第5章
その日以来、彼女はレアンドロスが、自分が考えていたような男ではないかも知れない、と思うようになった。自分を囚われの身にした敵であったはずなのに……
男は相変わらず辛辣で尊大な態度を崩さない。だが、その態度の奥底に何か別のものがあるように、彼女は感じるのだった。口先だけで、彼女を騙した輩とは違う何か別のものが。
館から出ることは許されなかったが、中庭を男とともに散策することは許された。中庭に水溜まりができている。いつの間にか、冬が訪れようとしているのだ。自分の身に降りかかった変化があまりにも目まぐるしかったために、ヘスペリアは季節が変わったことさえ忘れていたことに気づいた。デキウスはどうしただろう。ローマに帰って、自分がいないことをどう思っているのだろうか。
「もうすぐ冬ね。ローマの船はみんな帰ってしまったわ。あなたもシラクサに帰らなくていいの?」
「帰ってほしいのか。」意地の悪い目で男が見つめている。案の定辛辣な言葉が返ってきた。
「海が荒れて、帰れる状態じゃない。残念だったな。当てがはずれて。」
「そんなつもりじゃない。」「じゃあ、どんなつもりで言ったんだ。」
「冬が来ると、みんな帰ってしまうから、それで聞いただけ、それだけよ。」
男はそれに答えず、押し黙ったままだった。何故彼が怒っているのか、全く分からない。いがみ合いなどしたくないのに、彼女は悲しくなった。男の怒りの視線を避けて、空を見上げる。鈍色の冬の空は、陰鬱な冬の海の色そのものだった。気まぐれな海。この男も海そのものだ。彼女は思う。優しいかと思えば一瞬後は辛辣に、穏やかかと思えば荒々しい、このような男とどうやって暮らしていけば良いのだろう。
「お前、剣を誰に習ったんだ。なかなかな腕前だったぞ。」
気まずい沈黙を破って男が話しかけた。その気遣いが嬉しかったが、あの夜を思い出し彼女は頬を染めた。
「ペリアスに習ったの。私を育ててくれた人。」目を伏せながら答えた。
「ペリアスか。」感心したような声だ。「知ってるの。」
「ああ、剣の使い手として有名だったからな、じゃあ、もう相当な年だろう。」
「死んだわ。5年前。」彼女はぽつりと言った。
「そうか。いくつの時だ。」「13の時。」「それから」「ずっと一人だったわ。」
彼女は顔を上げた。男の目に軽蔑でも怒りでもない何かが宿っているのを彼女は認めた。
「お前の本当の親は、」
「何も分からないの。行き倒れの旅人のそばで、泣いていた私を拾ったってペリアスが言っていたわ。それが多分・・」
「お前の父親か。」彼女はうなずいた。「母親は?」
「分からない。多分もっと前に死んだんだと思うわ。だから、自分の本当の年も分からないのよ。」
レアンドロスが彼女をそっと抱き寄せた。最初は触れられるたびに、身を固くした彼女だったが、この頃は抵抗無く身をゆだねられるようになっている。
「少しは慣れたという訳か。」からかわれて、彼女の頬に赤みが差している。
「春になったら、ここを出ないか。」「シラクサに行くの?」「そうだったら」
「いやよ。シラクサは。」彼女の体がこわばる。
「行ったこともないくせに」男が笑った。
「行かなくたってわかるわ。ギリシャ人の町は嫌です。バルバロイだとバカにされるのは、もう・・・」不快な経験ばかり思い出される。それを繰り返せと言うのか。
男はいきなり彼女を抱き上げると、庭の長いすに腰を下ろした。そして、仰天している彼女に話しかけた。
「バカだな。シラクサには行かないよ。俺の館はポンペイにあるんだ。ローマの近くの。」
初めて聞く名前だ。彼女は思わず尋ねた。「ギリシャ人の町なの?」
「いや、ローマの同盟都市だ。ラテン人の町だよ。行きたいか?」
「行きたくなくても連れて行くんでしょう?」
「さあな。」からかうような眼差しだ。
「でも、行くわ。バルバロイとバカにされない所ならどこだって、構わない。」彼女は晴れやかな顔をした。
「やっと、お前らしくなったな。」男も微笑んだ。
いつもの冷笑や酷薄の笑いではなく、初めて見る暖かな笑顔だった。銀色の冷血の瞳が、こんなにも穏やかな眼差しになるのかと、彼女はレアンドロスの顔を見つめている。
「ヘスペリア」男が声をかけた。聞いたこともないような深い声だった。
「今夜、お前を抱くことに決めた。」拒絶を許さない口ぶりだ。彼女は覚悟を決めた。
「いいな。」
彼女は蒼めた顔でうなずいた。男はその様子に顔をしかめた。
「そんな顔をするな。なにも、とって喰うわけじゃない。」
その日、暮れるまでの時間が異様に長く感じられた。レアンドロスはまた町に出たらしい。一人で館や中庭を散策しながら、彼女は時が来るのを一人で耐えている。できることなら逃げ出したい。そう思い、自分の身勝手さに嫌気がさした。たとえ、どのような状況に追い込まれていたとしても、自分から体を与えるつもりで彼の元に出向いたのは事実だった。物乞いになってでも拒絶することはできたはずだ。何を今更。しかし、経験のない彼女にとって、それは、想像するのも恐ろしくおぞましいことだった。
夕刻に、彼は戻ってきた。
「逃げもせずに、なぜここにいる。」嘲るような声だった。
「誓いを守るためよ。」彼女は答えた。声がうわずっている。
たとえ無理に誓わされたものだったとしても、自分からいったことだった。その責任はとらなければならない。そう決意していた。男は肩をそびやかすと、薄紅色のキトンを渡した。
「これを着るんだ。」
触っただけで絹だと分かる。ヘスペリアは思わず叫んだ。
「こんな高いもの、着られないわ。」
「一度くらい、素直に言うことを聞いたらどうだ。」彼はまた怒り出した。
分不相応なものを身につけるのは嫌だったが、男の機嫌を損ねるわけにもいかない。彼女は承諾した。湯浴みをした後、家内奴隷が彼女の衣装を整えた。薄紅色のキトンを金の帯でしめ、黒髪を金の髪留めで結い上げられた。金と銀をあしらった首飾りと対になったイアリングも着けられる。どれも目の玉が飛び出るほど高価なものであった。彼女はおそるおそる鏡の中の自分の顔を見る。しばらく館の中で暮らしたため、幸いにも透けるような色の肌になっていた。これなら、薄紅色のキトンを身につけても無様なことはないだろう。しかし、例えどのように着飾った所で、バルバロスであることが隠せるわけもない。彼女は悲しかった。
家内奴隷が彼女を広間に導いた。
「思った通りだ。よく似合う。」男が笑っている。
「からかわないでよ。」
柔らかな衣服が体の線を際だたせている。これでは、裸身と変わりがない。そのためにこの服を選んだのかと、彼女は何故か悔しくなった。男と目が合う。見つめられているだけなのに、胸が苦しくなった。
「祝宴だ。」
男に促されて、彼女はいすに座った。家内奴隷が、豪華な食事を運んできた。彼女は、パンやオリーブの実をとり、主菜を口に運んだ。彼の視線が気になって、味も分からない。目を合わせると、男は思わせぶりな薄笑いを浮かべた。彼女の考えていることなどお見通しなのだろう。
長い饗宴も終わった。
初めて館に来た日と同じように、家内奴隷に導かれて、部屋に入った。身につけた装身具をはずし、灯心の微かな明かりを見つめながらも、彼女は耳に神経を集中した。レアンドロスの足音が聞こえてくる。胸の鼓動が激しくなるのが分かった。
「待ったか。」にこりともせずに男はいった。彼女は首を振った。
腕を伸ばし、彼女を抱き寄せた。男の指先がヘスペリアの首筋に触れる。
「また怯えているのか。」
どう答えて良いか分からず、彼女は黙っていた。
「お前の気持ちが溶けるまで、待ってやった方が良いのかもしれないが。もう、限界だ。俺もこれ以上、お預けを喰いたくないんでね。」
「分かっています。」固い声で彼女は答えた。
明かりが消えかかっている。男は無言で彼女を抱き上げ、寝台まで運んだ。抱き下ろすと、男はキトンの留め金をはずした。ヘスペリアの肌を滑るように布が落ち、微かな明かりに白い裸身が浮かび上がった。男もトーガを脱ぎ、彼女をそっと抱きしめた。温もりが直に感じられ、糸杉の香が彼女を包んだ。
「初めてなのか。」
彼女はうなずいた。恥ずかしさにふるえているのが、男の腕に伝わってきた。
「手荒なことはしないから、力を抜いていろ。」
「分かったわ。でも・・」その後は言葉にならなかった。