色に燃える炎にグラセルは不思議そうな顔を隠竹に向けた。

「火との付き合いには気を付けろよ。こいつはあればあるだけなんでも食べてしまうし、とても欲張りで与えられた物をそのままの形で返すことは絶対にない」

 グラセルはそっと橙色の火に手を伸ばし隠竹の顔を窺うが、彼は静かな顔で見ているだけだ。小さな手はそろそろと伸ばされ、火に触れて慌てて引っ込めた。

「あちっ」

「味見されたな。そうなったら綺麗な水で噛みつかれた所を冷やしてやるんだ」

 その後、グラセルは必要以上に近寄ろうとはしなかった。

「勉強したな。グラセル、今こうやって火にご飯を与えると、こんなふうに煙が出るだろう?」

 隠竹が黒い煙を示すとグラセルはうなずいた。

「この煙と火は大の仲良しで、いつも手を繋いでいるんだ。入り組んだ狭い所で煙を見つけたら、すぐに火がやって来ると思え」

「来るの?」

「そうだ。煙は高い所に登ったり狭い所に入ったりするのが大好きなんだ。それで、火はもっといろんな物を食べたいといつも食べ物を煙と一緒に探し回っている。生き物は煙を吸うと動けなくなるから、火は楽にご飯にありつけるんだ。食べられるのは嫌だろう?」

「やだ」

「なら、煙を見つけたらすぐに風上……風が吹いて来る方に逃げろ。火があちこちで元気に動き回っている時は、絶対に川や泉に飛び込んで逃げようなんて思わないで、濡らした分厚い布や毛皮なんかを体に巻き付けて一番火の激しい所に逃げろ」

「食べられちゃうのに?」

 そんなに食べられない、と隠竹は言って普通に熾した火の勢いを強くしてやる。

「こうして激しく燃えるにはより多くの食べ物が必要になって、外からご飯をもらわない限りそんなに長続きしないんだ。それに食べ物が無いとわかると火はさっさと消えてしまう」

 言った通り、激しく燃えた焚火は長持ちせずに消えてしまった。

「火は桃の木さんたちを始めとする、多くの者にとっての天敵だ。この森の中で煙や火を見つけたら、火が小さい内にすぐに消してやれ。火が食べられない水や土をかけたり燃える物を遠ざけたりして、火の周りからご飯を失くしてやれ」

「うん!」

「そろそろ服も乾いたな。ほら、上手に着られるかな」

 グラセルがもぞもぞと服を着る間に隠竹は鬼火を消して念の為土と水をゆっくりとかける。

「着られたよ」

「上手にできたな」

 綺麗になったグラセルを抱いて戻ると桃の木は喜んだ。

「綺麗になって良かったね」

「うん! ありがとう」

「どういたしまして。汚れたままでいると桃の木さんに嫌われちゃうから、ちゃんと体や服を洗うんだぞ」

「うん!」

 隠竹は桃の木から桃をたくさんもらい冥界へ帰って行った。

 その後も、隠竹は暇を見つけては桃の木とグラセルの所へと顔を出すようになり、その度に隠竹は桃の木たちが教えられないような知識や技術をグラセルに与えた。

「お兄ちゃん大好き!」

「ありがとな。俺と一緒に地獄に来ないか?」

「桃の木さんが良いって言ったらいいよ」

「賢くなったな」

 隠竹が桃の木を見ると彼女はダメと答えた。

「今のままじゃ地獄で餓死しちゃいますから、グラセルがもっと大きくなってからにしてください」

「そうか。地獄で待っているぞ」

 その後、竜族の女がやって来たり妖精に誘拐されかけたりしつつもグラセルは森に育まれた。

 大地の英知を受け取り、名付け親の影響かその姿は幼いものの年々輝くようで森の住人たちの愛を受けて優しさと厳しさを知り穏やかに成長して彼が四歳児くらいに育った頃、ミカエルの使いだという小鳥がやってきた。

「明日ミカエル様のお家に寄って、そこから学校に行ってください。詳しくは明日ミカエル様から説明されます」

「……わかった」

 小鳥は明日迎えに行くから自分に付いて来てと言って、飛び去ってしまった。

「お迎えじゃないんだ」

 沈むグラセルの後ろでは桃の木と隠竹が顔を見合わせて肩を落としていた。

「ねえ隠竹さん」

「なんでしょう」

「冥府魔界協定により人材のやり取りができましたよね? 一度グラセルを冥府にやって、そこから名付け親のルキフェル様の所に戻す事はできるかしら」

「難しいですね。冥府魔界協定における人材交換はあくまで双方に有益という条件があります。幼いとはいえグラセルを得る戦力的メリットは極めて大きいので、今の魔界にそれに見合うものを出せるか。あと、ミカエルが黙ってはいないでしょう」

「完全に放置しているのに?」

「はい。あいつらは管理するという事だけは確実にこなしますから、自分の管理下にあるグラセルが勝手に所属や所在を変えるとなると確実に飛んできます」

「誰か、羽を毟っておいてくれないかしら」

「ミカエルの羽、火鼠や火蜥蜴の皮手袋も燃やすんですよね」

 帰り際、隠竹はグラセルの頭を撫でて言った。

「危なくなったり、怖い目に遭ったりしたら兄ちゃんの事呼ぶんだぞ。すぐに行くから」

「うん。また会える?」

「ああ、またな」

 隠竹を見送り、翌日グラセルは小鳥に叩き起こされ気乗りしないまま日も登らぬ空を飛んで不機嫌顔でミカエルの家に着いた。

 一般的に豪邸と呼ばれるそこで待っていたミカエルはグラセルの姿を見てやや顔をしかめた。

 グラセルにとって久々に会う養い親の顔は隈ができて少しやつれ、どういうわけなのかグラセルの目には薄汚れて見えた。

「酷い汚れだな。さっさと風呂に入れ」

 グラセルが口を開く前にミカエルは服を剥ぎ取って抵抗するグラセルを風呂に叩き込んで丸洗いし、新しい服を着せると書類を持たせて家から半ば叩き出すように追いやった。

「後はその鳥について行って、大人の言う事を聞け」

 言うだけ言うと、彼自身もどこか慌ただしく館の中へ戻ってしまった。

 乱暴に脱がされた服は破けて繊維が食い込んで肌に傷をつけ、力一杯擦られた体はひりひりと痛みを訴えて一部は傷になっていた。

 新しい服を与えられた時も手渡しではなく投げられた。

 グラセルは口を引き結んで小さな両手で新しい服にしわを作り、無言のまま小鳥の誘導に従い学校へと飛んで職員の言う通りに書類と荷物を交換した。

 白く四角い石の中には自分と同じような姿をした生物が集められていた。

 背が高いのもいれば自分のように低いのもいて、仲が良いのも悪いのもおり見ていて飽きなかった。

「おまえ、見ない顔だな」

 声にグラセルは振り向き、視線を少し上に動かすと見知らぬ少年と目が合った。

「おまえだよ、おまえ」

「え、私? うんと、そりゃあ知らないと思うよ。一度も会ったことないし」

「は、え?」

 周りの天使たちは忍び笑いをし、二人の様子を楽しげに見ている。

「私はグラセル。キミの名前は?」

「ふん、当ててみろよ」

 火の粉のような金の髪に赤い目の少年は意地悪く言った。

「じゃあ、タネスケ!」

 誰かが失笑した。

「誰がタネスケだ! つかタネスケってなんだよ」

「え、タネスケじゃないの? それじゃあ、ナエゴロウ!」

 良い名前でしょ? とグラセルは得意顔で、とうとう笑声が上がった。

「違う。なんでそうなるんだよ」

 顔を真っ赤にして怒鳴る少年にグラセルは目をぱちくりさせ気遣うような顔をしてゆっくりと、大きな声で話し始めた。

「そんなに大きな声を出さなくても聞こえているよ。お耳が悪いんだよね、気が付かなくてごめんね」

「耳は悪かねえよ」

「なら良かった。お名前だけど、さっきから自分のお世話を全部他人にやらせていたから種や苗みたいにお世話してもらわないと生きていけないのかと思って。あ」

 思い付いた、という顔に少年は無性に嫌な予感を覚える。

「いっぱい人をこき使っているから、パシリ、パシラー、パシレスト! どれがいい?」

「どれがいいじゃねぇよ! クソッ、覚えてろ!」

 走り去る少年にグラセルはなんだったんだろうと少し考えるが、わからないものはわからないとあっさり思考を放棄してそっくり忘れたのだった。

「凄いね。あ、私はウィネル、こっちはクエネル。よろしく」

 柔和な顔立ちの少年と生真面目そうな少年にグラセルは軽く笑みを浮かべた。

「私はグラセル。よろしく。でも全然凄くないよ。あの子のお名前わかんなかったし」

「彼はフレメルって言って、この辺りじゃガキ大将って有名なんだ。あなたはどこから来たの?」

「えっと、英知の森っていう所から」

「とても遠くから来たんだね。もしかして、育ての親は天使じゃないのかな」

「うん。森のみんなが育ててくれたの」

 すると、ウィネルとクエネルは揃って変な顔をした。

「ここは養い親が天使でなければ入れないはずだが?」

「誰に書類を渡されたの?」

 途端、グラセルは不機嫌顔になった。

「ミカエルっていう変な鳥」

 ぴきり、と音を立てるように周りが静まり返った。

「ぐ、グラセル、変な鳥って、ミカエル様は私たち天使のまとめ役ですっごく偉い人だからね」

「猫さんの方がずっと優しくて賢いもん!」

「何があったんだ?」

「良い子にして待ってろって言ったから待っていたのに全然お迎えに来なかったし、いきなり服剥ぎ取ってお湯に投げ込まれたもん」

「え」

 もうケンカの域を超えているのでは、と二人は目配せをする。

「じゃあ、ここもどんな所なのか、何も言われてないの?」

「うん。後は大人の言う事聞けって」

 そんなまさか、とクエネルは眉根を寄せる。

 だが、このまま放置するのは可哀想に思えた。

「私たちで良ければわかる範囲で教えるよ」

「一緒に頑張ろう」

「ありがとう。お願いします」

 ウィネルは微笑を浮かべて話し始めた。

「ここは学校でね、私たち天使が基礎的な知識や技術を得て己の得意分野を調べて、それを基に仕事に就くための勉強や訓練をする所なんだよ」

 そこで彼は曙色の目をグラセルに向けてうなずく。

「あなたは……大地の力が凄いね。でも火の力がまったく無いや」

 そうなんだ、と受け入れつつグラセルはじっとウィネルを見る。

「ウィネルは……かくれんぼが上手そう」

「ふふっ、クエネルは?」

「うーん……ん? 鳥さんのご飯の臭いがするけど、鳥さんの臭いしないよ?」

 クエネルは紫色の目を丸くして服の袖に鼻を寄せる。

「そんなにエサの臭いが酷いか? いや、確かにワシを一羽飼っているけど」

「そのワシさん、本当に鳥さんなの?」

 その一言はなぜか妙にクエネルの胸に残った。

 教員がやって来て天使たちを誘導し、組分けを行い寮の部屋を決め生活の規則を教え、ようやく解放されたグラセルは一言漏らした。

「森に帰りたい」

「え、もう?」

「来て三時間と経ってないぞ」

 だが気持ちはわからなくもない。

 目に映る物、机やベッドなどすべて未知の物体を見る目で触れていたから疲れもするだろう。

 夕食の時間になり、グラセルは二人の真似をして食卓に着くが一口食べてほとんどを残していた。

「大丈夫?」

「食べなきゃ体に悪いぞ」

「ううん。いい」

 これには見ていた教員、ヤスミンも内心首を傾げた。

 時間や運動量を考えてもお腹は空いているはずだ。精神的なものだろうかと思うが、とてものんきな性格という事はわかっているのでその線は薄そうだ。

 もしかしたら、食事の規格が合わないのかもしれない。

 そう思いグラセルとほぼ同時期に作られた初期型の教員、グランマークの方を見ると彼は美味しそうに食事を平らげておかわりを要求し、無いとわかると同じ教員のジールのデザートを狙っていた。

「元教え子から強奪しようとかプライドってもんが無いんですか!」

 黒い髪を短く刈った男が青い目に焦りを浮かべてデザートを死守するが、目隠しをするように黒い布を巻いた細身の青年が懲りずに手を伸ばす。

「ジール君残しているし、嫌いなら昔みたいにやっつけてあげようかと思って!」

「好物は最後に取って置く派だってガキの頃から言ってるでしょ!」

 十回連続でデザートを取られてたまるかと一瞬の隙を作り、デザートはろくに味わわれる事も無くジールの口の中へと消えた。

「ああっ、私のデザートがぁ」

「先生のじゃなくて俺のですって」

 そんなぁ、とうなだれるグランマークを見ていたヤスミンは己の考えを改める。

 食事の規格に問題は無い、と。

『ヤスミンよりグランマーク。グラセルをマークしてください。様子が変です』

 ふざけた様子とは打って変わって静かな声が返ってきた。

『グランマーク了解』

 思念による秘匿通信を終え、新学期最初の夜を迎えた。

 食事に風呂に寝床……慣れないそれらにすっかり嫌気が差したグラセルは同じ部屋のウィネルたちが寝静まった頃にそっと部屋から抜け出し姿を猫に変えて寮を出た。

 森の猫さんが言っていた。子供はいつか大人になって、その時は親の縄張りを出て自分の縄張りを持つんだと。

 きっと今がその時なんだろう。

 というか、ご飯も寝床もあり得ない!

 ご飯は変な味がして泥みたいだったし、寝床は色々な臭いが混ざり過ぎて全然落ち着かないし、葉っぱを積んだ方がずっと良い。

 とことこと学校のフェンスに近寄り、見上げる。

 これを越えれば自由だ。でも、この隙間なら蛇さんの方が良かったかな……寒くて動けなくなっちゃうかな。

 まあいいかと思考を打ち切り、ふわふわの前足を金網にかけた時背中の毛がぶわりと逆立ちグラセルは本能のまま駆け出し森に逃げ込んだ。

「ありゃ、逃げられちゃったか」

 空からなら気づかれないと思ったんだけどな。

 グランマークはたった今猫が逃げ込んだ森に目を向ける。

 初日から脱走だなんて、余程学校が嫌だったのだろうか。

『グランマークからジーテムへ。脱走者がそっちに行ったよ。猫に変身してた』

『はあ? なんでそこまでわかってんのに逃がしたんだよ。ったくのろまのタコスケが。ガキの逃走経路くらい潰しとけよ』

 これにはグランマークもムッと来た。

 あの子絡みの事でなければ今頃ベッドの中だ。

『私に当たらないでよ。他人の頭の中身までわかるわけないでしょ。それに今日の当直はあんたの仕事でしょ、そっちで食い止めてよね』

 通信を切り、千里眼でグラセルの様子を見るとジーテムのナイフを掻い潜り、小さくとも鋭い爪で目を思い切りひっかいて逃げ出していた。

 そして素早く木に登りジーテムを頭上から見下ろせる位置に陣取って葉っぱに身を潜める。

 あれなら頭に血が上っているジーテムには見つけられないだろう。

「やるなあ」

 言いつつ、彼は脳内の思考領域にグラセルの情報を展開する。

 名付け親がルキフェルで現在の養い親がミカエル。一度も人里で暮らした事が無く森育ち。そして初期型。

 初期型は完成さえすれば自分で考えて行動できる、強力無比にして一騎当千の心強い味方になるが、敵にとっては存在そのものが恐怖とも言える無慈悲な殺戮人形になる。

 父上の館で一緒に暮らした短い時間の中では、あの子は私の目を見てお花やお空みたいで綺麗と笑っていた。

 抱き上げて遊んだ時の温もりや柔らかさも憶えている。

「……幸せそうに、笑っていたはずなんだけどな」

 大戦中に未来視で見た時は春の木漏れ日が優しく揺れる中、動植物たちと触れ合って一緒に木の実を集めて食べたり巣を作ったりして幸せそうに笑っていたというのに。

「いじめられたのかな。う~ん、まあいいか」

 会ってみればわかるだろう。

 彼はのんびりと夜の森へと足を踏み入れた。

 森ではジーテムが完全に腹を立てており、ナイフと再生したばかりの目を殺意にぎらつかせていた。

「あの毛皮剥ぎ取ってやる……どこだ、出て来い!」

 怒声に叩き起こされた鳥たちが鳴きながら逃げて行った……安眠妨害されちゃって、可哀想に。

「まあまあ、落ち着きなって。そんなんじゃ悪魔だって逃げちゃうし、夜は静かにしなきゃ」

 ねえ、と彼が見上げた先にはじっと息を殺して身を潜めている猫の姿が。

「あんな所に! さっさと部屋に戻って寝ろ!」

 それに対し嫌だと言うようにグラセルは毛を逆立てて身構える。

「ウゥー」

「やる気か……今度は逃がさない」

「ジーテム、大人気ないよ。ナイフしまおっか」

 グランマークはジーテムの手首を軽く叩いてナイフを没収し、口を開く。

「上位者グランマークが命じる。グラセル、直ちに変身を解きその場から動くな」

 途端にグラセルは猫から無理矢理元の姿に戻され、全身が鉛のように重たくなり身動きができないまま木から落ち大地に叩きつけられた。

 しかも運悪く尖った石がグラセルの後頭部に刺さり、鉄錆びた臭いが広がり始める。

「死んだな」

「あちゃあ……五分もあれば再生するでしょ。その間に情報もらうね」

 ピクリとも動かないグラセルに彼は手を伸ばし、頭を石からどけてやり気づいた。

「首も折れちゃってるね」

「ふぅん」

 治りやすいようにきちんと寝かせ、彼は今度こそ情報をもらうべく心臓の上辺りに手を置くが、それは不可視の力に弾かれた。

「どうした?」

「攻性防壁が展開されてる。こんなに小さいのに、自分の中に入るなって必死だよ。それに元から既存の法に対する抵抗力がとんでもなく高い。大きくなったら権能を用いた力任せの押さえ込みはほぼ効かなくなるだろうね」

 でも情報ちょうだい。

 手に力を込めた時、小さな体が電撃でも受けたかのように跳ねた。

「あ……あぁ……」

 ぱかりと開けられた口からはか細い悲鳴が上がり、開かれた鏡の目からは涙が伝っている。

「おい、起きたぞ。黙らせるか」

「いや、いいよ。でもおかしいな」

「今度はなんだよ」

「普通私たち天使は思念を用いて情報をやり取りする事があるだろう? 親から記憶や感情、感覚を引き出されたり共有したりする事は一度くらいあるはずなんだけど」

 無理に共有した感覚と感情は嫌悪と恐怖と悲しみで満ちている。小さな胸の内で響く悲鳴は『怖い、気持ち悪い、出て行って! お兄ちゃん助けて!』だった。

 お兄ちゃん? お父さんではなく?

 どういう事だろうか。

 更に記憶を読み込みにかかる。

 呼び起こされたノイズ交じりの記憶の中に、冷たく光る青い目と窶れた顔、そして服を破りにかかる手が見えた。

『ちゃんと良い子にしてずっと待っていたのに、なんで!』

 ドウシテ、イタイ、カナシイ……コワイ。

「これは……」

 ミカエルの館での経験を更に読もうとした時激しくノイズが走り、とうとう震える小さな手がグランマークに触れた。

「しまった!」

 膨れ上がる強大な力の気配にグランマークは叫び瞬時に接続を切りながら障壁を展開した。

 ジーテムとグランマークが横殴りに弾き飛ばされ、どうにか防御して体勢を立て直したグランマークが見るとグラセルの横には一人の男が立っていた。

「冥府の鬼がなぜここに」

「この子に掛けていた呪いが発動したからだが。この子に何をした」

 場合によっては破壊すると隠竹は金棒を構える。

「情報をもらおうとしていたんだよ。ここは天使の学校でね、消灯時間を過ぎたら部屋から出てはいけないという規則がある。自主練とか逢瀬なら見逃してやったけど、脱走や私刑の類なら見逃すわけにはいかない」

 隠竹は少し考えると金棒を横に放り、攻撃しようとしていたジーテムの頭を潰すとしゃがみ込んでグラセルを抱き上げた。

「よしよし、怖かったな。何が嫌だったのか、兄ちゃんに教えてくれるか?」

「うん」

 しゃくり上げながらグラセルは隠竹に教わった通りに思念で学校に来る直前からの情報を渡す。

 すると、隠竹の顔が引きつった。

 まずミカエルの館で受けた仕打ちは子供に対するそれではない。

 泥みたいなご飯……世間一般で言う普通の加熱調理された食事だが、グラセルにとってのご飯とは火を通さない木の実や血抜き処理されていない生肉と生魚と水が主体で、硬かろうが渋かろうがお構いなし。例外は隠竹などに食べて良いと差し出された食料。

 柔らかすぎて変な臭いや音のする寝床……タコ部屋のわりとボロなベッド。一般的に硬いと言われる。使い回しされているのだからがたついたり色々な臭いが染みついたりしていてもおかしくはない。

 対するグラセルの日常。地面や樹上でそのまま寝るか、狼などの獣の群れに交じって寝る。中でも防虫、殺菌効果のある葉っぱを積み重ねたベッドの寝心地は最高だったらしい。

 とてつもなく嫌な予感がした。自分はもしかして、今までとんでもない思い違いをしてきたのではなかろうか。

「グラセル。建物ってわかるか?」

「わかんない」

 やっぱり! と隠竹の嫌な予感、人里や家庭で学ぶはずの基礎教育がまったく無い更地状態だという予感が的中してしまった。

 これにはグランマークも動揺の気配を隠せずにいた。

「じゃあ、あれは?」

 指差された方には木々の間に月明かりにぼんやりと照らされた天使の邸宅が見える。

「変な石」

 隠竹はそっとグラセルを抱き締めた。

「ごめんな、俺が絵本持って来れば……いや、引き取って育てれば良かった」

「状況の説明をお願いできるかい?」

「端的に言うと、この子は赤ん坊の頃から捨て子同然の扱いを受けて来たんだ。グラセル、よく聞いてくれ。俺と一緒に獄卒やらないか。ちゃんと桃の木さんや竜の姉ちゃんと会えるようにするから」

 濡れた鏡の目が満月のように丸く輝いた。

 一緒に行く!

 その一言は胸に刺さった白刃によって阻止された。

「え」

 初めて感じる胸の痛みにグラセルは隠竹の肩越しにグランマークを見上げた。

「なんで」

 過たずグラセルの心臓と隠竹の右胸を貫いたそれはずるりと引き抜かれると同時に幼子の意識を刈り取った。

「悪いけど、それを許すわけにはいかない」

 先程からは信じられない程硬く冷たい声に、隠竹は血の味を味わいながらも哀れな奴だと笑った。

「哀れ……私が?」

 声に微かに苛立ちが混じり、彼の怒気が隠竹の傷口に毒を塗りこむように、じりじりと焼いた。

「ぐ……さすが天使。鬼よりも鬼らしいな。今は退くが、この子に赤ん坊にするように人里の生活と、まっとうな家庭の愛情や温もりってやつを教えてやってくれ。この子の生活は原初の人の子以下だったぞ」

 言って金棒を回収して消えた隠竹は冥府の自宅にて穴が開いた服を脱いで半裸のまま通信機を手にする。

 鬼の生命力と冥府という場所柄故か、グランマークに付けられた傷はもう治っていた。

「ルキフェルか? 俺だ、隠竹だ。ミカエルの奴完全に育児放棄しているぞ。本当だ、あの子はベッドや建物の存在すら知らなかったし虐待の形跡も見られた。現在目に布を巻いた天使に預けてある。……そうか、奴がグランマークというんだな。情報感謝する」

 ルキフェルが頭を抱える少し前、グランマークはグラセルを抱いてジーテムを蹴り起こし、医務室に向かった。

 胸の傷を治療し、幼い体のあちこちに機材を取りつけ自発呼吸が再開するのを確認しつつモニターに視線を移す。

「うわ、機能不全からの緊急停止寸前……力が酷く偏ってる……偏食が酷い? いや、それしか補給できなかった?」

 グランマークは慎重にグラセルの酷く偏った力を調整してやる。

 すると、グラセルが何度か咳き込んで目を覚ました。

「お兄ちゃん?」

 しかし、グランマークの姿を見つけたグラセルはすぐに身を強張らせて逃げを打つが、治りかけの胸から酷い痛みが走りその場で丸くなった。

「傷が……開いちゃってるね」

 機材から警告音が鳴るまでもなく、グラセルの様子を見れば傷が開いた事が手に取るようにわかった。

 あまりの痛みにべそべそと泣いていると、グランマークは機材を操作して痛み止めを投与した。

「悪かったね、まさか育児放棄されているとは思わなかったんだ」

「いくじほうき?」

「ええと、育てるのを途中でやめちゃうことだよ。これからそれも教えるからね」

 麻酔でろくに動けないだろうに、少しでも動けば警戒する様子にグランマークは努めて穏やかに言う。

「キミの事はあの獄卒のお兄さんから頼まれたんだ。仲良くしてくれると嬉しいな」

「お兄ちゃんが?」

「うん。キミに人里での生活を教えてやってほしいって」

「ん……よろしく、お願いします」

「うん、これからよろしく。もう知ってるかもしれないけど、私の名はグランマーク。キミよりほんの少しだけお兄さんだよ」

「お兄さん?」

 そうだよ、とグランマークはうなずきつつ機材を操作してグラセルの中に力を補充してやる。

「私はここで先生をやっているんだ。キミの怪我が治ったら、獄卒のお兄さんとの約束を果たすよ」

「う、うん」

 良い子だ、とグランマークは微笑み、グラセルの傷が治ったのを受けて魔法陣を展開した。

「この魔法陣は思考加速でね、現実世界の一秒をいくらでも引き延ばせるんだ。この中で百年過ごしても、現実世界では一秒も過ぎていない……そんな事を可能にするんだよ」

 まったく理解できていないという眼差しにグランマークはそっと苦笑する。

「夢を見ると思えばいいよ」

「夢?」

「さあ、お勉強を始めようか」

 グランマークは様々な魔法を駆使してグラセルに家具を始めとする道具の名前や使い方を教えたり、自身の記憶から食材や料理の味に関するものを引っ張り出して調理過程を見せたりした。

 動植物の命を奪い、人の手で幾重にも加工して、食卓に並ぶ。

 それを知ったグラセルは呆然と鏡の目を丸くした。

「ごはん……いけないことした」

「知らなかったのなら仕方がないよ。今度からなるべく残さないようにね」

「うん」

 仮想空間を最大限に駆使して洗濯の仕方や体の洗い方などの日常生活も彼は教えた。

「今日の所はこれくらいにしておこうか。ミカエルには私から言っておくよ」

「ありがとうございます」

 良い子だ、とグランマークはグラセルを撫で、寮の部屋に戻してやった。

 仮想空間内での五年は人里で暮らす基礎としては十分だった。

「さて、あと教えていないのは燃料補給だけど……これはミカエルに任せないといけないかな」

 育児放棄は別に追及するとして、自分の子供をどのように伸ばすのかはある程度親が決める権限がある。

「あと環境の急激な変化はストレスだよね」

 何か良い方法は無いかと思った矢先、通信が入り彼は思考領域にそれを展開した。

『獄卒の隠竹だ。天使グランマークで合っているか』

『合っているよ。連絡先はルキフェルから聞いたのかな』

 そうだ、と隠竹は答えた。

『進捗はどうだ』

『人の子の五歳ぐらいに相当する教育は済ませたよ。あとはあの子次第。それとあの子に贈り物をしたいんだけど、あの子が好きな物や気に入っている物、傍にあると安心する物なんて心当たり無い?』

『それなら桃を始めとする花や果物の香りだ。む、竜族の女からの言伝だ。親から子供を引き離すのに鱗の一枚もやらないのってどうなの? だと』

『耳が痛いね。これからクッションでも作って渡すよ』

 朝になるとグラセルはグランマークからクッションを受け取った。

 柔らかくて肌触りが良く、常に季節ごとの花や果物の香りがするクッションで、グラセルは毎晩これを抱いて寝る程だった。

「あのクッションの移り香?」

「うん。今は桜さんの香りなの」

「良い香りだね」

「お花もとっても綺麗なんだよ」

 きゃっきゃと笑う後ろではクエネルが実家に連絡を入れていた。

「父上、トムの様子はどうですか。あ、ハゲがちょっと回復したんですね、良かった。エサはちゃんと食べてますか?」

 ふんふん、と何度かうなずきクエネルは通話を終えた。

 飼っているワシのトムに変わった様子はなく、クエネルが居なくなって落ち着かないのか動き回る事が増えたという程度だった。

 でも、グラセルがクラスメイトのペットを予想して外した事は無い。ただし、自分含め何人かは本当に動物を飼っているのかと疑われた。

 グラセルは自分たちよりもだいぶ幼いが、どうにも気になった。

「夏休みはまだ先か」

 それまで何事も無ければいいけど。


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