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古風な物語  作者: 涼華
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第6章  

明かり取りの窓から入ってくる光で、ヘスペリアは目覚めた。


体の芯に重苦しい痛みがまだ残っている。昨夜の濃密な行為の証であった。彼女は人知れず頬を染め、隣に横たわっている男を見やった。恥ずかしさに、彼の顔をまともに見られない。幸いなことに、男はまだ眠っている。目を覚ます前に、部屋を出てしまおう。そっと起きあがろうとした。そのとたん、彼女の腰に手が回され、素早く引き戻された。男の胸に顔を押しつけられる。ざらついた金褐色の毛が彼女の頬に触れた。また糸杉の香りに包まれた。頬が熱い。昨夜の出来事が鮮やかに蘇ってくる。


「黙ってどこに行くつもりだ。」


起きていたのか、日の光の中、男に裸身を見られるのが恥ずかしい。そんな彼女の心を見透かすように、男はヘスペリアの顔をしげしげと見つめていた。思わず顔をそらそうとする。しかし、節くれ立った指に押し戻された。


「女になったお前の顔を見ていたい。」その言葉に頬が一層熱くなる。


彼女は、平静さを装って話しかけた。


「もう、朝よ。起きないと。」


一層きつく男の腕の中に抱きしめられた。男は薄い笑いを浮かべている。からかって楽しんでいるのだと彼女は悔しかったが、力では叶うはずもない。彼女は目を閉じ、たくましい腕に体を預けた。糸杉の香りに包まれると、次第に力が抜けていく。肌の温もりが心地よく、腕の中で彼女はまどろんだ。レアンドロスはしばらく彼女を抱きしめていたが、やがて起きあがった。まどろみの中にいる彼女をからかうように、話しかけた。


「起きたいといったのは、お前じゃなかったのか。」



その日を境に、ヘスペリアはレアンドロスと夜をともにするようになった。最初は怯えていた彼女だったが、相手の行為を次第に受け入れるようになっていった。レアンドロスは手慣れている。アプロディテの喜びというものが、想像していたような、おぞましいものでも恐ろしいものでもなかったことを彼女は知った。普通の男女の仲にあるような、優しい感情はなくとも、喜びは分かち合えるのだ。



「お前ぐらい、情の強い女も少ないな。」とこの中で彼女の肩を抱きなから、男がため息をついた。「俺に抱かれなからも、未だにうち解けようとしない。」


「何故私を選んだの。他にお相手はいくらでもいたでしょう?」相手の見透かすような視線を避けて、彼女は話しかけた。


「初めてあったとき、何と美しく、そして生意気な女だと思った。」


思えば、あのときが全ての始まりだったのか。彼女は運命の不思議を感じた。


「それで、何としてもお前を屈服させたいと思ったのさ。」


「満足した?」


「半分だけだ。俺は体だけでは満足しないんでね。」


互いの言葉がとぎれた。男の手が黒髪をまさぐっている。しばらくして彼女は尋ねた。


「あなたは言ったわ。期限は自分で決めるって」いつまでこの契約を続けるつもりなのだろう。


「ああ、飽きたらお払い箱だ。」


その言葉に、彼女の胸は痛んだ。なぜだか分からない。最初から決まっていたことではなかったか。父親から祝福されたものでも、エロスの矢によって結ばれたものでもない。何故そのようなものに執着するのだろう。自分の心が不思議だった。


「なんだ。寂しいのか。」からかうような眼差しだ。


「寂しいと言うより不安なのよ。」男の眼差しがきつくなる。


「お払い箱になった時を考えると。」


「つまらないことを考えるな。俺に飽きられないようにすればいいだけの話だ。」


レアンドロスの頬に冷笑が浮かぶ。そんなことが可能なのだろうか。彼女は戸惑った。


「どうすればいいの。」「簡単なことだ。俺を愛するようになればいい。」


この男を愛することが、なぜ、飽きられないようになるのか分からない。当惑している彼女の表情を楽しむように、男は視線を這わせている。


「どうすれば愛せるようになるか分からない。誰も好きになったことがないのよ。」


「誰も?」「ええ。」「嘘をつけ。」不機嫌そうな声がする。


しかし、それは本当のことだった。


養父のペリアスが亡くなって以来、彼女にとって、心から愛せるものはいなくなっていた。それに、ペリアスに対する思いは肉親の情であって男に対するものではないことぐらい、経験のない彼女にも分かっていた。


レアンドロスの手がヘスペリアの肌に触れた。体をこわばらせたのも一瞬だった。男の手が、女をアプロディテの喜びへといざなっていった。



同じような日々が続いていく。館にはレアンドロス以外は、訪れるものはほとんどいない。彼が館にいるときはともかく、町に出てしまうと、ヘスペリアは退屈でたまらなくなる。外に出ることも許されず、当然のたしなみであるはずの機織りも糸紬も不得手である彼女にとって、時間が無為に過ぎていくのは耐えられなかった。奴隷達の話では、レアンドロスはもう一つ別の館を持っているらしく、商談や饗宴はそちらで行っているらしかった。自分のいない所で、彼女は寂しさを感じた。自分が囲われ者であることの証だ。いや、バルバロスを囲っていることが知れたら、レアンドロス自身にも不名誉なことになるのだろう。悔しくはあったが、どうしようもないことだった。


どうしようもないことをくだくだ考えるのは、退屈のなせる技だ。饗宴に出られれば退屈はしないかも知れない。彼女は思う。しかし、女の身で、饗宴に出ることなど高級遊女ヘタイライにでもならない限り不可能だった。



「何かすればいいだろう。」薄ら笑いを浮かべながら、付け加えた。


「退屈だと思うのは、頭が空っぽだからだ」


思わずかっとなって言い返した。


「しょうがないじゃないか。機織りするより、用心棒の方が実入りが良かったんだもの。」


「習えばいい。簡単なことだ。」男が平然と言った。


確かに正論だった。悔しくて唇を噛む。この男といると自分はまるで子供扱いだ。


「子供だなんて思ってなんかいないさ。」


また心の中を読まれ、彼女は戸惑った。心の中が読める術を使う者がいると聞いたことがある。レアンドロスはそのような力を持っているのだろうか。


「お前の表情はくるくる変わるから、読みとりやすいな。」


種明かしをされて、自分の子供のような考えが恥ずかしかった。



何もしないでいるより、遙かにましだったが、機織りは退屈だった。糸を均等に張るのは神経を使う。彼女はバザールで働いていた頃を思い出した。あのころに戻りたいとは思わない。しかし、少なくとも退屈はしなかった。彼女はそっとため息をついた。ラテン語を覚えようとした頃が、遠い昔のように思えてくる。しかし、その時から、わずかな時間しかたっていなかった。



「少しは上手くなったのか?」意地の悪い質問だ。彼女は首を振った。


「機織りは苦手だから・・・」


「わがままな女だな。機織りが嫌いなのは怠け者の証拠だ。」男が挑発した。


悔しい、しかし我慢するほかなかった。


「そう怒るな。怒った顔もなかなか美しいがな。」


思わず怒りを込めた眼差しで相手を見つめると、悠然と男も見つめ返す。とても叶う相手ではない、男の掌の中で思うがままに踊らされているのだ。


「おいで。」


からかったことなど忘れたように、レアンドロスが呼んでいる。穏やかだが有無を言わせぬ口ぶりだった。からかわれたばかりで従うのはしゃくだったが、逆らって力ずくの扱いを受けるのも嫌だった。


「読めるか?」


パピルスの巻紙を手渡された。ラテン語が書かれている。とぎれとぎれだったがどうにか読むことができた。


「習っていたと言うが、話すだけじゃなく、読むこともできるんだな。」


「どうせ、生意気だって言いたいんでしょう。」思わず、すねたような口調になった。


「そんな風に思ったことはない。」彼は真面目な顔で続けた。「せっかくの朗読がオリーブの納品書では色気がないがな。」


「そんなことないわ。有り難う。」頬が火照る。


「物語でも今度、買ってきてやるよ。」


レアンドロスは本当に約束を守ってくれた。



ラテン語を再び学べることで、退屈な日々は消し飛んでしまった。彼女はラテン語だけでなく機織りも進んで行うようになっている。剣の腕だけが取り柄のヘスペリアではなく、機織りでも一人前になりたいと、なぜか思うようになっていた。



冬が過ぎ去ろうとしている。


館からでは見ることができないが、きっと荒れていた海も穏やかになっているに違いない。レアンドロスはここのところ、館にはあまり戻っていなかった。商談で忙しいのだろう。春になれば、ローマの船も戻ってくる。ヘスペリアは中庭の草を見つめながらそう思った。草にはもう小さな蕾が付いている。花が咲き始めるのも間近だった。


「楽しそうだな。」レアンドロスが帰ってきた。相変わらず横柄な物言いだった。


「俺がいなくて、寂しがっているかと思ったが、違ったようだな。」


「機織りやラテン語で忙しくしていただけよ。」


男は無言で、彼女に包みを手渡した。見事な金細工の腕輪だった。まるであつらえたように腕にぴったりと付いている。


「これを私に。」「そうだ。」「とても素敵だわ。有り難う。」


思いがけない贈り物に彼女は珍しく浮かれていた。この腕輪を見たら、デキウスもきっとびっくりするだろう。彼女は優しかった青年を思い出した。彼ももうすぐミネアの港に戻ってくる。彼女がローマにいなかったので、きっと心配しているに違いなかった。デキウスに会って、自分の身に起こったことを全て話したかった。


「何を浮かれている。」レアンドロスの声に現実に戻される。


「とても素敵な腕輪だからよ。なんて言って良いか分からないほど・・」彼女は男に微笑みかけた。


「どういたしまして。」男も微笑んだ。しかし、その微笑みは、ぞっとするほど冷たかった。


「あの・・・」言葉が出てこない。


「礼など言って貰わなくても結構だ。」軽蔑しきった眼差しだった。


「元々他の女にやるつもりだったのだがね。当てがはずれた。捨てるのもなんだから、お前にくれてやっただけだ。そうでなければ、だれがお前なんかに・・」



後、何を言われたのか、全く思い出せない。男の一言一言が、彼女の心臓に突き刺さった。血が流れるのが感じられる。


何故……、しかし、その言葉は声にならなかった。


男は振り返りもせず、自分の部屋に入っていく。彼女は、その後ろ姿を呆然と見つめるだけだった。辛辣な態度には慣れていた彼女だったが、これほどひどい侮辱を受けたのは初めてだった。理由が全く分からない。


どうして……彼女はいつまでも中庭に立ちつくしていた。



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