第4章
どこまでいっても、恐ろしいほどの闇が続いている。ヘスペリアは闇から逃れようと、必死に歩みを進めた。しかしどこに行っても、闇はますます深まるばかりだった。永久にこのままなのだろうか。孤独感に胸がつぶれそうになる。何とか出るすべはないのだろうか。どれほど、闇の中を彷徨ったのだろう。遠くから、彼女を呼ぶ声がする。誰かがいる。誰でも良い。そこに行きたい。この孤独の闇から逃れたい。
「ヘスペリア」彼女は目を開けた。
すっかり明るくなっている。レアンドロスが寝台の脇に座っているのが見えた。彼女は思わず身を固くした。レアンドロスの手が髪の毛を撫でている。いたわるような優しい撫で方だった。
「もう、あのまま目覚めないかと思ったぞ。」相変わらず、尊大な言い方だ。
「私を気遣ってくれるの?」男は黙っている。「どうして?」再び尋ねた。
「館で死なれたら、外聞が悪いからな。」顔を背けながら、男が応える。
「裏の森に捨ててくれば良かったのに、放っておけば死んだわ。」本当に、放っておいてくれれば良かったのだ。
「化けて出る気だろう……」冗談とも本気とも分からぬ口調でレアンドロスは言った。
「化けて出る気力もないわ。」あのまま死んでしまえば良かった。彼女は投げやりにいった。
「その口がたたければ、上等だ。」
気まずい沈黙が流れる。男は黙ったまま、青銅の像のように身じろぎもしない。いつまで黙っていなければならないのか、彼女は起きあがろうとした。
「まだ無理だ。」男は片腕でふらつく彼女の体を支えると、枕を背にあてがった。思いがけない扱いにヘスペリアは戸惑った。
「何か食べないか。」そういわれて、昨日から何も食べていないことに気がついた。
家内奴隷が簡単な食事を運んできた。使われている皿に贅沢な装飾が施されている。昨日までの質素な食事との差に、彼女はこの男の持っている財力の一端を知らされた。
男が皿を取ると、パンをちぎり、彼女の口元まで持ってきた。
「自分でできるわ。」
「いいから、」有無をいわせぬ口ぶりだ。
男に食べさせてもらうのは、自分の立場を思い知らされるようで嫌だった。だが、ここで彼に反抗する気力はなくなっていた。男の指が、彼女の形の良い唇にパンやチーズを運んできた。男の指に触れないように、また、こぼさないように食べるのは神経を使う。食べ終わると、男の指先が口元に触れ、そっと唇をなぶった。
あの夜の感覚を思い出し、思わず体をこわばらせる。
「なにやってるんだ。」レアンドロスは苦笑した。「パンのかすをとっているだけだ。」
その言葉に、彼女は頬が熱くなるのを感じている。
「顔が赤いな。熱があるのか。」
男の掌が頬を包んだ。触れられた部分が熱くなる。節くれ立った指先が彼女の目の隈に触れた。
「疲れた顔をしているな。」
きっとひどい顔をしているに違いない。そう思うと、そんな顔を見られているのが一層恥ずかしかった。彼女は身を固くし、目を伏せた。
「水が飲みたい。」
小さな声で彼女は頼んだ。子供のような声だった。頬に触れている手が離れ、水で割った葡萄酒の入った杯を持ってきた。
「生水は毒だ。」
男は彼女を抱えると、女の口元に杯を当てた。男に気付けの葡萄酒までも飲まされて、まるで子供の扱いだとヘスペリアは思った。
「熱が下がるまで、ゆっくり寝ていろ。」
「あの、」言葉に詰まった。
「安心しろ。」男が薄笑いを浮かべている。「病人を抱く気はさらさらない。」
そういうと、男は寝室を後にした。
囚われの暮らしが始まった。贅沢な寝室、贅沢な食事、彼女は部屋着しか袖を通してはいなかったが、おそらく贅沢な衣装もそろえてあるに違いない。しかし、彼女にとってはその全てが、虚ろなものにしか思えない。あの日以来、気力が、すべて無くなってしまったのを彼女は感じている。望みを失い、何故自分は生きているのだろう。
ある日、男が尋ねた。
「お前が肌身離さずつけていた物のはずだ。何故しないんだ。」
あの忌まわしい腕輪を見せられた。
「もう、いらなくなったのよ。」思い出したくもない
「贅沢ができるからか。」
彼女はうなずいた。
「うそをつけ。」男の目が鋭くなった。「俺をごまかせると思うなよ。正直に言え。」
「いいたくない。」惨めな思い出が蘇ってくる。
「さあ、言うんだ。」
「私の心に触れることは、誰もできないはずよ。」どうして、放っておいてくれないのか。
「誰にもできないだと・・・奴隷同然のくせに。何様のつもりだ。」
男から逃げようとしたが、一瞬早く手首をつかまれ、腕を容赦なくねじり上げられた。痛みで彼女の顔がゆがむ。
「痛いわ。放して」
「放してやるさ。全部、正直に答えればな。」男の頬に残忍な微笑が浮かんだ。
「力ずくでもしゃべらせるぞ。」
この男は本気だ。本当に力ずくでも、口を割らせられるだろう。彼女は覚悟を決めた。
腕輪の経緯を洗いざらい、レアンドロスに打ち明けた。努めて感情を押し殺し、淡々と彼女は話した。この話をよりによってこの男にしなければならないとは、惨めだ。いっそこのまま消えてしまいたい。でも、この男にだけは無様な姿を見せたくない。
「嗤ってくれて良いわ。バカみたいだもの。すっかり騙されて・・・」
嘲笑いが聞こえてくるのを覚悟した。しかし、男は無言のまま立っている。彼女は顔を上げた。男の目の中の激しい怒りを認めて、彼女はおびえた。それも一瞬で、男は無言のまま、部屋を飛び出していった。
何故あんな激しい怒りを、男が見せたのか分からない。彼女は当惑している。いったい何が気に入らなかったのだろう。その日、一日中、レアンドロスは帰ってこなかった。彼がヘスペリアの部屋に戻ってきたのは、すっかり暗くなってからだった。
「無理して起きていなくても良かったんだ。」
灯心の明かりに影が揺れている。不意に、彼女の足下に、小さな袋が投げ出された。
「あけて見ろ。」
砂金だ。驚く彼女に、怒ったような口ぶりで男は言葉を続けた。
「お前の金だ。アイゲウスの所から取り返してきた。」
顔を上げた彼女に、嘲るような表情で、彼は話した。
「お前が奴の名前を言わなかったから、見つけるまで時間がかかった。2・3発ぶん殴ってやったから、二度とふざけたまねはするまい。金を取り返してきてやったんだ。礼を言ってもらいたいものだな。」
自分の言うことは何も聞いてくれなかったのに、レアンドロスだったら、何でも聞くという訳か。惨めさが吹き上がってくる。バルバロスである限り、自分では何一つも叶わないのだ。自分の金を取り返すのでさえ、自分一人では……
「何故黙っている。」
難詰されて、彼女の瞳から涙があふれ出した。自分の無力さを思い知らされ、耐えるのも、もう限界だった。顔を覆って泣き伏す。声を立てるまい、この男に軽蔑されるだけだ。そう思っても、いったんあふれ出した悲しみは、とどまる所を知らなかった。
「どうしたんだ。」
答える代わりに、彼女は肩を震わせながら嗚咽した。自分の無様な振る舞いに、惨めさで心が張り裂けそうだった。どれぐらい泣き続けていたのか。不意に、何か暖かいものに包まれた。
男の腕の中に抱き取られていた。大きく暖かい抱擁だった。傷ついた子供のような彼女の顔を見つめながら、男は続けた。
「もう、泣くな。頼むから・・・いや、泣きたいだけ泣くがいい。でも、一人で泣くなよ。・・・」
後の言葉は覚えていない。思っても見なかった言葉をかけられ、堰を切ったように新たな涙があふれ出した。遠い昔、優しかった養父にそうしてもらったように、本当は敵であるはずの男の腕の中で、彼女はいつまでも泣き続けた。
「やっと落ち着いたか。」
泣き疲れて、放心している彼女に声がかけられた。
「あ・・」
ずっと抱きしめられていたままだったのだ。彼女の頬が赤らんだ。男は低く笑うと、彼女の頬に、耳にそっと触れ、その指先を豊かな黒髪の中に滑り込ませた。触れられた部分が熱くなる。
「顔に赤みが差してきたな。」からかうような口調だ。
「あの、悪かったと思っている、服を汚してしまって」何と答えて良いか分からなかった。
「そんなことか。」低い声が続けた。「お前はかわいい娘だな。」
戸惑う彼女に、男は唇を重ねた。思わず体がこわばる。しかし、今回の口づけは優しかった。緊張がゆっくりと解け、心地よさに次第に体から力が抜けていく。彼女は男の腕に身を任せ、暖かい流れの中を男とともに漂った。長い口づけの後、ようやく唇を離すと、男は床に落ちた小さい袋を拾い、彼女にそっと手渡した。彼女の両手を包んでしまうほど男の手は大きかった。この男に対して、自分がいかに無力で小さな存在か、ヘスペリアは改めて思い知るのだった。
「お前の金だ。これだけ稼ぐのは、大変だったろう。」
男の手が彼女の手に触れ、感触を確かめるように弄んだ。
「荒れた手をしている。さぞ、苦労したんだろうな。」
胸が苦しくなった。
「感謝しているわ。金を取り戻してくれて、本当に。」囁くような声で、かろうじてそう答えた。
不意に、抱き上げられた。男は軽々と彼女を運ぶと寝台に横たえた。彼は、寝台の端に腰を下ろし、ヘスペリアのほつれた前髪をかき上げている。思わず体が固くなる。男は苦笑し、彼女に穏やかに話しかけた。
「何もしやしない。お前が眠りにつくまで、そばにいてやる。子供にそうするようにね。」そして、がらりと口調を変えて、こう付け加えた。
「少しは抵抗してもらわないと、抱く楽しみも少ないからな。」