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古風な物語  作者: 涼華
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第2章


「お前は必ず俺のものになる」



その予言は、彼女の心にどす黒いしみのように張り付いた。あの闇夜での出来事が、悪夢であればどれほど良かっただろう。何度、彼女は願ったかわからない。しかし現実なのだ。彼女の腕に残った男の指の痕跡が、あの夜のことをまざまざと思い出させる。顔も分からぬ男に唇を奪われたという事実。それは彼女を打ちのめすのに十分だった。いっそ死の使いであったなら、まだそれの方がましだとさえ、彼女は思った。もし、現実の男だったとしたら……彼女はおぞましさに慄然とした。


バザールで働きながらも、彼女はあの絡め取るような視線を感じることがある。そっと視線の方向をたぐる。しかし、それらしい人物は影もない。やはり死の使いだったのだろうか。



「この頃どうしたの?」デキウスが心配している。


「疲れてるみたいだ。それに、誰を捜しているんだい。」


「死に神よ。」


彼女の答えに彼は絶句した。


「冗談よ。何となく誰かに見られているような気がするだけ。」


「そんなの当たり前じゃないか。賞金稼ぎのヘスペリア。誰もが君を見てるよ。」


デキウスの心遣いが、彼女には嬉しかった。養父が亡くなって以来、この若いローマの船乗りが、彼女にとって心を許せる唯一の存在だった。


「また教えてくれる?今日は他のポリスのことも話して。」久しぶりに晴れやかな顔で、彼女は頼んだ。



デキウスと分かれた後、雑踏の中にまたあの視線を感じた。気のせいに違いない。彼女はまとわりつく視線を努めて気にかけないようにした。


「ヘスペリア。」あの声だ。空耳に違いない。しかし、次の言葉がはっきりと聞こえてきた。

「俺の声を忘れたか。小娘。」


思わず振り返った。間違いない、あの男だ。あの男が立っている。ヘスペリアは呆然と相手を見つめた。陽光の中、今度はその容姿がはっきりと認められる。三十路を半ばすぎたぐらいだろうか、鍛え上げた体躯に高価なトーガをまとい、真昼の日差しに金色の髪とあごひげが輝いている。鋭い切れ長の瞳、高い鷲鼻、薄い唇、威圧的な風貌から、ギリシャ人が崇める海神ポセイドンの化身か、と一瞬、ヘスペリアは考えた。しかし、男の銀色の瞳を見たとき、彼女の体に戦慄が走った。さながら、ヘビかサメのような酷薄の眼差しに、金縛りにかかったように体が動かない。心臓が早鐘のように打ち付けている。じっとりと額や首筋に汗がにじんでくるのが、触れてみなくても感じられた。逃げなければ、この男の前から。だが足が、足が動かない。何者かに足首をつかまれているとしか思えない。




「ヘスペリア。」デキウスの声だ。「ぼんやりして、どうしたの。」


ホッとしたように彼女は若いローマ人を見つめた。振り返るとあの男は、雑踏の中に消えようとしている。やはり夢でもなければ、死の使いでもない。恐れていたことが現実となり、彼女は身震いした。


あの男が歩みを進めるたびに、人垣が割れてそこに道ができていく。


「デキウス、あの男、何者なのかしら。」彼女は消えていく男を指さした。


「ああ、レアンドロスだ。」デキウスはこともなげにいった。


「レアンドロス?」


「シラクサのレアンドロス。ローマでは名の知られた商人さ。」




男の正体が知れた後も、それゆえに一層、彼女の心に張り付いたしみは大きくなっていった。あの絡め取るような視線の底に、暗い欲望を感じるとき、おぞましさに全身が総毛立った。何故あのとき、易々と身をゆだねてしまったのか。彼女は人知れず唇を噛む。その唇に、あの夜の感触がまざまざと蘇った。


ああ…… 彼女は、小さく声を立てた。



その日も、彼女は家路を急いでいる。あの夜以来、まだ日のあるうちに、あの場所を通ること、それだけが自分の身を守る手段のように思われた。男が冥府の使いでは無い以上、気休めにすぎないことは分かっていたとしても、そうせざるを得なかった。愚かしいこと、彼女は、苦笑せずにはいられない。あの大岩が見えてきた。あそこさえ通り過ぎてしまえば、そう思ったとき、岩に寄りかかるあの男の姿が目に入った。



「足がすくんで動けんのか。まるで子供だな。」


男が一歩出ると、彼女は一歩下がり、距離を保った。


「間をとるつもりか。」夕日が男の顔を染めている。赤々と染まった姿が、まるで血を浴びたようだ。


「シラクサのレアンドロスともあろうお方が、いったい私に何の用かしら」


「いつぞやの約束を果たしてもらいにきた。」にこりともせずにレアンドロスは答えた。


「ご冗談を。」語尾にふるえが出ないよう注意深く言葉を発した。


「俺は冗談は嫌いでね。」


「大変な冗談ですわ。」微笑んだつもりだったが顔が引きつるのが感じられる。


「ご存じのくせに」レアンドロスは怪訝な顔をして彼女を見つめている。


「あなたの様な方が、バルバロスと関係を持ったりしたら、ミネア中の物笑いの種になりますわよ。」


一瞬、相手の瞳に何か激しい感情が走った。


「お前、バルバロイだったのか。」


これで、もう二度と、自分を抱こうなどという気は起こすまい。ギリシャ人は、皆同じだ。彼女は安心感とともにかすかな嫌悪感を抱いた。


男が笑い始めた。含み笑いから次第に大きくなり、やがて哄笑となった。


「何が可笑しい。」


「俺の欲望を削ぐために、小賢しいことを。」笑い声をたててはいても眼差しは笑っていない。「そんな思惑など気にするとでも思ったのか。」


「何?」「周りがどうであれ、俺は俺の思う通りにする。」


また一歩、近寄ってきた。彼女も下がる。どうあっても、この男は自分を屈服させるつもりなのだ。


「もう、後がないぞ。」


藪を突っ切れば、相手も馬は使えない。それに、そこまでして追いかけては来るまい。彼女はめまぐるしく考えている。


「藪を突っ切るつもりか。無駄なことを。」「私の考えなど、お見通しというわけか。」


「さあ、俺の所に来るんだ。」「断る。」


「そうか。なら、好きにしろ。」意外な言葉だった。


「だが、」男の片頬に酷薄の笑いが浮かんだ。「あの、ローマの若僧がどうなるかな・・・」


「デキウスに何をするつもり」ヘスペリアの顔から血の気が引いた。


彼女の動揺を楽しむように男は言葉を続ける。


「アキレスのかかとというわけか、お前にとっての・・・」


「デキウスはローマ人よ。もし、ローマ人を傷つけたりしたら、」


「俺は長い腕を持っている。」



本気なのだ。この男がその気になれば、あの若いローマ人の痕跡を消すことなどたやすいことなのだろう。


「あんたに、デキウスの、いいえ、人の命を弄ぶ権利なんか無いはずだわ。」


「今度は、お説教か。」むしろ楽しげに、男が応える。


「来いよ。」


強引で一方的な口ぶりだ。そして、その口調はヘスペリアの気力を打ち砕くのに十分な力があった。呪文に絡め取られたかのように彼女は、一歩一歩相手に近づいていく。泣き出したいほど惨めで絶望的な気持ちだった。男が、あたかも巨人族ティタンかのように、彼女の目には映った。この男は何でも持っている。金もそして力も。自分には何もない。なぜ、自分がこのような目に遭わせられなければならないのだろう。私が何をしたというのか。この男の手下に恥を掻かせたからか。悪いのは、彼らだ。自分ではない。それなのに……。いつも、そうだ。いつも、自分だけが……


「止まれ。」


男が命令する。ヘスペリアは男と間近で対峙した。男のトーガが目の前に迫り、たくましい腕が視界に入ってくる。


「顔を上げるんだ。」


絶望の中、命令に従う。自分の動揺を見せたくない。彼女は思う。そのようなことをすれば、冷酷なこの男を楽しませるだけだった。負けるものか。怒りが燃え上がった。血の気の失せた顔をまっすぐにあげて、彼女は敵を見つめた。形の良い唇を引き結び、怒りをこめた青い瞳で彼女は男を見つめた。


「意地っ張りめ。」レアンドロスは感心したように女を見下ろした。


「泣くか、哀願するかでもすれば、少しは可愛げもあるものを、」


素早く彼女の腕をとると、あの大岩に押しつけた。その高慢な顔をはり倒してやりたい。しかし、それを行えば、デキウスの身に何が起こるか。それの分からぬ彼女ではなかった。薄笑いを浮かべながら、男はヘスペリアの顔を見つめている。その絡め取るような視線に気力を振り絞って彼女は耐えた。


「さあ、接吻してくれ。」


どこまで自分を侮辱したら気が済むというのだろう。


「何であんたなんかに……あんたが勝手にすれば」


「いや、お前の方からするんだ。」厳しい口調で男が命令する。


あたかも岩の一部のようになった彼女に、追い打ちをかけるような言葉が浴びせられた。


「あのローマ人がどうなっても良いという訳か。」


「そんなに私が憎いのか。」


「ご託は聞き飽きた。早くしろ。」


ヘスペリアには命令に従う道しか残されていない。彼女は接吻をしようと男の肩に手をかける。背の高い男がそのまま立っているため、つま先立っても届かなかった。やむを得ず、男の首に両腕を回し、抱き合うようにして男に体を預け、一瞬唇を触れさせた。


屈辱の行為が終わった後、彼女はまた石の像のように立っている。毒でも塗られたかのように、唇がしびれていた。思わず唇をぬぐった。


「そんなに、俺に抱かれるのはいやか。」眉をひそめながら男が尋ねる。


彼女は黙っている。


「だが、これは始まりだ。俺とお前との契約の。」


「契約?」何と商人らしいことか、


「お前が進んで俺に抱かれるということさ。そして、期限は俺が決める。」


この間のように言い返す気力も、残ってはいない。


「あんたを憎むわ。生きている間中。」彼女はぽつりと言った。


「構わんさ。お前が俺をどう思おうと。だが、ヘスペリア、憎しみが愛に変わることもあるぞ。そうなったときのお前の顔が楽しみだな。」


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