日の出観測所
「おーい、そろそろ起きろぉ」
たまには可愛い女の子の声に起こされたい。
先輩の低い声にそんなことを思いながら、俺はベッドでもぞもぞと体を動かした。
まだ外は真っ暗――つまり、夜明け前。
俺の仕事は、そんな時間から始まる。
くあぁ、と俺はあくびを一つして開け放たれた窓から外を眺めた。
灯台の明かりが、くるり、くるり、と回っている。カーテンを揺らす風は潮の香りと、深く優しい波の音を運ぶ。
「おはようございます……」
寝ぼけまなこをこすりながら、食パンをかじっている先輩に挨拶すれば、先輩はモゴモゴと何かを言った。先輩はすでに制服のジャンパーを羽織っている。相変わらず準備の良いことだ。
「何時ですか」
「四時十五分」
「はや……」
俺はずるずると体を引きずって、洗面台へと向かう。
元々、朝は苦手だった。いや、今も苦手だ。許されるなら、ずっと温かな布団にくるまれていたいと思う。
夏は、そんな俺に追い打ちをかけるように、朝を連れてくる。それでいて、夜が短い。
「寝不足だな」
俺は自らの目元にできたクマを見つめて、ぼんやりと呟き、今日こそは早く寝よう、と決意する。
無論、この決意を実行したことはないが。
それでも、俺はこうして早起きをする。
仕事だし……それに、この朝の時間がどれほど美しいのか、知ってしまったから。
「おい、そろそろ行くぞ」
先輩は腕時計をちらりと見やって立ち上がる。
「ふぁい」
俺もあわてて残りの菓子パンを無理やり口に押し込み、ジャンパーを羽織った。
夏とはいえ、この時間はまだ肌寒い。特に、海辺は。
「いくぞ」
先輩の手から空中へと投げ出されたピンマイクが、軽やかな放物線を描いて俺の手に収まる。
美しい、黄金の太陽。
所長が特注で作らせたという社員用のおしゃれなピンマイクは、俺のお気に入りだ。俺はそれをしっかりとシャツの襟に止め、先輩の後ろについて部屋を出た。
ザァン、というさざめきの中、俺と先輩は灯台へ向かって砂浜を歩く。
「先輩、今日はアイス賭けません?」
「のった」
灯台までの道のりは退屈で、俺と先輩はいつもこうして賭けをする。学生の延長みたいで少し楽しい。これでも立派な社会人なのに、賭けるのは大したものじゃない。昼飯だったり、お菓子だったり、晩ご飯のちょっとしたおかずだったり。そんな程度だ。
「よし、じゃ、俺から」
「ふ。今日も負ける気がしねぇなぁ」
「いやいや、それは俺も毎日そうですよ」
俺は絶賛連敗中だ。先輩がズルをしてるんじゃないか、と思うけど、そんな無駄なことを先輩はしない。
「いいから早く言えよ」
先輩にせっつかれ、俺は手につけた腕時計と、白んだ空を見比べる。この一週間の数字と、そして来週一週間分の予想された数字を思い浮かべる。
「四十八分……二十五秒」
「じゃ、俺は四十八分、三十二秒で」
七秒差。これが大きいのか、小さいのか、俺にも先輩にも分からない。
だが、それももうあと数分もすればわかることだ。
俺は、薄明に輝く灯台の明かりを見つめた。
灯台の下で、俺と先輩はじっと水平線を眺める。
ここへ来たら、俺たちは一言もしゃべらない。
毎日、何度ここへ来て、何度その瞬間を体験しようとも、心地の良い緊張感に包まれるのだ。
ただ、チラチラと光る波をただ見つめ、その一瞬をひたすらに待つ。
時折、先輩は腕時計を確認しながら、俺はピンマイクを指で遊びながら。
――来た
俺はその瞬間、息を飲む。
赤ん坊が、生まれた瞬間に泣き出してしまう理由が、分かるような気がする。
太陽が、顔を出すその一瞬。
全ての音が消え、風が凪ぎ、潮の香りもなくなって、空と海が一つに混ざりあう。
ピンと水平線に張り巡らされた金糸が現れたかと思えば――
海と空の狭間から新しい世界が生まれる。
光が溢れ出して、波の音が響いて、風が柔らかく吹き込んで、潮の香りがする。
そして、たった一瞬で、空も、海も、鮮やかな色をつける。
まばゆくて、美しくて、きらめく尊い一筋の光。
あまりにもそれが綺麗で、俺は……いや、俺たちは、いつも泣いてしまう。まるで赤ん坊のように。
やがて、それは柔らかな弧を描き、だんだんと海にはその円弧が映し出されて、白金に輝く。
この、長い長い一瞬のために、俺は明日も、早起きをする。
「四十八分、二十八秒だ」
悔しそうに先輩が言う。
久しぶりに俺の勝ちだ。
俺がその言葉にニッと笑みを浮かべれば、先輩が肘で俺の脇腹を小突いた。
「お前もとっとと仕事しろ」
俺はニヤニヤさせながらも、ピンマイクをONにする。途端、右耳につけていたイヤフォンからザッと無機質な音が流れ込んだ。
「はい。こちら、日の出観測所火星基地です」
イヤフォンの向こうから応答がある。
「おはようございます。本日の地球の日の出時刻をお知らせします。本日の日の出時刻は、四時、四十八分、二十八秒です」
俺の声から数秒遅れて、再びイヤフォンの向こうから無機質な声が流れる。
「復唱します。本日の地球の日の出時刻は、四時四十八分二十八秒。四時、四十八分、二十八秒です」
「本日も太陽の状態は良好。こちらからは以上です」
「はい。本日も、太陽の観測、よろしくお願いいたします」
人々が作り上げた世紀の大発明、人工太陽。
それを見上げるたび、これほどまでに美しいものを見られるのが、俺と先輩の二人きりであることが残念でならない。
――だが、だからこそ。
俺は、明日も早起きをする。