プロローグ
地中海の主人公がギリシャから他国へ移っていった頃の物語である。
アテネにほど近い所にミネアという小ポリスがあった。ギリシャの多くのポリスと同じように海運で栄え、バザール(市場)では多くの異邦人相手の商店が建ち並び、ポリスの盛況を支えている。自由と民主主義、これをミネアの市民達も謳歌している。
そのミネアの町中でのことだ。
「自由と民主主義か、ご都合の良いこと・・・」
バザールを散策するミネアの市民達のなかで、一人不穏な呟きをするものがいる。すらりとした姿のまだ若い女だ。日焼けした肌に艶やかな黒髪を腰まで垂らし、思わず振り返るほど整った顔立ちの娘である。身につけているのは着古したキトンであったが、それがかえって、その娘の美しさを際だたせていた。
「ギリシャ人のみの、自由と民主主義のくせに・・・」
きつい眼差しが太陽の光を反射するように輝いた。瞳はエーゲ海の色である。女は雑踏をすり抜けて桟橋へとやってきた。カルタゴやシラクサの船に混じって、ローマの船も何隻か来ている。その異国の船を横目で身ながら、娘は誰かを捜しているようだ。その美しさに、すれ違う人々は思わず足を止めた。
「ヘスペリア。」女に声をかけたものがいる。チュニカと呼ばれる短い袖の服装から明らかにローマ人だと認められる、まだ若い男だった。
「デキウス。もう着いたの。」娘が手を振っている。腕輪が太陽を反射して金色に光っていた。
「ああ、今日着いたばかりだよ。」デキウスと呼ばれた青年が微笑みかける。整ってはいるが気さくで人好きのする容貌である。若い二人は、しばし話に興じた。
話がすむと娘は立ち上がった。
「もう、行かなくちゃ。」キトンについた埃を払った。
「また、仕事?」青年が眉をひそめた。
「そう。また、教えてね。有り難う。」
去っていく娘を青年は見つめている。それを見とがめた仲間達が彼をからかった。
「お安くないな。デキウス。もう現地妻でも見つけたか。」
「違いますよ。」赤くなった青年に囃子声が浴びせられる。青年はむきになって言い返した。
「あの娘にはラテン語を教えているだけです!ローマに行きたいって言ってたから」
年かさの男が声をかける。
「んなことせんでも、あの器量なら、金持ちの男でも引っかければ、一発だろうに。」
「無理ですよ。あの娘はギリシャ人じゃない。」人なつこい顔立ちを少し曇らせて、デキウスが答えた。一瞬、囃子声が止んだ。
「バルバロスか。可哀想にな。あんな美人なのによ。」
仲間の船乗りが、去っていくヘスペリアの姿を見つめながらつぶやいた。
バザールの一角で騒ぎが起こった。
他の植民都市からきた男達が、ミネアの市民に絡んでいる。屈強な男達のため誰も手出しができないのだ。絡まれている商店主の悲鳴が聞こえてくる。男達は勝ち誇ったように店の主を強請っていた。
「出すのか出さねえのか。どっちなんだ。」
「お止めよ。」ごろつきどもは一斉に振り向いた。若い女がたっている。先ほどローマ人と別れたばかりの娘、ヘスペリアだった。
「よ〜よ〜、姉さんよ。きれいな顔に傷が付くぜ。」せせら笑う声がする。
「傷が付くのはどっちかな。」ぴしゃりとヘスペリアは言い返した。
「なんだとぉ。生意気な。」男達は主を放すとヘスペリアを取り囲んだ。
次の瞬間、彼女は手前の男の顔にめがけ砂を浴びせた。目つぶしを食らった男の隙をついて、当て身を食らわせる。返す刀でもう一人の男のみぞおちを突いた。一瞬にして仲間二人を倒され、残った男達の血相が変わった。
「このアマ、ふざけやがって。」白刃を抜いて、男達が迫る。
男が斬りかかった。しかし、彼女は易々とかわすと、右腕を浅く斬りつけた。悲鳴が上がる。
さらに、逃げようとした別の男の右肩に短剣が突き刺さった。
「もう、あんただけだよ。どうするね。」あざけるような声で女が頭目に尋ねた。
男は怒号を上げると、女に飛びかかった。さすがに、今までの輩よりは鋭い太刀筋である。だが、彼もまた利き腕を切りつけられて、地面に転がった。
「覚えてやがれ。」
逃げ出す輩の捨てぜりふは、いつも似たようなものだ。仲間を抱えるようにして、男達はバザールを後にした。さっきまでの勢いはみじんもない。
商店主は、ヘスペリアに礼を言っている。
「やあ、ヘスペリアさん、いつもどうも・・・」
市民達は遠巻きにこの騒ぎを見つめていた。
何が、自由と民主主義なのだろうか。仲間を助けようともせずに・・・ヘスペリアの心に不快感がこみ上げてくる。
「5人だからいつもの5倍、きっちり砂金で支払っておくれよ。」
「そ、そんなあこぎな・・・」店主が慌てている。
「店がぶち壊されるよりましだろ。さあ、早く。」
店主から砂金を受け取ると、彼女は踵を返した。
ヘスペリアの後ろ姿を見ながら、主がつぶやく。
「守銭奴のバルバロスが」そして、忌々しげに路上につばを吐いた。
ヘスペリア自身にもその陰口は聞こえてきている。しかし、何の後ろ盾もない身分で、その日の糊口を凌ぐ以上のものを得たければ、他に方法はなかった。否、この腕がなければ、自分は身を売るしかなかったろうと思うと、人並み以上の剣の腕を持っていたことを幸いと思わざるを得ない。ポリスにあって、バルバロイであることが、どんなものであるか、それはバルバロイ以外には、決して理解できるものではないだろう。
このような所ではなく、どこでもいい、自由に息がつける場所に、自分が自分であることができる場所に住みたい。それがこの乙女のささやかな望みだった。