抱いてくださいと言ったら?
彼と出会ったのは、近所のバーだった。
Between sheets
screw driver
そんな色っぽい名前のカクテルが揃っているなか、彼はいつも、ジントニックを飲んでいた。
金曜日のご褒美にバーに行くとたまに顔を合わせ、バーテンさんに話題をふられ、話すようになった。
そのうちに、会社での悩みや、家庭の事情(私はシングルマザー、彼はシングルファーザーだった)まで、共通の知り合いがいないきやすさで、語り合い、私たちは飲み友達になった。
子供が一番大切。それが私たちの共通認識だった。
私は実家に出戻り、子育ては両親に協力してもらって正社員で働いていたので、金曜日だけは飲んで帰宅するのを黙認してもらっていた。
彼の子供たちは元妻さんが育てていて、彼は養育費を送ることが最低限の努めだとつらそうに語っていた。
知り合って3ヶ月、ウイスキーをロックで2杯、ワインで締めた私は、珍しく酔っ払い、心配して一緒に店を出た彼に思わず口走っていた。
「酔った勢いで言いますけど、抱いてくださいって言ったら、抱いてくれますか?(笑)」
「俺で良ければ」即答だった。
ジントニックを一杯しか飲まない彼も雰囲気にのまれたのだろう。
私は、数年ぶりに女の悦びを堪能した。
泊まるわけには、いかないので、30分歩いて帰りますと言うと、「こんな時間に女の子、一人で歩かせないよ」と私の実家のすぐ側まで、一緒に歩いてくれた。
一度きりの想い出には、ならなかった。
私の誕生日に、彼はホテルのデイタイムを予約してくれた。アロマキャンドルをたいて、煙草に火をつけると、彼は言った。
「君って顔は素朴なのに、イケてるよね」
「イケてるって、死語じゃないですか?(笑)エロいなでいいですよ(笑)」
海外生活が長かったという共通点があった私と彼は、日本人離れした言葉遊びを楽しんだ。
「西洋画の裸婦像みたいだ」少しお腹が出て、二十代のナイスバディとは、程遠いアラサーの私の裸を彼は嬉しそうに撫でてくれた。
「あなたはギリシャ彫刻みたいだよ(笑)
」
実際、ジョギングを欠かさない彼の身体は、アラフォーにしては、美しく鍛え上げられていた。
「君と珈琲と煙草があれば、他には何もいらない」
その瞬間には、彼の言葉は嘘ではなかったのだろう。
別れはあっけなかった。
「こないだ、すっごいかわいいピアス見つけたの!一万五千円位なんだけど。パールと華奢な金で、すっごいかわいいの!」
「誕生日かクリスマスならね」
彼はうまくかわした。
不服そうにだまりこむ私に彼は
「俺の給与明細みる?」と言ってきた。
私はピアスが欲しかった訳でもあるが、なにかしら形のあるものが欲しかったのだ。
(元の家庭には、毎月、二十万も送金しているのに、私には一万五千円も出せないんだ)
お金じゃないと人は言うが、お金には価値がある。
もともと、私たちは月に一度しかデートできなかったし、彼は私の娘にも会いたくないと言っていた。
「自分の息子たちにさえ会えない自分が、君の娘に会う気持ちの余裕がない。」
私たちには、「今」があるだけで、未来はないんだな。
私は、バーに足を運ぶのを辞めた。
彼からもなんの連絡もなかった。
しばらくして、バーの前を通ると看板が変わっていた。
彼との一年間は、私の女性としての最後の一年間になった。悔いはない。
道端で偶然会うこともなかった。
ただ、どこかで、一人、ジントニックを飲んでいるであろう彼が幸せであることを、未だに祈っている。