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古風な物語  作者: 涼華
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第7章  


レアンドロスの態度がいつもの気まぐれだと彼女は信じたかったが、それは違ったようだ。次の日もその次の日も男は彼女を見ることも、言葉をかけることもしなかった。寝室に彼女を訪れることもない。彼の豹変の原因は全く分からなかった。もうすぐ春が来るというのに、館だけは陰鬱な空気が立ちこめている。


レアンドロスは自分に飽きてしまったのだ。


そうに違いない。元々この生活は、彼が決めた期限付きのものだったはずだ。何と愚かなことだろう。見せかけの暮らしにすっかり騙されていたとは。自分が腹立たしかった。しかし、ヘスペリアはさらに思った。彼を責めるのはお門違いだ。飽きたら捨てる、最初から彼が宣言したことではなかったか。


これからどうなるのだろう。思わず、自分の身の振り方を考えた。明日にも身一つで出て行けと言われるに違いない。そうなったらどうすればいいのだろう。彼女は砂金の入った袋を手に取った。養父が亡くなってから、文字通り身を削って稼いだ金だった。そうだ、この金を持って出ていこう。何もかもなくしたわけではない。少なくとも彼女のものは、レアンドロスは取り返してきてくれたのだから。


出ていったら、その足でデキウスに頼んで、今度こそローマの船に乗せて貰おう。そして、ローマで仕事を探せばいい。デキウスの父親の農場で働かせて貰うなり、何か方法はあるはずだ。もうくよくよ考えるのはやめよう。ここでの生活は、全て夢だったと思えばいい。そう、夢だったのだ。夢は覚めるものだ。



そこまで考えた時、彼女の頬を涙が伝った。あふれてきたのは、怒りではなく悲しみだった。彼女は寝室の床に身を投げ出して嗚咽した。声を立てるまい。誰にも気づかれたくない。彼女は泣きながらそう思った。



数日後、レアンドロスが声をかけた。


「この館を引き払う。お前も3日以内に身支度をしておけ。」ついに来るべきものが来た。


「戻らないの?このミネアには。」


「ああ、戻る必要もない。」にこりともせずに彼は言った。


身支度などする必要もない。彼女は思う。館に来たときのキトンを羽織り、この砂金の袋を持って出ていこう。おそらく、それ以外のものを持っていっても、何のとがめもないはずだ。しかし、ここの思い出はこの館において行きたい。持って出ていけば、暮らしのために切り売りするに違いなかった。そのようなことはしたくない。思い出は思い出として、心の中にしまっておくほうが良いのだ。最後の最後になって、彼女はここでの暮らしが自分にとって安らげたものであったことに気がついた。



男の言った刻限がすぎようとしている。


その夜、本当に久しぶりに、彼女はレアンドロスと夕食をともにした。男は相変わらず尊大な態度を崩さない。もう、この男と会うこともないだろう。彼女は眼の奧が熱くなるのを感じた。


「どうした。寂しいのか?」


彼女は黙っている。何か答えたらそのまま涙があふれそうだった。泣き顔でこの男と別れたくない。


「館を引き払って、どこに行くの」かろうじて言葉が出た。


「ポンペイだ。前にも言ったはずだ。」


「そう、ローマの同盟都市だったわね。」「そうだ。」


言葉がとぎれた。二人は押し黙ったまま、残りの食事を済ませた。



寝室に戻った。最後の夜だ。そう思うと彼女はなかなか寝付けなかった。気晴らしにと中庭に出た。この館で暮らした日々が思い出される。このような場合、他の女だったら、ひれ伏してでも許しを請うのだろうか。彼女は思った。しかし、そのようなまねをしたくない。涙がこぼれないように、空を見上げた。月がすでに昇っているのが、目に入ってくる。


何と愚かな女よ。


男を寄せ付けなかった処女神アルテミスの声が聞こえてくるようだ。彼女は月を見つめていた。



「一体どういうつもりだ。」レアンドロスの声が背後で聞こえた。


怒っているのが声だけでも分かる。何が気に入らないのだろう。


「支度もしないで、3日間なに遊んでたんだ。」


「する必要なんかないはずよ。」彼女は思わず言い返した。


「自分のものだけ持って出ていきます。あなたに貰ったものまで、持っていくほど卑しくないわ。」


男は唖然として、彼女を見つめた。


「飽きたら捨てる。そういう約束だったはずだわ。」押さえていた思いが溢れてくる。


「まだ、お前を捨てる気はない。」


「嘘よ。」「嘘じゃない。何でそんなこと思ったんだ。」


「腕輪のことで、その後も、」男にいきなり抱き寄せられた。


糸杉の香りに包まれると、また体の力が抜けていく。彼女は頼りなげにレアンドロスの腕に身を任せた。彼の指が黒髪に優しく触れている。


「勘違いするな。捨てるときははっきりそういうよ。」怒ったような言い方だったが、不思議な優しさが伝わってきた。


「もう一つ約束したはずだ。ポンペイに連れて行くと。忘れたのか。」彼女は首を振った。


「一緒に来るか。」「行くわ。」小さな声だったが、はっきりと彼女は伝えた。


「じゃあ、すぐに身支度をしてこい。ぐずぐずしていたら、本当においていくぞ。」







彼女は甲板に立って、去っていくミネアの町並みを見つめていた。夢のようだ。長年の望みが思いがけなく叶い、彼女はまだ実感が湧いてこなかった。鏡のような水面に太陽の光が反射している。潮風が心地よく感じられる。



外衣ヒマティオンをかぶっていろ。日に焼けては台無しだ。」レアンドロスが話しかけた。「全く、お前は何を考えるか分からんな。」


昨日のことを言っているのだろう。自分の失態が恥ずかしく、彼女は男をちらりと見やると、すぐに、紺碧のエーゲ海に視線を移した。


「夢みたいと思っているだけ。」彼女がつぶやく。「あそこから抜け出せるなんて。」


男は笑った。謎めいた笑いだった。



これから自分はどうなっていくのだろう。


長年の望みは叶ったが、彼女の心には不安が張り付いている。レアンドロス、この謎めいた男と、これからいつまで暮らしていくのだろうか。彼の行動は彼女には理解しがたく、彼の気まぐれに彼女はいつも振り回された。体だけでは満足せず心も要求する男。しかも、この関係が期限付きであることを、男はあの日中庭で、彼女にはっきりと思い知らせたのだった。彼女はそっと相手の精悍な横顔を見つめた。何を考えているのか全く読みとれない。優しいと思えば冷たく、矛盾に満ちた存在、確かにレアンドロスは彼女にとって謎そのものだった。


船が揺れた。外海に出たらしい。


デキウスがかつて教えてくれた通り、エーゲ海に比べると地中海の波は荒い。彼女はそれを実感した。この波の果てに、ローマ人のポリスがある。自分をバルバロスと蔑まない人々のポリスが。そうだ。ローマ人のポリスに行けば、自分の運命はまた変わるに違いない。レアンドロスだって、ローマではバルバロスの一人だろう。もしかしたら、この尊大なギリシャ人の心も変わってくるかも知れない。彼女はそう思った。それが、彼女にとって小さな希望となった。



舳先で歓声が上がった。



見ると西から大型の三段漕船が航行してくる。ローマ海軍の軍艦だった。三段漕船は滑るようにレアンドロスの船の脇を通っていく。あの航跡をたどった先に、目指す国があるはずだ。彼女は西の海の彼方をいつまでも見つめていた。





完(第一部)


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