第8章
風の音で、ヘスペリアは目覚めた。
すぐ横にレアンドロスが眠っているのが認められる。頭が重い。自分が今ローマにいる。そのことに、彼女にはまだ実感が湧かなかった。船がタレントゥムに付いた後の事を思い起こした。レアンドロスは舗装された街道を一気に馬車を走らせた。何と軽快なことだったことか。あの狭いギリシャの道とは大違いである。
快適に暮らせるようにいつも工夫しているんだ。
そう言っていたデキウスの言葉が思い出される。ギリシャ人はデキウス達を模倣の民だと格下に見ていたけれど、例え模倣だとしても快適に暮らす工夫の方が、よほど大事だと彼女は思った。
「どうした。熱が上がってきたのか。」レアンドロスに声をかけられた。
「起こしてしまったの?」ためらいがちにヘスペリアは尋ねた。
あの中庭での出来事のあと、レアンドロスに話しかけることは憚られた。この男にとって自分は気まぐれに囲った女の一人でしかない。
「子供みたいにあんなにはしゃぐからだ。」
尊大な言い方に、かっとなる。しかし、いつものことなのだ。
黙っているヘスペリアの顔を男はしばらく見つめた後、そっと彼女を抱き寄せた。糸杉の香りに包まれる。男の振る舞いに彼女は戸惑った。優しさと冷たさ、この男の二つの面に自分はいつも惑わされる。
「熱が下がるまで、館で寝ていろ。ここは俺の別邸だ。くつろいでいればいい。」
優しい言葉に胸が熱くなる。これが真実の言葉であったなら、とヘスペリアは願わずにはいられない。しかし、それはかなわぬ事だった。
旅の疲れだろうか、ローマにいる間中ヘスペリアは伏せっていた。ミネアに比べて、遙かにしっとりとした大気が、寝室にも伝わってくる。その大気に混じって花や木々の香りが漂ってきた。
「折角の滞在だったのに、残念だったな。」男がにこりともせずに言う。「まあ、また来る機会はいくらでもある。」
ローマにはいつでも来ることはできる。しかし、この男と訪れる機会は、果たしてあるのだろうか。彼女は視線を漂わせた。
「そんな不安そうな顔をするな。長旅の疲れだ。少し休んでいれば良くなる。」男は苦笑した。「完全に直ったら、ポンペイに行く。ローマほどではないが、綺麗な町だ。」
その言葉に彼女は微笑んだ。新しい町、そこでローマ人の中で暮らせば、自分の運命も変わるに違いない。今はそう信じたかった。
彼女が起きられるようになってから三日後、レアンドロスは出発した。草原の中を舗装された道がまっすぐに延びている。道標のように道沿いに松の木が植わっていた。所々に石碑が見える。
「何なの?あの石は?」ヘスペリアは思わず尋ねた。
「マイルストーンさ。ポンペイまで後何マイルか。一目で分かる。」
馬車を走らせながら、レアンドロスが答えた。そんな工夫まで。ヘスペリアは驚きを隠せなかった。ギリシャ人は自分たちを合理的だと思っていたけれど、どうやらローマ人の方が一枚も二枚も上手のような気さえする。しかし、広々とした草原を馬車で走ることは、何と気持ちの良いことだろう。潤いのある大気が肌に優しい、初夏の日差しさえもミネアよりも柔らかく感じられた。
気が付くと、レアンドロスが見つめていた。男の鋭い視線に彼女は目を伏せた。
「ようやく機嫌が直ったようだな。」皮肉な笑いと共に男が素っ気なく言った。
どうしていつもこうなのだろう。ヘスペリアは胸に砂がたまるかのような息苦しさを感じた。
街道ぞいには定期的に木が植えてある。レアンドロスは馬車を木陰に止めた。ひんやりとした大気が心地よい。先におりた男が軽々と彼女を抱き上げた。
「首に腕を回せ。重くて仕方がない。」男が命令する。
男の首に腕を回し、体を預けた。首筋に男の息がかかる。ふと、口づけを求められたあの日のことを思い出した。契約の始まりだと素っ気なく言ったレアンドロスの声が甦る。確かに彼の予言した通りになった。あのとき、自分は一生、この男を憎むと言った。だが、今はどうだろうか。少なくとも彼に対し、憎しみも恨みも消え去っている。その代わり、流砂の上にでもいるような、形容しがたい感情にとらわれている。それが何であるのか。彼女には分かりかねた。
「いつまで抱きついているんだ。え?」
そう嘲られて、ヘスペリアは慌てて回した腕を離す。レアンドロスはそっと彼女を抱き下ろした。奴隷達が、木陰に華やかな敷物を敷いている。
「少し休む。軽くつまむとしよう。」一方的な言い方だ。
早くポンペイに着きたいのに、ヘスペリアは不満だった。
レアンドロスは既に腰を下ろし、ヘスペリアを無言で誘った。全て自分の思い通りになると思っているのだろう。尊大な態度は嫌だったが、ここで言い争う気にはなれなかった。草原の緑が輝き、青く澄んだ空はどこまでも広がっている。樫の木陰が爽やかな香りを運んできた。遠くに頂上が白い山々が見えている。こんな魅力的な景色のところで、喧嘩するなど愚かなことだ。
そこまで考えて、彼女にはレアンドロスが小休止した理由が分かった。
顔を赤らめた彼女に、レアンドロスが薄い笑いを浮かべた。おそらくまた自分の考えを読んでいるに違いない。
「食べないのか。」からかうような口ぶりだった。
皿が並べられ、イチジクや干しぶどうが盛りつけられている。それに混じって、キツネ色の四角く小さな固まりもおかれている。
「これは何。」初めて見る食べ物は、彼女の興味をそそった。
「焼き菓子だ。食べてみろ。」男が命令する。
尊大な言い方にヘスペリアはかっとなる。しかし、勤めて冷静に彼女は敷物に座り、その小さな焼き菓子を手に取った。口の中で、ほろほろと焼き菓子が崩れ、濃厚な卵と蜂蜜の味が広がった。
「美味しい。」思わず、男に微笑みかけた。
「食い意地の張った女だな。まるで子供だ。」意地の悪い言い方だった。
「そんな言い方しなくたって、いいじゃないか。」思わず怒りが口をついて出た。
そんなヘスペリアの様子を男は笑って見つめている。からかって楽しんでいる、いつものことだったが、悔しくてたまらなかった。
「さあ、機嫌を直せ。」男はまだ笑っている。「腹が空っぽだから頭に血が上るんだ。」
自分の怒りをはぐらかされて、ヘスペリアは悔しくてならない。しかし、ここで逆らうには、景色も食事も魅力的すぎた。渋々、チーズや果物を手に取る。男の言った通り、空腹が満たされるに連れ、怒りも収まってくる。結局自分はこの男にとって、ほんの子供にすぎないのだと、彼女は思わざるを得なかった。水で割った葡萄酒で喉を潤すと、彼女は、遠くの景色を見やった。この街道の先に、目指す町があるのだろう。そこでの男との暮らしが、少しでも安らげたものであって欲しい。
「眠いのか。」遠くで男の声がする。なぜか返事ができなかった。
不意に抱き上げられた。驚く彼女に、レアンドロスは優しくささやいた。
「一眠りしなさい。あとで起こしてやるから。」その言葉も夢だったに違いない。
彼女は目を閉じ、男の腕に体を預けた。眠りの精に導かれるように、彼女は心地よい微睡みの中に落ちていった。
目覚めたとき、日は陰り始めていた。これでは今日中にポンペイに着けそうもない。彼女は不安になった。
「どうした。」「私のせいで、」「心配するな。町はすぐそこだ。日が落ちる前にはつく。」
男はそういうと、馬車に乗った。彼女もキトンの裾をつまむと後に続いた。
「じゃじゃ馬め。」レアンドロスがからかった。
夕日を追いかけるように、レアンドロスは馬車を走らせる。爽やかな風がヘスペリアの黒髪を軽やかになびかせた。頬に当たる風が心地よい。
「ヒマティオンをかぶっていろ。こっちの日差しを甘く見るな。」レアンドロスが注意する。
やがて眼前に一面の葡萄畑が広がってきた。左手には、緩やかなすそ野をえがく山がそびえたっている。
頂上から微かに噴煙が上がっていた。右手は、整然とした町並みが夕日を反射して黄金色に輝いている。彼方に海が見える。何と美しい町であることか。彼女は息をのんだ。
「この山は?」「ウェスウィウス火山。」「じゃあ、あの町が。」「ああ、あれがポンペイだ。」彼女の驚きを男は面白そうに見つめている。
城門をくぐると、やはり舗装された道がまっすぐに続いている。四つ角を曲がると、豪邸が建ち並ぶ通りに出た。ヘスペリアは町並みを見上げる。黄土色の壁も鮮やかな館は、そのままポンペイの若い力を象徴しているかのようだった。
馬車が止まった。レアンドロスが飛び降り、彼女もそれに続く。奴隷達が馬車を裏に回しているようだ。ヘスペリアは、重厚な装飾に被われた扉を見つめている。
「これが俺の館だ。」
ミネアの館も豪華だと思っていたのだが、ここは比較にならないとその扉の装飾を見ながら、ヘスペリアは考えている。
「どうした。臆したのか?」バカにしたような声でレアンドロスが話しかけた。
「怖くなんかないわ。案内して下さいますか。レアンドロス様。」
つんとしたヘスペリアに男は笑いかけると、彼女を中に誘った。回廊を通り大広間に出る。薄明の中にあるとはいえ、唐草文様などの華やかな壁の装飾や美しい壁画がこの男の富を象徴している。広間には泉水まであり、本当にこれが個人の館なのかと、ヘスペリアは息をのんだ。
「お気に召しましたかな。」
「素晴らしいわ。とても信じられない。」思わず言葉が出る。そう言ってしまってからヘスペリアは少し後悔した。レアンドロスにバカにされるに違いない。
「お待ちしておりました。レアンドロス様。」不意にギリシャ語で話しかけられた。かなり年かさの女性がレアンドロスに話しかけている。年相応のしわが顔に刻まれているが、その金髪碧眼の顔立ちはいかにも気さくな感じだった。
「船でお帰りだとばかり思いましたのに」
「ヘスペリア、解放奴隷のルチアだ。家の中のことはルチアに聞けばいい。」レアンドロスが振り返った。奴隷の名前をヘスペリアが聞くのは初めてだった。
「ようこそいらっしゃいませ。奥様。」ルチアが会釈する。キトンからゆったりとした姿態が透けて見えるようだ。
「よろしく、ルチア。」ヘスペリアはラテン語で話しかけた。
「ルチアも他の奴隷もギリシャ語が話せる。お前が不自由することはない。」
折角ラテン語を話せると思ったのに。そんなヘスペリアにはお構いなく、レアンドロスはルチアという奴隷女に、言いつけている。
「新しい女主人は、長旅でお疲れだ。湯浴みの後、寝室に連れて行ってくれ。」