第3章
あの男の敵意が自分だけでなく、若いローマ人にも向けられていることを知らされた今となっては、もはや一刻の猶予もならない。ヘスペリアは自分の計画を実行に移すときが来たと感じていた。デキウスに話すのは、ぎりぎりになってからの方が、彼自身の身の安全も図れるはずだ。
「デキウス、あなたの船はいつローマに帰るの?」
「早くても後10日かなぁ。」何も知らぬ青年は、のんびりと返答している。
「もっと早くならないかしら。」口に出して後悔した。
デキウスが不審そうな顔をしている。
「何でもないわ。何でも……」彼女は停泊している船を見やった。
その日、バザールの空気が違うことに彼女は気づいていた。
「ヘスペリア、あんたは今日からここで働いてもらわなくてもいい。」
顔役の老人からそういわれることも、前から分かっていたような気がする。抗議しようとするデキウスを制止すると、彼女はうつろな表情で尋ねた。
「理由を聞かせてほしい。」
「あんた、あのレアンドロスさんと悶着を起こしたそうじゃないか。今日中に、館まで、謝罪に来るようにと、あの人からいわれている。そんな騒ぎを起こされたんじゃ……」
老人のくだくだしい説明が、白々しく反響している。
「いったい何があったんだい。ヘスペリア。」
デキウスに、かいつまんで今までの出来事を話した。ただ一つ、彼自身も狙われていることを除いては。彼まで不安にさせたくない。ただ一人の友に対する気遣いだった。
「どうするの。館に謝りに行くの?」
「冗談じゃないわ。誰があんな奴の所になんか……」青い瞳に怒りが燃え上がった。
「でも、」
「逃げるわ。ここから。そして、ローマに行く。前から考えていたことだもの。ちょっと早くなっただけだわ。でも、あなたの船はまだなんでしょう。今日中に出向するローマの船はないかしら。」
「あると思うけど、船賃はどうするのさ?」金があるのかといぶかるデキウスに彼女は笑って答えた。
「あるわ。この腕輪よ。細いけど。全部金でできてるの。片道分の船賃ぐらいは十分あるはずよ。」
このために、用心棒まがいのことまで行ってきたのだ。ローマにさえ行ってしまえば、あの男もどうすることもできまい。あとのことは、ローマに行ってから考えればいい。彼女は顔をまっすぐ上げた。瞳に輝きが戻っている。
「何て無鉄砲なんだ。」青年が呆れている。しかし、彼女は子供のように得意げに微笑んだ。
船はすぐに見つかった。
しかし、その船長は、彼女の腕輪をしばらく見つめた後、首を振った。
「だめだね。これじゃ、ローマどころかエーゲ海の一番近い島でも無理だろうよ。」
「ふざけないでよ。いくら何でもぼりすぎじゃないか。」
彼女は怒った。しかし、耳を疑うような言葉が、船長の口から飛び出した。
「純金ならともかく、こんなまがい物。二束三文の値打ちしかない。」
「そんなバカな。」
「嘘だというのなら、両替商に調べてもらえば分かる。」
そういうと、船長は二人を残して船に戻っていった。
いつすり替えられたのだろう。時間がない。いったい誰が、こんなことを……
「大丈夫かい。顔色が真っ青だ。」デキウスが水を持ってきてくれた。
「有り難う。大丈夫よ。」そうだ。鍛冶屋のアイゲウス。あいつだわ。
「デキウス。すり替えた奴が分かったの。そいつの所に行って。金を取り返してくるわ。あの船、いつ出るの?」
「夕刻前に出るはずだよ。僕も手伝おうか。」
「いいの。一人で大丈夫。」これ以上、彼を巻き込みたくない、彼女は首を振った。
「いったい何のことかね。」薄暗い仕事場の中、鍛冶屋は平然と行った。下卑た薄笑いが炎を通して浮かんでいるのが見える。
「とぼけるな。私の金を返してもらおうか。」
「金?いったい何のことかね。わしは、あんたにいわれた通りに、腕輪を作ってやっただけだが。」
「砂金を全部、一月前、あんたに渡しただろ。そして、鋳造代で5分と要求したのは、あんたじゃないか。」
「その証文はあるのかね。」
彼女は言葉に詰まった。あの日、見ている前で鋳造するというこの男の口車に乗って、証文を書かせなかったことを思い出す。証文代が、余分にかかるのが気の毒だといったこの男の狡猾な顔が浮かんでくる。
「卑怯な。」思わず剣の束に手がかかる。
「思い通りにならないとなると、その手かい。」
鍛冶屋は外に飛び出すと、大声で役人を呼んだ。彼らがやってくる。もう、何を言っても無駄だ。彼女は唇を噛んだ。
彼女はあてどなく、ミネアの町を彷徨った。
「ヘスペリア。」デキウスが飛んできた。「どうだったの?」
「上手くいったわ。」思わず嘘をついた。これ以上惨めになりたくない。
「そう、良かったね。」人の良い青年は無邪気に喜んでいる。
「じゃあ、午後の船で行けるんだね。」
彼女はうなずいた。
「先に行って待っててよ。僕も後から行く。そしたら、親父の農場で働かないか?」青年の言葉が胸に突き刺さる。
「そうね、良い考えだわ。」泣き笑いになった。
「良かった。じゃ、急いで船に乗るんだよ。僕もついていたいけど。仕事があるから。」
「有り難う。デキウス。さようなら。」さようなら。もう、二度と会うこともないだろう。
「じゃあ、今度はローマでね。」そういうと青年は走り去った。
泣けたらどれだけ良いだろう。ヘスペリアは思った。惨めな境遇を泣いて、何もかもさらけ出してしまえたら、しかし、そのようなことができるわけがない。働く場もなく、金もほとんど残っていない今となっては、明日からどうやって生きていけばいいのだろう。いつの間にか、あの峠まできていた。ここで、あの男にあったときから、すべての運命が狂ってしまったのだ。自分の運命は、もはや、あの男に従うしかないのか。膝をつき、地面を拳でたたこうとした。しかし、振り上げられた腕は力無くおろされた。そう、すべては終わったのだ。
高台にある、あの男の館にたどり着いたときは、すでに日は暮れていた。すべて終わったとしても、生きていかなければならない。それならば、無様な姿を、あの男にだけは見せるわけにはいかなかった。彼女は最後の気力を振り絞った。
家内奴隷がすぐに現れ、彼女を広間まで連れて行った。
色とりどりのモザイク画が描かれた広間は洗練された雰囲気が漂っている。しかし、それを楽しむ余裕は彼女にはなかった。寝椅子から半身を起こして、館の主は物憂げに彼女を見つめている。
「ずいぶん遅かったな。しかも、泥だらけか。」
「仕事をしていたんだ。あんたと違って」彼女は低い声で言い返した。
「小生意気な女めが。」湯浴みをさせるよう促すと、男は立ち上がった。
奴隷達にかしずかれ、湯浴みをさせられながらも、彼女の心には喜びのかけらもない。
湯浴みが終わると、柔らかに織ったキトンに着替えさせられた。奴隷の持つ明かりに導かれながら広い廊下を通り、やがて大きな部屋に通された。華やかな寝台がおかれている。しかし、彼女にとっては、拷問道具に寝かされるのも同じだった。
奴隷が去り、大きな部屋に一人置き去りにされると、恐ろしいほどの孤独が押し寄せてきた。
「ヘスペリア」後ろから声をかけられて、彼女は飛び上がった。
「何を驚いている」不機嫌そうな声が聞こえてくる。
「これから、アプロディテの喜びを分かち合おうというのに、とんだ歓迎だな。」
男の言葉に、彼女の全身が総毛立った。。
「さあ、この前の続きをやることにしよう。」
伸ばされた手をふりほどくと、思わず後ろに下がった。
「来るんだ。俺の腕の中で、愛の言葉を誓ってもらおうか。」彼女の拒絶に一層不機嫌になった声が命令した。
「ふざけるな。私を脅かして……愛の言葉なんて、誰があんたなんかに」
「被害者面は辞めろ。」「何だって?」
「良く覚えておけ。ここに来たのは、お前自身の意志だ。お前が自分で選んだんだ。」冷酷な言葉だった。
「違うわ。あんたが無理矢理、私の仕事を取り上げたんじゃないか。」
「そんなにいやだったら。物乞いでも何でもやる方法があったはずだぞ。」
そうだ。確かにその通りだった。混乱したとはいえ、よりによってこの男の所に出向くとは。自分で自分の首を絞めたのだ。彼女は自分の愚かしさを呪った。
「あんたが、デキウスを……」これ以上言葉にならない。
「あの若僧と二人、ミネアから逃げだすことだってできたはずだ。だが、お前はそれをしなかった。なぜだか教えてやろうか。お前は贅沢三昧がしたかっただけだ。だから、ここへきたんだ。」
「違う。」そんなはずがない。そう、叫びたかった。だが、声が出ない。
「違わないさ。お前は望んでここにきた。」
男の言葉が、そのまま心の声となって、彼女を責めた。金を騙し取られて、少しでも金がほしいと焦ったからに違いない。その浅ましい心が、この男の所に出向かせたのだ。こんな目に遭わされるのは当然の罰なのだ。全て自分がまいた種だ。自分で刈り取るがいい。
「さあ。寝台に横になれ。」呆然と立ちつくす彼女に、男が促した。
彼女の心は屈辱感で張り裂けそうだった。なすすべもなく寝台に横たわった。
横になった彼女のそばに男が座った。
「愛の言葉を誓ってもらおうか。」男の指が髪の毛に絡まる。思わず身を固くした。
「さあ、いうんだ。私は、レアンドロスに永久の愛を誓いますとね。」
目の前が暗くなり、部屋が大きく揺れている。男が馬乗りになり押さえつけた。
「早く誓え。」
「私は・・・レアンドロスに」
汗が額から噴き出してくる。夜よりも暗い闇が彼女の周りに立ちこめてきた。
「永久の・・・愛を・・・誓う」
屈辱の言葉を誓わされるのと同時だった。彼女は黒々とした闇に押しつぶされていくのを感じていた。